40 お誕生日おめでとう
文字数 5,486文字
ミシスとプルーデンスが用意したアリアナイトのペンダントはとっておきとして、それとは別に、みんなで持ち寄った草花を籠に盛りつけた花束を贈ることになりました。その造形の責任は、立案者にして華道の心得のあるクラリッサが受け持つことになりました。
料理の品目に関しては、
こうして、やや急ごしらえではあるけれど、心の尽くされた宴の準備が整えられました。誕生日当日は、明け方こそ西の海上に黒雲が漂うのが散見されましたが、陽が昇りきってからはいつもどおりの染み一つない晴天に恵まれました。
夕刻の少し前、太陽が茜色をまとう寸前の黄金のひと時に、全員の手で食堂のテーブルや椅子が前庭へ運び出されました。全員と言っても、もちろんそのなかにノエリィと博士の姿はありません。二人は家から離れた森の奥へ、剣の稽古に出かけています。ミシスは昼のリディアの顕術訓練で疲れてしまったので、今日は剣の方はお休みにすると伝えてありました。
玄関のアーチに五つ子たちが色紙を繋ぎあわせて作った長いリボンが掛けられ、食卓やテラスには青銅の燭台がずらりと並べられました。色とりどりの料理の載せられた大皿や、ぴかぴかに磨かれた皿、カトラリー、グラスが、続々と手分けして家から持ち出されます。調理場のグリルのなかではノエリィの大好物の鶏の香草焼きが、フライパンのかたわらではベーム博士の大好物の川魚のバターソテーが、あとは火を入れられるのを待つばかりという状態で控えています。クラリッサとレスコーリアが森で拾い集めた花びらをテーブルの上に散りばめ、マノンとグリューが燭台に火を点けてまわり、ミシスがプルーデンスと一緒に貯蔵蔵からワインを抱えられるだけ抱えて運んできました。
庭に足を踏み入れるやいなや、その場にしつらえられた豪奢な祝宴の光景に仰天して、二人はまるで金縛りにでもかかったように固まってしまいました。
大きな花束の活けられた編み籠を両手で抱えたミシスとマノンが、それぞれ誕生日を迎えた二人の前に進み出ました。
「せ~の」空高く舞い上がったプルーデンスが、胸を反らせて掛け声を発します。
「誕生日おめでとう!」一同は声を揃えます。
瑞々しい色彩で溢れる特大の花束が、感極まって絶句する二人の腕に押し込まれた瞬間、それを合図に、いくつものクラッカーと拍手が鳴らされました。
「ノエリィ、お誕生日おめでとう」夕陽と歓喜で真っ赤に輝く笑顔で、ミシスが言いました。
「ありがとう」ノエリィはうっすらと瞳を潤ませて、にこりとほほえみました。「ほんとにありがとう、ミシス。それに、皆も」
「ベーム博士。まさかあなたの誕生日を一緒にお祝いできる日が来るなんて、夢にも思いませんでした」マノンが目を細めて恩師を見あげます。「なにが起こるかわかったものではないですね、人生って。博士、おめでとうございます」
「なんということだろう」ベーム博士はかぶりを振って嘆息します。「この歳にして、この境遇にあって、かくも
咲き誇る花々のなかに半ば顔を埋めたまま、彼はみずからに注がれる敬慕のまなざし一つ一つに、感謝を込めた瞳を返していきました。それからおもむろに真顔になって、髭の間から丘のように突き出ている鼻をくんくんと動かします。
「……私の好物の匂いがするぞ」
プルーデンスが博士の頭上で呆れたように笑います。「まったく、子どもみたいな顔して」
「腹が減ってる時に好物の匂いを嗅いだら、誰しもこんな顔になろう」博士は大袈裟に目をむきます。「今年も作ってくれたんだね。いつもありがとう、プルーデンス」
「ううん。お安い御用よ。おめでとう」
そこで急にプルーデンスは振り返り、ミシスに向かってぱちりと片目をつむってみせました。ミシスはうなずき、懐に隠していた二つの小さな木箱を取り出しました。そのうちの一つをプル―デンスが受け取り、博士の目の高さに浮上します。残った一つをミシスが大事そうに両手で包み込み、ノエリィの胸の前に差し出します。
「これね、わたしたちが手作りしたの」この時を待ち侘びて眠れぬ夜を過ごしたミシスは、思わず声を震わせます。「どうぞ、受け取ってください」
ノエリィの花束をグリューが、博士の花束をマノンが預かり、脇に身を引きました。それぞれに慎重な手つきで木箱を受け取った二人は、息を呑みつつそろりと蓋を開けました。
「わぁ……」
まるで初めて雪や海を見た幼子のように、ノエリィは深い吐息をもらしました。その隣に立つ博士も、見事なまでに目を丸くしています。
細い銀の鎖が通された
「これ……これって……」ノエリィは金魚のように口をぱくぱく動かします。
「アリアナイトだよ」ミシスがにこりと笑います。「綺麗でしょ? 貸して。着けてあげる」
ミシスは手を伸ばしてペンダントを借り受け、ノエリィの背後に回ってその首に掛けてあげました。プルーデンスもそれに倣い、博士のペンダントを樹の幹のように太い首に着けてあげました。
再び二人の正面に戻ったミシスとプルーデンスは、満足しきった表情で互いに顔を見あわせ、大いなる達成感と共に息を揃えました。
「うんうん、すごく似合ってる」
少女と賢人はそれぞれに胸のペンダントを手に取ると、改めてその淡く青いきらめきを見つめます。
「かわいい……」ノエリィがささやくように言いました。「これ、ほんとにミシスたちが作ったの?」
「そうだよ」ミシスとプルーデンスが一緒に胸を張ります。
ふいにノエリィは意識を失いつつある人のようにのそのそと前へ歩み出ると、大きく両腕を広げてミシスを抱きしめました。
「大好き!!」
「ええっ!!」
出し抜けにぶつけられた率直すぎる告白に大いに赤面して、ミシスは珍妙な悲鳴を上げました。二人を見守っていた皆は、一斉に声を上げて笑いだしました。それまでおとなしくしていた五つ子たちがしゃにむに飛び出して、ミシスとノエリィの髪や背中に張りつきました。
「だいすき、だいすき!」
子どもたちが少女を真似て口々に叫びだすと、プルーデンスとベーム博士は余計に笑いが止まらなくなりました。二人の目尻には、うっすらと光の粒が滲んでいました。
「もう。みんなほんとに、可笑しいんだから……」プルーデンスが目もとを拭います。「さあて、それじゃ皆で食事にしましょう!」
テーブルに着いた一同は、恒例の〈大聖堂〉の印を結び、普段より長く深くイーノへの感謝を捧げました。ふいに訪れた祈りの静謐のなか、ただ燭台の炎だけが、ちりちりとかすかな音を立てています。風はほとんどなく、森の樹々も人間たちの祈りを邪魔しないように、そっと息を潜めています。
静けさを破ったのは、ベーム博士の腹の虫でした。まるで
広大なテーブルに隙間なく敷きつめられた豪勢な料理の数々が、瞬く間に平らげられていきました。赤や白のワインが次々と空き瓶と化し、カバのように丸々と太ったチョコレートケーキに刺さったキャンドルの灯火が、拍手を浴びる主役の二人によって吹き消されました。みんなにせがまれてギターを手にした博士が、以前とおなじように、温かく心のこもった歌声を披露しました。
宴も
前回、お酒と音楽に酔いしれた挙句に泣きじゃくってしまった反省から、この夜はどうにかして泣き上戸の本性を抑え込んでいたマノンでしたが、その手紙を博士の奏でる優美な爪弾きの音色に合わせて代読しているうちに、再び留めようもなく涙が頬を伝いました。
〈あなたがどこでなにをしていようと、私はいつでもあなたをこの世界でいちばん愛してるわ。
これからもずっと、優しくて素直なあなたでいてね。
16歳のお誕生日おめでとう、ノエリィ。
1771年 ツガの月 8日 あなたのお母さんより
追伸:イーノに溶け込んじゃって、世界のどこにでもいるようになったお父さんも、きっといつもあなたを護ってくれているはずよ。たまには、話しかけてあげてね。〉
――という結尾の文を読み上げる段に至っては、もうしゃくり上げてばかりで、まわりの皆はほとんどまともに言葉を聴き取れないほどでした。そんなマノンの様子を目の前にして、ノエリィもまた照れくさそうにうつむいて涙をこらえていましたが、自分と肩を触れあうミシスがマノンに負けず劣らず嗚咽すしている姿を見た途端、やっぱりみずからも崩れ落ちるように涙の海へと沈み込んでしまいました。
顔じゅう水びたしのマノンは手紙を渡しながら、そのままノエリィとミシスを一緒くたにして抱きしめ、三人でおいおいと泣き声を上げました。
「あ~あ。またこうなっちゃうのね」グリューの頭の上に座って膨れたお腹を撫でながら、レスコーリアが肩をすくめました。
青年の横でケーキを食べていたクラリッサが、彼の横顔をちらりとのぞき込みます。
「……なんだよ」グリューはきつく歯を食いしばっています。「おれは、今日は泣かんぞ」
「ふふ。かわいい人」
椅子にもたれるベーム博士は、目を閉じてほほえみながらギターを爪弾き続けます。テーブルの上に並んで座る五つ子たちの肩を抱いて、プルーデンスは宵闇に沈みゆく森の樹々を眺め、そして今まさに天空に昇り地上を照らしはじめた半月を見あげます。
「よく泣くわねぇ、みんな」おかっぱ頭の女の子ルビンが言いました。
「ほんと。あたしたちだって、こんなには泣かないわ」肩にかかる髪の女の子シュウが言いました。
「また故郷を思いだしてるのかしら」髪の長い女の子タインが首をかしげました。
「今日は、お母さんのこと思いだしてるんじゃないの」前髪を左で分けた男の子テルが言いました。
「お母さんからの手紙を、読んでいたものね」プルーデンスは微笑し、五人全員をくまなく抱き寄せました。
「くしょっ」前髪を右で分けた男の子アルが、小さなくしゃみをしました。その拍子に唇の隙間からケーキの
「やぁだ」ルビンが呆れます。
「アルは鼻がよわい」テルが弁護するように言って、アルの背中をさすってやります。
「夜は少し冷えるね」自分のスカーフをほどいて、プルーデンスはそれをアルの首に巻いてあげました。
アルは鼻をすすりながら、その肌の温もりを宿すスカーフに顔を埋めます。
「いいにおい。お母さん……の、におい」
「そう」プルーデンスはいっそう強く子どもたちを抱擁しました。
周囲の繁みのなかから、鈴を揺らすような虫たちの鳴き声が聴こえてきます。森の奥のどこかで、正体のよくわからない夜鳥が、時折り思いだしたように鋭い叫びを放ちます。
ベーム博士が演奏の手を止めると、あたりの静けさはたちまち密度を増し、遠い浜辺に打ち寄せる潮騒の音までもが届いてくるようになりました。
ギターを抱いたまま、博士は立ち上がりました。
「みんな、今夜は本当にありがとう。こんなに愉快な誕生日は、いまだかつてなかった。まったく、長生きはしてみるものだ。心から感謝するよ」
一同はぱちぱちと手を叩き、笑顔と歓声をもって博士を称えました。
「それから」博士は一段と声を大きくして続けます。「私としたことが、言い忘れていた。ノエリィ。誕生日おめでとう」
思いがけず声をかけられたノエリィはむっくりと顔を上げ、ミシスとマノンに抱えられて椅子から起立しました。さらに大きくなった拍手を受けて、少女は皆に、そして博士に向かって、深々と礼をします。
「博士、みんな、ありがとう。それと、わたしとしたことが言い忘れていました。ベーム博士、お誕生日おめでとうございます!」
「ふぁはは! ありがとう、ありがとう」博士は大口を開けて笑いました。そしてグラスを掲げて、すべての瞳を一つずつしっかりと見つめました。「きみたちの未来に、どうか幸多からんことを」
ぐっとワインを飲み干し、ギターを椅子に立てかけて置くと、博士はまぶたを閉じて〈大聖堂〉の印を結びました。彼を囲む全員も、静かに目を閉じてそれぞれの手を重ねました。
こうして、夏の一夜は更けていきました。
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