犯人の欲望

文字数 2,107文字

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「殴られたことはあるか?」

 何を言い出すのか、と訝しみながら、十六年間の人生を回想し、「ない」と僕は答える。

「まずは痛みを知っておけ」

 そう言われ、右の頬を殴られた。口の中が切れ、鉄に似たしょっぱい血の味が広がった。痛みに頭が痺れ、視界と共に脳が揺れる。何が起きたのかわからない恐怖と共に、何をするんだ、という怒りが巻き起こる。なんなんだ、一体?

「今日、自分が死ぬかもしれないと思うんだ」

 混乱しながら、頭にあった言葉を掴んで投げる。

「……は、悪い奴なのか?」

 口の中が切れているから、呂律が回らず、ちゃんと喋れない。
 下らない質問を聞いた、と言わんばかりに鼻で笑われた。

 森巣、君は、良い奴なのか? 悪い奴なのか?

 わからない。だけど、僕は自分の中にある正しさだけは見失うわけにはいかない。
 僕はどうすればいい?

「本当の自分になりたいなら、その痛みを覚えて、目を覚ましていたいと思え」

 そう言って森巣は左手の手のひらを僕に向けた。そこには横一文字に、ミミズ腫れのような線が浮かび上がっている。もう治っているが、いつできた傷跡だろうか。痛々しくて、ぎょっとする。

 恐怖心と殴られたせいで、ぐわんぐわんと目眩がする。人を傷つけたことはない。対決しなければ、と目眩を覚えながらテーブルの端にあるハサミを確認してから、口を開く。

「どうして殴った」
「お前は口先だけじゃなさそうだからな、興味が湧いた。大人しくしてろ、悪いようにはしない」

 森巣がそう言った直後、リビングの扉が開き、「お待たせお待たせ」と柳井先生が戻ってきた。生徒二人の間に漂う剣呑な雰囲気に気がついたのか、「どうした二人とも」と言って向かいの席に着いた。

「なんでもありませんよ。平の話を聞いていたんです」

 森巣が微笑んで僕を見たけど、目は笑っていなかった。「大人しくしていろ」と釘を刺してきたのだとわかる。僕は情けないことに、射竦められてしまったのか、体が動かない。心臓だけが緊張して動き回っているのがわかる。

「何の話をしてたんだ?」
「平の進路相談ですよ。アドバイスが為になったって言ってましたよ」
「ああ、人生ってのは自分の欲望に忠実になることだ。欲望が行動に繋がる。それが俺の人生哲学でね」
「へー、欲望ですか」

 森巣が感心するような声をあげる。僕はこの茶番に付き合っている暇はない。ここからどうやって逃げるかだけを考えろ、と頭の中で言い聞かせる。だけど、殴られたせいか、思考が全然まとまらない。

 森巣が、この場が凍りつきそうな冷ややかな笑みを浮かべた。
 ゆっくりと足を組み、顎に手をやり、じっと柳井先生を浮かべる。

 芝居染みた動きをし、一体どうしたのかと思ったら、彼の口からとんでもない言葉が飛び出した。

「それで、先生は動物の首を切りたいってのが先生の欲望ですか」

 先生が、首を切る? と質問の意味がわからず、僕は更に混乱する。
 さっと柳井先生を見ると、目を丸くしていた。

「ここにある白いテープで、XXXってパーカーに貼っていたんですかね。そうすれば目撃者はパーカーの話ばかりするでしょうし。平みたいにね」

 森巣がテーブルの脇に置いてある白い布テープを手にして、検分するように眺めてから衣類の溜まったカゴに放った。そこの一番上には無地の黒いパーカーが無造作に置かれている。

 ぱちぱち、と音がしたので目をやると、柳井先生が感心した様子で拍手をしていた。

 目を細め、口角を上げて表情を歪めていく。化けの皮が剥がれ、グロテスクに歪んだ心を見せつけられているようで、背筋が凍る。

「俺は酒癖の悪い父親に殴られてね、右目が悪くなってしまった」

 柳井先生がそう言って、右目を優しく労わるような手つきで撫ぜる。

「目を悪くした日に、死んだも同然になった。だが、殺される側なんて嫌だろ? だから、俺は殺す側になることにしたんだよ。オッドアイってのは、自分を見てるみたいでイライラする。だから殺す。これが先生の欲望だ」
「何が欲望だ」

 僕は失望の声をあげる。

 勇気が欲しかったら、欲望に忠実になれ、と柳井先生は僕に言った。その教えに従って僕は行動をしたのに。裏切られたことで心が切り裂かれ、血の代わりに悲しみが溢れ出た。
 柳井先生は左手を机から離し、ゆっくりと自分のこめかみに持って行った。

「よく効いているようだな」
「え?」

「GABAという物質が人間の脳内にはある。中枢神経を抑制する、有名な脳内神経伝達物質だ。体内に、ベンゾジアエピン系薬物が取り込まれると、ベンゾジアエピン受容体に結合する。すると、GABAの受容体であるGABA Aがノルアドレナリン神経系、セロトニン神経系、ドーパミン神経系の働きを抑える。これにより、脳内の活動はどんどん落ち込んでいく」

 眠たくなるような話を長々と始められて困惑する。柳井先生は「どうだ? 眠くなってきたか? 身体が動かなくなってきたりしないか?」と続けた。
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