29 新しい世界の観方
文字数 6,631文字
「まぁ、ついてきてよ」前を歩くクラリッサが振り返らずにこたえます。
てっきり船の外に広がっている野原か、あるいは博士の家の居間か庭あたりにでも向かうのかと思っていたミシスでしたが、予想に反してクラリッサはそのすべてを通り過ぎ、森のなかを流れる小川伝いにずんずんと歩を進めていきました。
川は島の深部から湧き出て、くねくねと気ままに曲がりながら森を抜けて海へと注ぐ、絵に描いたように穏やかな清流でした。
流れる水は最初から最後まで淀むことを知らず澄みきり、水面は木漏れ日を映してきらきらと輝いています。時々思いだしたように吹き渡る潮風が、そこに柔らかな漣を立てています。
ひときわ陽当たりの良い場所に差し掛かった瞬間、クラリッサが予告なく立ちどまりました。慌ててミシスも足を止め、その後ろを飛んでいたレスコーリアも空中で静止しました。
降り注ぐ陽射しのなか、クラリッサはゆっくりとあたりを見まわします。
「このへんでいいかな」
「あの、ここになにがあるんでしょう」きょろきょろしながらミシスがたずねます。
「別になにもないわ」クラリッサが振り返ります。「ここを選んだことに意味はない。ただいろんなものから離れて、静かなところに来たかっただけ」
「そうですか……」
レスコーリアは口を挟むことなく高く舞い上がり、二人の少女を見おろす樹上の枝に腰かけました。
「さて、ミシス」改まった様子でクラリッサが口を開きます。「顕術がどういうものなのかってことは、知ってるわよね」
「はい。一応は」
「じゃ、わかる範囲でかまわないから、ちょっと説明してみてくれる?」
「えっと……」咳払いを一つして、ミシスは慎重にこたえます。「顕術は、それを扱う人が意図したとおりにイーノを操作することで、手を触れずに物を動かしたり、身体機能や五感の精度を一時的に向上させたりすることのできる、いわゆる超常的な能力です」
「ふんふん」クラリッサは肩幅の広さに脚を開き、軽く腕を組みます。「それじゃ、どういう人がその力を扱えるのかしら」
「発顕因子がじゅうぶんに備わった体の持ち主だけが、顕術を扱うことができます。そしてその因子は、遺伝以外の方法で人体に宿ることはないから、扱える人は限られています。因子の濃度にはかなりの個人差があって、それに比例して術の強さにも差が出てきます」
「うん、そうね。だいたいのことはわかってるみたいね」
ミシスはためらいがちにうなずきます。「でも、ただ一般常識として知っているだけです。わたしの体には発顕因子が少ないから、実際に顕術を使うのがどんな感じなのか、正直言ってぜんぜんわかりません。それなのに、そんなわたしなのに、リディアに乗らずに顕術の訓練をするなんてことが、ほんとにできるんでしょうか」
「もっともな懸念ね」クラリッサは小さく肩をすくめます。「たしかにあなたの
「理解……ですか」
「そう。理解」クラリッサがうなずきます。「いい、ミシス。これからあたしたちが手をつけようとしているのは、史上まったく例を見ない未知の可能性を秘めた巨大な力よ。だからこそ、それを取り扱う当事者であるあなたは、自分が手にしている力について正しい知識を身に着けておく必要がある。あたしはそう考えているの。ま、要するに、堅実にやっていきたいってことね」
ミシスは背筋を伸ばして、深く息を吸い込みました。
かすかに潮の香りを含んだ涼風が吹きつけ、静かに向かいあう二人の髪をさらりと揺らします。
「ではここで質問」ふいにクラリッサが人差し指を立てます。そしてその指先を虚空で上下左右に動かし、ミシスの体の輪郭をなぞります。「あなたのその体って、なにでできてるのかしら」
「え?」思わず呆気に取られるミシスですが、自分に向けられるまなざしがあくまで真剣なものであることに気づくと、すぐに熟考を始めます。「この体が、なにでできてるか。う~んと、まずは、皮膚、筋肉。脂肪、骨。それに、内蔵、神経、血液。あと、髪の毛、目、爪……」
思いつくまま列挙してしまうと、生徒はためらいがちに教師の表情をうかがいました。
「だいたい、こんなところでしょうか」
「それでおしまい?」すかさずクラリッサが問いただします。「あなたが知っているかぎりのことを、それでなにもかも言いきったことになる?」
「いえ、そう言われると……もちろん一つずつ細かく見ていったら、もっと名前を挙げるべき対象は増えます。たとえば骨にしたって、頭蓋骨、鎖骨、肋骨っていうふうに分けられるし、内臓だって、心臓とか肺とか、胃とか腸とか。血だったら、たしか赤血球に白血球、それから、え~っと、なんだったっけ……」
内心途方に暮れながら、ミシスは懸命に頭のなかの情報をかき集めて提出しました。
しかしそれを受け取るクラリッサの方はといえば、ただうんうんと首を揺らすばかりで、とくに反応らしい反応は返してきません。そしてついに生徒が言葉に詰まってしまうと、いっとき間を空けてから、今度は二人の足もとを流れる小川を指差しました。
「じゃ、これはなにかしら」
「これ、って……川のことですか? 川の、水?」ミシスは右に左に首をかしげます。
けれどまたもやクラリッサは肯定も否定もすることなく、おもむろに天を仰ぐと、青空のなかにぷっかりと浮かぶ白雲を示します。
「なら、あれは?」
「雲……です」眉根を寄せて、ミシスは愚直に見たままをこたえます。
「雲がなにでできてるか、知ってる?」
「はい。雲は、水蒸気が集まってできたものです」
「その水蒸気は、どうやってできるの?」
「水が温められると気化します。それが水蒸気になります」
「じゃあ逆に、冷やすとどうなる?」
「水を冷やすと、当然どんどん水温が下がって……最後には、氷になります」
クラリッサは手を降ろし、再び腕を組みました。「うん。そうなるわよね」
「…‥‥あのぉ、クラリッサさん? さっきから、いったいなんの話を……」
「ねえ、ミシス」クラリッサは構わず続けます。「今、あなたの口から出た言葉。水、水蒸気、氷。これってぜんぶ、名前や状態こそちがってるけど、元は一つのおなじものでしょ」
ミシスは目を丸くして一瞬考え込み、こくりとうなずきました。
「はい。そのとおりです」
「不思議よね」クラリッサは微笑します。「こうして流れていたら川って呼ばれるし、空に浮いていれば雲、降ってくれば雨、
「わたし、前にそれと似たことを考えたことがあります」とつぜん思いだして、ミシスはぽんと手を叩きます。「花の図鑑を呼んでる時に思ったんです。わたしたちはなにもかもに名前をつけて、ばらばらに区別しちゃうんだなって」
クラリッサはどことなく嬉しそうにうなずきます。そして顎に手を添え、なにかを想起するように川の流れを眺めます。
「そういえば、今朝いただいた料理のなかに、魚介のスープがあったじゃない。野菜がたっぷり入ってたやつ」
「はい。とてもおいしかったです」
「うん。で、あれってたぶん、この川から汲まれた水が使われてたわよね。それに、魚や貝はここらの海で獲られたものだろうし、野菜は菜園で収穫されたものでしょう。つまりあのスープは、それぞれちがう場所で生まれ育ったまったく異なる種類の素材が結集して、作られたものだった」
「たしかに、そういうことになりますね」
「ところで、あたしの最初の質問の答えに、どうして今言ったのは含まれてなかったのかしら」
「へ?」
「だからほら、さっきみたいにあなたの体を構成するものを一つ一つ見ていくなら、あの魚や野菜や水も仲間に入れてあげなくちゃ不公平じゃないのかな、ってこと。だってあのスープも、確実にあなたの体の材料になったでしょ」
「それは、はい、そうですね」無意識的にミシスは自分のお腹に手をやります。
「もっと言えば、その魚とか野菜を構成している成分や栄養素、それにそれらを育んだ海や大地の組成なんかについても、くわしく見ていく必要があるかもしれないわね」
「あはは……。それもたしかに、そのとおりですね」
「ふふっ」クラリッサも笑って首をすくめます。「ね。こんなふうに細分化していったら、きりがないでしょう。人体一つとってもそれくらい果てが見えないんだから、まさか森羅万象の仕組みを人間の知見で完璧に解析するなんてことは、とてもじゃないけどできっこないの。だってこの世界を形成しているすべての要素どうしは、たとえどんなにそれぞれが別々のものに見えたって、本当は境目なんてものを持たずに互いに繋がりあっているんだもの。さっきの蒸気や氷の例みたいに、形や性質がちがっているように見えてもその正体はみんなおなじ水という一つのものであるように、この天と地の万象は、流動と循環をくり返すたった一つの生命そのものなの」
突如ざわっと音を立てて正面から吹きつけてきた風が、ミシスの全身を洗っていきました。
舞い落ちる幾多の木の葉、河岸に茂る色鮮やかな草花、そして目の前の少女の髪や服がひらひらと揺れ動く光景を、まるで幻影の奥に潜む真実の世界を透視するかのように、ミシスは深く遠く見つめました。この瞬間、彼女の目には、この世界はどこまでも精緻に描かれた巨大な静物画のように見えていました。すべては、風と、光と、音と共に、この現実の大地の上でたしかに律動しているというのに。
「イーノ」自分でも気づかないうちに、ミシスはつぶやいていました。
「そう。すべてはイーノのなせるわざ」クラリッサが告げます。「最初の質問に対するあなたの答えは、だからまちがっていて、合っている。それぞれに形態と機能を変えて干渉しあい補完しあう部分や要素の集積があなたという存在を作り上げているけれど、同時にそれは、多様に姿を変えたイーノ一つだけでできているとも言える」
自分の意識がやけに澄み渡っていることを自覚しながら、ミシスはゆっくりとうなずきました。
その様子を枝葉の陰から見つめていたレスコーリアが、口もとに小さな笑みを浮かべます。
姿勢よく直立したまま、クラリッサは顕術を用いて川原の小石を一つ宙に浮かせました。そしてそれをミシスの眼前に移動させ、ぴたりと滞空させました。
「これはなに?」クラリッサが問いかけます。
「石。そしてイーノ」ミシスは即答します。
「では、イーノとは?」
「イーノはこの世界のすべて」
「では、あなたは?」
「わたしはわたしでありながら、すべてを形作るイーノそのもの」
「だったら、この石もまた……」
「この石もまた、わたし」
クラリッサは小石を地面に落とし、にこりとほほえみます。「そのとおり」
「なんだか、目に映る景色のぜんぶが、さっきまでとはまったくちがって見えます……」体じゅうにびっしりと浮き上がった鳥肌の感触に圧倒されながら、ミシスは息を呑みました。「今までも、頭ではわかっているつもりでいました。でも今日、初めて本当の意味で、イーノのことが腑に落ちた気がします」
「あなたには、どうしてもこのことをきちんと理解しておいてもらいたかったの」
微笑を浮かべたクラリッサが、まるで風に乗る花びらのようにふわりと前へ進み出ました。
二人の間隔は、一気に縮まりました。
限りない祝福を体現するかのような夏の太陽が、ほどなく天の頂に達しようとしています。
「ねぇ、さっきあたしが顕術で大きな岩を片づけた時、たぶんあなたたちの目には、外からなにか強い力が加えられることで岩が動いた、っていうふうに見えていたでしょう。でもね、あたしからすれば、自分自身の延長線上にあるものを自然に動かした、っていう感じなのよ。自分とは関係のない外部のものに対して強引に働きかける、っていうんじゃなくてね」
「はあ~……なるほど……」
「発顕因子をたくさん保有してる人間には、そういう独特の感覚が備わってるのよ」講義が一段落したのを見て取ったレスコーリアが、ひらりとミシスの肩に舞い降りました。「もちろん、生まれながらに因子の充溢した体に恵まれてる、あたしたちアトマ族もね。万物に宿るイーノに対して自分の意思で干渉したり、それらが放ってる波動を肌身で感知したりすることができるのは、ぜ~んぶ発顕因子のおかげ」
「これまでわたし、顕術が使えたらなって思ったことはほとんどなかったけど、今はちょっと自分の体に因子が足りてないことが残念に思えてきたよ」
「あら。あなたには
立派な体
があるじゃない」レスコーリアがミシスの頬を指先で突きます。「ちょっと立派すぎるけどね」クラリッサが苦笑します。そしてさらに一歩前進し、ミシスの両肩に手を置きました。「頼んだわよ、ミシス。世界に対するあなたの理解と信頼が深まれば深まるほど、リディアを通して出る力も正しく迷いのないものになるはずだから。今日ここで学んだことを、いつまでも忘れずにいてね」
「きっと忘れません。ありがとうございます、クラリッサさん」
「あら、お礼を言うのはまだ早くってよ」クラリッサがにやりとします。「修行はまだまだこれからなんですからね」
レスコーリアが気の毒そうに首を振ります。「あ~、このじゃじゃ馬はきっと厳しいわよ。覚悟しておきなさいね、ミシス」
「うん。わたし精一杯がんばるよ」ミシスは屈託なく意気込みます。「じゃあ、午後はさっそくリディアに……」
「こらこら、焦っちゃだめ」クラリッサが引き留めます。「あなたは今、新しい世界の
「なるほど……」ミシスは難しそうな顔をしてうなずきます。「でもそれって、具体的にはなにをどうすれば……?」
「そうねぇ……。あ、なら、とりあえず二、三日ほど、くたくたになるまで遊んでみたらどう?」
「はい?」ミシスは目を丸くします。「遊ぶ?」
「そう。全身を
「わかり……ました」縦とも横ともつかない奇妙な角度に向かってうなずき、ミシスはとりあえずの納得を表明しました。
「みんなにはあたしから説明しておくから。ノエリィも誘って、しばらく存分に羽を伸ばすといいわ」
「思いきり遊ぶ、かぁ」ぽかんとした顔をして、ミシスは遠くに浮かぶ雲を見あげました。「なにしようかな」
レスコーリアがにやにやしながらミシスの耳たぶを引っぱります。「もう。こんな素敵な場所に来たっていうのに、忘れちゃったわけ? あの素敵な水着のこと」
「あ~~っ!!」
ミシスは目をむいて叫びました。レスコーリアは大笑いして、両手で耳を塞ぎます。
「そうだったそうだった、なんで忘れていられたんだろう! さっそくノエリィに伝えなきゃ」来た道を慌てて振り返ると、少女は足踏みしながらクラリッサを急かします。「さ、早く帰りましょう」
「ちょ、ちょっと待ってよ」もうすでに駆けだしているミシスの背中を、クラリッサが慌てて追いかけます。
食堂に駆け込むなり、ミシスは昼食の支度をしていたノエリィに飛びかかって、まくしたてるように事の次第を伝えました。その途端、二人で手を取りあっての大騒ぎが始まったのは、言うまでもありません。飛空船の見学から戻ったベーム博士やマノンたちもそこに加わって、午後はみんなで浜辺へ出かけることに決まりました。
昼食の席で、グリューが肩をすくめて言いました。
「しかし訓練初日から、まさかの海水浴とはな」
「あら、おかしいかしら?」クラリッサが首をかしげます。
青年は首を横に振ります。「うんにゃ、別に。たまには遊ぶのも大事だからな」
「そのとおり」ベーム博士とマノンが声を揃えてうなずきました。
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