8 本物の海

文字数 5,465文字

 自然公園を正門から出ると、ちょうどそのあたりは港町ぜんたいを一望できる高台になっていました。
 網の目状に張り巡らされた街路に沿って、煉瓦や木材で造られた建物がびっしりと立ち並んでいます。大半の路地の上空ではロープが渡され、そこに掛けられた色とりどりの洗濯物が万国旗(ばんこくき)よろしくはためいています。道行く市民のなかには肌の露わな身なりの人が少なくなくて、古都の郊外で慎ましやかに暮らしてきた少女たちを唖然とさせました。水着姿で練り歩く若い女性の集団とすれちがった時などは、二人の方がむしろ恥じらって顔を伏せたくらいでした。
 地図を頼りに目抜き通りへと出て、長い下り坂になっているその道の果てまで視線を滑らせると、幾百もの帆船や漁船に埋め尽くされる港湾の全景が望めます。
「わぁ……!」本物の海の香りを、ミシスは胸いっぱいに吸い込みました。「もっと近くで見てみたい」
「行こう!」ノエリィがミシスの手をつかみ、大股で歩きだします。
 道を行き交う馬車や蒸気自動車に用心するのはもちろんのこと、縦横無尽に歩きまわる通行人たちにも注意しながら、二人はたどたどしい足取りで坂道を下っていきます。ゆさゆさと揺れるポーチのなかでじっとしたまま、レスコーリアは周囲の波動を探っています。
「どうかな、レスコーリア」ミシスが胸もとに目をやります。「わたしたち目立ってない?」
「ぜ~んぜん」小さな少女は張り合いのなさを憂いでもするかのように、のっそりと首を振ります。「ご覧なさいな。この町の住人たちの、どこまでも能天気なお顔。みなさん、細かいことなんかなぁんにも気にせず生きておいでだわ」
 ミシスは吹き出します。「そっか。なら安心だね」
「そういうこと。妙な気を感じたらすぐに教えるから、あなたたちは心配せずに楽しみなさい」
「ありがとう」
 見た目よりもずっと長かった坂道を下りきって港へ到着すると、そこは市街地よりもっと多くの人で賑わっていました。
 そこかしこを闊歩する日焼けした船乗りたち。汗と油にまみれた港湾労働者たち。ずらりと列をなす露店と、そこに群がる大勢の買い物客たち。獲れたての海産物を店頭に並べた店主たちは、それぞれに威勢のいい声を張り上げながら手を叩いたりラジオで音楽を流したりして、どうにか客の気を引こうと躍起になっています。
「ひえ~……」むせかえる魚介の匂いと人熱(ひといき)れに包囲されて、ミシスは身をすくませます。「こんなところだったんだ、港って」
「ミシスったら、変な顔」ノエリィが笑います。「いったいどんな場所を想像してたわけ?」
「え、その……もっとこう、静かで穏やかで、カモメの鳴き声とか、打ち寄せる波の音が、ゆったりと響き渡るような――」
「おい、そこの坊主ども!」
「うわっ!」
 近くの露店で魚を捌いていた大男にいきなり呼びかけられ、二人は思わず悲鳴を上げます。
「昼飯はもう食ったか? 獲れたて、捌きたてだ。安くしとくぜ。一つどうだ」
「あ、いえ、ぼくら、今食べてきたところなので……」頬をびくびくと震わせながら、ノエリィが精一杯の低い声でこたえます。
「そうか。それはつまらねぇな。じゃあ買って帰ってお母ちゃんへの土産にしな」
「ううん、今夜の献立はもう決まってるから……」
「そうか。それはいよいよつまらねぇな。よし、もうどっか行っちまえ」
 哀れな少女たちは、言われたとおりにそそくさとその場を離れました。
「なによぉ、あれ」ミシスが鼻を膨らませます。「いくら相手が子どもだからって、見ず知らずの人に対してあんな態度ってありなの?」
「まぁ、まぁ……」ノエリィがミシスの背中をさすります。「これはいわゆる洗礼ってやつね、港町の」
「洗礼って。いくらなんでも、港の人がみんなあんな調子ってわけじゃあ――」
「よお、そこの坊主ども!」ミシスが言い終わらないうちに、また別の露店の男が二人に声をかけてきました。「腹減ってないか? こっちへ来い!」
「へ、減ってません!」とっさに叫び返したミシスは、慌ててノエリィの手をつかんで駆けだします。
「ほら、言ったじゃない。やっぱりわたしたち、今まさに洗礼を受けてるのよ」だんだん面白くなってきたのか、ノエリィはけらけらと笑いはじめます。
「そうみたいだね」ミシスは口をへの字に曲げます。「ちょっと、いや、だいぶ、想像とちがってたよ……」
 混雑する港通りを、二人の坊主ども、もとい少女たちは、息を切らせて駆け抜けていきました。


 市街地へと続く長い階段を半分ほど一気に駆けのぼると、そこでようやく二人は一息つきました。
 ポーチの口を押し上げて顔を出したレスコーリアが、少女たちを見あげてにやりとします。
「ずいぶんびっくりしたみたいね、坊主ども」
「笑いごとじゃないよぉ」ミシスがかぶりを振ります。
「ううん、笑いごとよ」レスコーリアは苦笑します。「言葉は荒いけど、なんの邪気も発してなかったよ、あの人たち」
「やっぱり、そういうものなのね」ノエリィが呆れたように笑います。「あれで、なんの悪気もないんだから」
 小さな少女はポーチからするりと飛び出ると、街路樹が落とす木漏れ日を浴びながら空中で深呼吸をして、文字どおりに羽を伸ばしました。
「あ~あ。もっとゆっくり海を眺めたかったな」不服そうにミシスがこぼしました。
「あきらめるのはまだ早いよ」
 しょげる少女の肩にぽんと手を置いて、ノエリィが港の外れにあるこぢんまりとした砂浜を指差しました。そこには小型のボートが二、三艘ほど係留してあるだけで、露店も、買い物客の集団も、日焼けした男たちの姿も見あたりません。釣る気もなさそうな釣り人と犬を連れた奥さん、それに水遊びに興じる子どもたちがいるばかりです。
「あそこなら、のんびり海を見られそうじゃない? ちょっと遠いけど、あとで行ってみようよ」
「いいね、そうしよう。……うわぁ見てよ、あの子たち」今まさに海に飛び込んだ少年たちを眺めながら、ミシスが吐息をつきます。「いいなぁ。泳ぐのって、気持ち良いんだろうな」
「わたしたちの家の近所には泳げる場所ってなかったもんね。ミシスは泳いだ記憶ってない?」
「うん、残念ながら」
「そっか」ふと腕組みをして、ノエリィは考え込みます。「……ねぇ、今日はちょっと都合がつかないけどさ。この次また出かけられることがあったら海へ泳ぎに行けるように、これから水着を買いに行こうよ」
「え!」ミシスは手を叩きあわせます。「素敵!」
「じゃあさっそく探しに行こう。海の町だから、きっとすぐに見つかるよ」
 本当にすぐ見つかりました。
 派手派手しい浮き輪や波乗りの板と一緒に、水着を身に着けた数体のマネキンが軒先に陳列されている店が、階段をのぼった先の通りにありました。再びレスコーリアが潜り込んだポーチを首に下げたミシスは、ノエリィと手を繋いできょろきょろしながら店内に足を踏み入れました。
 さいわい、そこの店員は二人を坊主呼ばわりする大男のたぐいではなく、にこやかな笑みを浮かべた若い女性でした。二人が少女であることを一目で見抜いたその女性は、親しげな態度で少女たちに接してくれました。
 優しい言葉でおだてられ薦められるがまま、二人はまるで着せ替え人形になったかのようにいろいろな水着を試着しました。
 最終的に二人が選んだのは、ミシスが青地に小さな白い花の模様がちりばめられたもの、ノエリィがフリルの縁取りのついたマスタード色のものでした。
「買っちゃったね」店を一歩出るなり、ミシスは小躍りしました。
「なんかお姉さんに乗せられっぱなしだったような気がするけど」ノエリィが苦笑します。「でも実際、見る目がある人だったよね。だってさ、ミシスがおすすめされた水着、あのいつも着てる青いローブにそっくりだったもん。まるで、普段の格好を知ってるみたい」
「そうそう、わたしも驚いたよ。ノエリィが作り直してくれたあのローブ、わたしのいちばんの宝物だもの。あれに似てるのが見つかって、ほんとに嬉しい」
 突如くるりと振り返ると、ノエリィは両手でミシスの脇を左右からわしづかみにしました。「またあなたって子は、そういういじらしいこと言うんだからぁ」
「やめてよ、くすぐったい……」
「お二人さん、ちょっと待って」
 じゃれあう少女たちをよそに、とつぜんレスコーリアが冷ややかな一声を発しました。とっさに二人は立ち止まり、姿勢を正して身構えます。
「……なにかあった?」ささやくようにミシスがたずねます。
「そんなに警戒する必要はないと思うけど」レスコーリアもまた小さな声でこたえます。「この町ではちょっとめずらしい、やけにぴりぴりした波動のかたまりを感じる」
「かたまり?」ノエリィが眉をひそめます。
「複数人、ってこと」レスコーリアが言います。「ここから一つ横の通りからだわ」
「わたしたちを探してる人たちだったりするかな」ミシスが顔をしかめます。
「まさか、ちがうと思うわ。これは、たぶん……」
 平静を装ってその通りへ曲がる角まで来ると、二人はなにげなく立ち話に興じる演技を始めました。しかしその目線は、レスコーリアが示した方角へしっかりと向けられています。
 なんの変哲もない集合住宅や商店が並ぶ通りの中程(なかほど)に、一部分だけぽっかりと開けている環状の公園が見えます。中央に申しわけ程度の小さな噴水が置かれたその場所に、顔を寄せあって円陣を組んでいる六、七名ほどの集団の姿があります。老若男女さまざまな顔ぶれの集まりですが、みな一様に緑色のスカーフを巻いています。
「やっぱり」レスコーリアがポーチの口から外を睨みます。
「まさかあれ、〈緑のフーガ〉?」ミシスが目を丸くします。
「近頃話題のあの人たちだね」ノエリィが小さく息を呑みます。「なにしてるんだろう。あんなところに集まって」
 少女たちは気取らない雰囲気を保ったまま、彼らの様子を遠巻きに観察しました。
 やがて、通りの向こうから、揃って目深(まぶか)山高帽(やまたかぼう)をかぶった灰色の背広姿の二人組がやってきました。どちらも中年の男性とおぼしき彼らは、緑のスカーフを首に巻いた一団とさりげなく合流しました。
 背広の男たちの抜き差しならない機敏な足運びに、少女たちは思わずまじまじと見入ってしまいました。
「かなりの手練れね、連中」レスコーリアがつぶやきます。「頭の左右と後ろにも目がついていて、どこでなにをしている時でも決して気を休めることなく生きている種類の人間だわ」
「コランダム軍の人たちかな」明るい表情を崩さないよう努めながら、ミシスが首をかしげます。
「どうでしょうね」レスコーリアはやんわりと首を振ります。「でもその可能性はじゅうぶんにありそうね。だってあの緑のなんちゃらの人たちが目標にしてるのは、新生コランダム軍の理念なんでしょ」
 男たちの到来を笑顔で歓迎した〈緑のフーガ〉の集団は、ほんの二つか三つ言葉を交わすと、そのまますぐに全員一緒になって通りの中心へと歩み出てきました。
「あれ、こっちに来るんじゃない?」ノエリィがごくりと喉を動かします。
「大丈夫だから、そのまま笑ってお喋りしてなさい」
 レスコーリアの指示どおり、二人は懸命にあっけらかんとした表情をこさえて、他愛のない世間話に熱中する市民を演じました。
 彼らが目と鼻の先を通りすぎ、港へと続く階段に吸い込まれていくのを最後まで見届けると、少女たちは一気に緊張を解きました。
「あ~、ちょっと怖かった……」ノエリィが胸を押さえて息を吐きます。
「気づかれなかった?」ミシスが眼下を見おろします。
「こっちにはまったくなんの関心も示さなかったわ」レスコーリアがきっぱりとこたえます。
「いったい何者だったんだろう、あの二人」彼らが去っていった方角を見やって、ミシスは眉間に皺を寄せます。
「さぁね。今んとこ、たしかめようもないわ」
「一応、帰ったらマノンさんたちに報告しよう」ノエリィが言いました。
「そうだね。今の時点では、わたしたちにできることはとくに考えつかないけど……」ミシスがもどかしそうにつぶやきます。
「いいのよ、それで。なにがどうなろうと、わたしたちがやるべきことはいつもたった一つ、〈リディア〉を守り抜くことだけよ。そのために周囲の状況に目を光らせておくのも大事だけど、やみくもにこちらから動くような真似をする必要はまったくないわ。身のまわりの現状を常に正確に把握して、その都度最善と思われる手段を選び取っていくことしか、今のあたしたちにはできないんだから」
 淡々と告げられるレスコーリアの言葉に、少女たちは神妙な面持ちでうなずきます。
「二人とも、そんな顔しないで」ポーチから体を乗り出して、小さな少女は頭上にほほえみかけます。「あたしたちがここでどんなに頭を悩ませたって、今はどうにもならないわ。グリューが言ってたでしょ。今日はとにかく楽しんでおいでって」
「……うん、そうだね。ありがとうレスコーリア」ミシスが肩から力を抜きます。
 おなじく頬をゆるめたノエリィが、おもむろに親友の手を握りました。「それじゃあ、次はどこに行こっか?」
「わたし、実はさっきからお腹ぺこぺこ」ミシスがお腹を抱える仕草をしました。
「わたしも」ノエリィもお腹をぽんと叩きます。
「あたしも」レスコーリアは額の触角をぐにゃりと垂らしました。
「決まりだね」目を細めて笑いながら、ミシスが言いました。
 気分も新たに町の通りにくり出した少女たちを、青空の頂点に昇りつめた太陽がまぶしく照らしていました。
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登場人物紹介

◆ミシス・エーレンガート


≫主人公。エーレンガート家に家族の一員として迎え入れられ幸福な日々を過ごしていたが、思わぬ形でコランダム独立の騒乱に巻き込まれ、ノエリィと共に丘の家から旅立つことになった。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫ミシスの親友であり家族でもある心優しい少女。望まぬ形で軍に連行されるミシスを独りにさせまいと、ほとんど押しかけるようにして〈特務小隊〉の一員となる。

◆マノン・ディーダラス


≫本職は科学者であり発明家だが、カセドラ〈リディア〉を守護するため急造された部隊〈特務小隊〉の隊長を務めることになった。同隊が移動式拠点として利用する飛空船〈レジュイサンス〉も、彼女の発明の賜物。

◆グリュー・ケアリ


≫マノンの腹心の助手。彼女に付き従い、ホルンフェルス王国軍極秘部隊〈特務小隊〉に所属する。飛空船での暮らしにおいては、もっぱら料理係と操縦士の役割を務めている。

◆レスコーリア


≫マノンたちに同行するがまま、〈特務小隊〉に加わることになったアトマ族の少女。相変わらず自分流に気ままな日々を過ごしながらも、密かに隊の皆を見守っている。

◆クラリッサ・シュナーベル


≫世界最強の顕術士一族として知られるシュナーベル家の長女。優れた顕術士ばかりで構成される王国騎士団〈浄き掌〉の副団長を務める。グリューとは許婚どうしで、マノンやレスコーリアとも旧知の仲。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫新生コランダム軍を率いる将軍。統一王権からの離脱と祖国独立の宣言を発し、全世界に対し戦後最大級の衝撃を与えた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫新生コランダム軍に所属する軍人。エーレンガートの丘での失態の後、妹のレンカと共に小部隊を率いてミシス一行を追撃する。

◆レンカ・キャラウェイ


≫エーレンガートの丘で勃発したカセドラどうしの戦闘によって重傷を負い、その後しばらくのあいだ治療に専念していた。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫国王トーメ・ホルンフェルスの名代として、マノン一行に〈特務小隊〉としての任務を与えた。以後さまざまな手段を用いて、先の見えない困難な日々を送る同小隊を遠く王都より支援する。

◆ハスキル・エーレンガート


≫愛する娘たちと離ればなれになり、我が子同然の学院校舎が損傷してもなお、決して希望を失うことなく毎日を前向きに生きている。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫幼少時より人知れず抱えていたカセドラ恐怖症の劇的な発作により、長期に渡って入院生活を送っていた。恩師ハスキルに護られながら、徐々に回復へと向かう。

◆ドノヴァン・ベーム


≫十年ほど前に王都から忽然と姿を消した、伝説的な大科学者。レーヴェンイェルム将軍の幼馴染みにして、マノンの恩師。現在の彼の動向を知る者は極めて少ない。

◆プルーデンス


≫ベーム博士と共に暮らすアトマ族の少女。博士とおなじくアルバンベルク王国の出身。幼い頃から過酷な環境を生き抜いてきたためか、非常に気立てと面倒見が良い。

◆〈リディア〉


≫ホルンフェルス王国軍が極秘裏に開発していた最新型のカセドラ。本来ならカセドラが備えるはずのない、ある極めて特異な能力をその身に宿している。操縦者はミシス・エーレンガート。

◆〈フィデリオ〉


≫コランダム軍が新たに開発した特専型カセドラ。操縦者はライカ・キャラウェイ。

◆〈コリオラン〉


≫フィデリオと同一の鋳型を基に建造された姉妹機だったが、リディアとの交戦の末に大破した。かつての操縦者はレンカ・キャラウェイ。

◆〈□□□□□〉


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