33 剣士の娘
文字数 7,659文字
まず裏庭を抜けて小川に架けられた丸太橋を渡り、緑の屋根に覆われた森の奥へと入っていきます。
鳥たちのお喋りや風に揺れる葉音、そして足を進めるたびに大きくなったり小さくなったりするせせらぎの響きが、二人のまわりの空気を休みなく満たしています。
四方に広がる道なき道は、さほど
歩きはじめてすぐに、拾った木の枝を振って拍子を取りながら、ノエリィが大きな声で歌を歌いだしました。すぐにミシスも声を揃えます。故郷の学院で音楽の時間に習った曲や、ラジオでよくかかっている流行歌を、歩くリズムに合わせて二人は立て続けに歌いました。
やがて思いつく曲目がなくなってくると、ノエリィがにこりと笑ってミシスの手を握り、昨晩ベーム博士が披露してくれたコランダム地方の民謡を口ずさみはじめました。
けれど一番の半分も歌わないうちにふっと黙り込むと、前を向いたままぼんやりとつぶやきました。
「……お父さんも、この歌を歌ってたのかな」
ミシスは一瞬足を止め、眼鏡の隙間をのぞき込みました。琥珀色の澄んだ瞳は、森の彼方の不明瞭な暗がりの方へ、吸い込まれるように注がれています。
「きっと歌ってたにちがいないよ」ミシスが明るい調子で言います。「だって、騎士のことを讃える歌じゃない。ノエリィのお父さんはコランダム騎士団の一員だったんでしょう」
「うん。お母さんやゲムじいさんが言うには、公国でも一、二を争うくらいの達人だったんだって」
「えっ。そんなに?」ミシスは目をむきます。「もしかして、すごい有名人だったんじゃないの?」
「みたいだね」ノエリィは首をすくめます。「レイ・バックリィっていったら、剣の世界ではけっこう名前を知られた人だったみたい」
「バックリィ」ミシスは首をかしげます。「エーレンガートじゃなくて?」
「コランダム公国では、結婚しても苗字は自由に名乗ってよかったんだよ」ノエリィが説明します。「エーレンガートはお母さんの姓。お父さんが戦死した後、お母さんは一度は変更した姓をまた自分の元の苗字に戻したんだって。というのも、バックリィ女学院って名前で開校しようとしたら、剣術道場だと勘違いした入学希望者が後を絶たなかったからなんだって……」
そう言うとノエリィは可笑しそうにくすくす笑います。
「へぇ、そんなことがあったんだ。でもたしかにエーレンガートの方が、なんか女学院って感じがするね」
「わたしもそう思う。お母さんも、きっとそう思ったにちがいないよ」
こうしていろいろなことを話しながら歩く二人の行く手に、穏やかな輝きを放つ清流が見えてきました。どうやらひたすら北を目指して直進してきた彼女たちは、島のなかを奔放に蛇行する小川と再会することになったようです。
「どうしよう。迂回する?」
「浅いみたいだよ。靴を脱いで渡っちゃおうよ」ノエリィが楽しげに提案します。
二人は裸足になって、水面に爪先をつけました。
「冷たぁ~」ノエリィが身をすくませます。
「でも、気持ち良いね」
ばしゃばしゃと水を蹴り上げながら、ノエリィはでたらめな歌詞をつけて川の偉大さを賛美する即興の歌を歌いはじめました。それにミシスも適当に調子を合わせて、二人してけらけらと笑いながら向こう岸に渡りました。足を乾かしがてら、ベーム博士が持たせてくれた地図を確認すると、目標の丘はもう目と鼻の先だということがわかります。
そしてそのとおりに、再び歩きだした二人はすぐにそれを発見しました。
樹々の狭間の薄闇の向こうに、瑞々しい草花に包まれる小高い丘が光っています。
この時、太陽は地表に対してほぼ直角の位置にありました。二人は顔を見あわせ、麦わら帽子をしっかりかぶり直すと、駆け足で丘を登りました。
頂上に到着した途端、二人とも言葉を失いました。
「博士たちが島いちばんの場所って言うのも、納得だね」深く息を吸って、ノエリィが唸ります。
「ほんと。すごい眺め……」
ちょうど
見たところ、とくに目に留まるようなものは洋上のどこにも見あたりません。ただ黒っぽい岩礁がいくつか、ぽつりぽつりと島のまわりに頭をのぞかせているだけです。
「まさに絶海の孤島ってやつだね。こんな島のなかにあんなにかわいいおうちで暮らしてる人たちがいるなんて、いったい誰が想像するだろう」
「絶対、気がつきっこないよね」ノエリィが笑います。「ていうかそもそも、ここまでやって来る人なんて滅多にいないんじゃないかな」
「それもそうだね」ミシスは麦わら帽子を脱いで、髪のあいだに新鮮な風を入れます。
ノエリィも帽子を脱ぎ、タオルで顔や首を拭います。「よぉし。それじゃさっそく、お昼にしよっか。わたしもうお腹ぺこぺこだよ」
「そうしよう、そうしよう」
いそいそとリュックの中身を地面に並べ、二人はまた靴を脱いで草の上に座り込みました。そして喉を鳴らして冷茶を飲むと、はやる気持ちを抑えながら弁当の包みをほどきます。無邪気な蝶や小鳥たちがどこからともなく集まってきて、少女たちのそばで気ままに舞いはじめました。
予想していたとおり、弁当はいささかのけちのつけようもなく、問答無用で美味でした。
「ねぇ、ミシス」空になった弁当箱を布でくるみながら、ノエリィがなにげなく呼びかけました。「今日、なんだかいつもと様子がちがわない?」
「え、わたし?」林檎の皮をナイフでむきながら、ミシスはぽかんとした表情を浮かべます。そして少しのあいだ虚空を見つめ、やがて思い当たります。「……ああ。もしかして、宿題のせいかな」
「宿題? なにそれ」
今朝クラリッサから与えられた宿題の内容について、ミシスはノエリィに説明しました。
「なるほどね」ノエリィは納得します。「だから、なんか歩いてても歌ってても食べてても、ちょっと遠くを見るような目をしてたのね。なにか悩みごとでもあるのかなって思っちゃった」
「ふふ。心配してくれてありがとう」ミシスは頬をゆるめます。「でもさ、ノエリィの方こそ、なんだか気がかりがあるみたいな顔してる」
「えっ」突然の指摘に、ノエリィはたじろぎます。「そう、かな?」
「うん。お父さんの話が出たあたりから」
ほんのりとはにかんで、ノエリィは頭上の白雲を見あげました。
「さすがだなぁ、ミシスは。たしかにわたし、さっきからずっと考えてることがあったんだ」
「それって、どんなこと?」少しばかり不安げに、ミシスがたずねます。
そっとうつむいて、脚のあいだの地面の草を手のひらで撫でながら、ノエリィはささやくように口を開きます。
「前にも話したけど、わたし、お父さんのこと、ほとんどなにも覚えてないんだ。でも、さっきミシスと話してて、そっか、自分はあの立派な剣士の娘だったんだなって、改めて思ったの」
ミシスはうなずき、黙って続きを待ちます。
「それでね。そんな達人の血が流れてるんだったら、もしかしたらこのわたしにも、少しくらい剣の才能が受け継がれてたりするのかなって、ちょっと想像してみたんだ」
「あぁ、そういうこと……」ミシスはほっと息をつきます。「うん、そうだね。きっとそういうこともあるんじゃないかな。ほら、例の発顕因子だって、親から子に確実に遺伝するってことが証明されてるわけだしさ。そうだ、ところでノエリィは、これまで剣をやったことって……」
「ないない」すぐにノエリィは首を振ります。「どういうわけか、これまでずっと剣には興味が湧かなかったな。子供の頃からピレシュが剣に打ち込むのを見てきたけど、わたしは自転車とか一輪車とか、あとは手芸とか工作にしか、気持ちが向かなかった」
「あのピレシュの技を近くで見てもやってみたいと思わなかったのなら、それはよっぽど興味がなかったってことだね」ミシスが笑います。
「そうそう」ノエリィも苦笑します。「それ、わたしもよく思った。ピレシュが稽古をするところや、試合で優勝したりするところを見るたびに、あの子を真似して剣を始める生徒たちがまわりにわんさかいたから。わたしだって、あの綺麗な剣技を見るのはもちろん好きだったけど、他の子たちみたいに自分でもやってみたいとは、ぜんぜん思わなかった」
「でもさ、あんなにすごい技をずっと間近に見てきたんだから、やってみたら案外すぐにこつがつかめたりするかもしれないよ」ミシスは剣を構えるピレシュの勇姿を思い浮かべます。「わたしも、ピレシュの稽古を何度も見学してなかったら、剣なんてまともに振るえてなかったにちがいないし……」
あの時に、とミシスは心のなかで付け加えました。
コランダム軍のカセドラと、故郷の丘で刃を交えたあの時。
ピレシュが日々見せてくれた剣さばきを脳内でそっくり模写することが、リディアを通して発揮された土壇場の
お茶を飲んで一息つくと、ノエリィはおもむろに身を乗り出しました。
「でさ、わたし思いだしたの。ずっと昔に、あのレーヴェンイェルム将軍を剣の道に誘ったのが、ベーム博士だったっていう話」
「そういえば、そんな話あったね」
相槌を打ちながら、ミシスは裸にした林檎にざくりと刃を入れます。
しかし途中でぴたりと手を止め、おそるおそる顔を上げます。
「……まさか」
「うん」爽やかな笑顔で、ノエリィはうなずきます。「わたしせっかくだから、ここにいるあいだにベーム博士に剣を教えてもらおうと思うんだ」
太陽を映すレンズの向こうの双眸を、ミシスは正面からじっと見つめます。もはやたしかめるまでもなく、そこには太陽よりも明るい炎が灯っています。
あぁ、もう心は決まってるんだね、とミシスは思います。
「……本気?」いちおう慣例的に、彼女はたずねます。
やはりわかりきっていたことですが、ノエリィはきっぱりと首を縦に振ります。
その白く細い首が大きく下がって、そしてまた元の位置へと戻っていくまでのほんの一瞬のあいだに、ミシスは自分自身でもまったく予期していなかった熱い想いが閃くのを感じました。突発的に芽を出したその決意の頭をぐっとつかまえて、彼女はそれをそのまま言葉に変換します。
「なら、わたしも一緒にやる」
「えっ」ノエリィは目を点にします。「……え、でもミシスは、リディアで顕術の訓練もしなくちゃいけないでしょ」
「どっちもやる」ミシスは即答します。「リディアでは顕術だけじゃなくて、きっと剣の技も活かせるから」
「そ、そっか……」
しばしのあいだ、二人は共に口をつぐみました。
さらさらと草の踊る音と、森の鳥たちの囀りだけが、小さな丘を包み込みます。
沈黙を破ったのは、こらえきれず吹き出したノエリィの笑い声でした。
「あのね、正直に言うね。わたし、ミシスと一緒にやった方がきっと楽しいだろうなって、実は最初から思ってたんだ。それに、ほんとにそうなったらって考えだしたら、さっきまでよりずっとやる気が湧いてきたよ」
「わたしも!」ミシスは草の上に置かれていたノエリィの手をぎゅっと握りました。「今日帰ったら、さっそく博士にお願いしてみよう」
「うん!」ノエリィはますます瞳を輝かせます。
しかし瞬時に、その両目は困惑の色に染まってしまいました。
当然、ミシスはその異変を見逃しません。
「どうしたの」
「あれ……」
ノエリィはぎゅっと目を凝らし、ミシスの肩越しにどこか遠くの方を指差します。ミシスはこわごわと背後を振り向きます。
差し伸ばされた指先が向けられている大海の
「あれ、船だよね」ノエリィが眉をひそめます。
すかさずミシスはリュックのなかから望遠鏡と携帯伝話器を取り出します。伝話器をノエリィに手渡すと、自分は望遠鏡を片方の目に押し当てて、遥かな遠洋を進む白い船影へ照準を合わせます。
「見える? なんの船かわかる?」ノエリィが伝話をかける用意をしながらたずねます。
「たぶん普通の漁船、みたいだけど……」ミシスは喉の奥で声を発します。「あっ。人が見える」
操舵室のなかで舵を握っている男が一人いるのが、望遠鏡を通して見て取れました。けれどその姿は、当世最新式の望遠鏡の性能をもってしても、扉の丸窓の向こうに少しばかり側頭部をかいま見ることができる程度で、おおよその年齢や体格さえ判然としません。
その直後、操舵室の向こう側から、新たに二人の男が甲板上に姿を現しました。彼らは網を巻き上げる機械の前にかがみ込み、なにかの作業を開始したようです。
「やっぱり、ただの漁師さんたちみたい。たまたまここを通りがかっただけかな」ミシスは鼻でゆっくりと息をします。
ひとまず安堵して、ノエリィはダイヤルに掛けていた指を外します。
「あっ!」出し抜けにミシスが息を呑みます。
機械か道具の整備を終えた二人が、それぞれに着込んでいた作業服の上着をいかにも邪魔くさそうに脱ぎ捨てました。
肌が露わになった二人の首もとには、汗に濡れてくしゃくしゃになった緑色のスカーフが巻かれています。
「〈緑のフーガ〉!」ミシスが小さく叫びます。
「えっ!? 」一瞬でノエリィの顔から血の気が引きます。「え、え、どういうこと? まさか、わたしたちを探しに来たとか……?」
「……ううん。そんなふうには、見えない……けど」
ミシスはいっとき呼吸を止め、じりじりと望遠鏡を横に滑らせて船影を追います。
しかし船上の男たちは、取り立ててなにかを探すでも、警戒するでもなく、ただくつろいだ様子で甲板の床に腰を降ろしました。そこで操舵室の扉が少しだけ開かれ、舵を握っていた男が
そのまま何事もなく、漁船は島とまったく関係のない方角へ去っていきました。おそらくはパズールに帰港するのであろう彼らが海の果てへと消えていくのを、ミシスは手に汗を握って最後まで見届けました。
「行っちゃった……」ノエリィが額の汗を拭います。
「とくに怪しい人たちじゃなさそうだった」片目のまわりに丸い跡をつけたミシスが言います。「でも、一応マノンさんたちに連絡しておこう」
その時ちょうど船内物資の整理が一段落つき、リディア改装の工程についてその躯体を囲んでの協議を始めたところだったマノン一同は、驚きと共に少女たちからの報告を受け取りました。
「たしかに〈緑のフーガ〉だったんだね?」耳に携帯伝話器を押し付けたマノンがたずねます。
「まちがいないです」ノエリィが応答します。「パズールで見かけた人たちが着けていたのとそっくりなスカーフでした。だいぶ距離があったけど、ミシスがはっきり確認しました」
「船が通ったの、感知できた?」マノンが頭上に浮いている相棒に呼びかけます。
「ううん」レスコーリアは首を振ります。「ばたばたしてたし」
「どういうこった?」軍手を外しながら、グリューが眉間に皺を寄せます。「なんで漁師が平時の仕事中にそんな格好を……」
「それくらい、あの活動団体の思想が一般に浸透してきているということだろうね」ベーム博士が腕を組みながら言います。「それにしても、まだその名が世に知られるようになって間もないというのに、まったく大した影響力だ。これはもうほとんど、社会現象の域だね」
「博士。このあたりに漁船はよく来るのですか?」マノンが訊きます。
「ほとんど来ない。彼らの多くが集う漁場とパズールを結ぶ最短経路から、ここはけっこう離れているからね。それに、このあたりの海域には目に見えない岩礁も少なくない。好きこのんで近づく者はそうそうおらんよ」
「では、今日のはただの通りすがりだと」グリューが確認します。
「おそらくな」
「……では今回は、〈緑のフーガ〉に参加している一般の漁師数名が偶発的に近くを通過しただけ、と結論していいか」マノンが冷静に述べます。
「それにしたって、なんか気分良くないですね」ノエリィが暗い声でこぼしました。
「うん」その隣でミシスがうなずきます。「あの人たちが、もしわたしたちの捜索をコランダム軍から指示されてたらって考えると……」
「まぁね」同意を示しながら、マノンは首をすくめます。「たしかに、薄気味がわるいね。でも今のところは、とくに急いで対処すべき問題ってわけじゃなさそうだ。後は夕方頃にやって来るっていう軍の監視船さえ気にかけておけば、こちらから目立つ動きをしないかぎり、現在の安定した状況を維持していけると見ていいだろう。ともかく知らせてくれてありがとう、二人とも」
「いえ」
「気をつけて帰るんだよ」
「はい。これから戻ります」
通信を終えたミシスとノエリィは、まだ冷や汗が背中に張りついているのを感じながら、手早く荷物をまとめて帰り支度をしました。
「まだちょっとどきどきしてるよ」丘を降りながらミシスがため息をつきました。
「大したことなくって、一安心ではあるけど」ノエリィが顔をしかめます。「できればもう怖い思いはしたくないな」
「まったくだね」
一度通った道だから、帰りはやすやすと進みました。さすがに歌うような気分ではなくなっていましたが、それでも
博士の家に帰り着くと、二人はプルーデンスと一緒に夕飯の用意に取りかかり、船で作業をする一行の帰りを待ちました。
夕食の席で、ミシスとノエリィはベーム博士に剣の稽古をつけてくれないかとお願いしました。博士は念のため二人の保護者代わりであるマノンの許諾を得てから、快く引き受けてくれました。
食事も終わろうかという頃合に、しばらく物思いに耽るように口を閉ざしていたクラリッサがふいにミシスを呼び、それならリディアでの顕術訓練も明日から始めましょう、と通告しました。
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