31 大きな光
文字数 7,539文字
大の字になって水面に浮かんで、今わたしを抱き留めているこの水は、遥かな海の果てと底にまで一つに繋がっているんだ、と想像しました。そして海から雲が生まれ、風に乗って陸に届き、雨となって地上に降り注ぎ、その恩恵を受けた大地に数多の命が芽吹き、やがてその一つが樹に成長し、黄金に輝く実をつけ、それがいつしかレモネードと呼ばれるものへと変容を遂げていく過程を、頭のなかで丁寧に思い描きました。
浜辺に腰かけて皆と一緒にひと休みしながら、ミシスはグラスのなかからレモンの輪切りをつまみ上げ、その半透明の果肉を通して無限の空と海を見渡しました。
果実という表現として
ふと思い立って、ミシスは手にしていたものを口のなかに放り込んでみました。そして痺れるような酸味に全身をぶるぶると震わせながら、皮や種ごと噛み砕いて飲み込んでしまいました。
「ねえ、なにしてるの? 食べなくていいんだよ、それ。涙まで流しちゃってさぁ」隣でノエリィが呆れます。
「世界を食べた」ミシスは意味深長な笑みを浮かべます。
「……変なミシス」
不思議そうに眉をひそめるノエリィでしたが、なんとなく自分も試してみたくなったのか、おなじように果実の一片を引っぱり出して舌に載せました。
鼻の付け根にぎゅっと皺の寄せられたその顔を見て、ミシスは声を上げて笑いました。
その日の晩は、博士の家の庭で盛大な夕食会が開かれました。
プルーデンスご自慢の燻製肉や、昼のあいだに皆で調達した貝やエビ、それに菜園で収穫されたばかりの色とりどりの野菜が、炭火の焼き網の上にぎっしりと並べられました。さらにそこへ魚介の旨味の染み込んだスパゲティ、いろいろな種類のチーズ、
笑いの尽きない晩餐も佳境に差しかかった頃、ベーム博士がどこかから年季の入ったギターを持ち出してきました。皆の歓声に迎えられながら、博士は庭の中央で
舞台上の俳優のように博士が一礼すると、聴衆たちは大きな拍手を送りました。
そこで披露された演奏の温かな音色と、親密で深みのある歌声は、実に見事なものでした。
生まれて初めて目の前で本物の音楽に接したミシスは、感極まってぽろぽろと涙をこぼしました。それにつられるようにして、すっかり酔いが回って気持ちのゆるんだマノンもまた、さめざめと頬を濡らしました。
一曲歌い終えたベーム博士は、心のこもった口笛や喝采を浴びながら、立て続けに次の曲の冒頭部分を爪弾きはじめました。
歌いはじめる前に、博士はノエリィとミシスに向かってそっとほほえみかけました。
彼が無言のうちに二人に捧げたのは、美しい森と清らかな乙女の愛、そして誇り高い騎士の魂を讃える、コランダム地方に伝わる古い民謡でした。
最初の二小節を耳にした時点で、ノエリィは眼鏡を外してしくしくと泣きだしてしまいました。ミシスとマノンの涙にも、ますます拍車がかかります。
切々とした歌声とすすり泣きが重なりあって月夜の空に染み渡り、最後にはその場にいた全員が目を赤くすることになりました。
ただ五つ子たちだけが、丸く膨らんだお腹を抱えてテーブルの端に一列に座り、きょとんとした表情で客人たちを眺めています。
子どもたちの背後に腰かけていたプルーデンスが、目もとを拭って苦笑しました。
「笑ったり泣いたり、なんて忙しい人たちなのかしら」
五つ子のうちの一人、前髪を左側に分けている男の子テルが、ころりと寝転ぶように振り返ってプルーデンスを見あげました。
「ねぇプルーデンス。どうしてみんな泣いてるの」
「遠い遠い、
もう一人の、前髪を右側で分けている男の子アルが、兄弟とおなじように体をひねってたずねます。
「故郷って、なに?」
「自分の生まれた場所のことだよ」
三人の女の子たち――ルビンとシュウとタインが、同時にくるりと後ろを向きます。
「プルーデンスの故郷は、どこ?」おかっぱ頭のルビンがたずねました。
「わたしの故郷は、ここからず~っと北の方。ものすごく寒いところ」
「プルーデンスの目も濡れてるわ。故郷に帰りたいの?」肩にかかるほどの髪のシュウが、プルーデンスの顔を下からのぞき込みます。
「ううん。ちっとも帰りたくない」プルーデンスは首を振ります。「わたしはここでみんなと一緒に暮らすのが、いちばん好きよ」
「じゃあなんで泣くのかしら」背中を覆うほど長い髪のタインが首をかしげます。
「なぜかしらね。自分でもよくわからないわ」
「ねぇ、じゃあぼくらの故郷はどこ? ここ?」アルがテルの羽を引っぱりながら、のんびりした口調でたずねました。
テルはぽかんとした顔をして、三人の勝気な女の子たちの方をおずおずと見やります。
「そうに決まってるじゃない」三人娘はきっぱりと声を揃えます。
「そっか」二人の男の子は嬉しそうにうなずきます。
プルーデンスは大きく両腕を広げ、五人をひとまとめにして強く抱きしめました。
「また泣いてる。寂しくなったの?」テルが頭上を見あげます。
「いいえ。あなたたちのことが、大好きだからよ」
「あたしも好きよ」
「ぼくも……」
子どもたちは口々に言いながら、その温かく湿った小さな体をプルーデンスの体に巻きつけるようにして、ひたむきな抱擁を返しました。
宴がお開きになった後、ベーム博士が再び庭の風呂を沸かしてくれました。夜の森の
「みんな、今夜はどうするね?」最後に風呂から上がってきた博士が、食堂に集まっていた一同を見まわしました。
ぐったりと椅子に座り込んでいたマノンは、腫れぼったい目を擦って唸るように言いました。
「……僕、今から船に戻るの、ものすごくめんどくさいな」
「右におなじ……」ノエリィがテーブルの上にばったりと突っ伏しました。
続いて他の面々も同感を表明します。
「ふぁはは。では泊まっていくといい。というか、きみたちさえよければ、これから毎晩だってうちで眠ってかまわないよ」博士が言います。そして宙を
「あるにはあるけど、数が足りないかも。新品のハンモックなら、いくつかあるけど」
「それです!」ノエリィが体を跳ね起こします。「わたしはぜひとも、その、ハンモックをお借りしたいです」
「わ! わたしも……」すかさずミシスも挙手します。
博士とプルーデンスは顔を見あわせて微笑し、少女たちに向かってうなずきます。
「あたしたちは適当にソファかなにか貸してもらえたらじゅうぶんよ。ね、グリュー」クラリッサが青年の腕に手を載せます。
「なぜおれに同意を求める」その手をするりとかわし、青年は冷ややかに言い放ちます。
「もう、照れ屋さんね。相変わらず」クラリッサが指先で青年の肩を突きます。
ミシスとノエリィ、それに彼女たちにじゃれついていた五つ子たちが、口を押さえてくすくすと笑います。青年はそちらをぎろりと一瞥すると、なにかをぶつぶつとつぶやきながら、コーヒーカップを片手に居間の方へ逃げていきました。
「なら、お嬢は私のベッドを使うといい」博士がマノンに声をかけます。「私は書斎や居間でそのまま寝てしまうことがしょっちゅうだから」
「いいのですか?」
「うん。ただちょっとおやじくさいかもしれんが」
「かまいませんよ、そんなの」マノンは笑って肩をすくめます。
博士の家の寝室は、食堂と反対の方向に居間を抜けた先にありました。驚くほど広々とした大部屋で、床一面に鮮やかな
ハンモックは、その部屋のテラス窓のそばに二つ並べて取り付けられました。枕代わりのクッションと薄手の毛布も、それぞれにしつらえられました。支度がすべて整うと、博士とプルーデンスが恭しく一礼して、二人の少女に新しい寝床を献上しました。幼い子どものようにはしゃぎながら、ミシスとノエリィはさっそく身を横たえました。
「お気に召したかな?」博士がたずねます。
二人はうっとりとした表情でうなずき、感謝を伝えます。
一連の取り付け作業を面白がって観察していた五つ子たちは、じきにソファの上で身を寄せあって眠りに落ちていきました。そのかたわらに寝そべって子守唄を歌っていたプルーデンスが、全員が寝静まったのをたしかめると、ふっと口をつぐみます。そして静かに空中に浮上し、早くもうとうとしはじめているミシスとノエリィに近づきました。
「灯り、消すね」プルーデンスがささやきます。
「うん」ミシスがうなずきます。
「おやすみ、二人とも」
「おやすみ。今日はいろいろありがとう、プルーデンス」二人は口を揃えました。
寝室の出入口の脇で揺らめいていた燭台の火が、音もなく吹き消されました。
こうして、少女たちと小さな子どもたちだけが残された部屋は、しっとりとした宵の静謐に沈みました。前庭を望む一面のガラス窓を通して、白く穏やかな月光が室内いっぱいに流れ込みます。
そこへ再び、なにか忘れものでもしたかのようなそそくさとした足取りで、ベーム博士が戻ってきました。まどろみかけていた少女たちは頭をもたげて、大きな
「こいつを持ってきたよ」
博士が差し出して見せたのは、砂のようなものが詰め込まれた小さな透明の瓶でした。コルク栓で封がしてあり、瓶口のあたりに長い紐が
「それは……?」ノエリィが寝惚けまなこでたずねます。
「アリアナイトの
それぞれの頭上で輝く小瓶を眺めて、ミシスとノエリィはぽかんとした表情を浮かべます。
「とても綺麗。でも、どうしてですか?」ミシスは首をかしげます。
「おや、ご存知ないかね? アリアナイトの光には、精神を落ち着ける効果だけでなく、疲労や病気を癒す効能もあると言われているんだよ」
「へぇ……」ノエリィが吐息をもらします。
「今日はたくさん遊んで疲れたろう。こいつが少しでも回復の助けになればと思ってね」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それじゃ、ぐっすりおやすみ」
博士が寝室を出ていくと、再び透き通るような静寂が少女たちを抱きしめました。
「なんか信じられないね」青く光る砂を見つめながら、ミシスがつぶやきました。「わたしたち、今朝この島にやって来たばかりなんだよ」
「ほんと、冗談みたいな一日だったね」
「えっと、まず朝いちばんに空から船で降りてきて、森を通り抜けて、お風呂に入って、ごはん食べて、船を移動させて、ごはん食べて、海で遊んで、ごはん食べて、またお風呂に入った」
「あはは、可笑しい……」
「そりゃあ、くたくたになるわけだよね」
「……ねえ、ミシス」ノエリィがふいに声を鎮めます。
「なに?」
「今日、クラリッサさんと二人で、どんな話をしたの?」
途端にミシスは目を輝かせました。そして午前中に川のほとりで学んだことについて、じっくりと語って聞かせました。実を言うと、ミシスも早くこの話をノエリィと分かちあいたくて、相応しい機会の到来を心待ちにしていたのでした。
「……と、こういうわけなの」
夢中ですべてを話し終えると、ミシスは胸を大きく上下させて息を整えました。
「はあ……」ノエリィが体を横に倒し、全身でミシスの方を向きます。「すごいね。世界って」
ミシスもまたおなじようにして、正面からノエリィと向きあいます。
「あのさ。ミシスが一緒にいてくれるから、わたし平気でいられるけどさ」今にも寝入ってしまいそうな細い声で、ノエリィが話しはじめます。「わたし、ほんとは、毎日すごく心細かった」
「うん」ミシスは手を伸ばし、ノエリィの手を取りました。
「いつも、ほんとにいつも、そばにいてくれたの。お母さんや、ピレシュや、ゲムじいさん、みんなが」
「うん」ミシスは握る手にそっと力を込めます。
ノエリィは少しだけ頭を持ち上げて、まるで遠い過去の夢をなぞるような、あるいはずっと先の未来に願いをかけるような、どこまでも澄んだまなざしで、夜空に浮かぶ月を見あげました。
「毎晩、寝る前に思うんだ。この月明かりは、お母さんたちのところにも届いてるんだって。毎朝、目覚めて思うんだ。この太陽は、お母さんたちのことも照らしてるんだって。つまり……おなじ光が。わたしとミシスを照らしてるのとおなじ、大きな光が、お母さんや、丘や、家や、みんなにも、注がれてるんだ、って……」
ほとんど寝言と判別がつきかねるほどのささやかな声で、ノエリィはぽつりぽつりと語ります。ミシスは息が止まってしまうような思いで、その小さく開閉する唇を見つめていました。
「寂しいっていう気持ちは、離れてるからじゃなくって、どんな離れていたって、ずっと繋がってるからなんだね」
言葉を一つ一つ丁寧に織り上げるように、ノエリィが言いました。
ミシスは深々と息を吸い込み、ぎゅっと喉を閉めて呼吸を止めました。
静かに閉じられたノエリィの瞳から、一筋の涙が流れ落ちました。
その一滴がまぶたの
彼女には、そのたった一粒の涙が、世界を覆う海原よりも、天に広がる星空よりも、ずっと広くて大きくて深いもののように思えて、仕方がありませんでした。
「そうだね」ミシスはつぶやきました。気づかないうちに、自分の目にも涙が滲んでました。「みんな、ずっと一緒なんだ。離ればなれになることなんか、ないんだよ」
最後にほんの小さな微笑を浮かべて、ノエリィはそのまま眠りの底に降りていきました。
淡い青の光を映す寝顔をしばらく見守っていたミシスでしたが、いつの間にか、みずからも夢の世界へと落ちていきました。
意識を失う寸前に、故郷の丘で
それからしばらくして、レスコーリアが裏庭側の窓から寝室に入りました。二人の少女と五人の子どもたちの寝顔を確認すると、続いて彼女は居間へと向かいました。そこではグリューが開いた本を胸に載せたまま、ソファに仰向けになってぐうぐうと寝息を立てています。彼女は近くに置かれていたタオルケットを拾い上げ、青年のお腹にかけてあげます。ベーム博士は奥の書斎の椅子に座り、前かがみになってなにかの書物を読み耽っています。短い廊下を渡って食堂をのぞくと、プルーデンスとクラリッサが香草茶を飲みながら小声で世間話をしています。
庭先へ出てすぐに、レスコーリアは赤髪の相棒の背中を見つけました。ほどよく酔いも冷めたのか、マノンはしゃっきりと胸を反らせてテラスに立ち、月を見あげつつ歯を磨いています。
「マノン、おつかれさま」
「んはは」口をもごもごさせながら、マノンは苦笑します。「たしかに、今日ばかりは疲れたよ。こんなに無心ではしゃいだのは、いつ以来かな」
「あら」レスコーリアはいじわるっぽく目を細め、マノンの眼前に浮かびます。「時にはしっかり遊ぶのも大事、なんて言いながら、ずいぶん遊んでこなかったみたいね」
「一本取られたね」マノンはくすんと鼻を鳴らします。「……そうだねぇ。自分では、ほどほどに息を抜きながらやってきたつもりでいたけどさ。でもきっと僕の体と心は、もう思いだせないくらいずっとずっと昔から、この頭の言いなりになって生きてきたんだろうな。今日思いきり骨を休めて、ようやくベーム博士の教えの真意がわかった気がするよ」
レスコーリアはこくりとうなずきます。
「そういえば昔さ、博士がよく歌ってたんだ。きみが笑えば世界も笑う、って」三、四小節ぶん、マノンはその懐かしいメロディを口ずさみます。
「その歌は真理を歌っているわ」
「心の底から笑ったり泣いたりしてる時にね、はっと実感したんだ。この世界が、どんなに僕を愛してくれているか。そして、僕がどんなにこの世界を愛しているか、ってこと」ふいに手を止めて、マノンは静かに語ります。「なんだか、うまく言えてる気がしないけどさ。でもたしかに、そんなふうに感じたんだ」
「美しい洞察よ」
ほほえみを浮かべて、レスコーリアはくるくると踊るように空へと舞い上がりました。そのきらめく羽が虚空に刻む残像が、まるで星屑で築かれた螺旋階段のように、マノンの瞳に映ります。
「さすがは、あたしの見込んだ人間ね」
「言ってくれるね」マノンがにやりと笑います。
「おやすみ、マノン。今夜はぐっすり眠るといいわ。あの子どもたちみたいに」
「そうさせてもらうよ。きみはどうするの?」
「あたしはこの島に挨拶してくるわ。それからたっぷり、ここのイーノの歌を鑑賞させてもらうつもり」
「羨ましいな。気をつけて行ってらっしゃい。善い夜を」
手を振りながら、レスコーリアはまたたく間に空高く上昇していきました。マノンはひらひらと手を振って、小さな天使のようなシルエットが星々の狭間に吸い込まれて見えなくなってしまうまで、いつまでも見送りました。
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