21 信頼というもの

文字数 5,146文字

「きみも性質(たち)のわるい冗談を口にするようになったものだな」石の壁に刃物で文言を刻みつけるような声で、レーヴェンイェルム将軍が言いました。
「ですから、冗談ではありません」背筋をまっすぐ伸ばして操縦席に座り、マノンは通信器に向かって返答しました。
 特務小隊の面々はしばらく口を挟むことを控えるよう隊長から指示されているので、各自おとなしくソファや椅子に着席して事態の成り行きを見守っています。
 心を落ち着けるために、マノンは無心でカネリアの鉢植えを見据えます。昼さがりの太陽を浴する真っ白な陶器の鉢は、まるでできたての(まゆ)のように柔らかな光を放っています。
 硬い咳ばらい一つして、将軍が口を開きます。
「昨晩のことがあって、きみは気が動転しているにちがいない。だからそのように事を急いているのだ。いいか――」
「急いているのはたしかです」マノンが遮ります。「この状況下で、いったいどうして急かずにいられるでしょうか。しかし、これは先程も申し上げたとおり、決してその場しのぎの思いつきなどではありません」
「ドノヴァン・ベーム」将軍は唸ります。「まさか十年の時を経て、再びその名を耳にすることになろうとはな。実に懐かしい名だ」
「今さら、なぜあれほどの功績を挙げてこられたベーム博士が表舞台から追いやられてしまったのかなどと、問いただすつもりはありません。あるいは博士がご自身の意思で王都を去っていたのだとしても、その理由をあれこれ推測したり追求したりする気もありません。僕はただ」マノンは深く息継ぎをしました。「僕はただ、今この瞬間、あのかたの導きと助言を本当に必要としているのです」
「十年も顔を合わせおらず、この歳月どこでなにをしてきたのかさえわからない相手を、そこまで信頼していると言うのかね」将軍が厳しく問いかけます。
「はい」マノンはきっぱりと首を縦に振ります。「たとえ十年経とうが百年経とうが、ベーム博士に対する僕の信頼が揺らぐことはありません」
「それはけっこうなことだ」将軍があっさりと返します。「だが、これはきみ個人が誰を信頼していようがいまいが、そんなこととはまったく関係のない話だ」
「それもわかっています」
「ではなぜそんな無茶を言う」
「だからこそなんです、将軍」マノンは語気を強めます。「このなにもかもが不確かで、不安定で、先が見えない状況だからこそ、信頼こそが最も価値あるものなのです」
「だが、信頼という言葉ほど信頼に及ばないものはないと言うこともできる。なにしろそれは、ただの言葉なのだから」将軍は言い放ちます。「そんなものは個人の気分によって簡単に移ろう幻影のようなものだ」
 それに対してはなにも返さず、マノンはただ黙して奥歯を噛みしめます。その背中を見つめる一同も、肩を寄せあってそれぞれに息を詰めています。
「部外者に機密が露見することの危険性がどれほどのものか、知らぬわけではあるまい。たとえ〈リディア〉の情報を打ち明けて助力を仰いだとしても、この先ずっと博士は軍の監視下に置かれることになるのだぞ」
 将軍のその言葉を耳にした途端、マノンはこっそりと笑みを浮かべました。しかしそんな気配はおくびにも出さずに、至って冷静な態度で切り返します。
「今だって監視下に置かれているというのに? これからさらに監視員を増やすということですか?」
 将軍は沈黙します。
「レーヴェンイェルム将軍。僕の想定が正しければ、あなたはこの十年間、ベーム博士の動向を監視し続けてこられたはずです」
 それについて返答はありませんが、かすかに苦笑するような空気の震えが、通信器の向こうから伝わってきました。
「ご存知なのでしょう。ベーム博士が今どこでなにをしていらっしゃるのか」マノンはさらに迫ります。
「……なにをしているのかまでは知らんよ」ついに将軍は観念しました。「だが、そう、きみの指摘するとおり、所在は把握している」
「ではやはり、現在もご健在なのですね!」まるで上下左右から照明が当てられたように、マノンの表情が輝きます。
「どうやら相変わらず呑気にやっているようだな、あいつは」
 おもむろにマノンは席を立ちました。そして操縦機器の狭間に両手をつき、頭を下げて通信器に顔を近づけます。肩にかかっていた真紅の髪が、はらりとこぼれ落ちます。
「お願いします、将軍。教えてください、博士の居場所を。そして彼の協力を得る許可を、どうか僕にお与えください」
「きみとは長いつきあいだが」どさり、となにかに腰かけるような物音を挟んで、将軍がささやくような調子で言います。「きみが私に対してそこまで強くなにかを懇願するのは、これで二度目だな」
 マノンは沈黙します。
「一度目の時は、聞き入れてくれないなら王城を爆破する、などと言って私を脅したが。さて、今回はどうするね? 今のきみに爆破できるものといえば、その船とリディアくらいしかないようだが。おっと、そういえば、その手段だけはなにがあろうと決して採らないと、ついこのあいだ宣言したばかりだったな」
「うぐっ……」
 苦しげに縮こまる背中を、隊員たちは固唾を呑んで見守ります。
「まぁ、いい」
 (あざけ)るでもなく、責めるでもなく、ただ一言そうつぶやくと、将軍は唐突に深い黙考に入りました。
 通信器の向こうから、こつ、こつ、と指先が机なり壁なりを叩く物音が、まるで時計の針のように正確な間隔で伝わってきます。
 特務小隊一行は像のように固まり、ひたすら耳をそばだてます。
 荒野を吹き渡る風の音が、そして風に(もてあそ)ばれる枯草や砂利の転がる音が、いつにも増して鮮明に響き渡っています。
「……まったく」
 うめくような嘆息と共に、ぴたりと手が止まりました。
「どういう因果なのだろうな、これは」将軍が自嘲するように口を開きます。「これほど度し難い案だというのに、検討すれば検討するほど、妥当性が見えてきてしまう。実に腹立たしいよ」
「それは……」はっと顔を振り上げて、マノンはみるみる頬を紅潮させます。「それでは……!」
「そもそもこのような話、あいつがどこかの普通の町なかで暮らしていたならば、まともに俎上(そじょう)に載せることさえしなかったのだがな……」
「え?」マノンは首をかしげます。「いったい、ベーム博士は今どちらにいらっしゃるのですか?」
「ビスマス東方の海に浮かぶ孤島に暮らしている」
「孤島……」ふいにマノンは絵葉書を収めてある自分の胸に触れます。「島、ですか」
「そうだ。十年程前に小さな無人島を買い取って、以来そこで気ままな余生を送っているとの報告を受けている。たまにパズールに顔を出すこともあるようだが、たいていは島に籠もって生活しているらしい」
「海に囲まれた小さな島、って」クラリッサがソファから立ち上がり、マノンのそばまでやって来ました。「まさにあたしたちが身を寄せるのにぴったりな環境じゃない。知恵を借りるとかなんとかっていうより先に、場所を貸してくれさえするだけで、願ったり叶ったりだわ」
 彼女に続いてグリューとレスコーリア、それにミシスとノエリィも、操縦席のまわりに集まりました。
「地理的条件の観点から見れば、そうかもしれん」将軍が言います。「だがそれだけで済む話ではない。わかっているだろう、そんなことぐらい」
「まあ、それはそうですけど」クラリッサはひょいと首をすくめます。
「あの」ノエリィが遠慮がちに口を開きます。「とつぜんすみません。将軍は、そのベーム博士というかたのこと、なんだか気心の知れたふうにお呼びになるんですね。もしかして、お友だちどうしだったのでしょうか?」
「ふん……」苦々しい鼻息が一つ、通信器から噴き出します。「あの男は私の幼馴染みで、剣や武術の道に私を引き込んだ張本人だよ」
 一行は揃って目を丸くしました。
「あの、そのベーム博士って、もちろん科学者だったのですよね」ミシスが不思議そうにたずねます。
「一流のね」我がことのように誇らしげに、マノンがうなずきます。「世界と人間を見つめるベーム博士のまなざしは、いつも明晰で公平で、そしてなにより優しかった。僕が師と仰ぐ唯一のかただよ」
「それでいて、剣とか武道にも長けてらっしゃるんだ……」ノエリィが感心します。
「それでは、レーヴェンイェルム将軍」マノンが改めて前を向きます。「ドノヴァン・ベーム博士に助力を求める許可をお与えくださったと受け取って、よろしいのですね?」
「……当のドノヴァンがどう応じるかは不明だがな」
 マノンとグリューが密かに顔を見あわせ、深くうなずきあいました。
「でも陛下や長老たちには、どのようにご説明なさるおつもりですか」クラリッサが眉間にうっすらと皺を寄せます。「こうやって現場との協議だけで決めてしまったとなると、皆様さぞかしご機嫌を損ねられるのでは」
「そのような些事、どうということはない」将軍が鋭く切り捨てます。「〈リディア〉に関する計画において、長老連と私とのあいだに指揮権の上下差はない。むしろ実働部隊と緊密に連絡を取りあっている私の判断こそ、すべてにおいて優先されると見るのが道理だ。心配せずとも、私の決定には誰も逆らわせはしないよ。国王陛下以外には」
「その国王陛下が反対されたら?」レスコーリアが口を挟みます。
「陛下は私の判断を常に完全に理解し、信用してくださっている。これまでも、これからも」
 その言葉を耳にした途端、特務小隊の一行は自分たちの対話の相手がこの地上においてどのような存在であったのかをまざまざと思いだして、思わず息を呑みました。
「それじゃ、どのように事を運びましょうか」気を取り直したクラリッサが、腕を組んで思案します。「一応こういう時って、親書やら機密保持の誓約書やらなんやら、用意するものですけれど……」
「そんなもの、あいつがまともに受け取るものか」将軍が声を荒げます。「面倒極まりない手間と労力をかけてそんなものをきみたちに持たせたとしても、どうせあいつの手で丸めて捨てられてそれで終わるのが関の山だ」
「そ、そうですか……。それなら、まず使者を取次ぎに向かわせますか?」困惑しつつグリューがたずねます。
「そんなもの、あいつがまともに会うものか!」将軍が再び吐き捨てます。
「ふっ」こらえきれず、マノンが吹き出します。「くく……ははは…‥‥」
「笑いごとだな、まさに」将軍が大きくかぶりを振るのが、姿は見えなくとも感じられます。「実に笑いごとだ。まさかこんなことが現実になるとはね」
 胸を反らせて深呼吸し、笑いをすっかり治めてしまうと、いよいよマノンは宣言しました。
「それでは、将軍。僕たち特務小隊は、これより飛空船でドノヴァン・ベーム博士の居住地へと向かいます」
「ああ、そうしたまえ」どことなく投げやりな口ぶりで、将軍が応じます。「後のことはこちらでなんとかする」
 それから将軍は誰かを呼びつけ、その人物と少しやりとりをしたあと、ベーム博士の住処(すみか)である島の位置を仔細に説明してくれました。
「よぉし。これで希望が見えてきたぞ」グリューが拳を握ります。
「でも、意外でした」ミシスがつぶやくように言います。「最初はてっきり、将軍はマノンさんの提案を跳ねつけるものとばかり……」
 椅子から立ち上がる衣擦れの音と共に、将軍もまたつぶやくように語ります。
「信頼というものは個人の気分一つで簡単に移ろうものだし、厳密に遂行しなくてはならない事業を達成するための行動理念に組み込むには、少々頼りないものではある」
 再び胸に手を置き、マノンは静かに耳を傾けます。
「しかしだね。その信頼というものに頼ることでしか打開できない状況というものもまた、時には存在するのだ。とりわけ、仲間どうし背を預けあう戦場で生きてきた人間は、そのことをよく理解しているものだよ」
 マノンはそっと両目を閉じ、微笑を浮かべます。
「そして」さらに将軍は続けます。「個人の気分一つで簡単に移ろうものであるはずの信頼だが、私のなかにあるあの男への信頼は、なかなかどうして揺るがないのだ。かれこれ十年ものあいだ、言葉の一つさえ交わしていないにもかかわらず」
 目を開き、首を(めぐ)らせ、マノンはみずからを囲む一同の顔を見渡します。
「こんな時にあいつの名を耳にし、まさか助力を要請することになるとは思いもしなかったが、これも一つの天の企みなのかもしれん。さて」一瞬のうちに将軍はいつもの調子を取り戻します。「特務小隊の諸君。この私ヤッシャ・レーヴェンイェルムが全責任を負って許可する。両日中にドノヴァン・ベーム氏のもとを訪ね、協力を仰ぎたまえ」
「了解しました」反射的に、マノンは小さく敬礼をしました。「ありがとうございます、将軍」
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登場人物紹介

◆ミシス・エーレンガート


≫主人公。エーレンガート家に家族の一員として迎え入れられ幸福な日々を過ごしていたが、思わぬ形でコランダム独立の騒乱に巻き込まれ、ノエリィと共に丘の家から旅立つことになった。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫ミシスの親友であり家族でもある心優しい少女。望まぬ形で軍に連行されるミシスを独りにさせまいと、ほとんど押しかけるようにして〈特務小隊〉の一員となる。

◆マノン・ディーダラス


≫本職は科学者であり発明家だが、カセドラ〈リディア〉を守護するため急造された部隊〈特務小隊〉の隊長を務めることになった。同隊が移動式拠点として利用する飛空船〈レジュイサンス〉も、彼女の発明の賜物。

◆グリュー・ケアリ


≫マノンの腹心の助手。彼女に付き従い、ホルンフェルス王国軍極秘部隊〈特務小隊〉に所属する。飛空船での暮らしにおいては、もっぱら料理係と操縦士の役割を務めている。

◆レスコーリア


≫マノンたちに同行するがまま、〈特務小隊〉に加わることになったアトマ族の少女。相変わらず自分流に気ままな日々を過ごしながらも、密かに隊の皆を見守っている。

◆クラリッサ・シュナーベル


≫世界最強の顕術士一族として知られるシュナーベル家の長女。優れた顕術士ばかりで構成される王国騎士団〈浄き掌〉の副団長を務める。グリューとは許婚どうしで、マノンやレスコーリアとも旧知の仲。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫新生コランダム軍を率いる将軍。統一王国からの離脱と祖国独立の宣言を発し、全世界に対し戦後最大級の衝撃を与えた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫新生コランダム軍に所属する軍人。エーレンガートの丘での失態の後、妹のレンカと共に小部隊を率いてミシス一行を追撃する。

◆レンカ・キャラウェイ


≫エーレンガートの丘で勃発したカセドラどうしの戦闘によって重傷を負い、その後しばらくのあいだ治療に専念していた。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫国王トーメ・ホルンフェルスの名代として、マノン一行に〈特務小隊〉としての任務を与えた。以後さまざまな手段を用いて、先の見えない困難な日々を送る同小隊を遠く王都より支援する。

◆ハスキル・エーレンガート


≫愛する娘たちと離ればなれになり、我が子同然の学院校舎が損傷してもなお、決して希望を失うことなく毎日を前向きに生きている。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫幼少時より人知れず抱えていたカセドラ恐怖症の劇的な発作により、長期に渡って入院生活を送っていた。恩師ハスキルに護られながら、徐々に回復へと向かう。

◆ドノヴァン・ベーム


≫十年ほど前に王都から忽然と姿を消した、伝説的な大科学者。レーヴェンイェルム将軍の幼馴染みにして、マノンの恩師。現在の彼の動向を知る者は極めて少ない。

◆プルーデンス


≫ベーム博士と共に暮らすアトマ族の少女。博士とおなじくアルバンベルク王国の出身。幼い頃から過酷な環境を生き抜いてきたためか、非常に気立てと面倒見が良い。

◆〈リディア〉


≫ホルンフェルス王国軍が極秘裏に開発していた最新型のカセドラ。本来ならカセドラが備えるはずのない、ある極めて特異な能力をその身に宿している。操縦者はミシス・エーレンガート。

◆〈フィデリオ〉


≫コランダム軍が新たに開発した特専型カセドラ。操縦者はライカ・キャラウェイ。

◆〈コリオラン〉


≫フィデリオと同一の鋳型を基に建造された姉妹機だったが、リディアとの交戦の末に大破した。かつての操縦者はレンカ・キャラウェイ。

◆〈□□□□□〉


≫???

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