43 新しい羽
文字数 6,662文字
小さな少年を囲む一同は、額を寄せあって博士の示す箇所を凝視します。
「ほら、ここのところ……」博士が羽の付け根を指差します。
「……なんですか、これ」ミシスが息を呑みます。
糸のように細く薄い脈が無数に走っている、うっすらと青みがかった透明の二枚の羽、その根もとのあたりに、赤黒く凝固した血液のようなものが貼りついています。一見すると怪我の跡にできる
「これが、これから一晩かけて羽ぜんたいを覆っていく」博士はそっと羽を閉じます。「そしてそれからさらに半日から一日かけて、この瘡蓋のようなものが少しずつ剥がれ落ちていく」
プルーデンスが少年のかたわらにひざまずき、顔と首の汗を丁寧に拭い、氷嚢の位置を正してやります。そして背中の下に敷くタオルを新しいものと交換します。それまで敷かれていたものは、血液や浸出液のようなものでべっとりと濡れています。最後にお腹に毛布をかけてやると、額に冷水で絞った小さなタオルを載せます。
「これ、すっごく痛いのよね」グリューの頭上で膝を抱えているレスコーリアが言います。「あんまり痛くて、熱くて、苦しくて、ほとんど気絶して過ごしたから、ほとんど記憶に残ってないんだけど」
「あなた、いくつの時だったの?」プルーデンスが顔を上げてたずねます。
「14の時。あなたは?」
「わたしは、13の時」
「アルは今いくつ?」
「……正確にはわからないけど、たぶんまだ7歳くらいよ」
レスコーリアは体こそ動かしませんでしたが、その両目をかっと見開きました。「それは……」
「早すぎる」立ち上がりながら、ベーム博士が言います。「〈羽化熱〉。医学的な正式名は、〈アトマ
「でも個人差がけっこう大きいの」プルーデンスがアルの寝顔を見つめます。「わたしがこれまで聞いたことのある話では、早ければ8歳、遅くて18歳、という例もあるみたい」
「その早い例より、さらに早いわけだ」グリューが思案げに腕を組みます。「可哀想に。まだ小さいから、ずいぶん辛いだろう」
「でも羽化熱で命を落としたり、後遺症が残ったりするということは、決してないわ」レスコーリアが断言します。「だから、本人はしんどいだろうけど、そこまで心配しなくても大丈夫よ」
「あの……」ミシスがきょろきょろと首を回します。「みんなやけに落ち着いてるけど、いったいなんなんですか。この、羽化熱って」
彼女と肩を寄せあうノエリィをはじめ、この場に集う全員が、一斉にはっとしてミシスに視線を注ぎます。
「……そっか。ミシスは羽化熱のこと、今日初めて知ったんだね」なにやら途端に険しい顔つきになって、マノンがつぶやきます。
「羽化熱っていうのは、アトマの子どもの羽が生え変わる時に発症する病気なのよ」プルーデンスが説明します。「といっても、ほんとにまるきり新しい羽が生えてくるわけじゃないよ。元からある羽がもっと丈夫でしなやかなものに変化するために、すべてのアトマ族が一度は経験しなくてはならない、いわゆる宿命の病なの。まぁ、一種の通過儀礼みたいなものね」
プルーデンスにぴたりと身を寄せている四人の子どもたちが、それを聞いて今にも泣きだしそうな顔になります。
「ぼくも、みんなも、こうなっちゃうの……?」顔色を真っ青にしたテルが、プルーデンスの羽をくいくいと引っぱります。
格別に明るい笑顔を作ってから、プルーデンスはくるりと振り返って四人の肩を撫でます。
「ええ、そうよ。でも心配はいらない。ほんの一日か二日、眠っているうちに終わっちゃうものだから。アルだって、すぐに元気になるわ」
「ほんと?」三人の女の子たちが声を揃えます。
「ほんとですとも。わたしが嘘を言ったことある?」
四人はぶんぶんと首を振ります。
「それより問題は……」
ぽつりとつぶやくと、プルーデンスはミシスとノエリィの方へ顔を向けます。ノエリィはこくりとうなずき、ちらりとミシスを見やってから、やけに神妙な調子で口を開きました。
「わたしはたしか、11歳くらいの時にかかった。列車で出かけた旅行から帰った翌日のことだったから、きっと車内にアトマの子どもがいたんだと思う」
レスコーリアが眼下にあるクラリッサの頭頂を見おろします。「じゃじゃ馬、あんたは今いくつなのよ」
「……なんかいろいろ無礼な気がする質問だけど」むすっとした表情でクラリッサはこたえます。「今年で18よ」
「じゃあもう大丈夫かしらね」
「大丈夫もなにも、あたしもあんたたちと知りあう前にかかったことがあるわ。うちの屋敷には家族ぐるみで住み込んでるアトマの一家がいたから」それから彼女は青年にたずねます。「グリューはたしか……」
「おれは結局かからないままこの歳になった」青年は簡潔にこたえ、マノンの方へ目を向けます。「師匠は……」
「レスコーリアが発症した時、一緒にかかった。その時、僕も14歳だった」マノンが頬に手のひらを添えて記憶を探ります。「あの時は二人して寝込んだよね」
「今となっては懐かしいわ」レスコーリアがくねくねと触角を揺らせます。「まぁ寝てれば治るものだからよかったけど、なかなかきつかったわね。あの時は、迷惑かけたわ」
マノンはなんでもなさそうに首を振ります。
ノエリィがミシスの目をじっと見つめます。
「ミシスはきっと、かかったかどうか覚えてないよね。わたしたちと出逢う前に……」
一人だけまったく話についていけず、ミシスは右に左に首をかしげるばかりです。
「きみたちが知りあってから、ミシスはまだかかっていないということだね」
博士がたずねると、皆同時にうなずきます。それを見届けると、どことなく気の毒そうな面持ちを浮かべて、博士はミシスに語りかけました。
「ミシス。きみは初耳のようだね。この羽化熱を発症したアトマの体からは、特殊な細菌が発生するんだ」
「えっ」ミシスは絶句します。「さ……細菌?」
博士はうなずきます。「そう、細菌。目には見えない、五感でも感知できない、大気中に散らばる極小の微生物群だ。その実態についてはいまだ完全には解明されていないのだが、おそらくはアトマの肉体を構成するイーノの組成が劇的に変化することによって生じる副産物、いわば老廃物の一種であると言われている。そして、こいつは……」
「人間にもね、伝染しちゃうんだよ」意を決したノエリィが、思いきって宣告しました。
顎の髭をさすりつつ、博士が再びうなずきます。「その原理や因果関係も、よくわかっていないのだがね。しかしアトマ族と人間だけが持つ発顕因子に関連する現象であることは、たぶんまちがいのないところだろう」
「でもわたし、わたしの体に発顕因子は……」ミシスは顔をしかめます。
「前に話したろ」グリューが言います。「発顕因子は、程度の差こそあれ全人類の身に宿ってるって」
「そうなのよ」レスコーリアが続きます。「だから羽化熱を発症したアトマ族の近くにいる人間は、誰もがほぼ確実に感染してしまう。そして、これはきっと人間の体があたしたちより大きくて頑丈だからだと考えられてるんだけど、だいたい十代の後半を過ぎたら、一気に人間への感染率は低下、いえ、ほぼ消滅するの」
「ああ、だからみんな年齢のことを……」
「ま、だけど人間の場合もアトマと一緒で、一度かかっちゃえば抗体が生成されて二度と感染することはなくなるんだけどね」レスコーリアが補足します。
「ミシスは今いくつなんだろう」博士がノエリィにたずねます。
「正確にはわかりません。でも、15か16、つまりわたしとおなじくらいだと思うんだけど……」
「これまでにかかったことがないのなら、まだじゅうぶんに感染する可能性はあるわね」レスコーリアがあっさりと告げます。
いよいよ怖気づいたミシスは、恐るおそるアルの寝顔に見入ります。
「なら、わたしも、もしこれまでにかかったことがなかったら、アルくんみたいになっちゃうかもしれないの?」
どことなく申しわけなさそうに、プルーデンスがうなずきます。
「でもわたし、羽なんか生えてないよ」
ミシスが不服そうにこぼすと、ノエリィが苦笑しながらその背中を撫でました。「羽がなくても、かかっちゃうんだよ」
「そんなぁ。じゃあもしかしたら、わたしは背中が、こうなっちゃう……?」
「ううん。人間の場合は、熱が出たり体が
「風邪……。わたし、まだ風邪ってやったことない」
マノンが同情の念を込めてほほえみかけます。「過去のどこかの時点でかかったことがあることを、祈るしかないね」
新しい人生を開始して以来初めて直面する、自分の健康が不可視の要因によって脅かされるという恐怖と焦燥に
「まったく、心配事は尽きないね……」マノンがかぶりを振ります。「でもだからって、慌てたり焦ったりしても、なんにも良いことはない。これまでどおり、努めて冷静に、心を落ち着けて、物事に当たっていくとしよう。みんなで力を合わせて、ね」
その言葉を受けて、一同はそれぞれに気を取り直して互いとみずからを鼓舞しました。
ひとまずその場では、プルーデンスとベーム博士がアルの看病にあたることになりました。
雨はさほど強くはありませんが、しかしまったく降り止む気配もなく、間断なく均一に大地を濡らし続けています。
もったりと立ち込める霧が、まるでこの島そのものが蜃気楼の産物であるかのように演出しています。
ミシスとノエリィの剣の稽古も今日は中止、リディアの顕術訓練も取り止めになりました。
プルーデンスが看病にかかりきりなため、主にグリューとミシスとノエリィが食事の支度をします。マノンは居間のソファに座り込み、ラジオで報道番組を小さな音で鳴らして、それに耳を傾けながら片手間でクロスワードパズルを攻略しています。クラリッサは食堂で四人の子どもたちの勉強を見てあげています。
昼食の後もプルーデンスはアルのそばを離れず、ベーム博士だけがノエリィと交代しました。食堂にやって来た博士にミシスが容態をたずねると、彼は少女を安心させるように微笑して、心配ない、ただ眠っているだけだよ、とこたえました。赤い
床に
窓は一つ残らず閉めきられ、すべての部屋にありったけの燭台とランプが灯されました。
グリューと一緒に丁寧に作った滋養たっぷりの野菜スープを、人肌になるほど冷ましてから、小さな椀に注いでミシスがアルのもとへ運びました。
どろどろとした赤疹は、今では羽をくまなく覆うほどになっています。
少々やつれたプルーデンスがミシスに礼を言って、アルの体をゆっくりと抱き起こすと、その半開きになった唇のあいだにスープを少しずつ流し込んであげました。熱が相当に高いらしく、少年の小さな顔は熟した林檎のように真っ赤で、唇はそれとは正反対に血の気を失って紫色になっています。髪の毛も乱れに乱れて、大量の汗で額や首にぺったりと絡みついています。
食器を下げ、プルーデンスもいったん夕食をとるためにミシスと連れ立って食堂へ入ると、今度はクラリッサとグリューがその間の看病を引き受けました。
さすがに雨のなかでお風呂を沸かすわけにもいかないので、この夜は洗面室の一画にある簡素なシャワー室で全員済ませました。
宵っぱりのマノンとグリュー、そしてベーム博士は、それからも居間や書斎で読書や研究をしたり、なにかにつけてぼそぼそと小声で議論を交わしあったりして過ごしました。
他の少女たち、それに四人の子どもたちは、とくにやるべきことなかったので、早々に寝巻に着替えて寝室に集まり、まだ荒く息をして眠り込んでいるアルを囲みました。
「みんな、今日は力を貸してくれて本当にありがとう」プルーデンスが頭を下げました。
少女たちは一様に首を振ります。
「具合どう?」ミシスがたずねます。
「まだ幼かったのが、かえってよかったと思うよ」たらいの水に新しいタオルを沈めながら、プルーデンスは吐息をつきます。「無駄に体力があって目を覚まし続けてるより、こうして熱に圧倒されて気を失ってる方が、よほど苦しまずにすんだと思うわ」
ミシスの膝の上に寝そべるレスコーリアが同意します。「言えてる。きっと目覚めたらなんにも覚えてないわよ」
「そうだといいわ」プルーデンスが小さく笑いました。「さて、じゃあもう灯りを落としていいかしら。この子も、その方がいくらか落ち着くだろうし」
全員うなずき、そっと立ち上がります。その際ノエリィがふいに思い立ち、自分の胸もとに光るアリアナイトのペンダントを外してミシスにたずねました。
「今だけ、アルくんに貸してあげてもいいかな」
「え?」
「ほら、アリアナイトには治癒の効果があるって、博士が前に……」
「あぁ、そういうこと。うん、もちろんもちろん」
ノエリィはにこりとして、ペンダントをアルの枕の横に置きました。近くの壁に掛けられた燭台の炎が映り込み、その神秘の結晶と銀の鎖を淡く輝かせます。
「ありがとう」プルーデンスが二人にほほえみかけました。
クラリッサが指先を振るって顕術の風を送り、出入り口の脇にある一つを除く室内のすべての燭台の火を吹き消しました。
「プルーデンス、後であたしが交代するから。それまで一眠りさせてもらうわね」
「すまないわね、クラリッサ」
「わたしたちにも、なにかあったらすぐに声をかけてね」ミシスとノエリィが口を揃えます。
「うん。助かるわ」
言いながらプルーデンスは自分の身をアルの隣にそっと横たえます。そのすぐそばでは、四人の子どもたちが一列に並んですやすやと寝息を立てています。
「みんな、おやすみ」
「おやすみ」少女たちはこたえ、それぞれの寝床に潜りました。
想定されていたとおり、その日の深夜に、アルの羽根はびっしりと赤疹に覆い尽くされました。悪夢に捕まってでもいるのか、手足を激しくばたつかせながら、少年は最後の激闘をその小さな体のなかで精一杯戦い抜きました。
明け方近くになって、少年の容態を見守っていたプルーデンスとクラリッサ、それにこれから仮眠を取ろうとしていた三人の研究者たちの目の前で、羽の根もとの方から乾いた瘡蓋が剥がれはじめました。そしてその下から、言葉を失うほどに美しい、強く生まれ変わった透明な羽が姿を現します。
まるで荒廃した遺跡から至高の宝石を発掘した人々のように、一同は深い嘆息をもらしました。
それを見届けてほっとしたのか、プルーデンスはその場に倒れ込むようにして眠ってしまいました。歓声を聞きつけたノエリィがめずらしく早くに目を覚まし、クラリッサと看病を交代して、今度はクラリッサが安心した面持ちで眠りにつきました。しばらくしてマノンもベッドに向かい、二人の男性たちは共に居間へと引き上げていきました。
少年の熱が下がり、呼吸もだいぶ安定してきたのを確認すると、ノエリィは静かに寝室を出ました。徐々に朝の気配が近づく空気のなか、依然として降り止むつもりのなさそうな雨音に耳を傾けながら、少女は一人でてきぱきと食事を作りはじめました。
この間、ミシスは一度も目を覚ましませんでした。頃合としては昼食と呼ぶべき時間に用意された朝食の席に、起床した者から順に一人また一人と集まってきます。
料理がすっかりテーブルに並べられて全員が揃っても、ミシスだけが起きてきません。ノエリィが起こしに行くと、ハンモックのなかに丸く収まっている親友の体が、火傷するほどの高熱に冒されているのを発見しました。
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