26 善き導き
文字数 7,157文字
「極楽はまだ続くみたいだよ」ミシスがノエリィの肩をつつきます。「ほら、あれ……」
入浴を終えた女性陣は、屋外の浴場から
入ってすぐの部屋が、調理場を兼ねた食堂になっていました。
勝手口から見て右手、つまり建物の背面にあたる壁に、青と白のタイル張りの調理台と流し場が据えられています。その両脇には煉瓦と木材で組まれた棚が配され、さまざまな種類の食器や調理器具、それに香草や漬物の瓶詰が大量に陳列してあります。
家の正面側の壁はほぼ一面が窓になっていて、今まさにそれが五つ子たちの「せーの!」の掛け声と共に全開にされました。清涼な風と森の奏でる音楽が、まるで水栓を全開にしたシャワーのように流れ込んできます。
食堂の中央には巨木から削り出された一枚板のテーブルがどんと置かれ、そのまわりにはこちらもまた樹木の幹を輪切りにしただけの素朴な丸椅子が、いくつも並べられています。
「前、通るぜ」鍋を抱えたグリューが、女性たちの前を通り過ぎていきました。
見ると、もうすでにテーブルの上にはたくさんの料理が敷き詰められています。たっぷりの野菜が溶け込んだ魚介のクリームスープ、こんがりと焼かれた丸パンの山。じゃがいもとソーセージのチーズオムレツ、トマトと蒸しエビの香草サラダ。絞りたてのオレンジジュースに、淹れたてのコーヒー。そして、ほどよく冷えた白ワイン。
「椅子、足りるかしら」プルーデンスが人間の
「さっき数えた。余裕で足りるよ」グリューが応じます。
「そう、よかった」プルーデンスはうなずき、エプロンを外します。「それにしても、グリューの料理の腕前って大したものね。本業のかたわらで、国王付きの料理人も兼ねてたりとか?」
「嬉しいこと言ってくれるね。でもそんな
「ほぉ、めずらしいこともあるものだ。プルーデンスが人の料理を褒めるとはね」ベーム博士が目を見張ります。そして棚から両手にいっぱいのワイングラスを取り出し、ぼんやりと
「どうもこうもありません」マノンが吐息混じりにこたます。「幸せすぎて
「そう? 普段どおりの朝食だけど」プルーデンスが首をかしげます。
「いつもこんな素敵な場所で、こんな素敵なご飯を食べてるんだぁ」ノエリィが羨望のまなざしでぐるりを見渡します。
「まったく上等だよな」グリューが神妙な面持ちでうなずきます。「料理ってのは本来、こういう心地良い場所でゆったりと味わって楽しむものなんだ。それに、この食材たちの新鮮なことと言ったら……。ほら、ちょっとこっち来てみなよ」
手招きされた少女たちは青年に続いて調理場の窓の前に集まり、家の裏庭に広がる菜園を一望しました。たくさんの野菜が植わった畑を、豊かに実をつける果樹が取り囲んでいます。そしてその奥を、きらきらと太陽を映す小川が流れています。
「あたしも家庭菜園には大賛成。きっと作りましょうね、あたしたちの家にも」クラリッサがグリューの手を取りました。
「は?」青年は条件反射的に後ずさりします。
「ふぁはは! 仲睦まじくてよろしい」
笑いながら、ベーム博士はグラスを配ってまわりました。そして当たり前のようにワインの栓を抜きました。
「こんな朝から?」マノンが大袈裟に眉をひそめます。
「いけないかね?」博士は片目をつむってみせました。「誤解しないでくれよ。私だって、普段は朝から呑むなんてことはしない。だが今は、私の素直な心が一杯やったらどうだと告げているのだ」
言いながら博士はマノンの方へ注ぎ口を傾けました。マノンは懐かしそうにほほえみ、素直にグラスを差し出します。続いて博士はグリューにも一杯勧めました。恐縮しつつ、青年もそれを受けます。
「お嬢さんたちはまだ早いかな」博士がミシスたちに声をかけます。
「ワインは好物ですけれど」クラリッサが肩をすくめます。「後でやらなくちゃいけないことがあると思うし、あたしは遠慮しておきます」
ミシスとノエリィ、それにアトマ族たちは、新鮮なオレンジジュースをグラスに注ぎました。
「では」博士が立ったまま全員を見まわし、皆に〈大聖堂〉の印を結ぶよう促します。「大いなるイーノよ。これらの
思いがけず訪れた安らかなひと時を祝福するように、性別も年齢も種族も
「はいはい、それじゃみんな早く座って食べちゃってね。せっかくできたてなんだから」プルーデンスが手を叩いて言いました。
この朝、久方ぶりに緊張感から解放された特務小隊の一行は、自分たちでも呆れてしまうほど大いに食べ、飲み、そして笑いました。
それぞれに話すべきこと、訊きたいことを山ほど抱えているマノン一行とベーム一家でしたが、この宴席が終わるまではと暗黙の了解を交わしあって、心ゆくまで羽を伸ばしました。
テーブルの上に肩を並べて正座し、夢中で食事に没頭する五つ子たちの姿を、ミシスはにこにこしながら眺めました。
「揃っておっとりしてる男の子の二人が、アルとテル。前髪を右に分けてるのがアルで、左に分けてるのがテルね」子どもたちの隣に座っているプルーデンスが、一人ずつ順番に紹介します。「そして揃ってしっかり者の三人娘が、ルビンとシュウとタイン。髪がおかっぱがルビン、肩まで伸びてるのがシュウ、腰まで伸びてるのがタイン」
自分たちの名前が呼ばれるたびに、どういうわけか子どもたちは得意げに胸を張ります。
「よろしくね、みんな」ミシスとノエリィが声を揃えます。
「これだけ顔も体つきもそっくりだと、髪で見分けるしかないね」ノエリィが可笑しそうに言います。
プルーデンスが苦笑します。「そうなんだ。まだ小さいから、男の子か女の子かさえ、ぱっと見ただけじゃわかんないの。その上、声質だってみんなよく似てるし。もうこれしかないって感じで、髪で見分ける方法に辿り着いたのよ。その前は服の色で分けようともしたんだけど、みんなで好きな色の取りあいになっちゃって、それはもうしっちゃかめっちゃかに……」
「あの時は大騒ぎだったなぁ」博士が微笑します。「と言っても、そんなに前のことじゃないね。せいぜい二年くらい前のことかな」
プルーデンスがうなずきます。「この子たちが流れ着いてすぐの頃だったから、だいたいそれくらいね」
「流れ着いた?」ミシスが首をかしげます。
「うん。この子たち、誰かの荷物に入れられたまま、海を漂流してたの」
「えっ?」特務小隊の全員が手を止めました。
「それっていったい、どういう事情?」クラリッサが眉をひそめます。
「今言ったとおりよ」プルーデンスがこたえます。「あれは二年半くらい前の、冬の盛りの日だったわ。明け方頃、耳慣れないイーノのざわめきが砂浜の方から流れてくるのを感じ取ったわたしは、博士を起こして一緒にその正体を突き止めに行ったの。そしたら、人間が使う大きな箱型の旅行鞄が一つ、浜辺に打ち揚げられていた。しんしんと雪の降る、とても寒い朝だったわ。鞄には、持ち主が乗ってたはずの船の乗船券が
手も咀嚼もぴたりと止めたまま、一同はプルーデンスの話に聴き入りました。
「どうして、そんな……」ミシスが息を詰まらせます。
「この子たちを運んでいた者の正体も、この子たちの素性も、今ではなに一つわからない。手帳はインクが滲んでほとんど読めなくなっていたし、そもそも見慣れない暗号を用いて書かれていたからね」博士がグラスをくるくると回しながら話します。「おそらく鞄の持ち主が乗っていた船は、その少し前にどこかの海で沈んでしまっていたのだろう。時々あるんだ。難破した船の部品や積荷が、漂流物としてこの島に流れ着くことが」
「でもさすがに生身のアトマ族が、それも五つ子の幼児が漂着するなんてね。わたしも博士も、その時はほんとにびっくりしたわ」
「うむ。びっくりしたってもんじゃなかったね」
「よかったねぇ。今ではすっかり幸せになっちゃって」ノエリィが目を細めて子どもたちを見つめます。「ところで、プルーデンスと博士はいつから一緒にいるの?」
子どもたちの口や手を拭ってやっているプルーデンスに代わって、ベーム博士がこたえます。
「プルーデンスとは、私の故郷で巡り逢ったのだ。あれからもう十年経つか」
「故郷?」スープを掬う手をぴたりと止めて、マノンが博士の顔を見あげます。「十年前ってことは……ベーム博士、王都を出られてから一度故郷へ帰られたのですか?」
博士はうなずきます。「こんな時でもなければ、もう二度と郷里の土を踏むことはないと思ってね」
「てっきり王都のご出身だとばかり……」グリューがつぶやきます。
「ベーム博士の故郷って、どちら?」クラリッサがたずねます。
「アルバンベルク王国」ワインを一口飲み、博士がこたえます。「かつての、ね。今ではあそこもホルンフェルス王国領だが」
「えっ」青年が目を丸くします。「アルバンベルクっつったら、大陸の最北端じゃないですか」
その土地の名を地図上で目にしたことがあるだけのミシスとノエリィは、かの地の光景について具体的な想像が浮かばず、ただぽかんとしています。
「そう、あの雪と氷に閉ざされた試練の大地、アルバンベルク」なかばしんみり、なかばうんざりしたような口ぶりで、プルーデンスが語ります。「あの土地でずっと一人きりで生きてきたわたしは、村の酒場で博士と出逢って意気投合したの」
「でも十年前って言ったら、あなたまだ子どもだったんじゃない?」レスコーリアが横からプルーデンスの顔をのぞきます。
「ええ。でもあの土地は田舎の方に行けば行くほど人間もアトマ族も少なくて、とにかくなにをするにも人手が足りないの。だからわたし、人間たちの住処で暖を取らせてもらう代わりに、うんと小さい頃から酒場のおかみさんのお手伝いをして暮らしてたの」
「そんな子どもの時から酒場で働くなんて、大変だったんじゃないの?」ミシスが眉根を寄せます。
「まぁ正直言って、ぜんぜん楽じゃなかった。でも」プルーデンスは首をすくめ、ひょいと手を振ると皿からトマトを一つ浮かせました。そしてそれを器用に空中で移動させて、もう一方の手に持つフォークの先にするりと落としました。「生まれつきこの便利な力があったから。アトマ族のわたしには」
「彼女の調理の手際や立ち回りがあんまり見事だったものでね。私はその酒場の片隅で一人酒を呑みながら、感心していたのさ」博士は蝶のようにひらひらと手を揺らします。
「あの日のこと、今もはっきり覚えてるわ」軽やかに舞う手に幼い頃の自分の姿を重ねて見ながら、プルーデンスが言います。「何度目かのお酒のおかわりを持っていった時に、わたし訊いたのよね。なによ旅人さん、そんなにアトマがめずらしいの、って。そしたらこの人、いいや、ただきみの優雅な働きぶりに見惚れていたんだよ、なんて言うじゃない。そんな気の利いたこと言う人なんか、あの辺にはぜんぜんいなかったから、わたしちょっと感動しちゃったわ。それからだんだん興味が湧いてきて、その次に料理を運んだ時に、なにげなく旅の目的をたずねてみたの。博士はそっと首を振って、旅じゃない、ってこたえた。そして、自分はこれからすべてを引き払って新しい人生を始めようとしているところで、その前に故郷をいっぺん目に収めておくためにここを訪れたんだって、話してくれた」
「そうだったなぁ」博士がうなずきます。「その新しい人生っていうのはどこから始まるの、とプルーデンスが訊くから、たしか私はこうこたえたのだ。これからそいつを探しに行くのさ。ずっとあてもなくさまよってきたが、今日この凍てついた大地に戻ったことで決心がついた。新しい家は、絶対に暖かくて心地良い場所に建ててやるぞ、とね」
「わたし、そんなふうに人生を自分の望みどおりに作り変えるなんてこと、それまで考えたことさえなかったから、博士の話を聴いて一瞬で目が醒めた気がしたわ。それでわたし、気がついたらもうエプロンを外しておかみさんにお別れと感謝の言葉を告げていた。無理やりにでもこの人についてって、この人が作る新しい人生ってやつを一緒に見てみたいって思ったから」
「……あなた、けっこう大胆な人なのねぇ」レスコーリアがぽかんと口を開けます。
「旅の連れは求めとらんとは言ったんだが、ちっとも聞き入れてくれなくてな」過去の一場面を思いだして、博士はふっと吹き出します。「はじめはあまりの強引さに戸惑ったものだったが、それでも二、三日ほど一緒に過ごすうちに、お互いずいぶん気が合う者どうしだってことがわかってな。それでそのまま長い旅を共にすることになって、いつしかこんなところまで辿り着いたというわけさ」
「そういえば、僕とレスコーリアもそれくらいの時期に初めて逢ったんでした。なんか奇遇ですね」マノンが微笑します。
「そういう
「さあ、どうだろう。もしかしたらそういうのもあるかもしれないね。あ、それじゃ、きみも僕と似たような体験をするのかな、助手くん」
青年はぶんぶんと首を振ります。「とんでもない。おれと師匠とじゃ能力がちがいすぎて、まともな師弟関係が成立してるかどうかも怪しいもんです。きっと、なにも似ることなんてないでしょうよ」
「え、そうかな」口のまわりにパン屑をくっつけているノエリィが、小さく首をかしげました。「もうすでにけっこう似てるって思うよ、わたし」
「うんうん。わたしもそう思う」ミシスが隣で同調します。
「へ? どこが?」マノンとグリューが声を揃えます。
「う~んと、なんて言うんだろ。性格? とか、気質? が、なんかしっくり合ってるような」ミシスが二人をじっと眺めながら言います。
「そうそう、そんな感じ。一緒にいる時の雰囲気とか、空気感とかが、すごく自然で……」ノエリィが続きます。「いつも、お似合いの二人だなって思ってるよ」
言ってしまってから、途端にノエリィはぎくりと震え上がり、グリューの横で凍りついているクラリッサの顔色をうかがいます。案の定、そこにはとても言葉にはできない恐ろしい表情が顕現しています。
「ちょっと、あなたたち。そういうの、あたしの前で口にする話題として、非常にふさわしくないのではなくって?」
「ご、ごめんなさい!」動揺したノエリィが椅子を突き飛ばすように腰を浮かせます。「そうですね、言葉がちょっと、あれでした。えっと、えーっと、その、つまり……」
「じゃあ、相性がぴったり、っていうのは?」ミシスがぽんと両手を合わせて、無邪気にほほえみます。
「もっと酷いわよ!」クラリッサがばしっとテーブルを叩きます。
「ふぁはは!」ベーム博士が大きな口を開けて笑いました。「お嬢の仲間は、みんなほんとに愉快だな」
博士につられて、他の面々も一緒に笑みをこぼします。
「まったくもう……」ただ一人まったく笑っていないクラリッサが、みずからの顕術で宙に浮かせた林檎に思いきり噛みつきました。
こうして、朝のひと時は過ぎていきました。
その後手分けして食後の片づけを終えた一行は、食堂のすぐ隣の居間へ移動しました。家屋のちょうど中心部分を占めるその部屋は、正面玄関から入ってすぐの位置にあります。床面積は食堂とさほど変わりませんが、壁の大部分が天井まで届く書棚で覆われ、さらには奥の方にある博士の書斎の一画に謎の機器類や荷物がぎゅうぎゅうに積まれているため、体感的には食堂の二倍狭く、三倍暗く感じられます。
すぐにプルーデンスが玄関のドアを開け放ち、続いて博士が書斎のがらくたを押しのけて窓を全開にして、光と風をめいっぱい招き入れます。鳥たちの囀りと樹々の葉音、そしてかすかな波の音や小川のせせらぎも、風に乗って静かに入り込んできます。
居間の真ん中には互いに向きあうような並びで古い革張りのソファが四つ配置されてあり、一行は博士に勧められるがままそこに腰をおろしました。
互いに顔を突きあわせる一同の姿を、玄関から射し込む光がくっきりと照らしだします。天井に取りつけられた扇風機が、きしきしと回転しはじめます。ぐるりを包囲する膨大な書物、そして床に敷かれた分厚い絨毯が、人間の物音や息遣いを一つ残らず吸い込みます。
「お茶いらない?」プルーデンスがベーム博士のすぐ後ろの背もたれに腰かけ、たずねました。
博士とマノンは首を振ります。
「さぁ、どこから話そうか」博士が穏やかに口を開きました。
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