消えた犯人
文字数 3,525文字
10
瀬川さんの犬を奪った犯人が逃げ込んだ先は、袋小路だった。
立ち塞がる壁を前にし、動揺しながら考えを巡らせるが、わからない。
犯人と犬はどこに消えたんだ?
様子を窺うと、瀬川さんは左腕を抱き、目を伏せていた。来たくない、見たくない、と身を守っているようだ。
代わりに僕が何か、解決の糸口を探さなければと周りを見回す。
右の塀の向こうにはクリーム色の家が見え、左の塀の上からは、庭木の枝が張り出していた。奥は行き止まりの壁だ。頑然と僕らを追い返そうとしているような印象を受ける。
僕は袋小路をうろうろしているのに対し、森巣は顎に手をやってじっとし、考え込んでいた。雰囲気がピリッと張り詰めていて、声をかけることに躊躇する。
「瀬川さん、犯人はこの角を曲がったんだよね」
「うん」
「なのに、いなくなってたの?」
「うん」
「でも、どこにも逃げ場がないじゃないか」
「わたしにも、わからないの!」
瀬川さんの眉が悲しげに下がり、「ごめんね、平くん。本当に、全然わからないの」と涙声が漏れ聞こえてくる。
自分が余計なことを発言して追い詰めてしまったと焦り、「大丈夫、大丈夫だよ」と僕は何が大丈夫なのかわからないけれど、声をかけ続ける。
「瀬川、犬は抵抗しなかったのかい?」
そう森巣が言ったのは、しばらくしてからのことだった。瀬川さんは少し落ち着きを取り戻したのか、前髪に触れながら「ええっと」と口を開く。
「ちゃんと見れなくて、それもわからないの。突き飛ばされた時、眼鏡が外れたから」
「なるほど。犬は吠えたりしてなかった?」
「初めはしてなかった。途中からは吠えてた気がするけど」
「犯人と角に消えてからは?」
「多分、してたと思う」
「この行き止まりに来てからは?」
森巣の畳み掛けるような質問を受け、瀬川さんは考えこむように口元に手をやり、真剣な表情で宙を見つめている。
「ちょっと思い出せない。ごめんね」
「いや、謝ることない。確認をしたかっただけだからさ」
「何の確認?」と僕は訊いてみる。
森巣が僕を見てから、左右の家を交互に指出す。それぞれに塀があり、その奥に屋根が見える。
「犯人が消えるわけがない。つまり、塀を乗り越えてどちらかの家に逃げ込んだんだ」
塀の高さは僕らの背丈よりも少し高いくらいだ。確かに手を伸ばし、がんばれば乗り越えられない高さではないと思う。だけど、だ。
「犯人は犬も連れていたんだよ?」
「ああ、だから犬が吠えてなかったのか聞いたんだ。聞こえてたら、追った瀬川にもわかった筈だろ?」
確かにその通りだ。淡々と質問していたから意味がなさそうに思えたけど、そこまで考えてい
たのか、と驚いた。
飄々とした様子で、「これは難問だね」と言いながら、森巣が行き止まりに向かって歩き始める。ので、僕も移動して彼に並んでみる。
両サイドの家が無理なら正面か、と考えているのだろう。だけど、それが一番無理だ。
ここは坂道にある住宅地なので、段々に家が建っている。行き止まりのコンクリートの壁の傾斜は大きく、駆け上がるのは到底無理な角度をしている。登るにはロッククライミングのような姿勢になるだろうし、壁の上にはフェンスが張られているのが見える。
何か仕掛けはないだろうか、と考えながら行き止まりの壁を触ってみたが、ざらっとした感触が掌に伝わるだけだった。子供の頃に読んだ探偵小説であれば、秘密の通路があったりするけど、住宅地には当然そんなものはない。
犯人が逃げられるとしたら、右か左の家か。左側には庭木があって少し邪魔だから、右側のクリーム色の家の方だろうか?
腕を組み、じっと立っている森巣の隣に戻り、「ねえ」と声をかける。
「犬を塀の向こうに投げて、自分も続いたのかな?」
「どうだろうな。瀬川、犬ってどのくらいのサイズ?」
瀬川さんが、大切なものを抱きかかえるように両手を広げる。五十センチくらいだろうか。中型犬だからそこそこ大きい。
「そのサイズの暴れる犬を放るのは大変だろうな」
「落下して、衝撃を受けて気を失ったから犬は静かになったんじゃないかな?」
「犬なんだから自力で着地できる気がするし、失敗をしたら痛みで吠えまくると思う」
「偶然、気絶したってことは?」
「犬の強奪なんて思いつきでやるわけがない。逃亡先で犬が鳴かない偶然に賭ける、なんてことはしないだろうね」
確かに、と僕は相槌を打つ。抱えたまま逃げて暴れられたらその分、リスクも高まってしまう
だろう。トリックを用意しておいて、瀬川さんの犬を奪ったに違いない。
だが、結局わからないということがわかっただけだった。まさに袋小路。
僕は瀬川さんの元に戻り、言うか言うまいか逡巡した後、おそるおそる質問してみる。
「瀬川さん、逃げた犯人の服装って覚えてる? もしかして、黒いパーカーで背中に白文字でXXXって書いてなかった?」
質問を受け、瀬川さんが疲労感の浮かんだ表情をして、思い出すような時間をかけてから、「そう、だった」と答えた。
その返事を聞き、奥歯を噛みしめる。僕が見たクビキリの犯人と同じ格好じゃないか。
同一犯と考えるのが短絡的だとは思えない。あいつは、瀬川さんを襲い、犬を拐ったんだ。だとすると、犬が危ない。お腹の底から焦りがこみ上げ、胃のあたりがぎゅうっと絞られるように痛む。
どうしよう? と窺うと、森巣は瀬川さんを見据え、とんでもないことを口走った。
「瀬川はクビキリを知ってる?」
瀬川さんの表情が強張った。
「森巣!」
反射的に声をあげる。
が、森巣は素知らぬ顔をし、「どう?」と促した。
「知ってる。ニュースでも見たし……何? どういうこと?」
瀬川さんの顔から血の気が引いていく。咄嗟に、森巣と瀬川さんの間に入る。睨むような目つきもしていただろう。それでも森巣は止めなかった。
「俺にはまだわからないけど、逃げるルートも犯人は考えていた。女子高生が、夕方に一人で犬の散歩をしているのを知っていたから犯行に及んだ、計画的なものだろうね」
天気予報の話でもするみたいに、森巣が口にする。まるで暗雲を呼び込んでいるように思えた。この町にクビキリ犯がいるから最悪の事態を覚悟しろ、とでも言いたいのだろうか? それは無慈悲だし、そんなことを言ってもらいたくて協力を歓迎したのではない。
「平が見たクビキリ犯と同じ格好をしていた、というのも気になる」
瀬川さんが目を大きく見開き、確かめるように僕に視線を移した。眼鏡の奥の瞳が不安のせいで揺れている。
「いや、瀬川さん、それは……」
違うよ、と嘘を吐いて誤魔化せば良かったのか、なんと言ったらいいのかわからなかった。ただ、続く言葉が思い浮かばず、口をぱくぱくとさせる。
瀬川さんの表情が一瞬固まった、かと思ったら、つーっと目から涙が伝っていた。食いしばった口から、嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「ねえ、どうしたらいいの。わたし、できることならなんでもするから」
学校での、委員長然とした瀬川さんからは考えられない、悲痛で必死な声だった。
「美紀の為なら、マリンが戻ってくるなら、なんでもする! 本当よ!」
瀬川さんは泣き声をあげながら両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちるように蹲った。プレッシャーが瀬川さんの身体にのし掛かり、失意のどん底へ、ぺしゃんこに押しつぶそうとしているように見える。
瀬川さんは被害者だ。散歩中に犬を拐われた責任は彼女にはない。だけど、年の離れた妹は理解してくれているだろうか。両親もちゃんと同情しているだろうか。厳しい家庭と言っていたし、「しっかり手綱を握っていれば、拐われずに済んだのに」と瀬川さんは責められていないだろうか。
泣き崩れてしまった瀬川さんを見ながら、自分の中でやり場のない悲しみと共に、憤りがむくむくと湧き上がって来た。
どうして、クビキリの話をしたんだよ、と森巣を見やる。
当の森巣は考えの読めない表情で、じっと瀬川さんのことを見下ろしていた。僕の視線に気付くと、悪びれる様子もなく、まるで僕を安心させるように柔らかく微笑んだ。
何故こんな時に笑えるのか? とに取られていると、森巣は咽び泣いている瀬川さんに歩み寄り、屈んでそっと肩に手を置いた。
「瀬川、大丈夫だよ。任せてくれ」
それはなんだか陽だまりのように暖かく、優しい声だった。
瀬川さんの犬を奪った犯人が逃げ込んだ先は、袋小路だった。
立ち塞がる壁を前にし、動揺しながら考えを巡らせるが、わからない。
犯人と犬はどこに消えたんだ?
様子を窺うと、瀬川さんは左腕を抱き、目を伏せていた。来たくない、見たくない、と身を守っているようだ。
代わりに僕が何か、解決の糸口を探さなければと周りを見回す。
右の塀の向こうにはクリーム色の家が見え、左の塀の上からは、庭木の枝が張り出していた。奥は行き止まりの壁だ。頑然と僕らを追い返そうとしているような印象を受ける。
僕は袋小路をうろうろしているのに対し、森巣は顎に手をやってじっとし、考え込んでいた。雰囲気がピリッと張り詰めていて、声をかけることに躊躇する。
「瀬川さん、犯人はこの角を曲がったんだよね」
「うん」
「なのに、いなくなってたの?」
「うん」
「でも、どこにも逃げ場がないじゃないか」
「わたしにも、わからないの!」
瀬川さんの眉が悲しげに下がり、「ごめんね、平くん。本当に、全然わからないの」と涙声が漏れ聞こえてくる。
自分が余計なことを発言して追い詰めてしまったと焦り、「大丈夫、大丈夫だよ」と僕は何が大丈夫なのかわからないけれど、声をかけ続ける。
「瀬川、犬は抵抗しなかったのかい?」
そう森巣が言ったのは、しばらくしてからのことだった。瀬川さんは少し落ち着きを取り戻したのか、前髪に触れながら「ええっと」と口を開く。
「ちゃんと見れなくて、それもわからないの。突き飛ばされた時、眼鏡が外れたから」
「なるほど。犬は吠えたりしてなかった?」
「初めはしてなかった。途中からは吠えてた気がするけど」
「犯人と角に消えてからは?」
「多分、してたと思う」
「この行き止まりに来てからは?」
森巣の畳み掛けるような質問を受け、瀬川さんは考えこむように口元に手をやり、真剣な表情で宙を見つめている。
「ちょっと思い出せない。ごめんね」
「いや、謝ることない。確認をしたかっただけだからさ」
「何の確認?」と僕は訊いてみる。
森巣が僕を見てから、左右の家を交互に指出す。それぞれに塀があり、その奥に屋根が見える。
「犯人が消えるわけがない。つまり、塀を乗り越えてどちらかの家に逃げ込んだんだ」
塀の高さは僕らの背丈よりも少し高いくらいだ。確かに手を伸ばし、がんばれば乗り越えられない高さではないと思う。だけど、だ。
「犯人は犬も連れていたんだよ?」
「ああ、だから犬が吠えてなかったのか聞いたんだ。聞こえてたら、追った瀬川にもわかった筈だろ?」
確かにその通りだ。淡々と質問していたから意味がなさそうに思えたけど、そこまで考えてい
たのか、と驚いた。
飄々とした様子で、「これは難問だね」と言いながら、森巣が行き止まりに向かって歩き始める。ので、僕も移動して彼に並んでみる。
両サイドの家が無理なら正面か、と考えているのだろう。だけど、それが一番無理だ。
ここは坂道にある住宅地なので、段々に家が建っている。行き止まりのコンクリートの壁の傾斜は大きく、駆け上がるのは到底無理な角度をしている。登るにはロッククライミングのような姿勢になるだろうし、壁の上にはフェンスが張られているのが見える。
何か仕掛けはないだろうか、と考えながら行き止まりの壁を触ってみたが、ざらっとした感触が掌に伝わるだけだった。子供の頃に読んだ探偵小説であれば、秘密の通路があったりするけど、住宅地には当然そんなものはない。
犯人が逃げられるとしたら、右か左の家か。左側には庭木があって少し邪魔だから、右側のクリーム色の家の方だろうか?
腕を組み、じっと立っている森巣の隣に戻り、「ねえ」と声をかける。
「犬を塀の向こうに投げて、自分も続いたのかな?」
「どうだろうな。瀬川、犬ってどのくらいのサイズ?」
瀬川さんが、大切なものを抱きかかえるように両手を広げる。五十センチくらいだろうか。中型犬だからそこそこ大きい。
「そのサイズの暴れる犬を放るのは大変だろうな」
「落下して、衝撃を受けて気を失ったから犬は静かになったんじゃないかな?」
「犬なんだから自力で着地できる気がするし、失敗をしたら痛みで吠えまくると思う」
「偶然、気絶したってことは?」
「犬の強奪なんて思いつきでやるわけがない。逃亡先で犬が鳴かない偶然に賭ける、なんてことはしないだろうね」
確かに、と僕は相槌を打つ。抱えたまま逃げて暴れられたらその分、リスクも高まってしまう
だろう。トリックを用意しておいて、瀬川さんの犬を奪ったに違いない。
だが、結局わからないということがわかっただけだった。まさに袋小路。
僕は瀬川さんの元に戻り、言うか言うまいか逡巡した後、おそるおそる質問してみる。
「瀬川さん、逃げた犯人の服装って覚えてる? もしかして、黒いパーカーで背中に白文字でXXXって書いてなかった?」
質問を受け、瀬川さんが疲労感の浮かんだ表情をして、思い出すような時間をかけてから、「そう、だった」と答えた。
その返事を聞き、奥歯を噛みしめる。僕が見たクビキリの犯人と同じ格好じゃないか。
同一犯と考えるのが短絡的だとは思えない。あいつは、瀬川さんを襲い、犬を拐ったんだ。だとすると、犬が危ない。お腹の底から焦りがこみ上げ、胃のあたりがぎゅうっと絞られるように痛む。
どうしよう? と窺うと、森巣は瀬川さんを見据え、とんでもないことを口走った。
「瀬川はクビキリを知ってる?」
瀬川さんの表情が強張った。
「森巣!」
反射的に声をあげる。
が、森巣は素知らぬ顔をし、「どう?」と促した。
「知ってる。ニュースでも見たし……何? どういうこと?」
瀬川さんの顔から血の気が引いていく。咄嗟に、森巣と瀬川さんの間に入る。睨むような目つきもしていただろう。それでも森巣は止めなかった。
「俺にはまだわからないけど、逃げるルートも犯人は考えていた。女子高生が、夕方に一人で犬の散歩をしているのを知っていたから犯行に及んだ、計画的なものだろうね」
天気予報の話でもするみたいに、森巣が口にする。まるで暗雲を呼び込んでいるように思えた。この町にクビキリ犯がいるから最悪の事態を覚悟しろ、とでも言いたいのだろうか? それは無慈悲だし、そんなことを言ってもらいたくて協力を歓迎したのではない。
「平が見たクビキリ犯と同じ格好をしていた、というのも気になる」
瀬川さんが目を大きく見開き、確かめるように僕に視線を移した。眼鏡の奥の瞳が不安のせいで揺れている。
「いや、瀬川さん、それは……」
違うよ、と嘘を吐いて誤魔化せば良かったのか、なんと言ったらいいのかわからなかった。ただ、続く言葉が思い浮かばず、口をぱくぱくとさせる。
瀬川さんの表情が一瞬固まった、かと思ったら、つーっと目から涙が伝っていた。食いしばった口から、嗚咽が漏れ聞こえてくる。
「ねえ、どうしたらいいの。わたし、できることならなんでもするから」
学校での、委員長然とした瀬川さんからは考えられない、悲痛で必死な声だった。
「美紀の為なら、マリンが戻ってくるなら、なんでもする! 本当よ!」
瀬川さんは泣き声をあげながら両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちるように蹲った。プレッシャーが瀬川さんの身体にのし掛かり、失意のどん底へ、ぺしゃんこに押しつぶそうとしているように見える。
瀬川さんは被害者だ。散歩中に犬を拐われた責任は彼女にはない。だけど、年の離れた妹は理解してくれているだろうか。両親もちゃんと同情しているだろうか。厳しい家庭と言っていたし、「しっかり手綱を握っていれば、拐われずに済んだのに」と瀬川さんは責められていないだろうか。
泣き崩れてしまった瀬川さんを見ながら、自分の中でやり場のない悲しみと共に、憤りがむくむくと湧き上がって来た。
どうして、クビキリの話をしたんだよ、と森巣を見やる。
当の森巣は考えの読めない表情で、じっと瀬川さんのことを見下ろしていた。僕の視線に気付くと、悪びれる様子もなく、まるで僕を安心させるように柔らかく微笑んだ。
何故こんな時に笑えるのか? とに取られていると、森巣は咽び泣いている瀬川さんに歩み寄り、屈んでそっと肩に手を置いた。
「瀬川、大丈夫だよ。任せてくれ」
それはなんだか陽だまりのように暖かく、優しい声だった。