まじ人間失格
文字数 1,929文字
9
マスクをした見ず知らずの女性から「見てた」と言われた。
何を? 見られて困ることは何もない。
警戒しながら立ち止まっていると、金髪女性はマスクを下にずらして笑顔を見せ、軽快な足取りで近づいてきた。まだ二十代前半くらいだろうか。化粧は薄く、つるりとした綺麗な肌をしている。素顔を見せることで、こちらに気を許してくれたような気がしたけど、僕は誰だかわからず、体が強張った。
「やるじゃん、最高だったよ」
得点をあげたチームメイトを迎えるような、友好的な笑みを浮かべていた。そこでやっと、相手が何を言っているのかわかる。照れ臭く、僕もぎこちないけど笑顔を作りながら「ありがとうございます」と伝える。二人を繋いでいる緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
僕の弾き語りを聴いていて、それで声をかけてくれたのだ。
「っていうか君、結構若くない? 大胆なことするねえ」
高校生の弾き語りを感心するように彼女は言ったが、ここで疑問が浮上してきた。金髪女性に見つめられるのでこちらも観察をする。
彼女に見覚えがなかった。弾き語りをして十人の中に、いなかった気がする。
「あの、演奏はどうでした?」
「聞こえなかったよ。歩道橋から見てたから」
さっぱりとした口調で言われ、「え?」と困惑する。
「じゃあ、歩道橋で何してたんですか?」
「だから見てたんだって」
当たり前のことをどうして聞くのか? と言わんばかりだった。
「高みの見物をしていたわけですね」
つまらない冗談を言ってしまった、と思ったけど、金髪女性は「そうそう、それそれ。まさしく」と目を細めた。
「あいつあたしに泣きついてきて、傑作だったんだよ。知るか早よ死ねって思ったわ」
あいつとは誰のことか僕が訊ねるよりも先に、女性が右手をこちらに向けてきた。握手、というわけではなく、名刺が差し出されている。
曖昧に頷きながら受け取り、確認すると、聞いたことのある企業名と、大宰治という人物の名前が書いてあった。かの文豪と一字違いだ。
「そいつもあいつの仲間でさ、まじ人間失格な奴なんだわ」
「恥の多い生涯なわけですか」
「恥だらけだよ。恥を恥とも思ってねえ、腐ったゴミみてえな女の敵サイコクズ野郎」
罵詈雑言の肩書を持つ大宰治氏の名刺を受け取ったが、僕はどうすればいいのかわからない。「で、この人がなんなんですか?」
「そいつも去年まで大学生で、散々酷いことをしていた癖に、今は有名な会社に入ってのうのうと生きてるわけ。許せないっしょ? 憎まれっ子が羽ばたいてるわけ」
羽ばたくじゃなくて、憚るですよ、と指摘を飲み込み質問をぶつける。
「でも、あの、言いにくいんですけど、それが僕とどんな関係が?」
金髪女性が眉を歪め、軽蔑するような目線を僕に向ける。関係があるのか? という言い方がまずかっただろうか。子供に暴力を振るう大人や嘘をつく政治家と同様に、女泣かせの男も一緒に憎んであげれば良かったのか。
「やっちゃってよ。さっきみたいにさ。わたしの電話かけたタイミングも完璧だったっしょ。金渡せば許されるって思われんのムカつくしさ、また協力するから、これからもあいつらをガンガン地獄に落としてこうよ」
「どうしてお金のことを知ってるんですか!?」
思わず、大きな声を出していた。封筒の中身がお金だということは、僕と小此木さんと、封筒を入れたゾンビしか知らないはずだ。
「は? ちょっと待って。え? だって君、あいつから金を受け取ってたでじゃん」
「実はあなたが何を言っているのか、さっぱりわかってないんですよ。教えて下さい。電話ってなんのことですか? お金とゾンビ男は一体なんなんですか?」
相手の怒りを買わないように、おそるおそる差し出すつもりで疑問を口にする。
金髪女性は僕が冗談を言っていると思ったのか、笑顔を苦笑に変えた。
だが、僕が無言でいると、彼女は表情をも曇らせた。眉根に皺を寄せ、顎を引き、じっと僕を見つめている。
「ボケてんの?」
「真剣ですよ」とこれ以上ないくらい真面目な口調で答える。
僕らを繋いでいた見えない糸が再び、ぴんっと張るのがわかる。千切れるのでは? と不安になる程だ。金髪女性が頬を引きつらせ、口元に手をやる。しばらく逡巡するような間を置くと、回れ右をし、そのままゆっくりと歩き出した。
あまりにも自然な動作だったので、ぼうっとしてしまった。去っていく背中に向かって、まだ話の途中ですけど、と呼び止めようとしたその瞬間、金髪女性は地面を力強く蹴った。
陸上競技のような綺麗なフォームで走り出し、小さくなっていく背中を見つめながら、はっとする。
絶対に逃すわけにはいかない。
そう思って追いかけたけど、逃げられた。
マスクをした見ず知らずの女性から「見てた」と言われた。
何を? 見られて困ることは何もない。
警戒しながら立ち止まっていると、金髪女性はマスクを下にずらして笑顔を見せ、軽快な足取りで近づいてきた。まだ二十代前半くらいだろうか。化粧は薄く、つるりとした綺麗な肌をしている。素顔を見せることで、こちらに気を許してくれたような気がしたけど、僕は誰だかわからず、体が強張った。
「やるじゃん、最高だったよ」
得点をあげたチームメイトを迎えるような、友好的な笑みを浮かべていた。そこでやっと、相手が何を言っているのかわかる。照れ臭く、僕もぎこちないけど笑顔を作りながら「ありがとうございます」と伝える。二人を繋いでいる緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
僕の弾き語りを聴いていて、それで声をかけてくれたのだ。
「っていうか君、結構若くない? 大胆なことするねえ」
高校生の弾き語りを感心するように彼女は言ったが、ここで疑問が浮上してきた。金髪女性に見つめられるのでこちらも観察をする。
彼女に見覚えがなかった。弾き語りをして十人の中に、いなかった気がする。
「あの、演奏はどうでした?」
「聞こえなかったよ。歩道橋から見てたから」
さっぱりとした口調で言われ、「え?」と困惑する。
「じゃあ、歩道橋で何してたんですか?」
「だから見てたんだって」
当たり前のことをどうして聞くのか? と言わんばかりだった。
「高みの見物をしていたわけですね」
つまらない冗談を言ってしまった、と思ったけど、金髪女性は「そうそう、それそれ。まさしく」と目を細めた。
「あいつあたしに泣きついてきて、傑作だったんだよ。知るか早よ死ねって思ったわ」
あいつとは誰のことか僕が訊ねるよりも先に、女性が右手をこちらに向けてきた。握手、というわけではなく、名刺が差し出されている。
曖昧に頷きながら受け取り、確認すると、聞いたことのある企業名と、大宰治という人物の名前が書いてあった。かの文豪と一字違いだ。
「そいつもあいつの仲間でさ、まじ人間失格な奴なんだわ」
「恥の多い生涯なわけですか」
「恥だらけだよ。恥を恥とも思ってねえ、腐ったゴミみてえな女の敵サイコクズ野郎」
罵詈雑言の肩書を持つ大宰治氏の名刺を受け取ったが、僕はどうすればいいのかわからない。「で、この人がなんなんですか?」
「そいつも去年まで大学生で、散々酷いことをしていた癖に、今は有名な会社に入ってのうのうと生きてるわけ。許せないっしょ? 憎まれっ子が羽ばたいてるわけ」
羽ばたくじゃなくて、憚るですよ、と指摘を飲み込み質問をぶつける。
「でも、あの、言いにくいんですけど、それが僕とどんな関係が?」
金髪女性が眉を歪め、軽蔑するような目線を僕に向ける。関係があるのか? という言い方がまずかっただろうか。子供に暴力を振るう大人や嘘をつく政治家と同様に、女泣かせの男も一緒に憎んであげれば良かったのか。
「やっちゃってよ。さっきみたいにさ。わたしの電話かけたタイミングも完璧だったっしょ。金渡せば許されるって思われんのムカつくしさ、また協力するから、これからもあいつらをガンガン地獄に落としてこうよ」
「どうしてお金のことを知ってるんですか!?」
思わず、大きな声を出していた。封筒の中身がお金だということは、僕と小此木さんと、封筒を入れたゾンビしか知らないはずだ。
「は? ちょっと待って。え? だって君、あいつから金を受け取ってたでじゃん」
「実はあなたが何を言っているのか、さっぱりわかってないんですよ。教えて下さい。電話ってなんのことですか? お金とゾンビ男は一体なんなんですか?」
相手の怒りを買わないように、おそるおそる差し出すつもりで疑問を口にする。
金髪女性は僕が冗談を言っていると思ったのか、笑顔を苦笑に変えた。
だが、僕が無言でいると、彼女は表情をも曇らせた。眉根に皺を寄せ、顎を引き、じっと僕を見つめている。
「ボケてんの?」
「真剣ですよ」とこれ以上ないくらい真面目な口調で答える。
僕らを繋いでいた見えない糸が再び、ぴんっと張るのがわかる。千切れるのでは? と不安になる程だ。金髪女性が頬を引きつらせ、口元に手をやる。しばらく逡巡するような間を置くと、回れ右をし、そのままゆっくりと歩き出した。
あまりにも自然な動作だったので、ぼうっとしてしまった。去っていく背中に向かって、まだ話の途中ですけど、と呼び止めようとしたその瞬間、金髪女性は地面を力強く蹴った。
陸上競技のような綺麗なフォームで走り出し、小さくなっていく背中を見つめながら、はっとする。
絶対に逃すわけにはいかない。
そう思って追いかけたけど、逃げられた。