25 夢みたいな場所
文字数 5,116文字
森を構成する主な樹木はいずれも優に20エルテムを超す高木で、太くまっすぐな幹は淡褐色のつるりとした樹皮に覆われています。キノコの笠のように広がる樹冠が隣どうしでパズルさながらに連結しあい、まさに空に
その下にはみずみずしい草葉に包まれる平地がどこまでも広がり、降り注ぐ無数の木漏れ日がそこで終わりのない舞踏に興じています。
空気は澄んで風は涼やか、緑の香りの
「夢みたいな場所……」ミシスが吐息をつきました。
「こりゃ、わざわざ島ごと買い取って移住したくなる気持ちもわかるな」顔の前を飛ぶ蝶を目で追いながら、グリューが唸りました。
「まったく……」マノンが苦笑します。「いったいどうやってこんな場所を見つけるんだろうね」
「ほらほら、早くしてってば!」先導するプルーデンスが振り返り、お玉をぐるぐると回して客人たちを急かします。
木立のあいだに敷かれた
それは木肌の滑らかな丸太を組んで造られた、大きな三角屋根を戴く一軒の家屋でした。外壁の大部分には背の高いガラス窓が嵌められ、建物の前面には幅の広いテラスがせり出しています。玄関の前には年代物の釣鐘を備えたアーチが据えてあり、前庭はたくさんの花や植物で溢れ返っています。ちょうどこの場所の真上のあたりだけ緑の天井に大穴が空いていて、そこからまるで蜂蜜のように黄金に輝く光が注ぎ込まれています。
「なんか、絵本に出てきそうな家だね」ミシスが見惚れて言いました。「もしかして、手作りなのかな」
「そうだよ」プルーデンスがうなずきます。「博士とわたしが、何年もかけて作り上げたの」
「いいよなぁ」グリューが目を細めます。「おれも年取ったら、こういう家でのんびり暮らしたいよ」
「賛成!」クラリッサが青年の腕に飛びつきます。「部屋もたくさん造りましょうね。あたし、子どももたくさん欲しいわ」
「ばっ!」青年は顔を真っ赤にして腕を振りほどきます。「馬鹿なこと言うな、こんな時に……」
それから彼はぎろりと横を睨みつけました。肩を寄せあってくすくす笑っていたミシスとノエリィは、さっと顔を背けて知らんぷりしました。
博士宅に到着すると、プルーデンスが正面の玄関ではなく、家の右手の奥に開けた空き地の方へ飛んでいきました。
「こっちよ、みんな」
案内に従ってついて行くと、家の横手から屋外に向かって張り出された屋根の下に、立派な浴槽が置いてあるのが見えてきました。四、五人が一緒に入っても余裕がありそうな大きな円筒のなかには、すでにもくもくと湯気を立ち昇らせる熱湯がたっぷり
プルーデンスが湯気をよけて浴槽の向こう側へ飛んでいきました。
「博士~。お連れしたわよ」
報せを受けて、浴槽の陰にかがみ込んでいた大男が、ぬっと立ち上がりました。
訪問者たちが一斉に姿勢を正すなか、彼は浴槽を迂回してのしのしと歩み出てきました。
奔放にうねる長い白髪は一つに結われ、背に垂らされています。大きな四角形のレンズの眼鏡をかけ、口のまわりと顎の下にふさふさとした白い髭をたくわえています。鼻は高く、頬は引きしまり、黄金の瞳は象や鯨を想わせる静かな知性に満ちています。上下ともに白の綿の半袖シャツと丈の短いズボンを身に着け、麻の草履を履いています。
(ああ、なんにも変わってない……)懐かしい巨躯を見あげて、マノンは胸中でつぶやきました。(あなたはやっぱり、あなたのまま)
「変わらんなぁ、お嬢は」客人一行の前に立ち、家の主人が愉快そうに言いました。月夜のフクロウの歌のように柔らかく通る、穏やかな声です。「背はずいぶん伸びたみたいだが」
「ベーム博士こそ」マノンがほほえみます。「すっかり白髪になっちゃったけど」
「ふぁはは!」博士は大口を開けて笑い、マノンの頬を伝う一筋の涙を親指でそっと拭いました。
そしてそのまま、その手は握手の形をとります。
差し出されたミトンのような大きな手を、マノンはしっかりと握りしめます。
「またお会いできて本当に嬉しいです、博士」
「私もさ、お嬢……いや、こんな呼び方じゃ失礼だな。こちらこそ、たいへん光栄に思います。ディーダラス博士」
「もう」かつての少女は目を擦りながら苦笑します。「からかわないでください」
「ふぁはは。照れるな照れるな」
そこでクラリッサがマノンの隣に進み出て、ベーム博士に握手を求めました。
「とつぜん押しかけたご無礼をお詫びします、ドノヴァン・ベーム博士。あたしはホルンフェルス王国の騎士団〈浄き掌〉の副団長、クラリ」
「クラリッサ・シュナーベルだね」差し出された華奢な手を丁重に取って、博士が先んじます。「ずいぶん立派になったね。きみがうんと小さい頃に、何度か会ったことがあるよ」
「へっ?」クラリッサは目を丸くして、少し頬を赤らめます。「あ、そ、そうでしたか? 小さい頃に、あたしを……」
「そしてきみは、ケアリ家の者だね」続いて博士は、マノンのそばに控えるグリューに呼びかけます。
「あっ、はい」青年はぴしっと
「いいや、きみとは初対面だと思う」博士は首を振ります。「しかしご両親によく似ているからすぐにわかったよ。目の色と形は親父殿にそっくりだが、顔立ちと髪の色は奥方譲りだね」
「彼は僕の助手を務めてくれているんです」マノンが青年を紹介します。
「ほお、そうかそうか。それはけっこうなことだ。……しかしこのお嬢の助手なんて、一筋縄ではいかんだろうねぇ」
「おっしゃるとおりです」グリューがいつになく語気を強めます。
「どういう意味だい」マノンが肘の先で青年の脇腹を突きます。
二人の後ろに立つミシスとノエリィが、口を押えて笑います。
そちらに目を留めて、博士が首をかしげます。
「はて。お嬢さんがたは、いったいどういう
少女たちが自己紹介をしようと身を乗り出したその時、プルーデンスがびゅんと割って入りました。
「はいはい、きりがないから細かい話は後にして! 今からどうするの、お風呂入るの、それとも朝ご飯にするの? わたし料理の途中だったんだけど」
「おお、そうだったそうだった」博士がぱちんと指を鳴らします。「お嬢たち、どうするね? 沸いたばかりだから、ひとっ風呂浴びたらどうかね」
「でも今から全員入るとなると、最後の人が上がる頃にはご飯冷めちゃってるわよ」プルーデンスが言います。
「なら、みんないっぺんに入っちまえばいい」博士が提案します。
「えっ」反射的にグリューがたじろぎます。
眼鏡の真ん中を指先で押し上げながら、博士がじろりと青年を見おろします。「なにをそんなに動揺してるのかね。もちろん、きみ以外のみんなって意味だよ。見かけによらず、すけべなやつだな」
「は……はぁ!?」
震えるほどうろたえる青年を囲んで、女性たちは声を上げて笑います。
「お、お、おれは、料理を手伝います!」グリューは紅潮の治まらない顔をぐるりと家の方へ向け、振り返ることなくプルーデンスに声をかけます。「さぁ、早く案内してくれ!」
「え、そう? 助かるわ。じゃあわたしについてきて。すけべなお兄さん」
「ちがう!」
逃げるようにその場を離れて家の勝手口に向かう青年の背中を、女性陣はにこやかに見送りました。
青年の去り際にその頭上から飛び出したレスコーリアが、マノンの肩に音もなく着地しました。一対のつぶらな瞳が、まっすぐにベーム博士を見つめます。
「この子はレスコーリア」マノンが紹介します。「博士が王都を出られた後に巡り逢った、僕の相棒。今までずっと一緒に暮らしてきたんです」
「そうか。よろしくな、レスコーリア」
飛空船のなかでマノンとプルーデンスが交わしたのとおなじやり方で、博士とレスコーリアも握手を交わしました。
「よろしくね、ベーム博士。ここはとても素敵な場所ね。あたし、完璧に気に入っちゃった」
「そいつはよかった」博士はにこりとします。そして改めて一同の顔を見渡します。「さて、ちゃんとした自己紹介もまだだし、積もる話もいろいろあるが、ひとまず今はきみたちが旅の疲れを癒すことが先決だ。話はそれからでも遅くはあるまい」
一行はそれぞれにほっと息をつき、うなずきます。
「よろしい」博士が手のひらを小気味よく叩きあわせます。「じゃあ熱いうちに入ってしまうといい。私は食事の支度を手伝いつつ、グリューくんが風呂をのぞかないように見張っておこう」
皆はまた吹き出しますが、ただ一人クラリッサだけ、頬を膨らませてむすっとしています。
「ちょっと。あんまり人の婚約者をいじめないでくださる?」
「おっと」博士は目をぱちくりとさせます。「そういうことだったか。これは失礼した」
「じゃ、着替えを取りにいったん船に戻ろっか」マノンが言いました。
こうして一行は再び森を抜けて飛空船に引き返し、はやる気持ちを押さえつつ各自の荷物をかき集め、お風呂の待つ庭へまっしぐらに戻りました。
湯の温度は熱いと感じる寸前のところで保たれ、頬や肩を撫でる森の風は爽やかで、天からは幾千もの光の雫が降り注いでいます。近くを流れる小川の水音もそこに加わり、それがまた素肌に触れる温かな清水の興を何倍にも高めてくれます。
「いったいどんな野蛮な土地に行くことになるんだろうって、内心けっこう気が重かったんだけど」クラリッサがため息をつきます。「それが、なによ……なんなのよ、これは。まるきり、極上の保養地に来たみたいじゃない」
「同感……」湯舟の
その前で、羽が濡れるのを気にすることもなく、レスコーリアがすいすいと平泳ぎをしています。
並んで肩まで湯に浸かっているミシスとノエリィは、さっきからずっと言葉にならない唸り声を連発するばかりです。
「お~い、きみたち。溶けちゃわないでね」マノンが笑います。
「ふぁい」まぶたを半分閉じているノエリィが、気の抜けた息をもらします。
「来る日も来る日も、薄暗い崖の狭間で、窮屈な浴室で、いつも貯水量を気にしながら、生温いシャワーをちょろちょろ浴びるだけだった毎日が、嘘みたい……」ミシスが遠い目をしてつぶやきます。
「ほんと~……。まるで、別世界に来たみたい」ノエリィがこっくりとうなずきます。「大変な任務に就いてるってこと、ついつい忘れちゃいそう」
「今だけはいいよ。ぜんぶ忘れて」マノンが微笑します。「ずっと肩肘を張ってたんじゃ、思わぬところで心が折れちゃうからね。時々しっかり休んだり遊んだりする余裕を作ることも、生きる上で大事なことだよ」
「それ、マノンさんよくおっしゃいますよね」ミシスが顔を上げます。「あ、たしか、昔の恩師から受け継いだ教えだって……」
ぱしゃっと音を立てて、ノエリィが身を起こします。「もしかして?」
「そのとおり」マノンは少しはにかんでうなずきます。「子どもの頃、ベーム博士からいただいた教えだよ」
「やっぱり」少女たちは声を揃えます。
「むっ?」レスコーリアが泳ぐのを止めて、額の触角をぴんと垂直に立てます。
直後、アトマ族の五つ子たちが一挙に飛来して、湯に浸かる一行の上空をぐるぐると旋回しはじめました。
「そろそろ」「ごはん」「できるよ~」子どもたちが輪唱するように告げます。
ミシスが頭上を見あげて応じます。「知らせてくれてありがとう。もうすぐ行きますって伝えてくれる?」
「は~い」
子どもたちはまたひとかたまりになって、あっという間に家の方へ飛び去りました。
「じゃ、ぼちぼち上がろっか」マノンが全然まだ上がりたくなさそうに言いました。
「そうですねぇ」ミシスとノエリィが全然まだ上がりたくなさそうに返事をしました。
全然まだ上がる気のないクラリッサは、無言で顔の半分ほどまで湯水に潜りました。
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