22 ぼくらだけのお茶会
文字数 6,569文字
ドノヴァン・ベーム博士が暮らしているという孤島は、パズールの港から東へ200エリムほどの位置に浮かぶ小さな島であるようでした。しかし縮尺の小さな大陸北東部全図にもその存在がはっきりと描かれていることから、ある程度以上の面積を持つ島であることが見て取れます。
「おれたちが今いるのはこのあたりだ」グリューがビスマス地方南西部の山岳地帯を指差します。「で、目標の島はここ」指を滑らせ、海の上の小さな点まで移動させます。「ざっくり言うと、おれたちの現在地から大陸東岸までがだいたい500エリム、そして陸地を離れて海の上を200エリムだから、計700エリムのけっこうな空の旅になる」
「今日と明日の天気予報は……」ノエリィが窓越しに空を見あげます。
「両日とも快晴だったわね、たしか」クラリッサが言います。「今朝のラジオの予報が正しければ」
「まぁだいたい晴れ続きだろ、この時期は」グリューがうなずきます。「燃料の心配はしなくても大丈夫そうだ」
「問題は航路だね」マノンが腕を組みます。「できたら市街地は徹底的に避けて通りたいところだけど、ここから博士の島までの最短経路は、こうだ」
そう言ってマノンが指先で地図上に引いた直線は、見事にパズール都市圏上空を通過するものでした。
「昨夜発見された時に、こちらの船が光学迷彩機能を備えていることは知られてしまったと思う。だからこれまで以上に、空に向ける監視の目も厳しくなっているはずだよ」マノンは眉をひそめます。「それに、なにもコランダム軍が潜伏しているのはパズールだけとは限らない。この地方全域に点在する無数の町や村だって、怪しもうと思えばいくらでも怪しむことができる」
「いくらなんでも心配しすぎじゃないかしら」クラリッサがマノンの肩に手を置きます。「赤い水槽のなかを泳ぐ金魚が、そう簡単に見つかって?」
「それで言うと、青空のなかを飛ぶこの船は、青い水槽のなかを泳ぐ青い魚になるわけですね」身をかがめて地図を凝視しながらミシスが言います。「だしかに、余程のことがなければ気づかれなさそう。……だけどやっぱり、昼間の見晴らしのいいなかで誰かの視界に入るのって、なんかいやですね」
「じゃあ夜に飛べばいいじゃない」グリューの頭に座って棒つきの飴を舐めながら、レスコーリアが提案します。「黒い水槽のなかを泳ぐ黒い魚の方が、もっと見つけづらいんじゃないの」
「そうだね」マノンが腕をほどき、一同を見渡します。「無闇にもたついて消耗するより、今は迅速に目標地点へ到達することを優先するとしようか」
こうして一行は、闇が最も深くなる頃合にパズール上空を通過できるよう時間を逆算し、この日の夜半にベーム博士の島へ向けて出発する段取りを組みました。その時刻まで飛空船はめいっぱいに太陽イーノの燃料を蓄え、隊員たちもそれぞれに仮眠をとるなどして英気を養うことにしました。夜明け前にしばらく眠っていたレスコーリアが一人で操舵室に残り、周囲の監視に当たってくれることになりました。
各員が操舵室を後にするなか、最後にそこを出たミシスが、カネリアの鉢に腰かけてぼりぼりと飴を噛んでいるレスコーリアに手を振りました。
「じゃあよろしくね、レスコーリア」
「まかへときなはい。ひゃんと休むのよ」
操舵室の階段を降りるなり、グリューが一目散に駆けだしました。
「あっ、待ってよ!」
クラリッサがその背中を大声で呼び止めます。しかし青年は振り返ることなく一心不乱に疾走し、自分の部屋に飛び込むとすぐにドアを閉じて鍵をかけました。
いったい何事が起ったのかと、ミシスとノエリィ、それにマノンも連れだって、青年の部屋の前までやって来ました。クラリッサは閉ざされた扉をどんどんと叩き、おそらくその内側で胸を撫で下ろしているはずの青年に呼びかけます。
「ねぇ、なんでそんないじわるするの? 開けてよ、グリュー!」
「やなこった」青年は息を切らせてこたえます。「おれは眠るんだ。一人でな」
「え~」両手をばたばたさせて、少女は不満を表明します。「じゃああたしどこで寝ればいいのよ」
「どこででも寝るがいい。この部屋以外の、どこででもな」
「ひどい。それが乙女に対する言葉なの?」
「乙女は男の部屋に押し入ろうとはしないものだ!」
やれやれと肩をすくめて、マノンも自室へ引き上げました。ミシスとノエリィは、ドアに頭を押しつけてうなだれているクラリッサのそばへ歩み寄りました。
「いじわるですね、グリュー」ノエリィが慰めます。
「きっと照れてるんですよ」ミシスが続きます。「あの人、ああ見えてけっこう恥ずかしがり屋だから」
「聴こえてるぞ!」ドアの向こうから青年が一喝します。
二人はこっそり舌を出して笑うと、肩を落とすクラリッサに寄り添ってその場を離れました。
飛空船レジュイサンスには、船尾側の二階部分に左右
ミシスたちはクラリッサの背を支えてその部屋の前まで連れてきました。
「元気出してください」ミシスが優しく励まします。
「クラリッサさんは、グリューのことがほんとに大好きなんですね」ノエリィがにこにこしながら言います。
「ええ、もちろん!」途端にクラリッサは笑みをこぼします。「初めて会った時から、あたしグリューのことが大好きになったの」
「それっていつのことですか?」ミシスがたずねます。
「よくぞ訊いてくれました」クラリッサが胸の前で両手の指を絡ませます。「……っと、その前に」
ミシスとノエリィは一緒に首をかしげます。
「二人は紅茶、好きかしら」
「はい」少女たちはうなずきます。
「実はあたしが愛飲している茶葉を持ってきているの。もしまだ眠くないようだったら、少しご一緒しない?」
「喜んで!」とつぜんのお誘いを受けた二人は、目を輝かせてこたえました。
三人は茶葉と茶器を携えて一階の調理場へ降りました。そしてクラリッサの流儀で丁寧に淹れられた紅茶を盆に載せて、すぐ隣の休憩室へ移動しました。
大きな丸窓から燦々と光が射し込む小部屋のなか、少女たちはそれぞれにカウチや椅子に腰かけてテーブルを囲みます。
「こんなすごい紅茶、飲んだことない……」眼鏡を湯気で真っ白に曇らせて、ノエリィが唸りました。
「ほんと……」ミシスもうっとりと息をつきます。「疲れが一瞬で吹き飛んじゃった」
「そうでしょう、そうでしょう」クラリッサが胸を張ってうなずきます。「うんと小さい頃から、母さまやメイドたちに教え込まれてきたの。あたし自分では、顕術を扱う能力よりも紅茶を淹れる腕前の方を、むしろ自慢に思ってるわ」
「グリューみたいですね」ミシスが微笑します。「グリューも前に言ってました。本当は研究より料理の方が好きなんだって。実際、ごはんを作ってる時のグリューはいつもすごく楽しそう」
「そうそう! 彼との出逢いの話だったわね」カップをソーサーに戻して、クラリッサが手を叩きます。
「お二人は、許婚どうしなんですよね?」ノエリィが改めてたずねます。
「ええ、そうよ。初めて彼と引きあわされたのは、あたしが8歳で、グリューが11歳の時」そっと目を細めて、クラリッサが話しはじめました。「あたしの家に、彼がご両親に連れられて訪ねてきたの。将来の夫婦の初顔合わせを兼ねた、両家水入らずのお茶会を開くためにね。あたし、その時にも母さまたちと一緒に紅茶をみんなに振舞ったわ。……あの日のこと、あたしなにからなにまでよく覚えてる。緑の草原みたいな髪をぺったりと整えられて、ぴかぴかの礼服に身を包んだ素敵な男の子が、あたしの淹れた紅茶をとても上品に、おいしそうに、飲んでくれた……」
その光景を思い描いて、ミシスとノエリィは口もとをほころばせます。
「そのうち、そういう集いの常として、おとなたちの世間話や政治談議が白熱しはじめると、あたしたちは二人で遊んできなさいって申しつけられたわ。それでグリューとあたしは、一緒に応接間を出たの」
聴き手の二人は揃って身を乗り出し、続きを待ちます。
「どこへ行くの、ってあたしがたずねると、彼はにっこり笑って、きみんちの厨房はどこだい、って訊いてきたの。それであたし案内したんだけど、彼ったらそこに着いた途端くるりと振り返って、さっききみが淹れてくれた紅茶はなかなか良かった、でもきみの母上が出してくださったあの茶菓子、あれはちょっといただけない、なんて大真面目な顔で言うじゃない。そして急にあたりをきょろきょろ見まわすと、ここにある食材や道具を少し使わせてもらってもかまわないかな、なんて言いだすから、あたしわけもわからないまま黙ってうなずいたわ。そしたら彼、上着を脱いでエプロン代わりにハンカチを胸もとに掛けると、てきぱきと材料を見繕って、あっという間にものすっごく綺麗なクレープを焼いちゃったの。そうしてできあがったそれに粉砂糖をかけてドライフルーツとハニーナッツとホイップバターを載せて、魔法にかけられたみたいにぽかんと立ち尽くすあたしに向かって、彼はこう言ったわ。さあもう一度さっきの紅茶を淹れてよ。このお菓子の方がさっきの茶葉には絶対に合うからさ。そしたらおとなたちには内緒で、ぼくらだけのお茶会をしよう、って」
思わずノエリィはミシスの手を取ってぎゅっと握りました。
「そして厨房の片隅で二人きりのお茶会を始めた時には、あたしもうすっかり彼に恋していたわ」クラリッサの頬がほんのりと赤く染まります。「あぁ、あたしこの人と一緒になれたら、きっと一生幸せになれるって、確信したの」
「かわいいお話」ミシスが胸に手を置いてほほえみます。
「でも、なんだか信じられないよ」ノエリィが苦笑します。「まさかあのグリューが、そんなお茶目な紳士だったなんて」
「うふふ。今の彼のあのぶっきらぼうな感じは、世間に対してちょっとばかり斜に構えすぎちゃった結果身につけられた仮面、いわゆるただの若気の至りってやつなのよ」クラリッサがしたり顔でささやきます。「本当の彼は、今でもとっても優しくて、心の底からの紳士なの。あたし知ってるんだから」
そうしてお喋りに花を咲かせるうちに、三人はカップもポットもすっかり
「ああ、ほんとにおいしかったです。ありがとうございました、クラリッサさん」
ミシスが丁重に礼を述べると、ノエリィもそれに続きました。
「どういたしまして。今度また淹れてあげるわね」クラリッサが嬉々として応じます。
「こんな夢みたいな紅茶があるってこと、お母さんやピレシュにも教えてあげたいな」ノエリィが言いました。
「お目にかかる機会があれば、いつでもご馳走させていただくわよ。たしかノエリィのお母さんというのは、エーレンガート女学院の院長先生のことよね。ピレシュというのは……」
「わたしたちの親友なんです」ミシスが誇らしげに言います。「とっても立派な女の子なんです。わたしの目標なんです」
「へぇ、そうなの。あなた、素敵な友だちに恵まれてるのね」
「はい。それだけは自信があります」
隣でノエリィが照れくさそうにうつむきます。
「それで、そのピレシュさんは今どうしてるの?」
「今もわたしたちの学院のある丘で暮らしています」ノエリィが説明します。「こないだの騒動の時に体調を崩して寝込んでたんですけど、最近すっかり良くなって、お母さんと一緒にがんばってくれています」
「それはなによりね。いつかお会いしてみたいものだわ」
「ぜひ会ってください! ものすごく頭の良い子なんです。話すと、きっと面白いと思います」
即席の茶会はそこでお開きとなり、三人はそれぞれ出発時刻まで休むことにしました。
「あたしも一眠りするわ。二人はどうするの?」クラリッサがたずねます。
「わたしたちもちょっと寝とこっか」ノエリィが退屈そうに言います。
「なんかあんまり眠くないけど、そうだね、休んでおいた方がいいね」ミシスが同意します。
「じゃ、また後でね」
「はい。ごちそうさまでした。おやすみなさい」
クラリッサの部屋のドアが閉まるの見届けると、二人は自分たちの部屋の前までやって来ました。
ふいに、ミシスが足を止めます。
「どうしたの?」ドアの取っ手を半分回していたノエリィが振り返ります。
「うん……なんていうか、昨夜ざわざわした気持ちでリディアに乗ってたから、明るいうちに一回、毎朝の時みたいに静かな心で起動させておきたいなって、急に思って……」
「え? それって、今から乗りにいくってこと?」
「ちょっとなんか、そうしておきたい気分。うまく言えないけど、歯磨きせずに寝たくない、っていうのに近い感じ」
「なるほどね」ノエリィは取っ手を元の角度に戻します。「なら、わたしもついてくよ」
「ううん、一人で平気。ノエリィは先に寝てて。わたしもすぐ戻るから」
「そっか。わかった」
ミシスは部屋に入っていくノエリィを見送ると、耳に痛いほどの静寂に包まれる飛空船のなかを、一人歩いてリディアのもとへ向かいました。
操縦席に体を滑り込ませ、座席に背を預けて深く息をつくと、そっと躯体の胸の扉を閉めます。
そして、柔らかな青い光に全細胞を浸し、幾千の鈴の音に耳を澄ませます。
まもなく、いつものように、一人の少女と一体の巨兵は、互いに融けあって一つの存在になります。
「リディア」ミシスは小さくつぶやきます。「みんな寝てるね。とっても静かだね」
巨兵はもちろんなにも返事をしません。
ただ黙して、その身のすべてを胸の内にいる少女にゆだねています。
昼の光に満たされる格納庫の様子を、ミシスはリディアの視界を通してぼんやりと眺め渡しました。
短い夢のなかで、少女は故郷の丘の木漏れ日の道を、ノエリィとピレシュと三人で自転車に乗って走りまわりました。そして雑木林のなかの秘密の花園までやって来ると、地面にブランケットを敷いてお弁当の包みをほどきました。
時刻はちょうど正午を回ったところ。
真上に浮かぶ太陽が、緑の丘と無垢の少女たちに、その恵みを注いでいます。
お弁当やお菓子の匂いに誘われたのか、少女たちのまわりに小鳥や蝶や小さな虫たちが楽しげに近寄ってきます。
ふと、そのなかに、黄色と黒の縞模様の鮮やかな一匹の蜂が、鋭い羽音を響かせて飛んで来るのが見えます。
こんもりと膨らんだお尻の先端に、奇妙なほど長く尖った銀色の針が光っています。
その蜂が、談笑しているピレシュの鼻にとまろうとしました。
「危ない!」
ミシスはとっさに手を伸ばして蜂を追い払います。
その瞬間、ごんっという鈍い音がして、ミシスは慌てて目を覚ましました。
すぐに意識を取り戻し、現実の自分が置かれた環境を確認します。
ひざまずく体勢で静止していたリディアの右腕が、元あった位置から大きく移動しています。その手は、昨日積み込まれて床に置かれたままになっていた碧い装甲版に接触しています。
躯体の姿勢を戻して操縦席から飛び出すと、ミシスは大きなあくびをしました。
「はあ、いけない。リディアのなかで寝ちゃうとこだった」ぱしんと両手で頬を叩きます。「気持ち良かったけど、ちゃんとベッドで寝なきゃね」
頭上を振り仰いで巨大な分身にほほえみかけてから、少女は足早に自室へと戻っていきました。
宵の訪れまで、時間はまだじゅうぶんにあります。
寝ずの番を買って出たレスコーリアは、あからさまに退屈を持て余して、操舵室内をわけもなく飛びまわったり、カネリアの芽に水をあげたり、新聞や雑誌を流し読みしたりしながら、空が黒く染まってみんなが起きてくるのを待ちました。
(ログインが必要です)