59 夏の終わり

文字数 8,233文字

 こうした一連の経緯を、王都から駆けつけた精鋭部隊の指揮官にして騎士団〈浄き掌〉団長であるリヴォン・シュナーベルが、自身の乗ってきた飛空船の出撃口を開放して作った日影のなかで、特務小隊とベーム博士一行に伝えました。
 (もみ)の樹を想わせるすっきりとした長身の持ち主であるリヴォンは、軽く後ろ手を組んでまさに樹木のようにゆったりと立っています。滝のように垂れる長い髪は妹とそっくりの瑠璃色で、それが精悍な細面(ほそおもて)の頬を覆っています。丈の長い青紫色の軍衣の胸には、王国の国章と彼の率いる騎士団の団章の紋章(エンブレム)が並び輝いています。
 くりくりとした瞳と品の良い小さな口もとを持つ妹とはちがい、その目つきは老練な哲学者のように思慮深げで切れ長で、唇は糸のように細く横長です。
 ただならぬ存在感を放つ新参者がよほどめずらしいのか、家から連れてこられたアトマ族の五つ子たちが、彼の姿を至近距離からまじまじと観察します。
「こらこら、あなたたち」
 慌ててプルーデンスが飛びかかり、青年の髪を引っぱったりエンブレムをいじったりしている子どもたちを連れ戻します。
「別にかまわないよ」外見の印象からかけ離れたおっとりとした声色で、リヴォンが言います。「子どもは元気で好奇心旺盛なくらいでなくちゃ。な、クラリッサ」
「なんであたしに同意を求めるわけ?」用意された椅子の上でふんぞり返っているクラリッサが、じろりと兄を睨みます。
「んん。とくに他意はないよ」
 ひょいと首をすくめると、リヴォンは自身を囲むように集う面々を見渡しました。
 跳ね上げられた大扉の真下に並べられた椅子にクラリッサとマノン、頭にレスコーリアを乗せたグリューが腰かけています。そしてそこから少し離れたところで、ミシスとノエリィが床にぺたりと座り込んでいます。
 ベーム博士はいつものようにのんびりと顎髭を撫でながら、皆を背後から見守る位置に立っています。その広く大きな肩の上に今、プルーデンスと子どもたちが着地しました。
 周囲にも格納庫内にも他に人の姿はなく、船内に置かれた数体のカセドラのなかにも、誰一人乗っていません。リヴォンと共に駆けつけた兵士たちは、全員それぞれの船の操舵室での待機を命じられています。もちろんその一人一人が、最大級の警戒態勢を維持したまま、島の四方を抜かりなく監視しています。
「マノンもグリューも、ずいぶんやつれたなぁ」リヴォンが苦笑します。
「へ……?」
 名を呼ばれた二人は同時にのっそりと首をもたげ、互いの顔を見あわせます。
「そうですかね……」グリューが自分の頬をさすります。「まぁたしかに、今日一日で一気に体重が落ちたかもしれんです」
「同感」マノンが背を丸めて頬杖をつきます。
「ベームさんは……」リヴォンが横目で博士を見やります。「お変わりないですね。十年前から」
「きみはずいぶんでかくなったな」ベーム博士が髭をつかんだままにやりと笑います。「十年で倍は伸びたんじゃないのかい。小さい頃は、妹に身長を抜かされたらどうしよう、なんていつも悩んでたのにな」
「ええっ?」途端にクラリッサが瞳を輝かせます。
「うぉっほん」そっぽを向いて絵に描いたような咳払いを一つすると、リヴォンはさも思わしげに遠い目をします。「昔の話です」
 そこでふいに潮風が吹きつけ、波が寄せて砕ける音があたりに広がり、やがてまた鎮まりました。顔に絡みついた髪を手先で払い整えると、リヴォンは二人の少女にそっと目を向けました。
「きみたち……ミシスとノエリィだったね。大丈夫かい?」
「あ……、はい」ミシスがぎこちなくうなずきます。
「わたしも、大丈夫、です」ノエリィが訥々(とつとつ)と続きます。
 リヴォンは小さく息をつき、再び体の後ろで手を組んで頭上を仰ぎました。そこには、ひざまずく姿勢で静止している〈リディア〉の(おもて)が浮かんでいます。
「まさか本当にこんなものが創造されてしまうとはね。まったく、好奇心は猫をもなんとやらだよ」
「で」軽やかに脚を組み替えて、クラリッサが兄の顔を見あげます。「やっぱりあたしたちとリディアの帰投は、まだ許可されないわけ?」
「うん。まだ近づかない方がいいと思うな」リヴォンがうなずきます。それからとつぜん、いかにも(わけ)ありげに目もとを暗くします。「ところで……聞いて驚け」
「な、なによ」妹が気味わるそうに顔をしかめます。
「本日未明、ついに騎士団上層の数名が、謀反(むほん)の計画を企てた罪で逮捕された」
「はっ!?
 椅子に座る三人が一斉に目をむきます。
「……冗談きついな」グリューがかぶりを振ります。
「ねえ。それってまさか、うちの団じゃないでしょうね」冷ややかにクラリッサがたずねます。
「当たり前だろ。もしそんなやつがいたら、僕が責任もって処理するよ」リヴォンは平然とこたえます。
「ではいったい、どこの……」マノンが首をかしげます。
「〈紅雪(こうせつ)騎士団〉だよ」
「ふうむ」博士が鼻息を吹きます。「あそこは昔から血の気も問題も多い騎士団だったからなぁ。十年経っても、体質は相変わらずか」
「なにやら、その筆頭格の男の妻や親戚が熱烈な〈緑のフーガ〉の賛同者らしくてね。感化されちゃったんだろうね」リヴォンが説明します。
「ま~たその名前か……」
 今頃は野原の上で干からびているであろう例の連中のことを思いだしながら、クラリッサが吐き捨てました。
「……あの、リヴォンさん」
 急にミシスが呼びかけました。
「はい。なにかな?」リヴォンがにこやかに応じます。
「わたしたち、いったいこれからどうすればいいんですか。もうこれ以上、ベーム博士やプルーデンスたちに迷惑はかけられません」
 名を呼ばれた二人は、共に静かにうつむきます。五人の子どもたちは、相も変わらず屈託のない表情を浮かべて、博士の頭や肩にじゃれついています。
「この人たちがこのままここにいてもいいって言ってくれたって、いちゃだめだろうね」一行のあいだにたしかな心の結びつきが築かれていることを肌で感じながらも、リヴォンは淡然と告げます。「今夜じゅうにも、レーヴェンイェルム将軍の命令によって永続的な警護対象地に指定されはするだろうけど、この島はもう完全にコランダム軍の要警戒地の一覧に含まれてしまったからね」
「……そう、なりますよね」
 ノエリィはぽつりとつぶやき、五つ子たちの無邪気な笑顔やふわふわと揺れる橙色の髪、そして穢れなく透き通る美しい羽を、しばらくぼんやりと眺めます。
「今から将軍と協議すべきでしょうか」マノンがたずねます。
「その必要はないんじゃないかな」リヴォンは即答します。「だってきみたちに与えられた任務に、変更は一切ないみたいだから」
「つまり、まだこんなでかい荷物を(かくま)って逃げ続けろと」グリューが抑えようのない苛立ちを滲ませます。「もういい加減にしてほしいですよ。いったい、こんな状況からどう――」
「やめなさい」レスコーリアがげんこつで青年の頭を小突きます。「下手なこと言うと首が飛ぶわよ。それに、もしまた遠くで聴かれてたらどうするの」
 そう言って彼女はちらりとベーム博士の方を見やります。博士はばつがわるそうに苦笑いをこぼすと、左右のポケットから一つずつ携帯伝話器を取り出して、今はどちらも作動していないことを一同に証明しました。
「なにかしら打開案なり明るい展望の糸口なり、ないものでしょうか……」言葉とは裏腹になんの期待感も宿らない口ぶりで、マノンがつぶやきます。
「さてね。連日いろんな策が練られてはいるみたいだけど」重心を置く足を入れ替えて、リヴォンがこたえます。「でも現在のところ、きみたちに伝えられるような根本的な解決策は、まだ見つからないようだね」
「この混乱した世界情勢が王国の手によって完全に鎮静化され、僕らの王都帰還と極秘保管区への〈リディア〉格納の許可が下ろされるか。あるいは……〈リディア〉そのものが、この世から消え去るか」マノンが目を伏せて思案します。「現状それしか、根本的な解決の道はないってことですね」
「うん。そんなとこだね」リヴォンがこくりとうなずきます。
「前者が成就する可能性は、おそらくもうないでしょう」グリューが虚空を睨みます。「これだけあっという間に世界じゅうを覆い尽くしちまった反王国運動の旋風が、そうやすやすと消えるわけがない」
 その指摘に全員が同意する沈黙が、一瞬広がりました。
「もういっそのこと、廃棄しちゃえばいいのに」クラリッサがぺらりと手を振ります。「こんなおっかないものなくったって、普通のカセドラや戦車なんかがあれだけの数あれば、武力はもうじゅうぶんすぎるくらいじゃない。というか、たとえ開発に成功したところで絶対に手に負えない代物にしかならないって最初からわかってた上に、将来的に量産体制を整える目処(めど)もぜんぜん立てられないっていうくせに……いったいなんのためにこんなもの造る必要があったのよ」
「なんのため、って……それは、造った人たちの方がよく知ってるんじゃないかな」
 そう言うとリヴォンは、二人の若き科学者を控えめに見おろしました。
「……僕らだって、開発計画の核心に関わることはなんにも知らされちゃいない」肩を落として、マノンが重い口を開きます。「助手くんが拾ってきた〈青写真〉だって、長老たちに解読された後でさんざん細分化されて高度な暗号化まで施されて、その上で雀の涙ほどの情報を提供されたにすぎないんだ。そしてそこからさらに厳重な規約でがちがちに固められた業務指示を受けて、僕ら現場の人間たちは用意された資材や計画の内実について説明らしい説明は一切受けないまま、ただ命令どおりにせっせと組み立て作業に従事しただけなんだよ。その時点で抱えていた(おおやけ)の仕事もぜんぶ中断させられて、有無も言わさず人里離れた辛気臭い秘密工場なんかに何週間も缶詰にされてさ……」
「連中がやりそうなことだ」ベーム博士が意外なほど辛辣な語気で吐き捨てました。「まったく、手の込んだことをしてくれる」
「師匠ほどの人材でさえ、ただの(こま)にしか思ってないんですよ。あのじいさんたちは」グリューが毒づきます。「そのもっと下の立場のおれなんか、駒どころか(ちり)みたいなもんだ」
「僕だって、おなじようなものさ」
 揃って沈み込んでしまった二人を横目に見ながら、クラリッサが兄にたずねます。
「それで具体的には、あたしたち今後どう動けばいいのかしら」
 リヴォンは体の前側で腕を組み直し、足もとの白砂を一瞬じっと見つめて、それから何事もなかったかのようにぱっと顔を上げました。
「そこで、です。ベームさん。旧友からの伝言です」
 あからさまに顔を歪めて、博士は青年と対峙します。
「どうか手を貸してやってほしい――だそうです」
「言われなくてもな」博士は厳しく返します。そしてすぐに肩をすくめます。「あ、今のは、遠くで高みの見物を決め込んでるあの野郎に言ったんだよ」
「あの野郎……」リヴォンはぷるぷるとお腹を震わせて、込み上げる笑いをこらえます。
 ベーム博士はぐるりと首を回し、特務小隊一行の注目を集めます。
「みんな、よく聴いておくれ」
 全員すぐさま姿勢を正し、白い髭に覆われる賢人の顔を見あげます。今にもその場に倒れ込んでしまいそうな状態のミシスとノエリィも、残されたかぎりの生気を呼び覚まします。
「急な話だが、おそらくこれが、私からきみたちへ提案できる最善の策だ。いいかい。今日、これから、なるべく早くこの島を出て、大陸の北を目指しなさい」
「北?」マノンが訊き返します。
「そうだ。きみたちは、これから私の故郷である旧アルバンベルク王国領へ向かいなさい」
 呆気にとられて、一同は――リヴォンも含めて――ぽかんと口を開きます。
「そこにいったいなにが?」身を前に乗り出して、グリューが問いただします。
「私の兄に会いなさい」
「あに?」初めて口にする単語の舌触りをたしかめるように、ミシスがくり返します。「ベーム博士、お兄さんがいらっしゃるのですか?」
 博士はうなずきます。「アルバンベルク地方北部に広がる大草原、人の世から遠く隔たったその地に、私の兄グレン・ベームが暮らしているはずだ」
「はず、って」クラリッサが眉をひそめます。「現在の所在確認は取れてないってこと?」
「もう何年も音沙汰ないから、連絡の取りようもない。だがあの人のことだ、まちがいなくまだあの地に(こも)っているはずだ」
「いったい何者なのです」リヴォンが妹以上に険しく顔つきを変えます。「一応言っておきますけど、これは国家機密に関わる話なんですよ」
「もちろん百も承知だ」博士が切り返します。「だがもうそんなこと言ってる場合じゃないだろ」
「そんなこと、って」青年はため息をつきます。「そんなこと、が大事(おおごと)、なんですけど……」
「お願いします」膝の上で両手を握りあわせて、マノンが訴えかけます。「もう誰からの忠告も命令も信じられなくなったって、他ならぬベーム博士が授けてくださる助言なら、僕は――僕らは――躊躇(ちゅうちょ)なく信じることができます」
 その言葉に異議がないことを、他の面々も澄み切った沈黙でもって表明します。
「それに、わざわざベーム博士を当てにするように(ことづ)けてあったんでしょ。なら、ある程度の代償を払うことになるのは、将軍の頭のなかでも織り込み済みだったんじゃないかしら」クラリッサが指摘します。
「だと思うぜ」ベーム博士が鼻で笑います。「あいつめ、長老どもとやりあう場にまんまと私を巻き込めて、笑ってるだろうさ」
 リヴォンは腕をほどいて大きく肩をすくめ、底が抜けたような青空をしみじみと見あげます。
「まったく、面倒な方々だ。最初から直接話しあえばいいのに。この騎士団の(おさ)たる僕を、まるで伝書鳩(でんしょばと)みたいに扱うんだから……」
 ぷっと妹が吹き出します。「あら、いいじゃない。たまにはそういうのも愛嬌があっていいわよ、兄さん」
「え、そうか?」
 なんかあんたがたいまいち緊張感がないよな、とはっきり書きつけてある冷ややかな視線を、グリューが密かに兄妹の二人に向けます。
「それで、その博士のお兄さんは、現在なにをなさっておいでで?」リヴォンがたずねます。
「作家」
 全員が目を丸くしました。
「それってつまり、小説を書く人ってことよね?」レスコーリアが確認します。「そんな名前の作家って、いたかしら」
「作品は本名とは別名義で発表している。なにしろ他人と関わること、世間に注目されることを心底嫌っている男でね。歴代の編集者や長年の愛読者たちにさえ、住所や動向を特定されないよう綿密に策略を巡らせているくらいだ」
「なんて筆名?」リヴォンが首をかしげます。
「セノーテ・エシェンバッハ」
「えっ。僕、読んだことありますよ。エシェンバッハ先生の作品」途端にリヴォンは頬を上気させます。「というか、むしろ愛読してます。新刊が出たら迷わず買って読む作家の一人です」
「おれも読みました、何冊か」グリューが続きます。「まさか、ベーム博士のお兄さんだったなんて……」
「優秀な血筋ねぇ」クラリッサが感心します。
「しかしなぜ彼のもとを訪ねるのを良しとされるのですか」リヴォンが問いかけます。
「一つには、人として信頼が置けるから。そしてもう一つは、その場所の環境がお嬢たちが身を預けるのに適していると考えられるから」
「どのような場所なので?」
「行けばわかる」
「行けばって……」
「行けばわかるんですね」マノンがうなずきます。「なら、僕らはそこへ行きます」
 ふぅんと呆れたような鼻息を吹くと、リヴォンは軍衣のポケットに両手を突っ込みました。
「まさか、こんなふうに話がまとまるとはなぁ」
「責任はヤッシャのやつが取るさ」ベーム博士が言います。「無論、私もな」
「はいはい、わかりました」リヴォンは目を閉じてこくこくとうなずきます。「そのようにお伝えしますよ。長老連、またがみがみ言ってくるだろうなぁ……」
「あの……」出し抜けにノエリィが挙手します。「国王陛下は、こういう決定には関わらないのですか」
 その素朴な質問の後、いくばくかの神妙さを含む無音の間がありました。
 けれどすぐさま、リヴォンが諭すように応じます。
「うん。国王陛下は、絶対的な信頼と権限をレーヴェンイェルム将軍にお与えになっておられるんだ。どんな時にも、それは揺るがないんだよ」
「……そうですか」少女は挙げていた手をあっさりと降ろしました。
「じゃあ、みんな」マノンが椅子から立ち上がり、一同を見まわします。ちょうど碧い鎧が反射させる陽光が、その赤髪をなびかせる姿をまばゆく照らします。「そういうことで、いいね」
 隊長に対して同意を示す一行のなかに自身の妹も含まれていることに、兄は目を留めます。
「でもクラリッサ、おまえは今後自由にしていいみたいだけど。やっぱりまだ帰らないか?」
「この部隊にはあたしが必要だと思うわ」クラリッサはとくに誇るでもなく、端的に事実を述べます。
「ふぅん、そうか。ま、予想はしてたけどさ。これでもうちの団は、おまえがいないとけっこう士気が上がらないんだけどな」
「あらそう? みんなけっこうかわいいとこあるのね」クラリッサはにっこりと笑います。「でも、やっぱりあたしはこの隊を放っておけないわ。というか、本当なら親衛隊員級の兵力があと何人か欲しいくらいの状況なのだけど。でもまぁ、そのためには部屋も食料も信頼関係も足りないし、なにより中枢の人員をこれ以上割くわけにもいかないわね」
 そこまで言うと彼女も席を立ち、絡ませた両手をぐっと持ち上げて背伸びをしました。
「もちろん有事の時には、責任ある立場としてすぐに帰るわよ。でも今はあたし、グリューと離れたくない」
「なっ……」
 名指しされた青年はてきめんにうろたえて、思わず頭を抱え込みます。
「わっ」自分の身に押し当てられた手に驚き、レスコーリアが飛びのきます。
「あっ、すまん。そこにいるの忘れてた……」
「失礼ね!」小さな少女は憤慨して、マノンの肩に飛び移ります。
「動揺しちゃって。かわいいとこあるね、助手くん」マノンがレスコーリアに耳打ちします。
「聴こえてますよ……」青年はますます小さくなります。
「ふぁはは。それじゃあ、とっとと地図やら紹介状やら準備するとしようか」ベーム博士が言いました。
 その一声に合わせて、まるで糸の切れた操り人形のように沈んでいたミシスとノエリィも、もぞもぞと身を起こします。
 続いてグリューも椅子から立ち上がり、しゃきっと腰を伸ばしました。
「ねえねえ。みんなどっか行っちゃうの?」ベーム博士の頭頂に座っていたアルがたずねます。
「そうだよ」プルーデンスがその背中を撫でます。「ちゃんとお別れを言わなくちゃね」
「え~。いやだよ。行かないでよ」博士の肩の上で膝を抱えているテルが、ミシスとノエリィをまっすぐに見つめました。
「お姉ちゃんたちを困らせちゃだめよ」おかっぱ頭のルビンが、べそをかく男の子を突っつきます。
「そうだよ。それにもう二度と会えなくなるわけじゃないでしょ」髪が肩にかかるほどの長さのシュウが、その隣でうなずきます。
「あたしたちみたいな羽はないけど、空飛ぶ船を持ってるんだもの。その気になったら、いつでもびゅ~んって来てくれるよね」髪の長いタインが、アルの肩に腕を回しました。
 ミシスは精一杯の笑顔を見せます。「うん。きっとまたすぐに遊びに来るね。お姉ちゃんたちもみんなと一緒にずっとここにいたいけど、今はどうしても、行かなくちゃいけないの」
 ノエリィがそっと肩を寄せて、ミシスの左手を自分の右手で柔らかく握りました。
「あっ、ならプルーデンスにお弁当作ってもらいなよ。お腹すいたでしょ?」アルがにこにこと笑って言いました。
「そうね」プルーデンスが手の付け根で目もとを拭いました。「わたしのご飯の味を忘れないように、とびきりのやつを作ってあげなきゃね」
「忘れるわけ、ないじゃない」ぽろりと涙をこぼして、ミシスが言いました。
 夏の終わりを予感させる爽やかな風が吹き渡り、別れを惜しむ一人一人の髪や服や羽や髭を、慰めるように、励ますように、あるいは突き放すように、音もなく撫でて去っていきます。
 心を裂かれながら耳にする波の音色は、なんでこんなに残酷なほどに優しいんだろうと、ミシスは目に()みるひりひりとした痛みと共に、胸の内で思っていました。
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登場人物紹介

◆ミシス・エーレンガート


≫主人公。エーレンガート家に家族の一員として迎え入れられ幸福な日々を過ごしていたが、思わぬ形でコランダム独立の騒乱に巻き込まれ、ノエリィと共に丘の家から旅立つことになった。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫ミシスの親友であり家族でもある心優しい少女。望まぬ形で軍に連行されるミシスを独りにさせまいと、ほとんど押しかけるようにして〈特務小隊〉の一員となる。

◆マノン・ディーダラス


≫本職は科学者であり発明家だが、カセドラ〈リディア〉を守護するため急造された部隊〈特務小隊〉の隊長を務めることになった。同隊が移動式拠点として利用する飛空船〈レジュイサンス〉も、彼女の発明の賜物。

◆グリュー・ケアリ


≫マノンの腹心の助手。彼女に付き従い、ホルンフェルス王国軍極秘部隊〈特務小隊〉に所属する。飛空船での暮らしにおいては、もっぱら料理係と操縦士の役割を務めている。

◆レスコーリア


≫マノンたちに同行するがまま、〈特務小隊〉に加わることになったアトマ族の少女。相変わらず自分流に気ままな日々を過ごしながらも、密かに隊の皆を見守っている。

◆クラリッサ・シュナーベル


≫世界最強の顕術士一族として知られるシュナーベル家の長女。優れた顕術士ばかりで構成される王国騎士団〈浄き掌〉の副団長を務める。グリューとは許婚どうしで、マノンやレスコーリアとも旧知の仲。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫新生コランダム軍を率いる将軍。統一王国からの離脱と祖国独立の宣言を発し、全世界に対し戦後最大級の衝撃を与えた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫新生コランダム軍に所属する軍人。エーレンガートの丘での失態の後、妹のレンカと共に小部隊を率いてミシス一行を追撃する。

◆レンカ・キャラウェイ


≫エーレンガートの丘で勃発したカセドラどうしの戦闘によって重傷を負い、その後しばらくのあいだ治療に専念していた。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫国王トーメ・ホルンフェルスの名代として、マノン一行に〈特務小隊〉としての任務を与えた。以後さまざまな手段を用いて、先の見えない困難な日々を送る同小隊を遠く王都より支援する。

◆ハスキル・エーレンガート


≫愛する娘たちと離ればなれになり、我が子同然の学院校舎が損傷してもなお、決して希望を失うことなく毎日を前向きに生きている。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫幼少時より人知れず抱えていたカセドラ恐怖症の劇的な発作により、長期に渡って入院生活を送っていた。恩師ハスキルに護られながら、徐々に回復へと向かう。

◆ドノヴァン・ベーム


≫十年ほど前に王都から忽然と姿を消した、伝説的な大科学者。レーヴェンイェルム将軍の幼馴染みにして、マノンの恩師。現在の彼の動向を知る者は極めて少ない。

◆プルーデンス


≫ベーム博士と共に暮らすアトマ族の少女。博士とおなじくアルバンベルク王国の出身。幼い頃から過酷な環境を生き抜いてきたためか、非常に気立てと面倒見が良い。

◆〈リディア〉


≫ホルンフェルス王国軍が極秘裏に開発していた最新型のカセドラ。本来ならカセドラが備えるはずのない、ある極めて特異な能力をその身に宿している。操縦者はミシス・エーレンガート。

◆〈フィデリオ〉


≫コランダム軍が新たに開発した特専型カセドラ。操縦者はライカ・キャラウェイ。

◆〈コリオラン〉


≫フィデリオと同一の鋳型を基に建造された姉妹機だったが、リディアとの交戦の末に大破した。かつての操縦者はレンカ・キャラウェイ。

◆〈□□□□□〉


≫???

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