14 もうほんとに、大丈夫だから
文字数 6,384文字
マノンは研究の仕上げをするためにコーヒーをポットごと抱えて自室に引き上げていきました。グリューは少し体を動かしたいと言って外に出て、船の周囲をぶつぶつとひとりごとを唱えながら歩きまわりました。しばらく眠ることにしたレスコーリアは、陽射しが注いで温かくなっているリディアの頭頂にクッションを敷き、そこに猫のように体を丸めました。
ミシスとノエリィは操舵室にテーブルを置いて、日課である勉強に取り組みました。
「どんな人なんだろう、グリューの許嫁の人って」手もとのノートに視線を落としたまま、ノエリィが言いました。
「わたしも今そのこと考えてた」ミシスもまた教科書をじっと眺めながら応じます。「気になるよね」
「気になるよねぇ」
二人は同時に顔を上げ、にやりと笑みを交わします。
「あ、でもさ。昨日のレスコーリアの話からすると、その許婚の人も相当な名家の出身なんだろうね」ミシスが言います。
「騎士団の偉い人たちはみんな王家と繋がりが深いとかなんとかって、将軍も言ってたしね。きっとすごい人なんだろうね」
「ますます気になっちゃうね」
鉛筆を鼻と上唇のあいだに挟んで、ノエリィが背伸びをします。「ふわぁ、今日はなんだか身が入らない」
「わたしも……」
小さくあくびをしながら、ミシスは教科書を閉じて席を立ちました。そして操縦席の背に両手をつき、ぼんやりと窓の外を眺めました。
「なにか変わったことある?」おなじくノートを閉じて、ノエリィがたずねます。
「ううん」ミシスは首を振ります。「いつもどおり、なにもないよ。ただ風が吹いて、鳥が飛んで、空が青くて、崖が黙ってるだけ」
ノエリィが壁の時計を見あげます。「まだ昼前か」
「夜まではずいぶんあるね」
「そうだね。じゃあぼちぼち、昼ご飯の支度でもしよっか」
「うん。そうしよう」
返事をしてミシスが振り返った、その時でした。
突如、操縦機器に組み込まれている鉱晶通信器のベルが、けたたましい音で鳴りはじめました。
座っていた椅子を蹴飛ばすようにノエリィが立ち上がり、ミシスのそばへ駆け寄ります。「なにこれ!? いったい誰から……」
「わ、わからない」ミシスは血相を変えて機器を睨みます。「これは、えっと……知らない番号だ。とにかく、みんなを呼ぶね」
艦内放送で召集をかけると、まもなくマノンが階段を駆け上がってきました。続いて、なにか小さなものがたくさん詰まった布の袋を手に提げたグリューと、クッションを抱えた寝惚けまなこのレスコーリアが、ほぼ同時に駆けつけました。
操縦席に着いたマノンは全員の顔を見まわし、慎重に身構えつつ通信を開始しました。
ぴたりとベルの音が鳴り鳴り止みます。
唇に指を一本押し当てて、マノンが一同に沈黙を要求します。
「……あら? これ、繋がったのかしら?」ややあって、明るく柔らかな女性の声が、通信器からひょっこりと飛び出してきました。「もしも~し。みんな、そこにいるの? ノエリィ? ミシス? マノンちゃ~ん?」
ノエリィとミシスが特大の笑顔を弾けさせます。
「お母さん!」ノエリィが歓声を上げます。
「ハスキル先生!」ミシスも続きます。
特務小隊の一行は、一斉に深い安堵の息をつきました。
「よかった。ノエリィもミシスも、そこにいるのね?」ハスキルが嬉しそうにたずねます。
「うん、いるよ!」ノエリィが嬉々として応答します。「ミシスも、マノンさんたちも、みんなここにいるよ」
「先生、お久しぶりです」マノンは胸に片手を添えて一礼します。「驚きました。かれこれ一カ月ぶりですね」
「もうそんなになるのね」伝話器の向こうで、ハスキル・エーレンガートは感慨深げに言いました。「いきなりかけてごめんね。連絡する前には王国軍の人を通じて日時を指定するようにって、言われてはいたんだけど……」
「なにかあったのですか?」マノンがわずかに眉をひそめます。「まさか、なにか緊急の事態でも……」
「緊急……そうね、それに近いかもしれない。どうしても今すぐあなたたちに報告しておきたいことがあって、警護の人に携帯伝話器を用意していただいたの」
「今どちらにいらっしゃるのですか?」
「前回とおなじく、タヒナータの病院にいるわ」
途端に一同の表情が曇りました。とりわけミシスとノエリィの二人は、まるで傷口に触れられた人のように顔を歪めます。
「それって……」ミシスがうめくようにつぶやきます。「あの、ピレシュが入院してる……」
「してる、じゃない。してた、ね」
出し抜けに、凛として澄んだ少女の声が、あちら側から届けられました。
その声を耳にした途端、ノエリィはその場で跳ね上がって息を詰まらせ、ミシスは両手で自分の顔を覆いました。
「ピレシュ……!」二人は共に鼻声でその名を呼びます。
「なによ、その声」ピレシュが吹き出します。「二人とも大袈裟ね、相変わらず」
「ううっ……だって……」ノエリィが鼻をすすります。
少女たちを囲むマノンやグリューたちが、顔を見あわせて微笑します。
「もう良くなったの?」ミシスが目もとを拭いながらたずねます。
「ええ、おかげさまで」少々照れくさそうにピレシュがこたえます。「ずいぶん心配かけたみたいね。すまなかったわ」
「ううん。ピレシュこそ、大変だったね」
「あなたたちほどじゃないわよ」ピレシュが吐息をつきます。「あらかたの事情は、先生から教えていただいたわ。あなたたちが巻き込まれてしまった状況に比べれば、わたしなんか寝てただけだもの」
「もお。そんなこと言わないでよ」ノエリィが唇を尖らせます。「ピレシュは自分に厳しすぎるのよ。わたし、小さい頃からず~っと思ってたわ。ピレシュはそのうちばったり倒れちゃうにちがいない、って」
「あら。わたし、そんなふうに思われてたの?」
「そうだよぉ」
「ふふん」ピレシュは鼻で笑います。「わたしもまだまだね。ノエリィにまで、そんな心配されてるようじゃ」
「なによ、その言いかた!」
「冗談よ」ピレシュはほほえみます。「……ごめんね。もうほんとに、大丈夫だから。これ以上、寝てばっかりはいられない」
「あんまり無理しちゃだめだよ」ミシスが心配そうに言います。「ピレシュが元気でいてくれないと、わたしたちも元気ではいられないんだから」
「ありがとう」
がさごそと物音がして、再びハスキルが伝話器に顔を近づけたのが伝わってきます。
「……と、いうわけだったの」誇らしげにハスキルが言います。
「たしかにこれは、緊急事態でした」マノンが笑顔でうなずきます。「本当に、退院できてよかった。ピレシュ、聴こえるかい? マノンだ。しばらくぶりだね」
「はい」平坦な調子で少女は返事をします。「ご無沙汰しています。ディーダラス博士」
「きみが快復したという知らせは、この一ヵ月のあいだでいちばん素敵なニュースだよ」
「ありがとうございます」少女はかしこまって礼を述べます。「
「なにを水くさいこと言うんだ。いいんだよ、そんなこと」
その後は主にマノンとハスキルが交信役を務め、ここ一カ月間の双方の動向についての情報が交換されました。といっても、話題の大半はエーレンガート女学院の再開計画に関するものでした。早くも近日中には校舎の再建工事が始まる予定なのだと、ハスキル学院長が説明しました。
「募金がたくさん集まってくれたの」しみじみとハスキルが言います。「町のみんなのおかげで、たくさんの援助を受けられることになったのよ」
「タヒナータには卒業生の方も多いでしょうしね。先生の人徳ですよ。みなさん、先生のために一肌脱ぎたいとお考えでしょう。もちろん僕もその一人ですが」
「ありがとう、マノンちゃん。本当に、ありがたいことだわ……」
「ねぇ、でも校舎の工事って、けっこう時間も手間もかかるんじゃない?」ノエリィが惨状を思いだして顔をしかめます。
「基礎がしっかり残っていたから、そこまで大掛かりな工事にはならないだろうって、建設業者の方々はおっしゃってたわ」ハスキルが言います。「大変なのはむしろ、学院周辺の整地の方ね」
そのなにげない一言に、特務小隊の一行は密かに身をこわばらせます。
「私も業者の方々と一緒に何度かあたりを見てまわったけど、とくにあの雑木林の荒れかたが酷かった。こんなのは今まで見たことないって、業者のみなさんも驚いてらしたわ。いったいなにをどうやったら、大量の樹がこんな状態になるんだって……」
「へぇ。そんな酷かったんだ」平静を装ってノエリィが言います。
「あの騒ぎの最中、私たちが校舎に残っていた時、異変を察知した警備兵の人が戻ってきてくれて、私とピレシュを二人とも担いで避難させてくれたの。だからその後、あそこでどんなことが起こったのかまるでわからないのだけど、あの現場を見るかぎり、あなたたちが無事でいられたのは本当に奇蹟だったんだなって思ったわ」
「ええ。僕らは、実に幸運でした」ミシスの方へ意識を向けながら、しかし顔の向きは変えずに、マノンが言いました。
それからしばらくのあいだ、他愛のない近況報告がいくつか交わされました。そして改めて互いの無事を喜びあい、明日からの平穏を祈りあうことで、この日の通信は締めくくられる運びになりました。
「ノエリィ、ミシス」ハスキルが静かに娘たちの名を呼びました。「毎日、あなたたちの声が聴きたくてたまらなかった」
「わたしもだよ」
「わたしもです」
「二人ともちっとも変わってなくて、安心したわ。また明日からもがんばれそうよ」
「わたしたちもおなじ気持ちです、先生」ミシスがノエリィの手を握りながらこえたます。「それに、今日はとびっきり良い知らせも聞けたし」
「ほ~んと。やっと肩に乗ってた重しが取れた気分だよ」ノエリィが晴ればれとした表情で頭を揺らします。
「ありがとう、二人とも」ピレシュが微笑混じりに言います。「わたし、これからもできるかぎり先生のお力になっていくから」
「うん!」ミシスが大きくうなずきます。「ピレシュがいてくれたら、百人力だよ」
「学院に残ってくれる生徒たちや、あの頼りになるゲムじいさんもいてくれるから、千人力よ」ピレシュが笑います。「ね、先生?」
「そうそう!」ハスキルが力強くこたえます。「私たちみんなで力を合わせてやっていくからね。あなたたちも、またみんなで再会できる時まで、互いに助けあって、元気に過ごしてちょうだいね」
「はい!」一同が声を揃えました。
通信装置の上にそっと手を置き、マノンは相手側が通話を終了するのを待ちました。
しかし直後、思いがけずピレシュが最後の一言を発しました。
「ディーダラス博士。ミシスとノエリィを、くれぐれもよろしく頼みます」
「えっ? ……あぁ、もちろんだとも。任せておいて」
ピレシュはその返答に対してはなにもこたえませんでした。そのままぷつりと交信は途絶えました。
こうして再び、お馴染みの荒野の静けさが戻ってきました。
「このへんで淀んでたなにかが、すっかり消えちゃったみたい」ミシスが自分の胸のあたりを両手でさすりました。
「よかったな」グリューが微笑します。
「うん。こんな嬉しいことってないよ。あ~、安心したらお腹減ってきちゃった」
「そうだね。じゃあこのままみんなで、ピレシュの快気祝いといこうか」マノンが席を立って提案します。
「いいですね!」ノエリィがぽんと手を叩きます。「わたし、支度してきます。お母さんの声を聴いたらお母さんの味付けの料理が食べたくなったんで、なにか作ってきます。みんなもそれでいい?」
全員快く賛成しました。
ミシスも一緒になって調理室へ向かい、三十分ほどしてから二人は食事を載せた盆を抱えて操舵室に戻ってきました。室内ではマノンとレスコーリアが談笑していましたが、グリューの姿が見あたりません。
「あれ? グリューはどこ?」ミシスがきょろきょろとあたりを見まわします。
窓辺に浮かぶレスコーリアが、黙って外を指差します。
見ると、迷彩模様の甲板の上に、青年がぽつんと一人で立っています。その手には、細長い木の棒が握られています。足もとには彼が先程まで持っていた謎の袋が置かれています。
怪訝そうに眉を寄せて、ミシスとノエリィは青年の様子を観察しました。袋のなかから、子供の握り拳くらいの大きさの石ころがいくつもこぼれ出ているのが見えます。青年はかがみ込んでその一つを拾い上げると、ひょいと空中に放り投げるやいなや、思いきり棒を振ってそれを引っぱたきました。打ち出された石ころは、崖と崖のあいだの青空に吸い込まれ、やがて音もなく乾いた砂地を叩きました。
表情も言葉もなく、青年はその動作をもくもくと反復しました。そのたびに、こーん、こーん、というどこか物悲しい音が、岩壁の狭間に反響します。
「……なにやってるんですか、あれ」ミシスがマノンにたずねます。
「さぁてね」マノンがにやりとします。「緊張でもほぐしてるんじゃない? ずいぶん気が立ってるみたいだし」
「しょうがないわね、まったく」レスコーリアが肩をすくめます。
「驚きましたよ。グリューに許婚がいたなんて」テーブルクロスを広げてノエリィが言います。「それも、そんな偉い人が相手だなんて」
「助手くんは、ああ見えて良いとこのお坊っちゃんだからね」皿を並べながらマノンが言います。
「発顕因子の濃い一族どうしで結婚するしきたりなんですよね」ミシスが言います。「勝手に結婚相手を決められちゃうなんて、わたしだったら、正直ちょっと困るな……」
「クラリッサさんっていいましたっけ。どんな人なんですか?」ノエリィがたずねます。
「かわいい子だよ。助手くんにはもったいないくらい。歳はまだ若くて……たしか17とか18とか、そのあたりだったかな。ノエリィやミシスより、ちょっとお姉さんだね」
「そんな歳で騎士団の副団長なんて立場に就いてるんだ」ミシスがぽかんとした顔でつぶやきました。
「別にかわいくないわよ。あんな自己中の高飛車娘」レスコーリアが小声で吐き捨てました。
「へ?」ノエリィが首をかしげます。「もしかしてレスコーリアは、クラリッサさんと仲がわるかったりする?」
「僕はよく似てると思うけどなぁ、二人は」ぼそっとマノンがつぶやきました。
「だぁれが似てるですって? あんなじゃじゃ馬と一緒にしないでちょうだい!」
背中の羽をびしっと広げてレスコーリアが叫びました。それと同時に、渾身の一振りを空振りしたグリューが勢い余って派手に尻餅をつきました。
「やれやれ……」マノンが苦笑混じりにかぶりを振ります。「みんないろいろあるもんだねぇ。ともかく、今夜の補給が何事もなく済めばいいけど」
「そうですね」グラスを卓上に整列させて、ミシスが言いました。「じゃあグリューも呼んできますね」
全員が着席したところでいつものように〈大聖堂〉の印が結ばれ、ピレシュの快復とハスキル先生の健勝、そして学院再建の始動を祝う言葉とイーノへの感謝がマノンの口から唱えられました。
「おっと!」グラスに口をつける寸前に、マノンが手を挙げて一同を制します。「いけないいけない、忘れるところだった。われらがグリュー・ケアリくんが愛しの許婚と再会叶うことにも、乾杯!」
「やめてください」にやにやしている女性陣を睨みつけながら、青年が唸りました。「頼むから、やめて、ください」
それ以降むっつりと押し黙ってしまった青年を尻目に、女性たちは愉快な
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