36 みんなどこへ行くの
文字数 6,280文字
勝敗が決するたびに盛大な歓声と拍手が送られるのが慣習となっている剣術大会において、しかしこの夏の一般の部決勝戦の結末の場に出現したのは、ほとんど厳粛ともいえるほどの静寂でした。
コランダムの主都タヒナータ、その中心部に位置する野外劇場にこの日集まった三千人を超える観客は、皆一様に息を呑み、叩き鳴らそうと構えていた手の
審判員に
彼の手に剣はありません。
つい数秒前まで彼が振るっていた剣は、まるで陸に打ち揚げられた魚のように
男性は左手で右腕を押さえ、顔じゅうに
舞台の真ん中に、汗一つかかず静かに直立している少女の姿があります。
耳にかかるあたりでまっすぐに切り揃えられた白金の髪が、さらさらと風に揺れています。磨き抜かれた氷のように澄み渡る緑の瞳が、雲のない静かな空を映しています。肌に密着する純白の道着と、おなじく真っ白な
少女のかたわらに歩み寄った審判員が、胸が破れんばかりの大声で宣言します。
「優勝者、ピレシュ・ペパーズ!」
その言葉を待ち侘びていた観衆は、一挙に大歓声と拍手を炸裂させました。
しかし怒涛のように注がれる賞賛を浴してもなお、勝者の少女は顔色一つ変えません。舞台中央に戻ってきた試合相手と東西南北の客席に向かって頭を下げると、まるでたまたま通りがかっただけの人のように淡泊な足取りで舞台を降り、一目散に選手控室へ続く門へと去っていきます。
優勝者に対して熱視線を向ける出場者たちが、すれちがいざまに拍手や称賛の言葉を投げかけます。ここでも少女は表情を変えることはありませんが、会釈だけは一人一人に向かって律儀に返しつつ、黙々と歩を進めます。
「相手、コランダム騎士団のなかでも有数の剣士だったんだろ?」
少女を遠巻きに眺めながら、二回戦あたりで敗退していた一人の出場者の男性が、横にいた他の出場者に声をかけました。
「ああ。今年の優勝の有力候補と目されていた使い手だ。なんでも、元は王国軍の兵士だったんだと。最近こっちに寝返ったばかりって話だ」
「どうりでこの辺じゃ見かけない剣捌きだったんだな。いやしかし、痛快だ。その王国流の剣を、我らが祖国の伝統の技の使い手が、それもあんな若い女性が、ああまで完璧に打ち破るとはな」
「まったくだ」
控室に通じる廊下にピレシュが足を踏み入れた途端、そこからずっと固唾を呑んで試合を見守っていたハスキルが、手にタオルを握りしめて少女の目前へ駆け寄りました。
「すごい……本当にすごかったわ、ピレシュ!」
ハスキルはうっすらと目に涙を浮かべて、鳴りやまない歓声に負けないよう大きな声で教え子を褒め称えました。
「優勝、おめでとう!」
「ありがとうございます、先生」ここでようやく年相応の素直な笑顔を見せた少女は、ふかふかとした清潔なタオルと、それを持たせてくれる恩師の小さくて柔らかな手を、両手でそっと握りしめました。けれど渡されたタオルが少女の肌に触れることはありません。拭うべきものがどこにもなかったからです。
舞台に背を向け、雪崩のように押し寄せ続けている喝采にはまるで興味を示すことなく、ただ恩師の姿だけを見つめながら、少女は元から乱れていなかった呼吸をさらに鎮め、この後に予定されている表彰式や閉会式のことを考えて、一人胸中でうんざりしていました。
会場に異変が起こったのは、その直後のことでした。
まるで地震の直撃を受けた海の表面のように、周囲一帯の空気が激しくうねりました。
近くにいた人々に混じって、ピレシュとハスキルも舞台袖まで出ていきます。
劇場内の、ピレシュたちのいる位置から舞台を挟んでちょうど真向いの観覧席の最上段に現れた人物の姿に、会場にいる全員の視線が注がれています。
ハスキルの前に立っていた中年の男性が、弾けるような雄叫びを上げます。
「将軍だ! ゼーバルト様だ!」
その一声を皮切りに、出場選手たちのあいだに熱気の輪が広がっていきます。
最初に声を上げた青年も、それに続いて騒ぎはじめた選手たちの多くも、首に緑色のスカーフを巻いています。
ピレシュもまた、まわりの人々とおなじように顔を上げて、特別観覧席から地上を見おろしている将軍とおぼしき人影を凝視します。しかしさすがに距離がありすぎるため、数人の近衛兵を引き連れているその男の容貌は、仔細に確認することができません。どんな表情をしているのか、どんな目つきをしているのか、正確に見て取ることができません。
「あれが……ゼーバルト・クラナッハ」
ピレシュはぽつりとつぶやきました。そして、あの世界の運命が一変した日にラジオから流れ出てきた重々しい声音を、きつく眉根を寄せて思いだしました。
あの時に自分の体を抱き留めてくれていたミシスとノエリィの体温、憔悴しきったハスキルの顔、それに家の窓や壁へ容赦なく叩きつけられていたおぞましい雨音さえも、今この瞬間、鮮明な現実感をともなって蘇りました。
ふいに少女は、ハスキルの横顔をのぞき込みます。
恩師は、これまで娘たちの前では一度も見せたことのない、怒りと悲しみを煮つめて凝固させたような暗く燃える情念を、その両目いっぱいに
それは言うまでもなく、彼方に立つ一人の男に向けられています。
ピレシュは思わず悲鳴をもらしてしまいそうなほど胸を痛めましたが、かろうじて踏み留まって息を整えると、腕を回してそっと恩師の肩を抱き寄せました。そしてみずからも再び、将軍の姿を見あげます。
(……あれ?)
直感的に、少女はなにかを感じ取ります。素早く深呼吸をして、意識を視覚に集中させます。少女の体を巡っている発顕因子がそこに集結し、一時的にわずかながら視力の精度を向上させます。
それでもやはり細部まではっきり観察することは困難ではありましたが、しかし不思議なほど明白に確信できたことがありました。
(こっちを見ている)
遠く離れてはいても、その威容を湛えた双眸の焦点がある一点に固定されて動かなくなっていることが、たしかに感じられます。
「……あ。そうか」少女は小さく息を吐きます。
大会の視察に来たのだろうから、その優勝者の行方を目で追うのは当然のことか。優勝者は、わたしなんだった。
ゼーバルト将軍は数歩前へ進み出ると、観衆の声にこたえるように大きく右手を掲げました。
それを受けて会場ぜんたいから湧き上がる歓声はますます大きくなり、しまいには観覧客も出場者も大会関係者も全員一緒になって、彼の名を連呼する状況にまで発展しました。
ピレシュは集中を解き、改めてこの場に集う人々の姿を眺めます。
あえて数え上げるまでもなく、会場じゅうの人々の半数、いえ六割か七割ほどに至るまでが、その首や腕や頭に、緑色のスカーフを結びつけています。
目の前の光景をぼんやりと見渡しながら、もしもこの緑をまとう全員に武器を持たせたらどんなことになるだろうと、ピレシュは想像を膨らませました。きっとあの将軍の一声で、どんな敵にだって突撃していくにちがいない……。
彼女がそんなことを考えているうちに、将軍は軽く手を振ると、従者たちと共に回れ右してどこかへ姿を消してしまいました。
こうして、大方の予想を覆す少女剣士の華麗な勝利と、思いがけず姿を現した将軍によって巻き起こされた熱狂をもって、この夏の剣術大会は閉幕となりました。
閉会式が終わってもなお注がれる衆目に
二人のすぐ目の前に、町を貫く大きな河川が流れています。石壁で築かれた堤防が左から右へ果てることなく伸び、それに沿って街路樹や花の植え込みが列をなしています。川の中ほどには巨大な木製の水車がいくつも並び、午後の光の下で悠々と回転しています。両岸のあいだにはところどころロープが渡してあり、そこに連なる銀や緑の三角旗がまるで空を泳ぐ魚群のように揺らめいています。今や全世界にその名を知られることになった、いわば
「それ、そんなふうに扱っていいの?」堤防に両手をついて新鮮な風を吸いながら、ハスキルが苦笑します。
「え? ああ、これ……」
ピレシュは自分の手に
「いいんです、こんなもの。ただの置物ですから」
「でも、あなたが毎日がんばってきた証じゃない」
ピレシュは微笑し、首を振ります。「わたしにとって価値がある
そう語る少女の横顔を、ハスキルはやや切なげに、しかしそれ以上に誇らしげに、いっとき密かに眺めました。
「先生、今日はたしか……」ふいにピレシュが振り向きます。
「ええ、これから建設業者の方々と打ち合わせ。遅くなりそうね、帰りは」
「わたしもご一緒します」
「いいのよ、今日は」ハスキルは少女の肩を撫でます。「こんな日くらい、ゆっくりと羽を伸ばしてらっしゃい」
「でも……」
「でも、は
「うっ……それは……」
「あっはは!」ハスキルは吹き出します。「ね、だから今日はいいの。私一人で大丈夫よ。それにあなた、退院以来なかなか休む暇もなかったでしょう。せっかく時間ができたんだから、のんびり街歩きでも楽しんでいらっしゃいよ」
「……はい、わかりました」ほとんどしょげるようにうつむいて、ピレシュはこたえました。「ではお言葉に甘えて、これから散歩にでも出かけようと思います」
「うんうん、そうなさいな」
そう言うとハスキルはふいに少女の顔を正面から見つめ、そっと手を伸ばし、少女の耳のあたりに揺れる白金の髪先に優しく触れました。
「とてもよく似合ってるわ」
「ありがとうございます」
「でも本音を言えばね、ちょっともったいないとも思ってるの。だって、あんなに綺麗に長かったのに……」
少女は首を振ります。「とくに理由があって伸ばしていたわけでもないし、かまわないんです。わたしはぜんぜん後悔していません」
「ねぇ」ほんの一瞬、ハスキルは鋭く目を細めます。「本当に、なにもなかったの?」
ふっと微笑して、少女はうなずきます。「はい。なぜだか突然、切り落としたくなっただけです」
「……そう。それなら、いいんだけどね」
その後ピレシュは、会合が開かれる場所の最寄りの橋まで、恩師を見送りました。
手を振って何度もこちらを振り返りつつ去っていく小さな背中をいつまでも見つめながら、少女もまた長いこと手を振り続けました。橋の向こうの雑踏にすっかりその姿が溶け込んで、見えなくなってしまうまで……。
空想のなかで、少女は自分が何人にも分身して、その全員が剣を掲げて恩師を囲み守護する絵を思い描きました。
その絵のなかの、自分の分身たちに向かって、少女は毅然と命じます。
「どうかこれからも未来永劫、わたしの剣よ、あのかたをお護りしてちょうだい……」
いつの間にか、立ったまま眠るようにしてまぶたを半分閉じていた少女は、そばを通る馬車の
そこには先程からなにも変わらない、市民の人々の行き交う平和な町の通りの景色が、当たり前のように広がっています。
「みんなどこへ行くの」
少女は無意識のうちに口をついて出た自分の言葉に、自分のことながら驚いてしまいました。
疲れてるのかしら、と自問します。
ううん、体はぜんぜん疲れていない。毎日一人でやっている稽古の方が、何倍もきついくらいだ。
……けれど、たしかに、ちょっとは精神が疲弊したかもしれない。たくさんの人にじろじろ見られるのは、ちっとも好きじゃない……
「失礼。ちょっといいかな」
背後からかけられた声に仰天して、ピレシュは素早く身を翻します。
その声を耳にするまで相手の気配をまったく感じなかったこと、そして声を発した人物が想定よりもずっと自分の間近に立っていたことに、ピレシュは戦慄を覚えます。
今は剣を所持していませんが、持っていたなら、確実に反射的に、その柄に手をかけていたはずです。
「そんな目をしないで」季節外れのコートを羽織った背の高い女性は、少女を安心させるように丁重に言いました。「私は怪しい者ではない」
「じゅうぶん怪しいですが」想像の剣を
女性は一人のようです。連れはいません。
一歩進み出ると、女性は挨拶代わりの
瞬時に、ピレシュの脳内で記憶の蓋が開きます。
「あなたは……」
まちがいありません。それは以前、まさにこの川の近くのレストランの店内で見かけた、〈調律師団〉の男に帯同していた銀髪の若い女性でした。
「あなたの顔、見覚えがあります」ピレシュは言いました。
「私もだ」銀髪の女性はその吊り目の端をすっと細めます。
「今日は、あの調律師団の男とは一緒ではないのですか」皮肉を込めて、でも声色にはそれを少しも表さず、ピレシュはたずねます。
女性は清々しげに口もとをほころばせます。「やつはもう出てこないよ。光の当たる場所の、どこにも」
「そうですか。それはなによりでしたね」
「試合、見させてもらったよ」女性は右手を差し出します。「本当に見事だった。私はコランダム軍のライカ・キャラウェイ。少しきみと話がしたいんだ。今から時間をいただけないかな」
どういうわけかピレシュのなかには、その誘いを断ろうという気が
「ありがとう」ライカがにこりと笑います。
ピレシュは素っ気なく手を伸ばし、自身に差し向けられた手のひらを、可能なかぎり感情を込めずに握り返しました。
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