7 ちょっとわるいことしてるみたいな感じ
文字数 4,973文字
「かわいいよ」隣に立つミシスがほほえみます。
「うんうん、似合ってる」船外まで二人を見送りに出てきたマノンが、にっこりとしてうなずきます。「あ、でも待って。こうした方がいいかな」
マノンはノエリィの背後に回ってお団子の髪をほどくと、ぜんたいを結い直して帽子のなかにすっかり収めてしまいました。
「ははは。男の子みたいだな」少女たちの正面に立つグリューが笑います。
今日のミシスとノエリィは、二人揃って色鮮やかな柄物のストールで上半身を覆っています。グリューの話によると、こうした着方はビスマス地方の伝統的な日除けの様式であるらしく、町にはおなじような格好をした老若男女が大勢いるのだということです。それにノエリィは、今しがた青年に指摘されたとおり、髪の毛を隠されたことで性別の判然としない姿になっています。
一方のミシスは、ノエリィよりもさらに厳重に、頭をまるごとターバンで封印されています。それに加えて、こちらもマノンから貸し出されたものである緑色のレンズの
「これ、きついなぁ」かちこちに布の巻かれた頭を抱えて、ミシスがうめきます。
するとミシスの首からぶら下がっているポーチのなかから、レスコーリアがひょっこりと顔を出しました。
「我慢なさいな。あなたの髪の色は、目立ってしょうがないんだから。それくらいきっちり隠しとかないと」
「うぅ、わかってるけど……」
「そのうち気にならなくなるって」マノンが苦笑します。そして少し離れて少女たちのいでたちを点検します。「良い感じだね。どこからどう見ても、いつものきみたちとは別人だ。まるっきり、この辺の土地の人みたいだよ」
「ほんと、うまく化けたな」グリューが感心します。「これなら誰にもわかるまいよ。……よし、それじゃいいかい、二人とも」
少女たちは気をつけの姿勢を取ります。
「あんまり心からくつろげはしないかもしれんが、とにかく今日はできるだけ楽しんでおいで。さっき渡したお金だって、王国軍からきみたちに支払われた正当な給与なんだからね。遠慮なく使うといい」
「ありがとう」二人は口を揃えます。
「だけど一応、どんな時でも警戒は怠らないこと。もしなにかあったらすぐに携帯伝話器でおれたちに連絡するか、場合によっては憲兵やまわりのおとなに助けを求めること。そして、たとえ何事もなくたって、必ず陽が沈む前までには帰ってくること。わかったね?」
少女たちはうなずきます。
「よろしい。じゃあノエリィ、昨日おれが説明した道筋はちゃんと把握してるな?」
「ばっちりだよ。昨夜寝る直前まで地図を頭に叩き込んだから。それに――」
「わたしも一緒に覚えたからね」ミシスが続きます。
「よしよし。では、気をつけていってらっしゃい。素敵な一日を!」マノンが笑顔で手を振ります。
「いってきます!」二人は元気よくこたえました。
たった二晩の手ほどきしか受けていないにもかかわらず、ノエリィの運転技術は実にしっかりとしたものでした。ミシスはバイクの後部席に座ってノエリィの腰に抱きつきながら、すいすいと障害物を避けて荒野を駆け抜けていく見事な腕前に感服し、自分の心配は本当にただの取り越し苦労だったんだなと思って、小さく吹き出しました。
「なぁに?」ノエリィが首をかしげます。「今笑ったでしょ?」
「わくわくしてきたんだよ」ミシスが大声でこたえます。「ノエリィ、運転ほんとに上手だね」
「そうかなぁ。こんなの、自転車とそこまで変わらないよ。今度教えてあげるから、ミシスも覚えたらいいよ」
「うん。そのうち気が向いたら、ね」
二人のあいだにぴったりと挟まれていたレスコーリアが、ポーチの口を押し上げて周囲を見渡します。そして少女たちに向かって叫ぶように声をかけます。
「そろそろ道路が見えてきたんじゃない?」
「うん、ずっと向こうに見えてきた」ノエリィがこたえます。
「わかってるわね?」レスコーリアが問いただします。
前方を見据えたまま、ノエリィはうなずきます。
小さな少女を見おろして、ミシスが念のために確認をとります。「この道は使わない。だよね?」
「そのとおり」
昨晩、グリューが説明してくれました。
……あれこれでかい口を叩いちゃいるが、法に基づく観点から見たら、コランダムはあくまで一方的に王国からの離脱と独立を宣言しただけの、いわば
おれたちの潜伏地点からいちばん近い場所に敷かれた道路は、パズールに直結する本街道に合流するまでのあいだは、人通りも車輛の交通量もそこまで多くない道だ。そんなところをきみたちみたいな細っこい二人組が特別仕様のバイクに乗って走ってたら、そりゃもうめちゃくちゃに目立つだろう。
だから、いいかい。いっそのこと最後まで、道路は使わない方がいい。
さっきおれが教えた通りに進んで、最初の道路が見えてきたら、そいつは無視してまっすぐ北西の方角へ突っ切るんだ。ちょっと勾配のある丘陵が続くが、このバイクでなら問題なく走れるだろう。
そうしてしばらく直進すると、オアシスみたいに
そこから先は、周囲の目をほどほどに気にしつつ、状況によってはレスコーリアの注意や指示に耳を傾けつつ、好きなように町遊びを満喫しておいで。……
少女たちは言われたとおりの道を辿りました。
たしかに、公園の外れのあたりには、人の気配がまったくありませんでした。樹々のずっと向こうにかいま見える広場の方から、町の喧騒がほんのかすかに漂ってくる程度です。
少女たちは木漏れ日の一つさえ届かない茂みの奥にバイクを押し込み、迷彩模様の大きな布でその車体を包み隠しました。
「へへへ……」企むようにノエリィが笑いました。「それじゃ、行きますか!」
「うん!」ミシスが満面の笑顔でこたえます。
つられてレスコーリアも頬をゆるめます。
「まったく、二人ともほんとに嬉しそうなんだから」
「そりゃあそうだよ! ……それにさ、こう言っちゃなんだけど、この、ちょっとわるいことしてるみたいな感じも、なんかどきどきして、楽しいな~……って思わないこと、ミシスさん?」ノエリィがしたり顔で振り返ります。
「もう。相変わらず呑気なんだから、ノエリィったら」レスコーリアがやれやれと首を振ります。「ミシスは、いくらなんでもそんなこと……」
しかし二人から同時に視線を向けられたミシスは、口を両手で隠してばつがわるそうに目を泳がせています。
「……そんなこと、あるみたいねぇ」ノエリィがにやにやしながらミシスの腰に腕を回しました。
「で、でも、ちゃんと気をつけようね」取り繕うようにミシスが言います。
「わかった、わかった。気をつけましょうね~」ターバンを巻かれた頭を撫でながら、ノエリィがうなずきます。「さて、まずはどこへ行こっか?」
「わたし、海が見たい」ミシスが手を挙げます。
「そっか。ミシスは海を見たことがないんだったね」言いながらノエリィは
「海……うん、見た覚えがないんだ。本物は」
ふいにミシスは、虚空の一点をじっと見つめます。
「本物? どういうこと?」レスコーリアがぴくりと触角を揺らします。
「今までずっと忘れてたけど、急に思いだした。一度、夢のなかで海みたいなものを見たことがあった気がする」
「へえ。そんなことがあったんだ」海を見るのにいちばん適した経路はどれかと地図上を探りながら、ノエリィが言います。「初耳。どんな夢だったの?」
「もうほとんど覚えてないけど、なんか、けっこう怖い夢だったかも……」
その瞬間、ノエリィが勢いよく地図を折り畳みました。そしてミシスの手を取り、ぎゅっと握りしめます。
「まっ、そんな古い夢のことなんか忘れちゃって、今日は思いきり楽しもうよ。パズールの町はタヒナータとはまたぜんぜんちがってて、すごく面白いよ。小さい頃にお母さんと遊びに来た時から変わってなかったらね」
「へえ~」ミシスも気を取り直して瞳を輝かせます。「早く見てみたい」
「よぉし。じゃあわたしについてきて。出発進行!」
「おー!」
一行は鬱蒼とした区画を抜けて、芝生の広がる公園の中心部へ出ていきました。視界が大きく開けると同時に、そのあたりからようやく人影が散見されはじめました。顔に新聞を載せて眠ったり、のんびりと地面に腰かけて友人や恋人とお喋りしたり、犬にボールを投げてやったりして気ままに過ごしている、どこからどう見ても邪気のない一般市民たちです。
真っ青な空には夏の太陽がいささかの躊躇もなしにふんぞり返っています。海から吹き上げる風は穏やかで、大気は熱く湿っています。繁華街が近づくにつれ、ひりひりと肌を焦がすような活気が伝わってきます。
少女たちはなに食わぬ顔を装い、平然とした足取りで公園を通過しました。ミシスの胸のポーチから
この調子だと、とくに心配することもなさそうね、と彼女は思います。
並んで歩く少女たちに目を留める者は、周囲のどこにもいないようです。二人の服装も挙動も、まったく違和感なくこの土地に溶け込んでいると見てよさそうです。
ただ、この時、彼女の胸中で、かすかに引っかかっていることがありました。
(夢……)
レスコーリアは口のなかで音にせずつぶやきます。
一人ぼっちで、見知らぬ砂漠の真ん中に倒れていた少女。
すべての記憶を失っていた彼女に残されていたのは、ただその〈ミシス〉という名前だけ。聞くところによると、彼女はその名前をいつか見た夢のなかで知ったのだといいます。
記憶のない人間が見る夢とはどんなものかと興味をかき立てられたレスコーリアは、以前ミシスにその夢の内容についてたずねたことがありました。
しかし、「ぜんぜん覚えてない」というのが、少女の率直な回答でした。
その言葉に嘘がないことは明白だったので、レスコーリアはそれ以上、少女になにも質問することはありませんでした。この件についてあれこれ追求したり考察したりしても、きっとまともな成果はなにも得られないだろうと、彼女は判断したのでした。
でもだからと言って、記憶のない人間が見る夢というものについての関心を完全に失ったわけでは、ありませんでした。
少女たちと一緒に町を歩くこの時にも、海を見たことがない少女の内奥世界に顕れた海の悪夢の存在が、なんだかやけに彼女の心をざわつかせていました。
ねぇ、それはどんな夢だった?
あなたのほかにも誰か出てきた?
なんでもいいから覚えてることってない?
そう問い詰めたくてたまらなかったけれど、今、この年相応の無邪気な笑顔を浮かべる少女の前で、そんな野暮ったい話題を蒸し返すなどということは、レスコーリアにはどうしてもできないことでした。
やがて、異国の街並みにいちいち感動してはしゃぐ二人の興奮が、否応なく彼女にも伝染していきました。一緒になって町歩きを楽しむうちに、頭の片隅に残り続けていた不穏な疑念は、小さな少女のなかから少しずつ薄れていき、そして彼女自身にも気がつかないまま、いつしかきれいさっぱり消えて去ってしまいました。
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