美術室の秘密

文字数 3,469文字

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 移動中、森巣に話しかけることができなかった。頭の中で言葉を探すが、緊張して何を言っていいのかわからない。元気だった? と訊ねても、「元気だったよ」と返されるだけだろう。その後に、なんと続ければいいのか思い浮かばない。

 森巣はすれ違う生徒たちから、挨拶をされて気さくに返事をしていたが、僕に対しては無言だった。ずいずいと歩調を緩めずに歩いていく。結局僕は黙ってついて歩くことに専念した。

 二年生の校舎を出て、隣に建つ文化部の部室棟に入る。階段を上がり、四階にある美術室に到着すると、森巣は立ち止まった。首を回すのに合わせて、ゴキリゴキリと音が鳴る。

「悪いな、連れ出して。愛想良くするのは、結構疲れるんだ」

 ぶっきらぼうな口調でそう行って、森巣が振り返る。

 目つきが鋭くなり、奥歯に挟まってるものを気にするみたいに口を動かしている。顔の筋肉のストレッチをしているようだった。好青年の笑顔を作っているのは疲れるらしい。

 そっと美術室を見回す。

 ほんのり甘い油絵の具の匂いがする。昼休みだし、てっきり部屋の中には誰もいないと思っていたけど、女子生徒が一人いた。こちらに背を向けて席に座り、キャンバスに向かって絵筆を動かしていた。大きなヘッドフォンを着けているからか、僕らが入ってきたことに気付いていないようだ。

「彼女は?」
(かすみ)のことは気にしなくてい」

 そう言って、机の上にどかりと座った。
 霞という名前に聞き覚えがある気がするが、思い出せない。

 僕は躊躇しつつ、一番近くにあった椅子に引いた。離れていることに座ったからか、森巣が不思議そうな顔をする。が、すぐにどうでもいいかと眉を上げて、僕の顔を見た。

「寂しかったぞ。どうしてすぐに会いに来なかった」
「それは、担任が変わったりして、クラスもばたばたしていたから……」
「冗談だ」

 冗談? 何が? と逡巡し、寂しいと言ったことかと納得する。視線を泳がせ、うろたえる僕を見て、森巣が可笑しそうに笑った。

「そんな身構えるなよ。平が俺のことで騒いだら口封じをしなきゃいけないと思っていたから、俺は安心してるんだ」
「口封じ」
「冗談だ」

 森巣が振り上げた拳を柳井先生の顔や腹に叩き込む姿を思い出し、表情が強張る。
 緊張している僕を見ながら、森巣が「さて」と軽く手を叩いた。

「次は強盗ヤギをやるぞ」

 小学生がドッジボールをやろうと誘うような言い方だったので、「うん」と反射的に答えそうになる。

 わけがわからず、眉根に力が籠る。
 でも、すぐにまたからかわれているのだと気付いた。

「強盗ヤギもやっつけるわけ?」と軽口を返す。
「やっつけるって言い方はガキっぽいな。でも、まあ、そうだな。やっつける」

 森巣がにやりと笑い、八重歯を覗かせる。

「……もしかして、冗談じゃないの?」
「俺が冗談を言うと思うか?」
「さっき言ったじゃないか!」
「言ったか?」
「言ったよ、二回も!」
「あー」と漏らし、言った言った、と愉快そうに声をあげる。

 森巣の言動は何が本当で何が嘘なのかわからない。悪戯に弄ばれているようで、流石にむっとする。

「おい、霞。暗号は解けたか?」

 森巣が声を飛ばすと、ヘッドフォンをして絵を描いていた女子生徒が体を捻り、こちらを向いていた。彼女を見て、僕は思わず「あ」と声をあげてしまう。彼女は僕を見て目を剥き、慌てた様子でヘッドフォンを外した。

 長い艶やかな髪に大きな瞳、凛とした眉がすっと伸びていて、大人びた顔つきをしている。華があり、同じ制服を着ているのに、同級生の女子からは感じない気品のようなものが滲み出ていた。

「話があるから、連れてきたんだ。ここは人がいないだろ?」
「わたしがいるんだけど」
「問題はないだろ」
「ないけどさ。珍しい、っていうか、え、初めてじゃない? もしかして、彼が?」

 森巣に言われ、僕は「もちろん」と大きく頷き返す。僕は彼女のことを知っているし、大袈裟ではなく、全校生徒が知っているのではないだろうか。「知ってるよ」

 小此木霞(おこのぎかすみ)さんは、三年生で、この学校の生徒会長をしている。生徒会では地域の老人ホームや養護施設との交流も行っており、地方紙の新聞にも載ったらしい。全校集会で表彰されているのを見たこともあった。

「初めまして、平くん。三年の小此木です」

 にこりと笑って挨拶をしてくれたので、「二年の平です」と慌てて返事をする。小此木さんは口元をにまにまと緩め、森巣に視線を移した。

「良ちゃん、やっと友達作る気になったのね」
「うるさいな」
「必要ないって言ってた癖に」
「友達なら、俺にはたくさんいるじゃないか。休み時間にでも、教室を覗きに来るといい」
「あれはごっこでしょ? 上辺だけの作り笑いで」

 やれやれと言わんばかりに小此木さんがかぶりを振り、再び僕を見た。美人に見つめられ、どきっとしつつ、笑顔を浮かべる。「作り笑い!」と指摘されないかと心配になったが、小此木さんは僕を慰るような顔になった。

「色々と大変だったみたいね。怖かったでしょう」

「そうですね。でも、僕は何も」と返事をしながら、はっとして森巣を見る。僕は柳井の逮捕に貢献した。その件について、目立ちたくない、秘密にしておいてくれ、と森巣に口止めされていた。僕は秘密を抱え、その重さに苦しんでもいた。

「喋ったわけ?」
「大丈夫だ。霞から秘密が漏れることはない」

 悪びれる様子もなく、森巣がさらりと言う。

「一人だけ、ずるいじゃないか! 誰にも言えなくて、僕がどれだけ苦しんでたか!」
「おっ、ちゃんと約束を守ってたのか、偉いな」
「偉いな?」
「感心したぞ」
「感心した?」
「見直した? まったく、なんて言えば満足なんだ。意外と面倒臭い奴だな」

 顔をしかめる森巣を見て、呆気に取られ、思わず口が開く。金魚のようにぱくぱくと動くだけで、森巣を反省させられるような文句は思い浮かばなかった。

 森巣は痛くも痒くもないというすました顔をしている。ので、思わず縋るような気持ちで小此木さんを見てしまった。

「ごめんね、良ちゃんって基本的に顔以外悪いの。怒りっぽい、腹黒い、性格も口も酷い」
「おいおい、聞き捨てならないことを言うなよ」
「わたし、間違ったこと言った?」
「俺は頭も良い」

 やり取りを見ながら、この二人の関係はなんなのだろうか、と気になった。森巣が「良ちゃん」と呼ばれているし、互いに名前で呼び合っているし、「二人はどういう?」とおそるおそる訊ねてみる。
「改めて考えると、なんだろうね。わたしは優しいお姉さん的な? 優しいし、懐が深いし情に厚い、お姉さん」
「ただの腐れ縁だな」
「腐っても、縁」

 縁、という言葉はなんだか力強く、二人の関係がガッチリと結びついている擬音のように思えた。お付き合いしている雰囲気ではなさそうだが、ここでふと、ある疑いが急浮上してきた。

「小此木さんも、もしかして、性格に裏表があったりするんですか? 森巣みたいに」

 ぷっと空気に穴が開いたような音がし、その直後、森巣の豪快な笑い声が美術室に響き渡った。腹を抑えて体を揺らし、息苦しそうに悶えている。

「平くんがすっかり人間不信になってるじゃない」
「担任が動物を殺す変態だったんだ。無理もない」
「それだけが原因じゃないと思うんだけど?」

 その通り、と僕は力強く頷く。僕を大きく混乱させているのは君だ、犯人はお前だ、と告発するような気持ちで森巣を見据える。が、当然のように無視される。「そんなことより」と森巣は体を捻って小此木さんに向き直った。

「霞、あれは解けたか?」
「あれ? ああ、あれね」あれあれ、と小此木さんが弾むように口ずさみながら、制服のポケットに手を入れながらこちらにやって来た。

「早かったじゃないか。渡したのは今朝なのに」
「簡単だったから。電車で暇つぶしに解いちゃった」

 何の話をしているのだろうか、と覗き込むと、ルーズリーフに五十音表やアルバファベッド、数列や記号の表が書き込まれていた。その表のそばに、見覚えのある○×マークが書き込まれている。

「これって?」「そうだ」
「解けたんですか?」「うん」

 解けた解けた、と小此木さんが朗らかに頷く。
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