そして誰もいなかった
文字数 2,507文字
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現場、とは大仰なと思ったけど、森巣の提案を受けて僕らは店を出た。
高級な住宅地で急勾配が多い。今は下りだからいいけど、例えば自転車でここを上るのは辛いだろう。でも、この辺りに住む人は車移動が基本で、坂なんて関係ないのかもしれない。
やっぱり瀬川さんの家もお金持ちなのだろう。が、お金があるから幸せというわけではないだろう。家族がいない寂しさは、お金ですぐに解決できない。
君は今、どこにいるんだ? そう思いながらチラシにプリントされた写真を見る。
ミニチュアブルテリア、のっぺりとした愛嬌のある顔立ちをしている犬だ。白く短い体毛は滑らかそうで、左目周辺にある染みのような黒い毛がチャーミングだった。
改めて写真を見ていたら、あることに気がつき、「なるほど」と漏れる。瀬川さんたちに可愛さに感激し、愛おしく思いながら名前をつけたのかもしれない。
「青いからマリンなんだね」
「そうなの。よく気付いたね」
「青い?」と森巣が訊ねてくるので、「ほらここ」と言って犬の右目を指差す。左目は黒いが、右目だけ淡くブルーがかっている。どこか神秘的で、宝石でも嵌めているみたいだ。「本当だ、オッドアイだ」と森巣も感心するように言った。
「オッドアイ?」と聞き返す。
「左右の目の色が違うことだよ」
なるほど、何かの病気かと心配してしまいそうになった。
「本物は写真よりもわかりやすいよ。綺麗で不思議な色してるの」
「二歳って書いてあるけど、瀬川は子犬の頃から飼ってるの?」
「うん。小学生の妹が誕生日にごねて飼い始めたんだよね。お父さんとお母さんは、難しい顔をしたんだけど、頼まれたからわたしも説得したの」
妹に弱いの、と困ったようにはにかむ瀬川さんはお姉さんの顔をしていた。
「妹の頼みかあ、僕も妹の為だったらなんでもするなあ」
明るく快活な妹の姿を思い浮かべる。兄お願い! と僕が断れない性格をしているのをいいことに頼み事をしてくる度に、「えー」と言いつつも頼られていることがいつも嬉しかったりしている。
「平の妹っていくつ?」
「三つ違いの中二。社交的な奴だから二人にも紹介したいよ。あ、でも森巣はダメかな」
「妹に好きな人ができたら嫌だから?」
瀬川さんに指摘され、図星です、と渋々頷く。森巣が「心配性のお兄ちゃんから取ったりしないよ」と愉快そうに笑った。
そして、森巣は「妹と言えば」と口を開いた。
「瀬川の妹、誕生日だったの?」
「え? なんで?」
「さっき店でケーキの話してただろ?」
「ああ、うん。実は、マリンが拐われた日が妹の誕生日だったの。こんなことになったから、折角作ってもらったケーキも結局食べられなかったんだけど……」
誕生日というささやかな幸せが踏みにじられたことを想像し、胸が痛む。
「犬の散歩にケーキを取りに、瀬川も一日大変だったね」
「お姉ちゃんだしね。うち、親が厳しいから散歩は絶対に行かないといけないし」
クラスでは委員長の仕事もして、同級生の勉強の相談を受け、帰宅してからは家族の為に犬の散歩もちゃんとする。「偉いなぁ」と、思わず口からこぼれる。
「いつもこのくらいの時間に散歩してるんだけど……今更なんだけど、二人とも手伝ってもらってごめんね。時間とかやることとかあったんじゃない?」
瀬川さんが、重要なことを思い出したかのような顔つきになって立ち止まり、訊ねてくる。森巣とお互いにどうなの? と顔を見合わせる。別に、と森巣は首を振った。
「僕は、自分が今やるべきことは瀬川さんの手伝いをすることだと思うんだ。ホームルームとかで積極的に発言をできるわけじゃないし、瀬川さんみたいにクラスをまとめることもできないし、いつもがんばってるのを見てるだけだったからさ。瀬川さんが困ってるなら、今度は僕が助けになれたらなって。部活も週一だから時間もあるし」
役に立てるのは嬉しい機会だった。瀬川さんは謙遜するように首を横に振っていたけど、最後は「ありがとう」と礼儀正しく頭を下げた。大袈裟に話し過ぎてしまったかな、と少し心苦しくなる。
「ところで平って何部なの?」
「音楽部。ギターを弾いてるんだ」
「へー、ギターか。なんか意外だな」
ギターというイメージは僕っぽくないよなと自分でも思い、苦笑する。
「ねえ、平くんと森巣くんはどういう組み合わせなの?」
何部なのかも知らない間柄、どういう組み合わせなのかと思ったのだろう。そう問われると、さっき会った、くらいのものだ。
だけど、森巣は即答した。
「友達だよ」
取り繕っただけなのかもしれないが、「友達」と言ってもらえたことが不覚にも嬉しかった。森巣は人たらしだなあ、と少し照れながら思う。
しばらく歩いていたら、瀬川さんの口数が減り、歩く速度が落ち、表情が沈んでいった。緊張感が伝わってくる。
何か声でもかけようかと思った矢先に、瀬川さんが立ち止まった。
「ここなの」
一車線の道路で、両端には白線が引かれている。両サイドには、高い塀や植え込みのある一軒家が並んでいた。
瀬川さんが、
「マリンとここを歩いてたら」
と一歩ずつ歩き出す。
事件当日のリプレイを見ているようで、胸騒ぎがする。
「そしたら、突然後ろから誰かに突き飛ばされたの。犯人は、倒れたわたしが離したリードとマリンを抱えて、あっちに走って行って、わたしも慌てて追いかけた」
瀬川さんの歩調が早くなり、それに合わせて、僕の心臓の鼓動も早くなる。僕と森巣は無言で、瀬川さんの後をついて歩く。
十メートル程進み、曲がり角で瀬川さんが立ち止まった。
「それで、この先に犯人は逃げたんだけど……」
森巣と共に角を曲がる。森巣が立ち止まり、息を呑んだのがわかる。
両側には家が一軒ずつ並び、道の先に待ち受けていたのは壁だった。
三メートル以上の高さがあるコンクリートの壁がそびえ、その上に家が建っている。
「誰もいなかった」
現場、とは大仰なと思ったけど、森巣の提案を受けて僕らは店を出た。
高級な住宅地で急勾配が多い。今は下りだからいいけど、例えば自転車でここを上るのは辛いだろう。でも、この辺りに住む人は車移動が基本で、坂なんて関係ないのかもしれない。
やっぱり瀬川さんの家もお金持ちなのだろう。が、お金があるから幸せというわけではないだろう。家族がいない寂しさは、お金ですぐに解決できない。
君は今、どこにいるんだ? そう思いながらチラシにプリントされた写真を見る。
ミニチュアブルテリア、のっぺりとした愛嬌のある顔立ちをしている犬だ。白く短い体毛は滑らかそうで、左目周辺にある染みのような黒い毛がチャーミングだった。
改めて写真を見ていたら、あることに気がつき、「なるほど」と漏れる。瀬川さんたちに可愛さに感激し、愛おしく思いながら名前をつけたのかもしれない。
「青いからマリンなんだね」
「そうなの。よく気付いたね」
「青い?」と森巣が訊ねてくるので、「ほらここ」と言って犬の右目を指差す。左目は黒いが、右目だけ淡くブルーがかっている。どこか神秘的で、宝石でも嵌めているみたいだ。「本当だ、オッドアイだ」と森巣も感心するように言った。
「オッドアイ?」と聞き返す。
「左右の目の色が違うことだよ」
なるほど、何かの病気かと心配してしまいそうになった。
「本物は写真よりもわかりやすいよ。綺麗で不思議な色してるの」
「二歳って書いてあるけど、瀬川は子犬の頃から飼ってるの?」
「うん。小学生の妹が誕生日にごねて飼い始めたんだよね。お父さんとお母さんは、難しい顔をしたんだけど、頼まれたからわたしも説得したの」
妹に弱いの、と困ったようにはにかむ瀬川さんはお姉さんの顔をしていた。
「妹の頼みかあ、僕も妹の為だったらなんでもするなあ」
明るく快活な妹の姿を思い浮かべる。兄お願い! と僕が断れない性格をしているのをいいことに頼み事をしてくる度に、「えー」と言いつつも頼られていることがいつも嬉しかったりしている。
「平の妹っていくつ?」
「三つ違いの中二。社交的な奴だから二人にも紹介したいよ。あ、でも森巣はダメかな」
「妹に好きな人ができたら嫌だから?」
瀬川さんに指摘され、図星です、と渋々頷く。森巣が「心配性のお兄ちゃんから取ったりしないよ」と愉快そうに笑った。
そして、森巣は「妹と言えば」と口を開いた。
「瀬川の妹、誕生日だったの?」
「え? なんで?」
「さっき店でケーキの話してただろ?」
「ああ、うん。実は、マリンが拐われた日が妹の誕生日だったの。こんなことになったから、折角作ってもらったケーキも結局食べられなかったんだけど……」
誕生日というささやかな幸せが踏みにじられたことを想像し、胸が痛む。
「犬の散歩にケーキを取りに、瀬川も一日大変だったね」
「お姉ちゃんだしね。うち、親が厳しいから散歩は絶対に行かないといけないし」
クラスでは委員長の仕事もして、同級生の勉強の相談を受け、帰宅してからは家族の為に犬の散歩もちゃんとする。「偉いなぁ」と、思わず口からこぼれる。
「いつもこのくらいの時間に散歩してるんだけど……今更なんだけど、二人とも手伝ってもらってごめんね。時間とかやることとかあったんじゃない?」
瀬川さんが、重要なことを思い出したかのような顔つきになって立ち止まり、訊ねてくる。森巣とお互いにどうなの? と顔を見合わせる。別に、と森巣は首を振った。
「僕は、自分が今やるべきことは瀬川さんの手伝いをすることだと思うんだ。ホームルームとかで積極的に発言をできるわけじゃないし、瀬川さんみたいにクラスをまとめることもできないし、いつもがんばってるのを見てるだけだったからさ。瀬川さんが困ってるなら、今度は僕が助けになれたらなって。部活も週一だから時間もあるし」
役に立てるのは嬉しい機会だった。瀬川さんは謙遜するように首を横に振っていたけど、最後は「ありがとう」と礼儀正しく頭を下げた。大袈裟に話し過ぎてしまったかな、と少し心苦しくなる。
「ところで平って何部なの?」
「音楽部。ギターを弾いてるんだ」
「へー、ギターか。なんか意外だな」
ギターというイメージは僕っぽくないよなと自分でも思い、苦笑する。
「ねえ、平くんと森巣くんはどういう組み合わせなの?」
何部なのかも知らない間柄、どういう組み合わせなのかと思ったのだろう。そう問われると、さっき会った、くらいのものだ。
だけど、森巣は即答した。
「友達だよ」
取り繕っただけなのかもしれないが、「友達」と言ってもらえたことが不覚にも嬉しかった。森巣は人たらしだなあ、と少し照れながら思う。
しばらく歩いていたら、瀬川さんの口数が減り、歩く速度が落ち、表情が沈んでいった。緊張感が伝わってくる。
何か声でもかけようかと思った矢先に、瀬川さんが立ち止まった。
「ここなの」
一車線の道路で、両端には白線が引かれている。両サイドには、高い塀や植え込みのある一軒家が並んでいた。
瀬川さんが、
「マリンとここを歩いてたら」
と一歩ずつ歩き出す。
事件当日のリプレイを見ているようで、胸騒ぎがする。
「そしたら、突然後ろから誰かに突き飛ばされたの。犯人は、倒れたわたしが離したリードとマリンを抱えて、あっちに走って行って、わたしも慌てて追いかけた」
瀬川さんの歩調が早くなり、それに合わせて、僕の心臓の鼓動も早くなる。僕と森巣は無言で、瀬川さんの後をついて歩く。
十メートル程進み、曲がり角で瀬川さんが立ち止まった。
「それで、この先に犯人は逃げたんだけど……」
森巣と共に角を曲がる。森巣が立ち止まり、息を呑んだのがわかる。
両側には家が一軒ずつ並び、道の先に待ち受けていたのは壁だった。
三メートル以上の高さがあるコンクリートの壁がそびえ、その上に家が建っている。
「誰もいなかった」