嫌な空気

文字数 2,518文字

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 正解、と思ったのは、空腹が原因の気の迷いだったのではないか。

 あのまま美術室でぼうっとしているのが嫌だったから、切り上げたかっただけな気もする。強盗ヤギに纏わる問題を先送りにしただけだし、そもそもこの問題は僕に関係がない。

 それに、森巣と小此木さんと僕の三人で行くのだとばかり思っていたのに、小此木さんは「わたしはパス」とあっさり言ったので驚いた。「だったら僕も」と言えば良かったのに、小此木さんの辞退に驚いたことでタイミングを逃し、言い出す勇気がなかった。

 午後の授業を受けながら、森巣に「急な用事が入った」と言って帰ろうかとも思ったけど、一度した約束を嘘で破るというのはなんだか悪い。付き合うべきか? そもそも森巣は何がしたいんだ? やっっつけると言っていたけど本気なのか? そんなことをぐるぐると考えていたら、すぐに放課後を迎えてしまった。

「平どうしたよ、浮かない顔して、変だぜ」
「牧野はあんまり仲良くない人から、二人きりで甘いもんでも食べにいこうって誘われたらどうする?」
「相手の顔による」
「顔はケチのつけどころがない」
「じゃあ行く。ちなみに巨乳?」
「巨乳じゃないけど」
「巨乳じゃないのか」
「命の恩人ではある」
「それ、何の話だ?」

 怪訝な顔をする牧野に、なんでもない、とかぶりをふる。
 久々に森巣と話をしたけど、正直まだ全然森巣のことが計り知れないでいる。気を許して良いのか悪いのか、判断に悩む。でも、小此木さんが森巣の振る舞いを許しているのも気になった。

「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」と言って席を立つ。
「平」

 呼び止められ、振り返る。牧野は腕を組み、いやに真剣な面持ちで僕を見ていた。

「人間、大事なのはおっぱいじゃなくて、ハートだからな」

 芝居染みた口調でしょうもないことを言われ、苦笑する。

「胸に刻んだよ」

 満足そうに親指を立てる牧野に手を振り、教室を後にする。今のは自分で言っておきながら下らなかったと反省する。

 森巣を迎えに六組の教室まで行くと、廊下にまで賑やかな声が溢れ出ていた。

 そっと扉の脇に立ち、中の様子を確認する。部活や下校で教室から帰っていく中、いつまでも教室に残っているグループがいた。案の定、その人の輪の中には森巣がいた。彼が帰ろうとしないから、友人たちも帰らないのかもしれない。

 仮面優等生の森巣は、クラスメイトとどんな話をしているのだろう、と少し観察してみる。動画でも鑑賞しているのか、背が高く色黒の男子が構えるスマートフォンをみんなで眺めている。目が爛々とさせ、好奇心を顔に浮かべていた。

 森巣は口元に微笑みを湛えつつも、手持ち無沙汰そうに自分の爪を眺めていた。溶け込んではいるけど、退屈そうだなと眺めていたら、爪から視線を離した森巣と目が合った。

 ほんの一瞬だったけど、表情が険しくなったので、僕はさっと廊下に身を隠す。

「ごめん、用事があるんだった! 急ぐから、もう帰るわ」

 そうなの? また明日、という声が聞こえる。僕が言い出したわけではないのだが、みんなの森巣を取ってしまったようで、少し後ろめたい。

 が、やって来た不機嫌そうな顔つきの森巣を見たら、罪悪感は吹き飛んだ。

「廊下でぽつんと何してたんだ? さっさと呼びに来いよ。連絡先を交換したんだから、連絡をくれても良かったんだぞ? 文明の利器を使いこなしてこその文明人だろ」
「いやあ、良ちゃんがクラスで友達と仲良くしてるか見てたんだよ」

 森巣がにっこりと張り付いたような笑顔を浮かべた。逃げられないように右手が顔の横に置かれ、身構える間も無く森巣の顔が接近してくる。柔らかそうな猫っ毛が揺れ、長い睫毛が見える。

「次にそう呼んだら殺す」

 耳元で囁くと、森巣はぱっと身を引いた。微笑んでいるが目がギラギラとしていた。ばくんばくんと心臓が動くのを感じながら、良ちゃんと呼ぶのだけは二度としないでおこう、と心に誓う。

「じゃあ、行こうか」

 爽やかモードの口調で森巣がそう言うと、身を翻して歩き出した。ので、ついて歩く。学校を出て駅へと続く道を進む。なんとなく予想ができていたけど、「みんなで何を見ていたの?」と訊いてみる。

「みんな大好き強盗ヤギだ」

「そっちのクラスもか」と言いながら、教室や電車、会社や家なんかでも、みんなあの動画を見ているのだろうなと思った。
「なんか不気味だよね。最近、なんだか空気が悪くなっている気がする」
「空気?」
「町の中に紫色のもやが蔓延しているような、そんな不気味さを覚えるんだ。変な例えだと思うけど、不気味なものに囲まれてるような気持ちになるんだよ」

 最初はみんな、驚いていた。空気が変だぞ、と。だけど、それが麻痺して当たり前になっている。「それに、それだけじゃなくて、みんなおかしくなっているような気もする。何かに感染しているみたいに」

「心配性の平は、そんなことを気にしていたのか。ずいぶん回りくどい言い方をしてるけどさ、要は強盗ヤギの動画をみんなが見てるのが、不安なんだろう?」
「……そうだね。みんなが次の動画、次の犯罪を楽しみにしているみたいで、怖くなる」

 平和な日常が強盗ヤギの動画によって蝕まれてていくように感じていた。蝕まれ、どうなるのかはわからないけど、健康的ではない予感はする。

「森巣はどう思う?」
「人間は元々そんなもんだろ。強盗ヤギも、みんなにとってはただの娯楽だ」

 声色が変わった。明るさが失せ、淡々とした口調に変わる。駅に向かうにつれ、生徒が減ったからか表情も変わっている。爬虫類のように冷酷、とまでは言わないけど、獲物を狙う猛禽類を彷彿とさせる精悍な鋭さがあった。

「だけど、許すかどうかは別問題だな」

 語気が強くなり、なんだか物騒な気配がある。許さなかったらどうするつもりなんだ? 疑問だったけど、訊ねなかった。その答えを知りたくなかったからかもしれない。
 けど、僕はまた巻き込まれ、それを知ることになる。
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