まじ人間失格

文字数 1,929文字

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 マスクをした見ず知らずの女性から「見てた」と言われた。

 何を? 見られて困ることは何もない。

 警戒しながら立ち止まっていると、金髪女性はマスクを下にずらして笑顔を見せ、軽快な足取りで近づいてきた。まだ二十代前半くらいだろうか。化粧は薄く、つるりとした綺麗な肌をしている。素顔を見せることで、こちらに気を許してくれたような気がしたけど、僕は誰だかわからず、体が強張った。

「やるじゃん、最高だったよ」

 得点をあげたチームメイトを迎えるような、友好的な笑みを浮かべていた。そこでやっと、相手が何を言っているのかわかる。照れ臭く、僕もぎこちないけど笑顔を作りながら「ありがとうございます」と伝える。二人を繋いでいる緊張の糸がふっと緩むのを感じた。

 僕の弾き語りを聴いていて、それで声をかけてくれたのだ。

「っていうか君、結構若くない? 大胆なことするねえ」

 高校生の弾き語りを感心するように彼女は言ったが、ここで疑問が浮上してきた。金髪女性に見つめられるのでこちらも観察をする。

 彼女に見覚えがなかった。弾き語りをして十人の中に、いなかった気がする。

「あの、演奏はどうでした?」
「聞こえなかったよ。歩道橋から見てたから」

 さっぱりとした口調で言われ、「え?」と困惑する。

「じゃあ、歩道橋で何してたんですか?」
「だから見てたんだって」

 当たり前のことをどうして聞くのか? と言わんばかりだった。

「高みの見物をしていたわけですね」

 つまらない冗談を言ってしまった、と思ったけど、金髪女性は「そうそう、それそれ。まさしく」と目を細めた。

「あいつあたしに泣きついてきて、傑作だったんだよ。知るか早よ死ねって思ったわ」

 あいつとは誰のことか僕が訊ねるよりも先に、女性が右手をこちらに向けてきた。握手、というわけではなく、名刺が差し出されている。

 曖昧に頷きながら受け取り、確認すると、聞いたことのある企業名と、大宰治という人物の名前が書いてあった。かの文豪と一字違いだ。

「そいつもあいつの仲間でさ、まじ人間失格な奴なんだわ」
「恥の多い生涯なわけですか」
「恥だらけだよ。恥を恥とも思ってねえ、腐ったゴミみてえな女の敵サイコクズ野郎」

 罵詈雑言の肩書を持つ大宰治氏の名刺を受け取ったが、僕はどうすればいいのかわからない。「で、この人がなんなんですか?」

「そいつも去年まで大学生で、散々酷いことをしていた癖に、今は有名な会社に入ってのうのうと生きてるわけ。許せないっしょ? 憎まれっ子が羽ばたいてるわけ」

 羽ばたくじゃなくて、憚るですよ、と指摘を飲み込み質問をぶつける。

「でも、あの、言いにくいんですけど、それが僕とどんな関係が?」

 金髪女性が眉を歪め、軽蔑するような目線を僕に向ける。関係があるのか? という言い方がまずかっただろうか。子供に暴力を振るう大人や嘘をつく政治家と同様に、女泣かせの男も一緒に憎んであげれば良かったのか。

「やっちゃってよ。さっきみたいにさ。わたしの電話かけたタイミングも完璧だったっしょ。金渡せば許されるって思われんのムカつくしさ、また協力するから、これからもあいつらをガンガン地獄に落としてこうよ」
「どうしてお金のことを知ってるんですか!?

 思わず、大きな声を出していた。封筒の中身がお金だということは、僕と小此木さんと、封筒を入れたゾンビしか知らないはずだ。

「は? ちょっと待って。え? だって君、あいつから金を受け取ってたでじゃん」
「実はあなたが何を言っているのか、さっぱりわかってないんですよ。教えて下さい。電話ってなんのことですか? お金とゾンビ男は一体なんなんですか?」

 相手の怒りを買わないように、おそるおそる差し出すつもりで疑問を口にする。
 金髪女性は僕が冗談を言っていると思ったのか、笑顔を苦笑に変えた。

 だが、僕が無言でいると、彼女は表情をも曇らせた。眉根に皺を寄せ、顎を引き、じっと僕を見つめている。

「ボケてんの?」
「真剣ですよ」とこれ以上ないくらい真面目な口調で答える。

 僕らを繋いでいた見えない糸が再び、ぴんっと張るのがわかる。千切れるのでは? と不安になる程だ。金髪女性が頬を引きつらせ、口元に手をやる。しばらく逡巡するような間を置くと、回れ右をし、そのままゆっくりと歩き出した。

 あまりにも自然な動作だったので、ぼうっとしてしまった。去っていく背中に向かって、まだ話の途中ですけど、と呼び止めようとしたその瞬間、金髪女性は地面を力強く蹴った。

 陸上競技のような綺麗なフォームで走り出し、小さくなっていく背中を見つめながら、はっとする。

 絶対に逃すわけにはいかない。

 そう思って追いかけたけど、逃げられた。
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