54 白鳥
文字数 6,041文字
樹々を掻き分け走りながら、リディアの胸のなかでミシスはそんなふうに予測を立てていました。いえ、それは予測というより、むしろ願望でした。自分たちを執拗に追い立てた張本人ではあるけれど、だからといって、命まで落としてほしいわけじゃない……。
連日クラリッサの指導下で訓練を積んできたおかげで、ミシスの手のなかには顕術を操るための感覚が着実に宿りつつありました。あれほど加減を度外視した術の発動は初めてのことでしたが、おそらくは確実に海上まで相手の躯体は届いたはずだと、少女は密かな手応えを得ていました。
その期待どおり、フィデリオは実際に海へ着水はしました。
派手に水しぶきを上げ、砂浜を越えた先に広がる海原の真っ只中に、青い巨兵はその身を叩きつけられました。
しかしそこは、ミシスが想定していたよりもほんのわずかに手前の地点でした。
慌てふためき両手足をばたつかせるフィデリオは、足の裏がかろうじて水底に着くことを察知します。
森を抜けて浜辺に到達したリディアは、決死の様子で沖から這い上がってくる青い巨兵の姿に直面しました。
「もう少しだったのに……!」ミシスはがっくりと肩を落とします。
海水を緩衝材にしてライカの命を守ることは狙い通りでしたが、もう一つの重要な目的、すなわち彼女が駆るカセドラの無力化には、今一歩のところで失敗してしまったようです。
全身から水を滴らせながら、フィデリオは白砂の上に悠々と立ちました。そして落下時にさえ手放すことなく死守した剣を改めて眼前に掲げると、まるで何事もなかったかのように戦闘態勢をとりました。
リディアもまた両手で剣を構え、相手と真正面から向きあいます。
「化け物め……」
苦しげに肩で息をしながら、ライカは片手で首の付け根を押さえました。その顔じゅうに、みるみる脂汗が浮き出てきます。しかしその操縦者の苦悶に歪む表情は、もちろん巨兵ののっぺりとした不動の仮面には表れません。
一度ぐっと空気の塊を呑み込んで、ミシスは毎朝の訓練時さながらに心を落ち着けます。
「確信した。そのカセドラは、やはり発顕因子を躯体に宿している」ライカが白っぽく染まった唇を震わせます。「なんてものを……なんてものを生み出したのだ! まさか、顕術を操るカセドラなんて! 貴様たちは、本気で世界を壊すつもりか! まったくもって狂気の沙汰だ!」
「わたしもそう思います」ミシスは平静にこたえます。「こんな力、この世にあっていいはずがない」
「はっ」ライカは口を開けて吹き出します。「ははっ、ははは……! おまえは、本当におかしな娘だね。あの飽き性のレンカが、いやに執着するわけだ。面白いね。実に面白い」
「この子に乗って、この力を振るっている当のわたしが言えたことじゃないってことくらい、自分でもわかっています」ミシスは表情もなく述べます。「でも、本心です。わたしは、この力が、このカセドラが、このまま誰も傷つけたり
ライカはぴたりと唇を閉じます。と同時にそれまで
「そいつの躯体名はなんという」ライカが問います。
「言えません」
「そいつの他にもおなじ力を持つカセドラを王国軍は所有しているのか」
「言えません」
「そいつを造った目的はなんだ」
「言えません」
「だいたいどうやってそんなものを造ることに成功したのだ」
「ライカさん」ミシスは諭すように語りかけます。「わたしは、あなたになにもお話しすることはありません」
「なぜきみは、きみの暮らしを壊した連中なんかと一緒にいるのだ」意に介さず、ライカは問いを続けます。
ミシスは思いきり眉をひそめます。「なにを……なにを言うんですか。そもそもあなたたちがやって来なければ、そしていわれのない暴力を振るわなければ、わたしたちは、こんな目に遭わなくて済んだんです」
「本当にそうか?」ライカが疑義を呈します。「もしあの時レンカが手を上げなかったら、きみたちは本当にその後も何事もなかったように日常の生活へ戻れたのだろうか?」
「それは……」
押し留めようもなく、少女のまぶたの裏側で、まるで明滅する火花のように、あの日の光景が蘇ってきます。
……そう。
そうだった。
たしかにあの時、レンカが校舎に攻撃を加えようと加えなかろうと、コランダム軍がマノンさんたちの船を暴いてリディアが奪われるような事態に発展していたら、グリューの手によって、あの美しい家や校舎ごと、すべてが灰に……
ぶんぶんと強く首を振って、ミシスは疑念と後悔と共に過去を振り返るという愚行を犯す寸前に、頭のなかに湧き起こった想念を綺麗さっぱり掃き出しました。
こんな屁理屈に、言葉の誘導なんかに、絶対に乗っちゃだめだ。
あの日、あの場所で、誰かを故意に傷つけたり
みんな、口には出さないけれど、互いを責めあったりも決してしないけれど、それぞれに身を裂かれるような苦悩と悔恨と痛みを抱えて、それでもなんとか最善を尽くして、ここまで乗り越えてきたんだ。
「ミシス。きみはまだ幼い。あのとち狂った王国軍の連中にいいように利用されているだけだ。怪物を操るための実験用の
「黙りなさい」ミシスは
この瞬間ライカは、生まれてこのかた経験したことのない屈辱と怒りがみずからの内で暴発するのを、まざまざと感じ取りました。
いかなる時も騎士たる
標的の存在をこの世界から根こそぎ削り取ろうとするかのような、極めて荒々しく容赦のない斬撃が、リディアを急襲しました。
「黙るのはおまえだっ!!」
怒号を飛ばしながら、ライカは連続して何度も何度も、リディアの額めがけて刃を打ち込みます。そのあまりの猛威に圧倒され、ミシスはその手でつかむ武器を取りこぼさないようにするだけで精一杯です。
「もらった!」
突如角度を変えて真横から大きく払われた一閃が、リディアの首に吸い込まれていきます。
「きゃあっ!」
操縦席のなかでミシスは半ば目を閉じ、頬を殴られたように素早く顔を背けます。しかしそれと同時に、操縦者の防衛本能に従って反射的に振り上げられたリディアの左手が、思いもかけず鋭い顕術の衝撃波を発生させました。
それによって吹き上げられた足もとの白砂が竜巻と化し、フィデリオの顔面に直撃します。
「ちっ!」
躯体と視覚が同期している操縦者は、自分の目が砂を浴びたわけではないことは理解していながらも、こちらもやはり肉体の防衛本能の反応によって一瞬まぶたを閉じざるをえず、それに合わせて躯体もわずかに動きが鈍りました。そしてその拍子に剣撃の間合いが逸れ、刃の切っ先は碧い鎧に包まれる首すれすれの虚空を裂きました。
とっさに気力を奮い立たせて、ミシスはリディアの体勢を立て直します。
そして剣を持たない方の腕をまっすぐ前に伸ばして、その手のひらの照準をフィデリオの胸に定めます。
「こいつ、また……!」ライカが憎々しげにうめきます。「卑怯者め!」
もう何事にも気を取られまい、何事にも聞く耳を持つまいと心を決めたミシスは、いささかも遠慮のない衝撃波を撃ち出します。
「ちくしょおっ――」
操縦者の苦悶の叫びを宙に残し、青い巨兵は突風に押し出されるように吹き飛びました。
フィデリオが仰向けに地面に倒れた直後、そこからおよそ50エルテムほど距離をあけた先の波打ち際に、灰白色の飛空船が着地しました。
青い躯体の胸から上は再び海水のなかに浸かり、打ち寄せる波がそのぐったりと力を失った頭や肩を洗います。
武装も解除され、体勢も完全に崩され、顕術の圧倒的な威力のために接近しての格闘に持ち込むことさえ望めなくなったフィデリオは、これにて完全に沈黙しました。
しかしこの数カ月間の逃避行によって警戒心と緊張感を高めてきた少女は、剣の構えと顕術の引き金となる集中を解くことはしません。静かな呼吸をくり返し、思考と五感を研ぎ澄ませて、ひたすらに相手を見据えます。
「まだ抵抗……」ミシスはそっと呼びかけます。「……しませんよね」
「立って、ライカ姉さん」レンカが通信で呼びかけます。「
ふっと理性を取り戻し、ライカは巨兵の身を起こします。
「じきに増援が来る。この島から出させないかぎり、数を集めればさすがのこいつだって――」
「そうはいきません」ミシスが割って入ります。「あなたたちのその船は、わたしたちがいただきます」
「はあ?」レンカが首をひねります。そして少しの間をおいて、くすっと笑います。「あ~、そっか。あんたたちの船、壊れてたもんね。飛べなくなっちゃったんだ。なにがあったか知らないけど、ははは、ざまあみろだわ」
ミシスは苛立ちも露わに、ぎゅっと顔をしかめます。
「ほら、姉さん。早く戻って」
ライカは妹の指示に従い、力を振り絞ってフィデリオの躯体を起立させます。密かに激しく負傷していた首がその反動でずきりと痛み、彼女は人知れず強く唇を噛みしめます。
「止まりなさい」
剣を掲げたリディアが、その刃を船に向かって歩きだしたフィデリオに突きつけます。
しかしライカはまったく聞き入れる様子もなく、妹の待つ飛空船へと向かいます。
「聴こえないの?」ミシスは声を荒げます。「わたしは本気よ。今すぐ止まらないと、そのカセドラを破壊します」
猫背の姿勢でとぼとぼと歩き去っていく青い背中を睨み、少女は警告します。が、やはり相手はなにを気に留める素振りも見せず、まるで本当に聴こえなくなってしまった者のように、ためらいなく着々と歩を運び続けます。
「馬鹿な真似はよして!」しびれを切らして一喝すると、ミシスはどしどしと大股でフィデリオの背に迫ります。「本当に斬るわよ!」
「やってみなよ」子どもをからかうように、レンカが微笑します。
「もうっ……!」
そこでライカの操る巨兵の手が、半分ほど開放されていた出撃口の
背後から追ってくる大きな足音を意に介すこともなく、フィデリオはひょいと腰をかがめて、格納庫へと続く船内通路へとその身を差し入れます。
無抵抗の、戦意と誇りを失った女性の背中を、わたしは斬らなければいけないの?
突如みずからに訪れた残酷な運命に、ミシスは体の芯から打ち震えます。
「こんな、こんなことって……」
「……シス……ミシス。今どこにいるの? 無事なの?」
先の戦闘中に一時接続不良となっていた固有周波数による通信機能がふいに回復し、不安げな少女の声がリディアの操縦席に届きました。
「ノエリィ」ぱっと前髪を跳ね上げ、ミシスは気丈に応答します。「うん、わたしはなんともないよ。もうすぐ片がつくから、みんなと一緒に船で待っててね」
そう言うと彼女はリディアの両手で剣を構え直し、覚悟を込めてそれを天高く振り上げました。
この機を逃せば、この船を奪取しなければ、すべてが水泡に帰してしまう。
みんなの葛藤、後悔、哀しみ、そんななにもかもを抱えて、どうにか光の射す道を求めて歩んできたこの旅が、なにもかも無駄になってしまう。
そんなこと、とても許せない。
ごめんなさい。
どうか、無事でいてください。
リディアは迷いなく、大地に対して完璧な垂直の直線を描くように、大きな青い背中へと刃を振り下ろしました。
フィデリオが、ちらりと背後を見やります。
あたかも、本当に今の今まで自分を追ってくる敵の存在に気がついていなかったかのように、非常にのんびりとした気迫のない動きで。
その、次の瞬間。
青い仮面の奥の瞳は、自身の目と鼻の先に交差する、銀色の十文字を目撃しました。
……この十字のしるしは、いったいなんだろう?
吐き気を催すほどの首の激痛に耐えながら、ライカはじっと考え込みます。
そして、その十字の先に両腕をぶるぶると震わせて硬直している碧い巨兵の眉間に、両目の焦点を合わせます。
ライカはゆっくりとフィデリオの首を回し、再び船の内側へと目をやります。
そこには、淡く白銀に輝く、別の巨兵の顔があります。
こちらの額と向こうの額が触れてしまいそうな位置に浮かぶそのカセドラの仮面は、外から射し込む陽光を浴びて白よりも白く、銀よりも銀色に、どこまでも静かで清浄な光を放っています。
続いてライカは、自分が乗っている巨兵の頭を左右から挟み込むようにして、真っ白な二本の腕が差し伸ばされていることに気がつきます。
その穢れなき腕の先に握られているのは、見まごうことなき、一振りの銀の剣。闇夜の流星のように輝くそれが、フィデリオの首のすぐ後ろで、リディアの放った
「……なに、今の音」操舵室正面の窓をのぞき込むように首を伸ばして、レンカがつぶやきます。「まさかミシスのやつ、本気で姉さんを……」
「いけない」ライカは妹の危惧に応じる前に、ぎりぎりと首をもたげて、自身を庇った白銀の巨兵に声をかけます。「〈レオノーレ〉はまだ装甲に不備が……」
ライカが言い終わらないうちに、新たに格納庫の奥から出現した白光をまとうカセドラは、リディアを強引に船外へ押し出すと同時に、フィデリオの肩をつかんで船内に引きずり込みました。そして呆然とした様子で後退するリディアの胸もとに剣先を差し向けて、まるで水面から飛び立つ白鳥のように優雅に、太陽の下へと躍り出ました。
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