51 希望はなくなりません
文字数 4,143文字
だからこそ、わたしたちが帰ってくるまで決してこの屋根から外には出ないように、と指示された時にも、子どもたちは信頼を保証する深いうなずきでもって、それにこたえました。
そんな五人を誇りに思いつつ立ち上がったプルーデンスは、単身まっしぐらに森の奥へと飛び込み、自分が唯一太刀打ちできる相手である黒ずくめのアトマ族の男に、真後ろから渾身の体当たりを食らわせました。
彼が両手で抱えていた散弾銃が、がしゃっと音を立てて地面に落下しました。
クラリッサは瞬時に状況を見極め、猛烈な速度で振り返ると、黒髪の男と白髪の坊主頭の男が手にしていた拳銃を顕術の力で弾き飛ばしました。
それとほぼ同時に身をかがめて体術の構えを取ったベーム博士が、大気を切り裂く掛け声と共に、武装を解除された二人の男を立て続けに地面へと引きずり倒しました。
突然の暴挙にうろたえるバンダナの若者の腕のなかから、すかさずノエリィが逃走します。若者は血相を変えてナイフを振り下ろしますが、その時にはすでにノエリィは樹々の狭間に駆け込んでいて、なにかを探し求めるように必死にあたりを見まわしていました。
ナイフの柄を両手で握り込んだ若者は、甲高い奇声を発しながら少女めがけて突進します。
少女は体の奥から迸り出てきたかつてない勇気と集中力に突き動かされ、それを横跳びで回避します。
ほんの一カ月前までの自分だったら――と、少女はこの瞬間、やけに冷静にみずからを観察していました――ここで転んでおしまいだったかもしれないな。
しかし今この時、少女の両足はがっしりと足裏ぜんたいで大地をつかまえていました。そして――そして、少女はここで起こった出来事を、これから先の人生で時たま折に触れて不思議な感慨と共に思いだすことになるのですが――とつぜん自分の頭が、まるで誰かの手でつかまれて意図しない方向へ勝手に振り向けられたかのように動き、そのまま地面のある一点を目指して、両目の焦点が結ばれることになりました。
その先には、ちょうど良いあんばいの、剣にそっくりな形をした樹の枝が落ちていました。
柄にあたる部分を見定めて少女が枝を拾い上げた直後、バンダナの男も、その新たに
「こいつ!」
唇をべろりと舐めて、男はなおも一心不乱にナイフを突きつけます。
けれどノエリィの迅速な踏み込みと、凶器を握る手の甲に木剣が叩き込まれるのが、わずかに先んじました。
「よぉし!」ベーム博士とクラリッサが、拳を打ち打って
一方、草葉に覆われた地面の上で、ぶつかりあった衝撃のためにふらふらと身を揺らしている二人のアトマ族が、それぞれに再浮上しようと奮闘していました。
黒ずくめのアトマ族の男は、落としてしまった自分の得物を慌てて探し、見つけるやいなや一目散にそちらへ飛びつきます。しかしクラリッサがそれを見逃すはずもなく、ぬらりと黒光りしている銃身を顕術の圧力でぐしゃりとへし曲げると、これもどこか遠くへと投げ飛ばしてしまいました。
「おのれ!」
アトマ族の男は血眼になって両手を前へ突き出し、それを天へ向けて一気に振り上げます。
倒れ伏す白髪の男の腰に携えられていた警棒が、アトマの渾身の顕術によってまっすぐに射出されると、そのまま目にも留まらぬ速さでベーム博士の顔面へ向かって突進しました。とっさに身をひねる博士でしたが、すんでのところで間に合わず、左のこめかみに直撃を受けてしまいました。
眼鏡の片方のレンズにひびが走り、目の横の皮膚が裂けて鮮血が吹き出します。
「ドノヴァン!」
プルーデンスが身を切るような叫びを放ち、博士のもとへ飛んでいきます。しかし体当たりの余韻がまだ残っているのか、羽や脚がもつれて思うまま舞うことができず、よろよろと低空をさまよいます。
「ぐおぁあ!」
打ち据えられた手を抱えてうずくまっていたバンダナの男が、
「しまった……!」クラリッサが歯噛みします。
「プルーデンス!」流れる血もそのままに、博士が駆け出します。
「止まれっ!」
バンダナの男は自由の利く手でプルーデンスの腰から下を丸ごとつかみ、もう一方の青紫色に腫れ上がった手で、薄く透明な二枚の羽をまとめて乱雑に握りしめました。
「あうっ……!」
痛みに頬を引きつらせるプルーデンスの姿を、ベーム博士が顔色を真っ白にして見つめます。そして、直視するのも
「な、なんだ、その顔はぁ!」男は唾を飛ばし怒鳴ります。「おれに手を出してみろ。この女の羽を引きちぎって、頭を握り潰してやる」
「させるかよ」博士は腹の底から唸ります。「もし彼女に傷一つでもつけてみろ。貴様の全身を切り刻んで生涯消えない苦痛を与えてやる」
「つ、強がりを! おれは、おれは本気だぞ!」
「痛っ!」プルーデンスが悲鳴を上げます。
博士は白い頬を深紅の血に染めて、言葉にならないおぞましい咆哮を喉の奥で轟かせます。
その震える肩に、ぽん、と華奢な手が置かれます。
それだけで博士の激昂が収まるはずはもちろんありませんでしたが、ほんの少しの正気を取り戻すだけの効果は、かろうじてありました。
博士は錆びた
クラリッサはきっぱりと首を振り、真顔で言いました。
「ここまでです。ベーム博士」
森のなかから姿を見せたベーム博士が負傷しているのを確認したマノンたちは、飛空船の操舵室内でいっとき怒りで我を忘れました。
「あ、あいつら……」マノンが全身をわなわなと震わせます。
「マノンさん?」ミシスの声がリディアの操縦席から届きます。
「……博士たちが出てきた」グリューが努めて冷静に状況を伝えます。「博士が怪我をしてる。見たところ、致命傷ではなさそうだが……」
「そんな」ミシスは体じゅうに鳥肌が立ち、冷や汗がじわりと滲み出るのを感じます。「ノエリィは? 他のみんなは?」
「ノエリィは……」青年は双眼鏡を目に押しつけます。博士の横に、ちょうどノエリィも出てきて立ちどまったところでした。「ノエリィは、見たところ無傷だ。そして……」青年の視線の先、ノエリィと反対側の博士の脇から、クラリッサが姿を見せます。「……クラリッサも」
「ちょっと待ってよ」レスコーリアが乾いた笑みをこぼします。「なんであのじゃじゃ馬が無事なのに、あんな雑魚どもに服従してるわけ?」
今しがた自分たちのあずかり知らないところで雑魚呼ばわりされた〈緑のフーガ〉の一団が、ベーム博士たちの背後から続々と姿を現し、眼前にそびえる飛空船をこわごわと見あげます。
「あっ……!」グリューが小さく叫び、マノンに双眼鏡を渡します。
それを受け取って眼下の現状を確認すると、彼女はさらに身震いします。「……なんて汚いやつらだ」
「どうしたんです」ミシスが息を止めてたずねます。
「プルーデンスが捕まってる」レスコーリアが歯を食いしばります。「アトマの羽を……あいつら……!」
「船内にいる連中!」黒髪の男が大声を発します。「全員、姿を見せろ!」
レスコーリアはさっと操舵室の奥へ身を隠します。マノンとグリューは煮えたぎる嘆息を吐きながら甲板へ出ると、並んで立って地上の面々を見おろしました。
白髪の坊主頭の男が手配書を手にして告げます。「もう一人いるはずだ! ミシス・エーレンガートという名の少女が! そいつはどうした!」
「待て」黒髪の男がさっと手を挙げます。「忘れたか。こいつら、カセドラを一体所持してるって話だったろ」
「じゃあ残りの一人は、そいつのところか」白髪の男が眉根に皺を寄せます。
「おい聴こえてるか、カセドラと一緒にいるっていう娘! くれぐれも妙な気を起こすなよ!」舌をもつれさせながらバンダナの男が喚きます。「もし少しでも船内から変な物音が聴こえたら、その瞬間にこのちびをやっちまうからな」
マノンは身に着けているベストの胸もとに忍ばせた伝話器に顔を寄せ、唇を動かさないよう用心しながら、そっと語りかけます。
「聴いてたね、ミシス」
「はい。ぜんぶ」
「一応訊くけど、そこから顕術でどうにかできたりは……」
「だめです」ミシスは即応します。「この視界だと無理です。わたしの習いたての技じゃ、上手くいきっこありません」
「……そっか」
「それにたとえできたとしても、わたしたちの仲間に危険が及ぶ可能性が少しでもあるのなら、その選択はまず除外します」
「うん。……でも」
「マノンさん」
「うん」
「あなたの恩師を。彼の愛する家族を。グリューの大事な人を。そして、わたしが自分の命より大切に思っている友だちを傷つけてまで守らなきゃいけないものなんて、いったいどこにあるんですか」
「……うん」
「大丈夫です。希望はなくなりません。なんとかなります。なんとかしましょう。わたしたちみんなの力で」
マノンとグリューは密かに顔を見あわせ、それぞれの胸の奥から湧き上がってきた熱い光をその瞳の表面にまで引っぱり上げました。
「やっぱりおれたち、根っからの軍人にはなりきれないですね。たぶん、これからもずっと」
グリューが耳もとでささやくと、長い赤髪を風になびかせる彼女は、肩をすくめて微笑しました。
甲板上で交わされた一連の会話を耳を澄ませて聴いていたレスコーリアは、極めつきの苦笑を浮かべて、やれやれと首を振りました。
それからおよそ小一時間の後、
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