44 夢の奥深くへ
文字数 6,128文字
「……よく、わかんない」
かさかさに乾いた唇の隙間からスプーンを引き抜きながら、ミシスはうめくようにこたえます。本人は笑顔を浮かべたつもりでしたが、しかしその表情筋はほとんど動きません。
ふっと苦笑すると、ノエリィは冷やしたタオルで顔の汗を拭いてあげます。
ミシスは口の動きでありがとうを伝え、次のひとくちを皿から掬おうとしますが、スプーンを持つ指にまるで力が入りません。
「貸して」
ノエリィがスプーンを握って、温かいスープを飲ませてくれました。けれどその半分も口にしないうちに、ミシスは唇を閉じて首をかすかに振りました。
「だめだよ。ずっとなにも食べてないんだから」ノエリィが穏やかに叱ります。「これぜんぶ飲んだら、また眠っていいから」
為す術もなく口を開きながら、ミシスはちらりと窓の外を眺めます。
今、ミシスはベーム博士のベッド――近頃はマノンが使っていた寝床――に、上体を半分ほど起こして横になっています。時刻は午後の三時を回ったところですが、頑として去ろうとしない雨と霧のおかげで、外はどんよりとした薄闇に覆われています。
寝室にいるのは、ミシスに付きっきりのノエリィと、ソファベッドの上に身を横たえるアルだけです。ミシスは高熱で茹で上がった顔を少年の方へ向け、ノエリィに無言で容態を問います。
「アルくんなら、もう平気」ノエリィが微笑します。「熱も下がったし、羽の赤いやつもほとんど剥がれたよ」
喉の痛みと気道の圧迫感に耐えながら、ミシスは懸命に言葉を絞り出します。「よかった。新しい羽、早く見てみたいな」
「すごく綺麗だよ。それみたいに、きらきら透き通ってて」
それというのは、ミシスの首に掛けられたアリアナイトのペンダントのことでした。アルが快方へ向かうのが確認された後、ノエリィの手によって今度はそれはミシスのもとへやって来たのでした。
よろよろと手を持ち上げ、少女は自身の胸もとの輝きに触れますが、その途端に激しく咳き込んでしまいました。ノエリィがとっさにその背中をさすります。
「さぁ、がんばってこれを食べて、そしてお薬を飲もう。そしたら少しは楽になるはずだよ」
目に涙を溜めながらミシスはうなずき、気力を振り絞って皿を空にしました。そして猛烈に苦い粉末の薬を溶かした湯を、牙を剥く犬の鼻っ面のようにたくさんの皺を顔の真ん中に寄せて、一息に飲み干しました。
それが済むとノエリィは立ち上がって居間の方へ目をやり、誰もこちらに来る気配がないのをたしかめると、汗でくたくたになったミシスの服を手早く脱がせて、その全身を熱い湯で濡らしたタオルで拭いてあげました。少女は苦悶に
「気持ち良いでしょ」ノエリィがにこりと笑います。「風邪で寝込むと、いつもお母さんがわたしにこうしてくれたんだよ」
ハスキルと瓜二つの顔をしたノエリィがそう言うと、ミシスはまるで母娘二人ぶんの愛情をいっぺんに注がれているような気がして、思わずぽろりと涙を流してしまいました。
以前パズールの町に出かけた時に購入していた純白のチュニックを、ノエリィがミシスの頭からすっぽりと着せてあげました。さらりとした新しい衣服の肌触りは爽やかで柔らかくて、少女はまたやみくもに泣きたいような気持ちになりました。
枕代わりにしていた氷嚢の中身も入れ替えられ、その上にタオルを一枚敷いて、ノエリィはミシスの頭をそこへ静かに載せました。仕上げに毛布で体を包むと、二人は一緒にほっと一息つきました。
「ありがとう」唇の先にほんの少しだけ空気を押し出すようにして、ミシスが言いました。
ノエリィは彼女の手をやんわりと握り、もう片方の手のひらを汗で湿った額に当てます。
「初めての風邪はどう?」
「こんなに辛いなんて、思わなかったよ……」ミシスは深淵をのぞき込むような表情でつぶやきます。
「ふふ。これも経験のうちだよ。でも安心して、普通の風邪は滅多にここまで酷くはならないから」
「そんなに酷いの、今のわたし……?」ミシスは鼻をぐずつかせます。「わたしこのまま、死んじゃったりしないよね……」
「な~に言ってるの」ノエリィが吹き出します。「ちょっと時間はかかるかもだけど、必ず良くなるよ。さ、もう眠ったらどう?」
ミシスはうなずき、ぱったりとまぶたを閉じました。実を言うともうずいぶん前から、半分ほど意識は遠のいていたのです。
「おやすみ、ミシス」ノエリィが耳もとでささやきます。「近くにいるから、安心して眠りなさい」
それにこたえる前に、ミシスは自分でも驚くほどの圧倒的な眠気に呑み込まれて、そのまま夢の奥深くへと引きずり込まれていきました。
あっという間に寝息を立てはじめた彼女の顔をしばらく見守ってから、ノエリィは食器を載せた盆や濡れた服を抱えて、足音を忍ばせつつ食堂へと向かいました。
そこで食事をとっていた皆に、ノエリィがミシスの様子を伝えました。
「熱がものすごく高いです。体の節々の痛みや、咳と鼻水もかなり酷くて、喉もずいぶん荒れてるみたい」
「風邪の症状の総攻撃って感じね」クラリッサが気の毒そうに首をすくめます。
「やっぱりこうなっちゃったね」グリューの頭上でうつ伏せになっているレスコーリアが、気だるげにかぶりを振ります。「実を言うとあたし、絶対こうなると思ってたわ」
「薬は飲んだかい?」ベーム博士がたずねます。
「はい。全部きちんと飲みました。あと、スープも」
博士はふうと細い息を吹きます。「なら、少しは効いてくれるかな」
「あの熱だと、まだあんまり効果は期待できないかもね」テーブルの上で四人の子どもたちと一緒に腰かけているプルーデンスが言いました。「薬がまともに効く範疇の発熱は、もう少し容態が安定してからじゃないかしら。今はきっと、熱も苦痛も最高潮よ。この峠をなんとかがんばって越えて、とにかく安静にしておくしか手はないわ」
「そうだね」ノエリィがうなずきました。
それからは、全員でかわりばんこにミシスとアルの経過を見守りました。二人とも、誰が見に行っても、いつもこんこんと眠っていました。しかしもうずいぶん体調が安定してきたアルとはちがって、ミシスはベッドのなかでひっきりなしに手足をばたばたさせては、まるでなにかに怯えている獣かなにかのように、言葉にならない切迫した唸りを喉の奥で鳴らしていました。その声は間近で聴くと正直ぞっとするほど鬼気迫った響きで、それだけで悪夢の深度が相当なものであることが伝わってきました。
ノエリィが何度も氷嚢を新しくしたり、冷たいタオルで顔を拭ってあげたりしても、ミシスはまったく目を覚ます気配がありません。
「可哀想に、よっぽど怖い夢を見てるのね」ノエリィが枕もとでささやきます。「もう少しだから、がんばって……」
手抜かりのない丁寧な看病の甲斐あってか、しばらくすると、ミシスの四肢のばたつきと唸り声が、いくらか治まってきました。小康状態に至ったことを見て取ったノエリィは、そこでようやくまともに深呼吸をして体を伸ばし、壁の時計を一瞥してから、立ち上がって窓の外を眺めました。
雨は今なお降り続いています。まだ夕暮れ前だというのに、家のまわりはもう宵の入り口に差しかかったように暗くなっています。明かりを灯そうかどうか迷いますが、それには少し早すぎるかなと判断して、ノエリィはタオルやたらいを抱えると寝室を出ていきました。
居間を通る時、ソファにあぐらをかいてラジオを聴いていたベーム博士が、顔だけ上げてノエリィにたずねました。
「まだきついのだろうね」
「はい、だいぶ」
「ふむ。しかしもうちょっとの辛抱だろう。それに、今夜の遅くには、この雨もやっと上がるみたいだ」
それを聞いてノエリィはにわかに表情を明るくします。「よかったぁ。はっきり言って、もうほとほと見飽きちゃってたんです」
「私もだ」博士も首をすくめて微笑しました。
食堂では、クラリッサがまた四人の子どもたちに勉強を教えています。プルーデンスとグリューの手伝いをしようと、めずらしくマノンがナイフを手にしてまな板の前で格闘しています。助手の青年がそれをひやひやしながら監督し、その頭上からレスコーリアがにやにやしながら二人の様子を眺めています。
「あぁ、あぁ……危なっかしいなぁ、もう。そんなに親指を突き出しちゃだめですよ」青年が頭を抱えます。
「わたし、代わりますよ」ノエリィが苦笑混じりに買って出ます。
「いいよ、ノエリィ。僕にだって、これくらい……」ぎこちない手つきで根菜類をぎこぎこと切断しながら、マノンが唸ります。
「なら、わたしもお手伝いします。一緒にやりましょう。ねぇ、これ全部ざく切りにしちゃっていいの?」
「うん、お願い」パン生地をこねながら、プルーデンスがこたえます。
夜に去ることが予想された長雨は、その退場の一幕において残された力のすべてを注ぎ込もうとでもいうのか、時が経つにつれて過剰なまでにその激しさを増していきました。雨音が大きすぎて会話もまともにできなくなってきたので、食堂の雨戸はすべて閉められました。その途端に室内は静まり返り、食材を切るとんとんという音と、煮える鍋のぐつぐつという音だけが満ちる、牧歌的で親密な空間に様変わりしました。
そしてまさにその時を見計らったかのように、居間にいたはずのベーム博士がとつぜん食堂の入り口に顔をのぞかせました。
「みんな」
一言そう呼びかけると、博士は全員が自分の方へ顔を向けるのを待ちます。
お椀のように組みあわされた博士の両手を寝床にして、くたっと座り込んでいるアルの姿がそこにありました。けろりとした表情を浮かべた少年は、小さくつぶらな二つの瞳をきょろきょろとさせています。
「アル~~~~!!」
四人の子どもたちが鉛筆を放っぽりだして、生還したきょうだいのもとへ飛びつきます。
プルーデンスはお腹の奥から長く深い息を吐き、ベーム博士を見あげました。
「よかった」
「うん」博士は彼女を労うように微笑します。「あっちでラジオを聴いていたらいきなり顔の前に飛んできてね。びっくりしたよ。元気になって良かったなぁ」
一同はそれぞれの手を休め、少年の様子をまじまじと眺めます。
「ぼく、寝てたの?」もつれる舌でアルがたずねます。
「そうよ。なにも覚えてないの?」プルーデンスがその頬を撫でます。
少年は戸惑いながらのんびりとうなずきます。それを見た四人の子どもたちが可笑しそうに笑いだすと、アルも一緒になってくすくすと笑みをこぼしました。
苦闘を制した少年はきょうだいたちに体を支えられて立ち上がり、時間をかけてめいっぱいに背伸びをして、立派に生まれ変わった新しい羽を左右に大きく広げました。皆の歓声を浴びながら、少年は飴細工のように照り輝く羽を上下に揺らし、ゆったりと空中に浮上しました。
しかしすぐにまた博士の手のひらにへたり込んでしまいます。
「あれ?」アルは首をかしげます。
「ふぁはは。そうすぐには調子が戻らんか。いつもみたいに飛ぶのは、ご飯を食べて元気になってからになさい」
「うん」
少年は広げた羽を自分の体にぴたりと沿わせるように畳みました。それからぼんやりと頭をもたげて、なにかを探すようにまわりを見渡します。
「みんな、なにしてたの?」
「晩ご飯の支度だよ」ノエリィが言います。
「ふぅん……」
アルはノエリィの顔をじっと見つめたあと、そのすぐ隣の、なにもない空間にいっとき視線を漂わせて、小さく首を傾けました。
「ねえ。ミシスおねえちゃんはどこ?」
「えっ?」ノエリィが眉をひそめます。「アルくんの近くで寝てたでしょ?」
「ぼくの近く?」アルはぽかんと口を開けます。そしてのんびりと首を振ります。「ううん。寝る部屋、ぼく一人だった。だから目が覚めてから、博士のとこに飛んでった」
ノエリィをはじめ、その言葉を耳にした全員が、一斉に顔色を変えました。マノンがさっと身を翻し、居間と食堂を繋ぐ廊下の奥にある洗面室を確認します。けれど脱衣所にも、シャワー室にも、お手洗いにも、誰の姿もありません。
「ここにはいない」マノンが大声で伝えます。
矢も楯もたまらずノエリィは駆けだし、他の面々もそれに続きます。
最初に寝室に飛び込んだノエリィが、悲鳴を上げました。
ミシスの眠っていたベッドは空になっていて、そのすぐそばの裏庭に面した窓が大きく開かれています。荒く吹き込んでくる風雨によって、シーツも枕もずぶ濡れになっています。
「ミシス!?」
叫びながらノエリィは窓枠にしがみつき、濡れるのも
「この部屋にもいない」
すべてのソファやハンモックに置かれた毛布を片っ端からめくって、グリューが報告します。
家の正面玄関が開けられた形跡がないことをクラリッサがたしかめ、ひとっ飛びして家じゅうの窓の鍵が施錠されたままであるのをレスコーリアが確認し、それぞれそのことを全員に伝えました。
「ここから出たとしか考えられない」開かれた窓の前に立って、マノンが魂の抜けたような声をもらしました。「まさか、誘拐……」
「ここで? そんなばかな」クラリッサが強く首を振ります。
ベーム博士がノエリィとおなじように外へ顔を出して、呆然とつぶやきます。「そうとも……そんなことがあるはずない。この島に、私たち以外に人間はいない。いるわけがない」
「じゃあ、自分で出てったってこと?」レスコーリアがミシスの頭の形にへこんだ氷嚢に手を触れます。「あんな体で、しかもこんな暗い雨のなか、いったいどういうつもりで外になんか出るわけ?」
ぐっと息を詰めると、ベーム博士は両手を自分の首の後ろで組みあわせて、ほんのいっとき鋭く黙考します。その盛り上がった肩の筋肉に、プルーデンスがそっと手を添えます。
「……これはいかん」博士は唸るように口を開きます。「もしかすると、だが……夢遊病の症状が出たのかもしれん」
「ああ、そうか……」マノンがじわりと目を見開きます。「ありえる話です。過度の発熱によって意識が混濁し、急に起き上がって窓から飛び降りたり、外へ飛び出したりといった行動に出る患者は、決してめずらしくないと聞きます。もちろん、まだそうと決まったわけじゃないけど、じゅうぶんに可能性はあります。なにしろ、あのむごい苦行のような、羽化熱の感染症なんだから……」
「すぐに探しに行かなくちゃ!」両目に涙を溜めたノエリィが振り返ります。「みんなで手分けして、一刻も早く見つけましょう。そうでなきゃ、ミシス、ほんとに死んじゃうかも……!」
「よし急ごう!」グリューがばしんと両手を叩きあわせました。
その一声に返事をする時間さえ惜しいといった様子で、一行は玄関に向かって走りだしました。
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