30 夢っていつどうやって叶うのかわからないね

文字数 4,961文字

「希望は捨てちゃだめって、わたし言ったでしょ」ノエリィが海面から顔だけ出して、自分とおなじようにぷかぷかと浮いているミシスに向かって言いました。「覚えてる?」
「もちろん」ミシスはにこりとします。「パズールの町を出ていく時だったよね」
「そうそう」
「運命って、不思議なものね」二人の頭上に浮かぶレスコーリアが、感慨深げに微笑します。「憧れだった砂浜、水平線、自由な海。ここにはぜんぶ揃ってるじゃない。それも、とびきりのやつが」
 ぐるりと首を(めぐ)らせて、少女たちは周囲の景色を一望しました。まるでみずから発光しているかのように照り映える純白の砂浜、どこまでも途切れることのない真一文字の水平線、そして深く青く透明の大海原。しばし時が経つのも忘れて見惚れ、二人はため息をつきます。
「……ほんと、夢っていつどうやって叶うのかわからないね」
 まぶたを閉じて空を見あげ、ミシスがしみじみとつぶやきました。そこへ不穏な眼光を湛えたノエリィが音もなく近づき、とつぜん腰や脇をくすぐりはじめました。
「ま~た良いこと言うんだから、この子ったらぁ」
「あはは、やめて! お、溺れる!」
 水飛沫をあげてじゃれあう二人を呆れ顔で見おろし、レスコーリアがたしなめます。
「こらこら、ふざけるのは足が着くところでやんなさい。本当に溺れちゃったらどうするのよ」
「えい!」ノエリィが両手で水を掬い、レスコーリアに思いきり浴びせかけました。
「わっ!」
 頭から水をかぶったレスコーリアは一瞬にして全身ずぶ濡れになり、髪や服や背中の羽がぺったりと肌に張りつきました。
 慌てて羽を広げ、犬や猫のように全身を震わせて水を弾き飛ばすと、彼女は悪魔も真っ青な形相で眼下を見おろしました。
「……よくもやったわね。覚悟はいいかしら」
「え?」
 次の瞬間、まるでトビウオのように鋭く噴出した海水が、二人の顔面を直撃しました。
「ぎゃっ! 鼻に入った!」ノエリィが目に涙を浮かべて(わめ)きます。
「な、なんでわたしまで!?」ミシスが咳き込みながら不服を申し立てます。
「連帯責任よ。アトマ族の本気の顕術、とくと味わいなさい!」
「うわー!」
 立て続けに放たれる水の矢から逃れようと、二人は陸地を目指して泳ぎだします。
 しかしレスコーリアは手をゆるめません。
「そら、そら!」
「待って、息が、息ができないよ!」ミシスが悲鳴を上げます。
「骨は拾ってあげるわ」攻撃の手を休めないまま、レスコーリアが冷酷に言い放ちます。
「こんなとこで沈んだら骨なんて拾えないでしょ!」ノエリィが妙にまっとうなことを言います。
「じゃあ拾えるところまで追い立ててあげる」
「げえ~! 今度は耳に入った! もうやめて、ごめん、許して!」ノエリィが死に物狂いで懇願します。
「ふふん。あたしにちょっかい出したのが運の尽きよ」
「ひえ~!」
 砂浜の木陰に置いた寝椅子に横になって読書をしていたグリューが、一心不乱に泳いでくる少女たちに気づいて顔を上げました。
「あの子ら、いったいなにやってんだ」
 半ズボン一丁の姿で仰向けになっている青年の隣では、大胆な黒の水着を身に着けたクラリッサが、おなじように寝椅子に背を預けてくつろいでいます。顔が隠れるほど大きな遮光眼鏡をかけ、輪切りのレモンが入ったレモネードをちびちびと飲んでいた彼女は、その冷たいグラスを青年の素肌の脇腹にぴたりとつけます。
「冷たっ!」青年は激しく身をよじります。「いきなりなにすんだよ!」
「なんであの子たちはじろじろ眺めるくせに、あたしの方は見てくんないの」クラリッサが唇を尖らせます。
「じっ、じろじろ見てなんかないだろ! 人聞きのわるいこと言うな!」青年は髪を振り乱して怒鳴ります。「ていうかおまえ、目のやり場に困るんだよ……いや、待てよ、そもそもなんで水着なんか持ってるんだ。まさかほんとに保養にでも出向くつもりで、おれたちと合流したんじゃあるまいな」
「馬鹿言わないで」クラリッサは身を起こし、自分の体を見せつけるように青年に迫ります。「ただあたしがどんな時でも手抜かりがないってだけよ。水着どころか、毛皮のコートだって持ってきてるんだから」
「この真夏に毛皮かよ」青年はふんと鼻を鳴らします。「いったいどんな念の入れようだ」
「だって、なにが起こるかわからないじゃない」少女は再びごろりと寝そべり、優雅にグラスを傾けます。「ところで、このプルーデンスお手製のレモネード、かなりおいしいわ。あなたのぶんも持ってきてあげ」
「む?」ふいに口をつぐんだ少女を怪訝そうに一瞥し、青年は眉をひそめます。「なんだよ。どうした」
 少女が自分の頭上を見あげているので、青年もそれを追っておなじ方へ目を向けます。
 するとそこには、(たらい)のような形をした巨大な貝殻を協力して抱えている、アトマ族の五つ子の姿がありました。子どもたちは笑いをこらえるあまり、その尖った耳の先端まで真っ赤にしています。
 どうやら、貝殻のなかには、なみなみと水が湛えられているようです。
「あ、あなたたち! やめ……」
 クラリッサの制止も虚しく、大量の水がグリューの脳天に投下されました。
「ぶぁっ!」
 奇妙な叫び声を上げて青年は跳ね起きます。そしてびしょ濡れになった我が身を呆然と見おろし、顔に張りついた髪をゆっくりとかき上げると、空中でお腹を抱えて笑い転げている子どもたちにほほえみかけます。
「ははは。なかなか愉快なことをなさるお子さまたちじゃあないか」
 五人はぴたりと身動きを止め、不気味な笑顔を浮かべている青年を見つめます。そして一斉にくるりと後ろを振り返り、背中の羽を全力で打ち振ります。
「そうはいかん!」青年は勢いよく両手を突き出し、びゅうびゅうと渦を巻く顕術の衝撃波を放ちました。
「あああああーー!」
 竜巻に呑み込まれた子どもたちは、ぐるぐるとでたらめに宙を回転した挙句、そのまま四方八方に吹き飛んでいきました。
 頭から白砂に突っ込んで動かなくなった五人を見まわして、クラリッサが頬を青ざめさせます。
「ね、ねぇ、グリュー? いくらなんでも、ちょっとやりすぎなんじゃ……」
「あはははは!!
 少女の心配をよそに猛然と砂から飛び出した子どもたちは、全員同時に堰を切ったように爆笑しはじめました。
「もう一回! もう一回やって!」
 頭から爪先まで砂まみれの五人が、青年の頭上を目にも留まらない速さで旋回します。
「ふん。もう一回だと?」グリューが鼻で笑います。「もう一回どころか、もう百回でもやってやろう。お望みどおりにな!」
「まったく、もう……」クラリッサは体に降りかかった水を払いながら、レモネードのグラスに口をつけました。でもすぐに顔をしかめ、それきり飲むのをやめてしまいました。「しょっぱ。海の味がする」
「もう一杯作ってきてあげよっか?」
 いつのまにか近くにやって来ていたプルーデンスが、背後から声をかけました。
「あ、ううん、いいの」クラリッサが首を振ります。「また後でゆっくりいただくわ」
 プルーデンスのかたわらには、共に白ワインのグラスを手にしているベーム博士とマノンの姿があります。肩の出るゆったりとしたワンピースに着替えたマノンは、博士とお揃いの大きな麦わら帽子をかぶっています。
「あなたたちときたら、朝も昼もいい飲みっぷりね」クラリッサが眼鏡の隙間から二人を見あげます。
「へへ。いいだろう」マノンはにたりと笑って、軽くグラスを揺すります。
「特務小隊の御一行は、みんな実に賑やかだね」ベーム博士があたりを見まわします。「いつもこんな調子かね?」
「いつもこんな調子でいるのがみんなのあるべき姿だし、毎日こんなふうに楽しく笑って過ごしてほしいと、思います」グラスに唇を近づけて、マノンがつぶやくように言います。「このひと月のあいだ、みんな口には出さないけれど、本当はとても不安で、張り詰めていて、心も体もくたびれきっていたにちがいありません。とくに、あの子たち……」
 木陰から見守る一行の視線の先で、今ようやくミシスとノエリィは砂浜に上陸したところでした。しかし息つく間もなく、水鉄砲から砂鉄砲に武器を変更した怒れるアトマ族の猛攻が襲いかかります。
「あの子たちがあんなふうに元気にしてるのを見ると、こっちまで嬉しくなるよ」マノンは目を細めます。「きっと今日から本格的な訓練を始めていても、ミシスは文句一つ言わず聞き入れて全力で取り組んでいたにちがいない。それにノエリィも、一緒になって神経を尖らせていたはず。こうして息つく暇が与えられて、どんなにか彼女たちの発散になったことだろう。素敵な提案をありがとう、クラリッサ」
「時にはしっかり休むのも大切、なんでしょ?」クラリッサが肩をすくめてみせます。
「ふぁはは、そうだとも。そのとおり」博士が笑ってうなずき、豪快にグラスをあおりました。
 直後、一行の目の前をミシスとノエリィがつむじ風のように走り抜けていきます。
「マノンさん! レスコーリアを、と、止めてください!」ミシスが助けを求めます。
「きみたちが怒らせたんじゃないの~?」丸めた手を拡声器にしてマノンが応じます。「一度気分を害したら、とことん気が済むまで暴れるよ~。レスコーリアは~」
「え~~!?
 悲痛な声をもらしながら、ついにノエリィが足をもつれさせて砂の上に顔から突っ伏してしまいました。
「ノ、ノエリィーー!」僚友の脱落を嘆く戦場の兵士さながらに、ミシスが叫びます。
 その頭上では、したり顔のレスコーリアが腕を組んでふんぞり返り、冷酷なまなざしで地上を睥睨(へいげい)しています。
「お願い、もうやめ……」
 ミシスが最後の救いを求めて口を開いたその時にはもう、情け容赦のない砂嵐が二人を強襲していました。
「うへぇーー!!
 そこまでやってやっと気が済んだのか、レスコーリアは実にさっぱりとした表情を浮かべ、ぱしぱしと手を叩き払います。
「ひ、ひどい……」口に入った砂を吐き出しながら、ノエリィが鼻声でうめきました。
 するとそこへグリューの衝撃波を食らった子どもの一人が飛んできて、彼女の額にばちんと激突しました。
 またもや倒れ伏してしまった戦友の肩を、ミシスが哀しげに抱きかかえます。
「なんてこと……ノエリィ……」
「……触らぬ神に、じゃなくて、アトマの女の子に、祟りなし、ね……」
「ふふ……ふはは……」レスコーリアの乾いた笑みは止みません。
 そこへのそのそとグリューがやって来て、申し訳なさそうに頭をかきながら、ノエリィの赤くなった額をのぞき込みました。
「すまん、ノエリィ。痛かった?」
「痛かった? じゃないよ!」
 威勢よく立ち上がりながら、ノエリィは足もとの砂を掬って青年にぶちまけました。
「うおっ! なにをする!」
「それはこっちの台詞だ!」ノエリィは再び両手を砂に突っ込み、まわりに集まってきた五つ子たちに目配せします。「覚悟しろ! せ~の……」
「よ、よせ!」
 ノエリィが渾身の力でまき散らす砂と、子どもたちが顕術で巻き上げる砂塵を一身に受けて、青年はたまらずその場から逃げだします。いつしかそこにミシスも加わって、だんだん標的を追いかけまわすことに悦楽を覚えはじめた少女たちと子どもたちは、あれよあれよという間に波打ち際にまで標的を追いつめてしまいました。
 なおも逃走を続けるかに思われた青年でしたが、予想に反してまっしぐらに海に飛び込むと、そこから顕術を駆使しての水飛沫で一挙に反撃を開始しました。
 またたく間に、あたり一帯は水と砂の飛び交う戦場と化しました。
「……ちょっと賑やかすぎない?」プルーデンスがぽつりと言いました。
「ははは」マノンは大きく口を開けて笑います。
 クラリッサは立ち上がって遮光眼鏡を額に載せ、やれやれと首を振りました。
「あの子ったら、さっきあたしと話したこと、ちゃんと覚えてるかしら」
 ぶつぶつとつぶやきながら彼女は浜辺へ進み出て、きらめく光のなかで夢中になって駆けまわるミシスの姿を眺めました。そして、無邪気に輝くその笑顔をずっと見ているうちに、知らず知らず自分の頬も上がっていることに気づきます。
「まったく、なんて楽しそうに笑うのかしら。まるで世界じゅうがあなたと一緒に笑ってるみたい」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

◆ミシス・エーレンガート


≫主人公。エーレンガート家に家族の一員として迎え入れられ幸福な日々を過ごしていたが、思わぬ形でコランダム独立の騒乱に巻き込まれ、ノエリィと共に丘の家から旅立つことになった。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫ミシスの親友であり家族でもある心優しい少女。望まぬ形で軍に連行されるミシスを独りにさせまいと、ほとんど押しかけるようにして〈特務小隊〉の一員となる。

◆マノン・ディーダラス


≫本職は科学者であり発明家だが、カセドラ〈リディア〉を守護するため急造された部隊〈特務小隊〉の隊長を務めることになった。同隊が移動式拠点として利用する飛空船〈レジュイサンス〉も、彼女の発明の賜物。

◆グリュー・ケアリ


≫マノンの腹心の助手。彼女に付き従い、ホルンフェルス王国軍極秘部隊〈特務小隊〉に所属する。飛空船での暮らしにおいては、もっぱら料理係と操縦士の役割を務めている。

◆レスコーリア


≫マノンたちに同行するがまま、〈特務小隊〉に加わることになったアトマ族の少女。相変わらず自分流に気ままな日々を過ごしながらも、密かに隊の皆を見守っている。

◆クラリッサ・シュナーベル


≫世界最強の顕術士一族として知られるシュナーベル家の長女。優れた顕術士ばかりで構成される王国騎士団〈浄き掌〉の副団長を務める。グリューとは許婚どうしで、マノンやレスコーリアとも旧知の仲。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫新生コランダム軍を率いる将軍。統一王権からの離脱と祖国独立の宣言を発し、全世界に対し戦後最大級の衝撃を与えた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫新生コランダム軍に所属する軍人。エーレンガートの丘での失態の後、妹のレンカと共に小部隊を率いてミシス一行を追撃する。

◆レンカ・キャラウェイ


≫エーレンガートの丘で勃発したカセドラどうしの戦闘によって重傷を負い、その後しばらくのあいだ治療に専念していた。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫国王トーメ・ホルンフェルスの名代として、マノン一行に〈特務小隊〉としての任務を与えた。以後さまざまな手段を用いて、先の見えない困難な日々を送る同小隊を遠く王都より支援する。

◆ハスキル・エーレンガート


≫愛する娘たちと離ればなれになり、我が子同然の学院校舎が損傷してもなお、決して希望を失うことなく毎日を前向きに生きている。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫幼少時より人知れず抱えていたカセドラ恐怖症の劇的な発作により、長期に渡って入院生活を送っていた。恩師ハスキルに護られながら、徐々に回復へと向かう。

◆ドノヴァン・ベーム


≫十年ほど前に王都から忽然と姿を消した、伝説的な大科学者。レーヴェンイェルム将軍の幼馴染みにして、マノンの恩師。現在の彼の動向を知る者は極めて少ない。

◆プルーデンス


≫ベーム博士と共に暮らすアトマ族の少女。博士とおなじくアルバンベルク王国の出身。幼い頃から過酷な環境を生き抜いてきたためか、非常に気立てと面倒見が良い。

◆〈リディア〉


≫ホルンフェルス王国軍が極秘裏に開発していた最新型のカセドラ。本来ならカセドラが備えるはずのない、ある極めて特異な能力をその身に宿している。操縦者はミシス・エーレンガート。

◆〈フィデリオ〉


≫コランダム軍が新たに開発した特専型カセドラ。操縦者はライカ・キャラウェイ。

◆〈コリオラン〉


≫フィデリオと同一の鋳型を基に建造された姉妹機だったが、リディアとの交戦の末に大破した。かつての操縦者はレンカ・キャラウェイ。

◆〈□□□□□〉


≫???

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み