どうやら時間はなさそうだ
文字数 2,702文字
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もはや、森巣がどこを走っているのかもわからない。いつまで経っても教科書の同じ問題で躓く生徒に接するように、森巣が「説明するからよく聞いて」と優しく話し始めた。
「瀬川は犬を思いっきり突き飛ばされた。掛けている眼鏡も外れたと言っていた。なのに、瀬川は犯人の逃げた先も、パーカーの文字まで覚えていた、これはおかしくないか?」
瀬川さんの眼鏡は結構度が強そうなのは見ていてわかる。眼鏡を外すと、話している相手の顔も見えない、と言うタイプだ。
「実は平と別れてから、ちょっと裏を取って来たんだ」
「裏?」
「ケーキを手配していたし、犬を拐われた日は、瀬川の妹の誕生日だって言ってたよな。瀬川はあの日あのカフェで、妹の為のケーキを受け取っていた」
「うん、そうみたいだったね。店員さんと話していた」
「ケーキを取りに行ったのは五時頃だったそうだよ」
森巣がそう言って、説明を止めた。
ん? それで? と視線で訊ねる。
「犬の散歩の時間と被ってる、だろ?」
「それのどこがいけないの?」
「その時、犬はどこにいたと思う?」
どこにいたのか? と首を傾げると、思考の整理するのを手伝うみたいに森巣が解説を続けた。
「犬が拐われた後、呑気にケーキを受け取って家に帰ると思うかい? 拐われた後にケーキを受け取りに行ったんだとしたら、店員は事件のことを知っているはずだ。だけど、店員は事件を気にかけている様子がなかった」
「つまり、犬が拐われる前にケーキを受け取っていたってことか。でも、散歩中だったんでしょ? 犬は一体どこに行っちゃったの?」
「店のそばの電柱にでも繋いでいたんだろうな。その間に拐われたんだ。それが真相だよ」
犬の散歩中に、犬を店の外で待たせて、ケーキを受け取る。森巣の言うことはわかった。
わかったけど、わからない。
「なんで、瀬川さんは突き飛ばされたとか、拐われたとか、そんな嘘を吐く必要があるわけ? 普通に、ケーキを受け取っている間に盗まれたって言えばいいじゃないか」
森巣が「平」と優しく諭すように僕の名前を呼んだ。
「平は瀬川のことを、真面目で、みんなに優しい清廉潔白な委員長、そういう風に思ってないかい?」
瀬川さんはまさしくそういう人じゃないか、と思って頷く。
「人は見かけによらない。平も言っていたじゃないか」
「ああ、カフェで話したっけ。でも、それとこれが関係あるの?」
「瀬川も人間だ。暗い側面を持っている。何故嘘を吐いたのか。簡単な答えさ」
勿体をつけずに教えてほしい、と僕は身を乗り出す。
「保身だよ。自分を守る為に、嘘を吐いたんだ」
保身、と言われ、すとんと腑に落ちた。自分の思慮の浅さに、「ああ」と呻いてしまう。
「この町には、動物の首を切るような奴がいることを忘れてないかい? そんな町で一時的にだけど犬を放置した。家族は、そのことをどう思うかな?」
想像してみてくれ、と言わんばかりの強い目で見られ、頭の中で考えを巡らせる。
小学校の先生は、兎が拐われて不安な一週間を過ごしたと言っていた。クビキリは動物を飼っている人にとって他人事ではない。事件が起きているような町で、犬を係留するのは無用心だ。
それが家族にバレたら……年の離れた妹からは「お姉ちゃんの所為だ」と非難され、厳しい両親からは「不用心だ、非常識だ」と責められる日々が待ち受けているかもしれない。
「被害者になれば、同情される」
袋小路で取り乱し、泣き崩れていた瀬川さんの姿を思い出す。あの時瀬川さんは、自分の中の罪悪感とクビキリに飼い犬が殺されてしまうかもしれないという恐怖に押しつぶされていたのだ。
「袋小路で犯人と犬が消えた、という奇妙な演出をしたのは、賢いね。人はムキになって謎に挑もうとするだろうからさ。犯人の逃走経路を考えなくて済むし、逃亡する犯人の目撃者がいないこともカバーできる」
自分はまんまと、その策にはまり、どうやって犯人と犬が消えたのかばかり考えていた。
「パーカーの文字を見たっていうのは?」
「あれは平の訊き方が悪かった。平が犯人は『XXXってマークが入ったパーカーを着た奴だったか?』って訊いたから、瀬川はそうだと答えたんだ。瀬川から言い出したわけじゃなかっただろ?」
はっとする。確かにその通りだった。
「というのが、俺の考えだね」
森巣の軽やかな声が耳に届く。自分がキーパーをしていて、森巣のシュートしたボールがゴールネットを揺らす、そんなイメージが思い浮かぶ。
僕は困っている瀬川さんの為に、足りない勇気を振り絞った。森巣を疑い、的外れの推理を挑むように披露した。森巣にどう思われているだろう。それを考えると、顔から火が出そうだった。身の丈に合わないことをしてしまった後悔に飲まれる。
「僕は誰の役にも立てなかったわけか」
弱音がぽろりと口からこぼれてしまった。助けようと思って空回り、事件をややこしくしているだけだ。前進しているつもりでいたけれど、実際は解決の為に一歩も前へ進めていなかった。
「ごめん、森巣のことを疑ったりして」
「いや、いいんだよ。平は困っている瀬川を放って置けなかっただけだろ?」
「そうなんだけど。僕は、自分がもっと困ってる人の役に立てるんじゃないかとか、思ったことを行動できる本当の自分になれるんじゃないかとか、心のどこかで考えてた気がするんだ。得意になって、柳井先生にもクビキリの犯人がわかったって的外れなこと言っちゃったよ」
「クビキリの犯人がわかったって言ったんだ」
森巣がそう言って、神妙な顔をして腕を組んだ。
「思い込んじゃったんだよ、本当にごめん。それより、早く瀬川さんの犬を見つけてあげないとね」
「ん? 今、俺は瀬川が嘘を吐いていたって説明したよな」
森巣がとても意外そうにしているが、それはどうでもいいんだ、と説明を重ねる。
「僕はただ、困ってる人を助けたいだけなんだ。君だってそうだろ?」
そう口にしてから、そうだ、オッドアイと言えば、と思い出す。
「ところでさ、人間も狙われる、ってことはないよね? さっき気がついたんだけど、柳井先生もオッドアイなんだよ」
森巣が鼻先まで持ち上げていたティーカップをゆっくり下ろした。
「平は目が良い。でも、ちゃんとわかっていない。平の様子を見た感じだと、どうやら時間はなさそうだな」
背筋がぞくりとするような、氷のような表情をしていた。
もはや、森巣がどこを走っているのかもわからない。いつまで経っても教科書の同じ問題で躓く生徒に接するように、森巣が「説明するからよく聞いて」と優しく話し始めた。
「瀬川は犬を思いっきり突き飛ばされた。掛けている眼鏡も外れたと言っていた。なのに、瀬川は犯人の逃げた先も、パーカーの文字まで覚えていた、これはおかしくないか?」
瀬川さんの眼鏡は結構度が強そうなのは見ていてわかる。眼鏡を外すと、話している相手の顔も見えない、と言うタイプだ。
「実は平と別れてから、ちょっと裏を取って来たんだ」
「裏?」
「ケーキを手配していたし、犬を拐われた日は、瀬川の妹の誕生日だって言ってたよな。瀬川はあの日あのカフェで、妹の為のケーキを受け取っていた」
「うん、そうみたいだったね。店員さんと話していた」
「ケーキを取りに行ったのは五時頃だったそうだよ」
森巣がそう言って、説明を止めた。
ん? それで? と視線で訊ねる。
「犬の散歩の時間と被ってる、だろ?」
「それのどこがいけないの?」
「その時、犬はどこにいたと思う?」
どこにいたのか? と首を傾げると、思考の整理するのを手伝うみたいに森巣が解説を続けた。
「犬が拐われた後、呑気にケーキを受け取って家に帰ると思うかい? 拐われた後にケーキを受け取りに行ったんだとしたら、店員は事件のことを知っているはずだ。だけど、店員は事件を気にかけている様子がなかった」
「つまり、犬が拐われる前にケーキを受け取っていたってことか。でも、散歩中だったんでしょ? 犬は一体どこに行っちゃったの?」
「店のそばの電柱にでも繋いでいたんだろうな。その間に拐われたんだ。それが真相だよ」
犬の散歩中に、犬を店の外で待たせて、ケーキを受け取る。森巣の言うことはわかった。
わかったけど、わからない。
「なんで、瀬川さんは突き飛ばされたとか、拐われたとか、そんな嘘を吐く必要があるわけ? 普通に、ケーキを受け取っている間に盗まれたって言えばいいじゃないか」
森巣が「平」と優しく諭すように僕の名前を呼んだ。
「平は瀬川のことを、真面目で、みんなに優しい清廉潔白な委員長、そういう風に思ってないかい?」
瀬川さんはまさしくそういう人じゃないか、と思って頷く。
「人は見かけによらない。平も言っていたじゃないか」
「ああ、カフェで話したっけ。でも、それとこれが関係あるの?」
「瀬川も人間だ。暗い側面を持っている。何故嘘を吐いたのか。簡単な答えさ」
勿体をつけずに教えてほしい、と僕は身を乗り出す。
「保身だよ。自分を守る為に、嘘を吐いたんだ」
保身、と言われ、すとんと腑に落ちた。自分の思慮の浅さに、「ああ」と呻いてしまう。
「この町には、動物の首を切るような奴がいることを忘れてないかい? そんな町で一時的にだけど犬を放置した。家族は、そのことをどう思うかな?」
想像してみてくれ、と言わんばかりの強い目で見られ、頭の中で考えを巡らせる。
小学校の先生は、兎が拐われて不安な一週間を過ごしたと言っていた。クビキリは動物を飼っている人にとって他人事ではない。事件が起きているような町で、犬を係留するのは無用心だ。
それが家族にバレたら……年の離れた妹からは「お姉ちゃんの所為だ」と非難され、厳しい両親からは「不用心だ、非常識だ」と責められる日々が待ち受けているかもしれない。
「被害者になれば、同情される」
袋小路で取り乱し、泣き崩れていた瀬川さんの姿を思い出す。あの時瀬川さんは、自分の中の罪悪感とクビキリに飼い犬が殺されてしまうかもしれないという恐怖に押しつぶされていたのだ。
「袋小路で犯人と犬が消えた、という奇妙な演出をしたのは、賢いね。人はムキになって謎に挑もうとするだろうからさ。犯人の逃走経路を考えなくて済むし、逃亡する犯人の目撃者がいないこともカバーできる」
自分はまんまと、その策にはまり、どうやって犯人と犬が消えたのかばかり考えていた。
「パーカーの文字を見たっていうのは?」
「あれは平の訊き方が悪かった。平が犯人は『XXXってマークが入ったパーカーを着た奴だったか?』って訊いたから、瀬川はそうだと答えたんだ。瀬川から言い出したわけじゃなかっただろ?」
はっとする。確かにその通りだった。
「というのが、俺の考えだね」
森巣の軽やかな声が耳に届く。自分がキーパーをしていて、森巣のシュートしたボールがゴールネットを揺らす、そんなイメージが思い浮かぶ。
僕は困っている瀬川さんの為に、足りない勇気を振り絞った。森巣を疑い、的外れの推理を挑むように披露した。森巣にどう思われているだろう。それを考えると、顔から火が出そうだった。身の丈に合わないことをしてしまった後悔に飲まれる。
「僕は誰の役にも立てなかったわけか」
弱音がぽろりと口からこぼれてしまった。助けようと思って空回り、事件をややこしくしているだけだ。前進しているつもりでいたけれど、実際は解決の為に一歩も前へ進めていなかった。
「ごめん、森巣のことを疑ったりして」
「いや、いいんだよ。平は困っている瀬川を放って置けなかっただけだろ?」
「そうなんだけど。僕は、自分がもっと困ってる人の役に立てるんじゃないかとか、思ったことを行動できる本当の自分になれるんじゃないかとか、心のどこかで考えてた気がするんだ。得意になって、柳井先生にもクビキリの犯人がわかったって的外れなこと言っちゃったよ」
「クビキリの犯人がわかったって言ったんだ」
森巣がそう言って、神妙な顔をして腕を組んだ。
「思い込んじゃったんだよ、本当にごめん。それより、早く瀬川さんの犬を見つけてあげないとね」
「ん? 今、俺は瀬川が嘘を吐いていたって説明したよな」
森巣がとても意外そうにしているが、それはどうでもいいんだ、と説明を重ねる。
「僕はただ、困ってる人を助けたいだけなんだ。君だってそうだろ?」
そう口にしてから、そうだ、オッドアイと言えば、と思い出す。
「ところでさ、人間も狙われる、ってことはないよね? さっき気がついたんだけど、柳井先生もオッドアイなんだよ」
森巣が鼻先まで持ち上げていたティーカップをゆっくり下ろした。
「平は目が良い。でも、ちゃんとわかっていない。平の様子を見た感じだと、どうやら時間はなさそうだな」
背筋がぞくりとするような、氷のような表情をしていた。