9 蜜蜂のように
文字数 4,047文字
〈緑のフーガ〉の一団をやり過ごした後、三人は自分たちの現在地を確認し、そこからいちばん近くにある星を目指すことにしました。それは、港を見おろす広場に立つ小さなビストロでした。
たっぷりと陽射しの注ぐ屋外のテーブルに、一行は案内されました。テラスをぐるりと囲むようにして、青々とした植木の鉢がいくつも並べてあります。
「あぁ、なんかここ落ち着く」椅子に深く腰かけて、ノエリィが脚を伸ばしました。
「きっとたくさん緑があるからだね」ミシスがかたわらの枝葉にそっと触れます。「丘の広場や校庭でお弁当食べてた頃のこと、思いだしちゃった」
「うん。わたしも」
「なかなか空気の良い場所だわ、ほんと」いそいそとポーチから這い出てきたレスコーリアが、卓上に用意されたアトマ族用のクッションに腰をおろしました。
朝からぴんと立ちっぱなしだったレスコーリアの触角がふにゃふにゃになっていくのを目にして、ミシスとノエリィも嬉しくなりました。
その後、グリューのお墨付きの魚介料理を堪能した三人は、すっかり満足して店を後にしました。
「食べ過ぎた~」歩きながらノエリィがうめきました。「でも幸せだった~」
「すごくおいしかったね。調子に乗って食べすぎちゃったけど、後悔はないよ」ミシスがふらつきながら同意します。「さすがグリューが選んでくれたお店だね。どの料理もけちのつけようがなかった。でもさ、思ったんだけど、いつもグリューが作ってくれる料理と、そこまで大きなちがいはなかったよね」
「言えてる。わたしたち、実は毎日すごく良いもの食べてるのかも」
「あいつの料理好きは筋金入りだもの」レスコーリアがミシスの肩の上で苦笑します。「可哀想なグリュー・ケアリ。彼は由緒正しき名家に生まれ、その上なまじ優秀な頭脳に恵まれてしまったがために、なにより愛する料理の道をあきらめざるをえなかったのです……」
演劇じみた台詞回しを披露する小さな少女の姿を、ミシスとノエリィはぽかんと眺めます。
「名家って?」ノエリィが首をかしげます。「そんなに立派な家の出身なの?」
「あら、聞いてないの? ケアリ家といったら、王都でもけっこう知られてる一族よ」
「そういえば顕術を扱えるかどうかの素質って、血筋で決まるんだよね。ならグリューのご家族は、みんなグリューとおなじくらい顕術を使えるってこと?」ミシスがたずねます。
「それはそうよ」レスコーリアがうなずきます。「あいつは一人っ子だけど、あいつの両親も祖父母も、全員けっこうな発顕因子の持ち主よ」
「ってことは、そういう名家に生まれた人は、結婚する相手もそれなりに発顕因子を持ってる人じゃなきゃだめってこと?」ノエリィが眉をひそめます。
「絶対ってわけじゃないけど、まぁだいたいそれが慣例になってるわね。だから名家どうしの繋がりって、もうほとんどそれだけで世界の支配者層の系図みたいになってるのよ」
「へぇ。なんかわたしには想像もつかない世界だな」さして興味もなさそうにノエリィがつぶやきました。
「ま、あいつもいろいろ大変なのよ」ふっと鼻息を吹いて、レスコーリアはかぶり振ります。
「そうだ」ミシスがぽんと手を叩きます。「今朝、グリューに頼まれたことがあったんだった」
「頼み?」ノエリィが一瞬立ち止まります。
「もし時間があったら、本を買ってきてほしいんだって。こないだ買いそびれたんだってさ」
「どうせ研究書かなにかでしょ」レスコーリアが肩をすくめます。
「うん。メモを預かってきてるから、あとで書店に寄ってお土産にしよう」
「そうだね。時間はまだいくらでもあることだし。それに、わたしもちょっと本を見たい」
「え」ミシスは目を丸くします。「ノエリィが、本を買うの?」
「なぁによ。そのいかにも意外って感じの顔はぁ。わたしだってねぇ、来る日も来る日も教科書やら古新聞やらばっかり眺めてたら、たまには別の雑誌とか小説とか読みたくなるんだから」
「ごめんごめん、そんなつもりで言ったんじゃないの。ただ、めずらしいなって、思っただけ……。それじゃとりあえず、昨夜打ち合わせしたお店からまわろうよ」
「それって、どんな?」レスコーリアが興味深げにたずねます。
「えっと、まず服屋さんでしょ、それに雑貨屋さん、お菓子屋さんに花屋さん……」
レスコーリアはほほえみます。「素敵ね。ならこのへんのお店から見ていこっか」
「うん!」
こうしてまた元気よく出発した一行は、まるで花壇を飛びまわる蜜蜂のように、あちこちの花ならぬお店をぶんぶんと巡っていきました。
およそ三時間足らずのあいだに、二人の両手は買い求めた服や雑貨やお菓子の詰まった紙袋でいっぱいになりました。そしてもうこれ以上なにも持てないという状態に達した二人は、休憩と称して喫茶店を訪れ、昼にあれほど食べたばかりだというのに、ここでもまた特大のジェラートやパフェを注文して皿の底まで平らげてしまいました。
この時点でもうじゅうぶんに遊び尽くした手応えを感じた三人は、仕上げに上等の紅茶をいただいてから、青年に頼まれた本を探しに向かいました。
繁華街の外れに、古い時代の見張り塔を改装して造られた大きな書店を見つけました。階層ごとに取り扱う書籍の種類が分けてあり、一階は庶民の多くが手に取る雑誌や新聞、流行の小説や漫画などが中心で、客の数も相当なものでした。両手に抱えた荷物を人々の脚やお尻にぶつけながら、少女たちは申しわけなさそうに奥へと進みました。頼まれた本は最上階にあるとのことだったので、二人はえっちらおっちら六階ぶんもの階段をのぼりました。
学術書や哲学書のたぐいを扱うその階は、一階とは別世界のように静まり返っていました。壁に据えられた鉱晶ラジオ機器から、あたかも書物たちのための子守歌のように、ささやかな音量でチェンバロの奏でる旋律がこぼれ出ています。客の姿はごくわずかで、話し声や足音はほとんどまったくありません。少女たちは窓の前にいったん荷物を降ろして、一息つきました。
「図書館より静かだね」ノエリィがミシスの耳もとでささやきました。
窓の外には一面を青で塗り潰された空と、迷路のように入り組んだ街並みが広がっています。二人は下界を眺めながら呼吸を整えると、再びたくさんの荷物を抱えて書棚のあいだに入っていきました。
両手のふさがっているミシスに代わり、ポーチから上体を外へ出したレスコーリアが、青年に託されたメモ紙を広げて二人を誘導します。
「えっと、たぶんもう一つ向こうの棚ね」
「了解」ミシスがうなずきます。
それから何歩か進んだところで、ノエリィがとつぜんあっと声をもらしました。「見て! あそこ」
示された方角にある棚を、ミシスとレスコーリアがいったい何事かと目を凝らして確認します。著者名の頭文字の順に陳列されている書籍のあいだに差し込まれた名札の一つに、見覚えならぬ聞き覚えのありすぎる名前が記されているのを、二人はすぐさま発見しました。
「マノン・ディーダラス! って、もちろんあのマノンさんだよね?」ミシスが目を見張ります。
「ほかにどんなマノンさんがいるのよ」レスコーリアが平然とこたえます。
「す、すごい……。なんて数の本なの。軽く二十、いや三十冊はあるよ」唖然とした表情で、ノエリィが左から右へ棚を見渡します。
「やっぱり、本当にすごい人だったんだね……」普段の彼女の姿を思い浮かべつつ、ミシスが嘆息しました。
「ま、あいつ天才だから」レスコーリアが真顔でつぶやきます。
それに続けてミシスがなにか言おうとした、その時でした。
「――しっ」吹き矢でも放つような鋭い制止の一声を、レスコーリアが発します。「止まって。喋らないで」
二人の少女はぎくりと身をこわばらせ、指示されたとおりに足を止めて口をつぐみます。その拍子にノエリィの鼻の上から眼鏡が少しずり落ちましたが、両手に持つ紙袋が音を立てるのを防ぐため、少女はぐっと眉間に力を入れてこらえました。
「……レスコーリア?」ミシスが不安げに呼びかけます。
「強い発顕因子の持ち主が階段をのぼってくる。それに……全身から放ってる張り詰めた気も、ちょっと普通じゃない」
「まさかコランダム軍? わたしたち、見つかったのかな」ノエリィが頬を引きつらせます。
「わからない。でもどういうわけか、ものすごくゆっくりした速度だわ。まるで、お年寄りみたい。二人いるのに、二人とも動きが遅い」
「二人?」ミシスが眉をひそめます。
「念のため、向こうの棚の裏に移動しとこう。あそこだと階段からは見えないけど、こっちからは階段の方が見える」
レスコーリアの導きで、少女たちは駆け足でその棚の背後に飛び込み、本の背表紙で形成される壁にぴったりと背中を貼りつけました。たしかにそこからだと、この階の唯一の出入り口である階段と、そのすぐ横の会計場を視認することができますが、向こうからは無理な体勢で振り返りでもしないかぎり、こちら側をのぞき見ることができそうにありません。
一行は息を潜めて、階下からやって来る何者かを待ち受けます。
「……え?」
ミシスとノエリィは、重々しい足取りで階段を上がってきた二人の若い女性の姿を見るなり、同時に表情を凍りつかせました。
少女たちから放たれる恐怖と悪寒の波動を直近で浴びたため、レスコーリアの顔がぎゅっと歪みます。
今にもその場にへたり込むか、あるいは荷物をすべて投げ出して逃げてしまいたい衝動に駆られた二人でしたが、かろうじて正気を保って踏み留まりました。
忘れるわけがありません。
それは、あの一カ月前の因縁の日の午後に、少女たちの暮らす丘に突如襲来し、彼女たちの運命のすべてを狂わせた張本人とも言うべき、新生コランダム軍所属の兵士、ライカとレンカのキャラウェイ姉妹でした。
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