50 誓いを新たに
文字数 5,044文字
黒髪の男と白髪の坊主頭の男が、左右から挟撃するように博士に銃口を向けています。
いっときナイフを持つ手をゆるめて、若者はノエリィの頭を包んでいる布を剥ぎ取ります。金と銀の中間くらいの色味の柔らかく湿った髪が、はらはらと肩の上にこぼれます。さらに男は少女が身に着けているワンピースの両脇を探り、腰の横のポケットになにか硬いものが入っているのを察知すると、それを無遠慮に引っぱり出しました。
その手に握られたものに一瞥をくれると、彼はそれを少女の震える手のなかに捻じ込み、耳もとで命令しました。
「かけろ」
言われたとおり、ノエリィは眼鏡をかけました。
白髪の男がはっと肩を震わせて、懐から一枚の書類を取り出します。ベーム博士は玄関のポーチに立ったまま背伸びをして素早くのぞき込み、それが数人ぶんの顔写真が印刷された手配書であることを確認します。
「こいつだ……まちがいない」白髪の男が手配書とノエリィの顔を何度も見比べて、荒い息を吐きます。「ノエリィ・エーレンガート。なんてことだ、こいつら本当に例の一味の仲間だ!」
「ちっ……」
博士が顔を歪めて小さく毒づくと、それとは対照的にゆったりと顔面の筋肉を弛緩させて、バンダナの男が満足げな笑みを滲ませました。
「
「は……」ノエリィは喉を動かさないよう、吐息だけで返事をします。
「きみのお仲間たちは、いったいどこに隠れてるのかな?」
しかしノエリィは
「さっさとこたえてくれよ。おれはこう見えて、気が短いんだよ」バンダナの男は腕と手にぐっと力を入れます。「痛い目に遭わなくちゃ、わからないのかい?」
「おい」ベーム博士が両目を矢のように細めます。「それくらいにしておけ。忘れたか。孫娘に武器を向けたら生きては――」
「孫じゃないだろうが!」バンダナの男が怒声を上げ、その腕のなかで縮み上がるノエリィの体を一度激しく揺さぶります。
「まぁ落ち着けって」黒髪の男が銃を構えたまま若者を諭します。「どうせこの島のどこかに逃がしたんだろうよ。小さな島だ、あのかたがたならすぐに全員見つけてしまわれるさ」
「人質をとるなんて、我々の流儀には反するが」白髪の男が嘆息混じりに言います。「この場合は仕方あるまい。このままここで軍の到着を待とう」
黒髪と白髪はちらりと目配せしあい、黒髪の方が胸のポケットから携帯型の鉱晶伝話器を取り出しました。
そのちっぽけな機器を目に留めた瞬間、博士とノエリィの顔色が一瞬で青ざめます。
博士は気取られないよう、家の前庭を囲むように茂る
そこに身を隠し続けていたクラリッサが、藪の奥から博士の目を見つめ返します。そして片手を顔の前にそっと持ち上げ、男が今まさにダイヤルを回そうとしている伝話器を、顕術の衝撃波で撃ち落とそうと狙いを定めます。
「そこまでだ」クラリッサの耳のすぐ後ろから、小さな声が飛んできました。「動くんじゃない」
少女は体の動きも顕術の発動も中断し、両眉をひょいと持ち上げてため息をつきます。振り向いてたしかめるまでもなく、その声の持ち主が人間ではないこと、そして人間ではない種族だからこそ可能な超高度な波動操作術によって、自身の気配を完全に遮断していることが察せられます。
「人間の思想やらなんやらの活動に首を突っ込むアトマ族がいるなんてね」少女は首をすくめます。「世も末だわ」
「黙れ」
するりと滑るように、全身を黒い革の服で包んだ銀髪の若いアトマ族の男が一人、クラリッサの顔の横に姿を現しました。その首にはやはり緑色のスカーフが巻かれ、手には小ぶりなニンジンほどの大きさの散弾銃が構えられています。銃口は当然、クラリッサのこめかみにまっすぐ向けられています。
「僕はあの協会の人間たちに命を救われたことがあってね」アトマ族の男が冷ややかに語ります。「やむなくその借りを返してるだけだ。思想にも政治にも興味はない」
「どこの誰だか知らないけど、ずいぶん用心深いのね」相手の話に少しも興味を示すことなく、クラリッサは肩をすくめます。「今までボートのなかに隠れてたってわけね。なかなか姑息な真似をしてくれるじゃない」
「図に乗るなよ」アトマの男は銃口を標的に近づけます。「こいつをただの
「はいはい」クラリッサはのんびりとうなずきます。「じゃ、出ていけばいいのね」
「話が早いな。よし、立て」
頭に銃を突きつけられたまま、クラリッサは悠然と家の前庭へ出ていきました。
ひゅう、とバンダナの男が口笛を吹きます。「こりゃまた、かわいいのが出てきたな」
「よくやってくれた」
白髪の男が黒ずくめのアトマ族に声をかけますが、言われた方は顔色一つ変えず、返事一つせず、ただ黙って照準の精度を維持し続けています。黒髪の男がみずからも手配書を取り出し、それを念入りに確認しつつクラリッサに問いかけます。
「ここには載ってない顔だな。おい、きみ。いったいなんでまた、こんな賊連中なんかとつるんでいる。きみはどこの誰だ」
少女はまるきり緊迫感の欠如した表情で首を傾けます。「別に。たまたま知りあって、成り行きでついてきただけ」
「成り行きって……」バンダナの男が鼻で笑います。「わけがわからんが、なかなかぶっ飛んだ子だな。だがなんにせよ、こいつらの仲間だっていうんなら、コランダムとフーガの敵ってことに変わりはない」
「まったく、次から次へと……」黒髪の男が忌々しげに首を振り、改めて機器のダイヤルに指をかけます。
ベーム博士とクラリッサ、そして人質となっているノエリィは、それぞれの位置から互いの視線を交わしあいます。その一瞬で、今はどうしようもない、という状況判断の認識が共有されました。
「そう、そういうことだ。もはや打つ手なし。観念しろ」アトマ族の男が平板な調子で言いました。
「どこへかけるのかね」博士が率直にたずねます。
「この件の主任担当者のとこですよ」
渋い顔をして男はこたえ、周波数番号の入力を終えた通信機器を自分の耳に押しつけます。
しばらくのあいだ、森の樹々が奏でる邪気のない葉音と、姿の見えない小鳥たちの愛らしい鳴き声――いずれもこの島での暮らしのなかで常にそばにあった馴染みの音色たち――だけが、あたりの大気を満たします。けれどもう、今朝までそこにあったはずの安逸の調べは、博士たちの誰の耳にも、うまく聴き取ることができません。
「あっ……あの、とつぜんご連絡を差し上げて、申しわけありません」まるで目の前に通話相手がいるかのように、黒髪の男が深く頭を下げました。「こちらは、〈緑のフーガ〉パズール支部の……」
会話の内容を聞くともなく聞くながら、博士とクラリッサはぼんやりと空を見あげています。ノエリィは依然として自分の喉もとで生々しく光っている刃の存在に戦慄しながら、顔に散弾銃を向けられたり、正面から拳銃で狙いをつけられたりしているのに、この人たちはなんでこんなに平気そうな顔をしてるのかしらと、信じられない生き物でも目にするような気持ちで、博士とクラリッサの姿を眺めていました。軍に長く関わってると、人間ってこんなにも肝が据わるものなのかな……。
「はい……はい。はい、了解しました。では、このままお待ちしております。はい、失礼いたします」
黒髪の男は通信を終え、長々と息をつきながら伝話器を仕舞いました。
「なんだって?」若者がたずねます。
「運がいいぞ」男はにやりとします。「あちらはちょうどビスマスに新設された協会の訓練場においでだったようだ。すぐに駆けつけるとのことだから、もうじきおれたちはお役御免だ」
三人の男たちは顔を見あわせ、安堵感と勝利感の入り混じった笑みを顔いっぱいに広げます。アトマ族の男だけは、ほんの少し唇を曲げただけで、相変わらずの仏頂面を保っています。
「あ~、慣れないことはするもんじゃないな。どっと疲れちまった」黒髪の男が銃を構え直してこぼします。
「他にはなにか言ってたか?」アトマ族の男がたずねます。
黒髪の男は軽く咳払いをしてこたえます。「相手の退路を断って勝機がじゅうぶんに見込めたのなら、他の連中の居場所を吐かせておけってさ」
「だとさ」アトマ族の男がクラリッサの頬を銃口で小突きます。「案内してもらおう。あんたがどこの誰だか知らんが」
「はいはい」
クラリッサは投げやりな態度で応じると、飛空船レジュイサンスの停泊地へ向かって足を踏み出しました。
それぞれに逃れようのない凶器の矛先を突きつけられたベーム博士一行は、実に気の滅入る
〈緑のフーガ〉の男たちは知る由もなかったことですが、飛空船の操舵室に待機しているマノンとグリュー、レスコーリア、そして船外に放置されていたリディアに搭乗して格納庫に退避したミシスは、ベーム博士のポケットに潜ませてある王国軍支給品の携帯伝話器を通じて、おおよその事態の推移を耳で追っていました。通信は、博士が砂浜で男たちを出迎える前から、すでに確立されていました。
家に残って訪問者を
「このままじゃ、ここに来るわ」
こくりと息を呑み、レスコーリアがつぶやきます。ミシスもリディアの操縦席内で通信機器を通してその声を聴いています。
「今さら船の色を変えたって、もう無意味だわ。至近距離から見られたんじゃどうしようもないし、それに今は……」レスコーリアは操舵室の正面の窓に額をつけ、でたらめにめくり上げられたままになっている船体の外壁を見やります。「これが直されてきちんと閉じられなきゃ、空を飛ぶのはかなり危険よ」
マノンがため息を押し殺し、操縦席に座って青い顔をしているグリューの肩に手を置きました。そして背中と腹に力を込めて、唸るように一言告げます。
「なにがあろうと、僕らが果たすべき任務の内容に変更はない」
それを受けて、操縦桿を握る青年もまた強くうなずき、二人一緒に最終手段を起動させる装置の引き金に視線を向けました。
カネリアの鉢の前に降り立ったレスコーリアが、二人をじろりと見おろします。
「それには二度と手をかけないって言ったよね」
「もちろんさ」二人が声を揃えます。
「なにがあってもこれにだけは頼らずに切り抜けてやろうって、誓いを新たにしたところさ」マノンが不敵に笑ってみせます。「ね」
「当然でしょう」
レスコーリアは微笑し、触角をくるくると回します。「そうでなきゃね」
これらすべての音声を、深い沈黙の底に一人
一度、夜を迎えるように重くまぶたを閉じます。
そして、朝を迎えるようにじわりと開放します。
格納庫の窓は一つ残らず閉めきられているため、リディアが置かれている場所は濃い闇に浸されています。しかしその遥か前方、無理にこじ開けられた壁の裂け目の下には、夏の陽射しを湛えた白光の水たまりが、まるで溶かした鏡のようにまばゆく揺らめいています。
(任務……か)ミシスは胸中で独白します。(与えられた任務。果たすべき任務。従わなくちゃいけない任務。……だけわたしには、わたしの心がわたし自身に命じている、なによりも大事な自分だけの任務がある)
限界より深く息を吸い込み、限界より長く息を止め、可能なかぎり時間をかけて肺を
(今度こそ絶対に、ノエリィを、みんなを、無事に守り抜いてみせる)
少女のひたむきな決意に呼応するように、碧い鎧に身を包む聖なる巨兵は、ゆっくりとその首をもたげました。
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