4 それ以外に望むものなんて
文字数 4,820文字
お世辞にも快適とは言えない環境のなかで、ほかのなににも増して隊員たちの頭を悩ませたのは、やはり給水の問題でした。
この時季、大陸北東部に位置するビスマス地方の内陸部は、しっかりと大地を潤すようなまとまった雨にはなかなか恵まれません。そのため、隊員たちは川や湖などから直接汲み上げる以外に、暮らしに必要な量の清水を確保する手立てを持ちませんでした。
さいわいなことに、洋上の船舶が寄港地で用いるのと同等の規格の給水設備が、この空飛ぶ船にも組み込まれていました。
考えうる最良の状況は、安全に飛空船を隠すことができる地理的条件を満たしつつ、なおかつそこに停泊したまま給水管が届くほどの至近距離に川なり池なりがある場所を見つけ出すことでした。しかし言うまでもなく、そんな都合の良い場所がおいそれと見つかるものではありません。そこで一行は、なによりもまず船の隠匿を優先した上で、できるかぎり当初の希望に適う環境を探し求めました。そしてその結果辿り着いたのが、現在地――巨大な崖どうしの狭間に作られた天然の砦――というわけでした。この地点から最寄りの川までは、直線距離にして約2エリム半。残念ながら給水管の長さは足りないものの、単純に船で飛んで往復するだけなら、ものの10分もかからないほどの好立地ではあります。
給水作業はいつも、船体外装を周囲の環境に溶け込ませる光学迷彩機能を稼働させつつ、ごく慎重に迅速に、乗組員みんなで役割を分担して手際よくおこなわれました。
飛空船を操縦することができるのは、隊のなかではマノンとグリューの二人だけです。けれどマノンが舵を取ろうとすると、どういうわけかいつも慌ててグリューがその役を買って出るので、そのうち船の舵取りは完全にグリューに一任されるようになっていました。
昼食を終えたミシスとノエリィは、先週グリューから贈られたばかりのビスマス名産品である派手なストールを頭に巻き、荷車に木製の樽を二つ載せて、川へと向かう支度を整えました。
船を出る前に再びマノンの部屋を訪ねると、今度はレスコーリアが扉の隙間から顔をのぞかせました。
マノンはまるで浜辺に打ち上げられたヒトデのように四肢をだらりと伸ばし、ソファに突っ伏して気絶しています。
「ほんとに二人だけで大丈夫?」小さなサンドイッチにかぶりつきながら、レスコーリアが小声でたずねます。
「平気だよ、これくらい。グリューは一人でもっとたくさんの荷物を運んできてくれるんだし」ミシスもひそひそ声でこたえます。
「でもあいつバイクじゃない」
「それでも一人だと大変だよ、きっと」
「あ、そうだ。ならあなたもリディアで水汲みに行ったらいいじゃない」
「もう! 無茶言わないでよ」
「あはは、冗談よ。……そうね。まぁ、そんなに遠くないし、行って帰ってくるだけなら問題ないかしらね。くれぐれも、用が済んだらすぐに戻るのよ。途中でなにかあったら、ぜんぶ放り出して飛んで帰って」レスコーリアは言いながら部屋に戻ろうとしますが、ふいにぴたりと扉を押さえて、二人の少女にサンドイッチを掲げてみせます。「これ、ありがとね。おいしいわ」
じりじりと照りつける太陽の下、力を合わせて荷車を引っぱりながら、ミシスとノエリィは崖の隙間から外へと出ました。
見渡すかぎり、波のように連続する
まるでその恐ろしい鳥たちに品定めでもされているような気がして、二人は急ぎ足で荒野を突き進みました。
なるべく平坦で障害物の少ない経路を見極めて進みますが、ちょっとした段差の上を通ったり小石や枯れ枝を踏みつけたりするだけで、荷車は意外なほどがたがたと揺れます。
「け、けっこう重いね」ミシスが額に汗を光らせます。
「そ、そうだね」ノエリィが気丈に笑います。
なだらかな小高い丘陵を二つほど越えると、青々とした低木や水草に彩られる小川が見えてきました。少女たちは安堵の表情を浮かべて、ゆっくりと丘の斜面を下っていきます。
川のほとりに荷車を置くと、二人は頭に巻いていたストールをほどき、靴と靴下も脱いでズボンの裾をたくしあげ、一目散に清流のなかへ飛び込みました。そして冷たい水でじゃぶじゃぶと顔を洗いました。
「あ~、生き返った~」ノエリィが大きく息をつきます。「船で飛んだらあっという間の距離だけど、歩いたらまあまあ遠かったね」
苦笑してうなずきながら、ミシスは今来た道を振り返ります。それから荷車の上に待機している二つのからっぽの樽を、呆然と眺めます。
「……今からあの人たちを水でいっぱいにして、またおなじ距離を帰るんだね」
「ミシスちゃん。そんなにはっきり言わなくていいんだよ。わかってるから。ほんとに」目が笑っていない笑顔でノエリィがたしなめます。「もうちょっと、
「異存なしです」
二人は水に足をつけたまま、
太陽は二人が船を出た時よりいくらか西に傾きましたが、この土地の無遠慮なほどにまばゆい午後は、まだまだこれからが本領といったところです。
川面を渡る涼やかな微風が、木漏れ日に染まる少女たちの髪をそっと揺らします。草樹の奏でる優しい調べと、眠気を誘うせせらぎの音色に耳を傾けながら、少女たちはしばしの安息に浸りました。
「……ここはきっとイーノが綺麗な声で歌ってそうだな」ミシスがぽつりと言いました。
「なにそれ。イーノの、歌?」ノエリィが首をかしげます。
「今朝、レスコーリアが言ってたの。アトマ族はイーノの波動にすごく敏感だから、自然がいっぱいある場所ではまるで大地が歌をうたってるみたいに感じられるんだって」
「へぇ~。なんか素敵だね」ノエリィが両目を細めます。「でも、ここでこうしてると、アトマ族じゃなくたって、耳には聴こえなくたって、体ぜんたいで綺麗なイーノの響きを感じられる気がするよ。わたしたちの丘とは比べものにならないくらいちょっとの緑だけどさ、こうやって元気な樹や草を眺めてると、ほんの少し家に帰ったような気がするよ」
「わたしも」
「早く元の暮らしに戻れたらいいね」
「うん。わたしも、それ以外に望むものなんて一つもないよ」
二人の心が同時に大空へと漂い出て、そのまま遠い故郷へと飛び立ちはじめたまさにその時――それまで川のまわりの樹で翼を休めていた小鳥たちが、ざざっと一斉に四散しました。
ミシスとノエリィはすぐさま顔色を変えて立ち上がり、周囲を見まわします。ごくりと息を呑み、聴き耳を立てて目を凝らし、樹木のあいだや川の上流、下流、対岸、そして自分たちの背後に広がる荒野まで、すべての方角を抜かりなく観察します。けれど、なにも変わったものは見あたりません。
背中を預けあう格好になった二人は、共に息を潜めて立ち尽くします。
「なにか見つけた?」張り詰めた声音でミシスがたずねます。
「ううん。そっちは?」
ミシスは首を振ります。
警戒を解かないまま、二人は素早く足を拭いて靴を履きました。軍靴の紐を結んで顔を上げたノエリィが、ふいに体の動きを止めます。そして眼鏡をぐっと押し上げて眉根を寄せ、川の遥か上流の方を指差します。
「あそこ、なんか暗い……?」
ミシスはノエリィの視線を追って、でこぼことした岩の一群がかたまっている川上のあたりを、両手で目の上に
影が落ちる仕組みを理解している者がみなそうするように、二人もまた反射的に首を曲げて空を見あげます。
その途端、ミシスとノエリィは同時に悲鳴を上げました。
肩を寄せあう二人が目を向ける先、ちょうど黒い猛禽が旋回しているのとほぼおなじ高度の空を、特務小隊が拠点としている機体と同型の飛空船が一機、非常にゆっくりとした速度で飛行しています。
それは、〈レジュイサンス〉の設計図を盗用して新生コランダム軍が建造した、〈バディネリ〉の名で呼ばれる巨兵搭載型飛空船でした。レジュイサンスが華々しい赤紫色の船体を持つのに対し、このバディネリはまるで月面のような
少女たちにとっては、まさにこの船こそが、ある日とつぜん飛来してかけがえのない暮らしを破壊した悪魔の翼、恐怖と暴力の象徴そのものでした。
とっさに顔を見あわせた二人は、すぐに腰を低くして荷車を木陰へ移動させ、自分たちも茂みのなかにその身を
ミシスとノエリィの個人情報関連の書類は、それぞれの顔や姿を映した写真類も含めて、すべてコランダム軍に押収されていることが報告されています。それに、以前交戦した際にカセドラを操縦していた女性の兵士は、直接ノエリィの姿を目撃してもいました。まさかあの高さからこんな草葉の奥まで見通すことはできないだろうとは思われましたが、それでも少女たちは念には念を入れて、髪の一本たりとも陽の下に晒さないよう努めました。
「あれ、わたしたちを探してるんだよね」ノエリィがミシスの耳もとでささやきます。「まさかこんな近くまで来るなんて……。やっぱりずっとビスマスに隠れたまま出てってないこと、把握されてるのかな」
「たぶんね。どうしよう、こんな時に。マノンさん気づいてるかな」
「レスコーリアが起きてたから、感知してくれてるはずだとは思うけど……」
ミシスは不安げにうなずきます。「あぁ、もう気がついていて、船の色を変えていてくれたらいいんだけど……」
二人は枝や草に全身をちくちくと刺されながら、明らかに地上の様子を偵察することを目的とした速度で飛行する灰白の船を、その船尾が水平線の向こうへ完全に消え去ってしまうまで、身動き一つせずに見届けました。この緊迫のひと時は、時間にしてわずか十五分ほどのあいだの出来事でしたが、二人にとっては優に一時間は続いたように感じられました。
空が再び平穏を取り戻したのを確認して、少女たちはもぞもぞと茂みから這い出ました。そして大急ぎで樽を満杯にすると、しっかりと蓋をして荷車に載せ、ストールを頭にかぶって逃げるようにその場を離れました。冷めやらぬ焦燥に急き立てられ、二人は樽がからっぽだった
乾いた骨のような色の敵船をじっと見つめた後だったので、鮮血のように生き生きとした色彩をまとう自分たちの船を目にした瞬間には、二人とも心の底から安心したほどでした。
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