23 銀の鋏

文字数 8,456文字

 夕暮れ時に来客がありました。
 ピレシュは夕飯の支度を一時中断して、玄関の軒先で訪問者を出迎えました。
 めずらしく風の強い、どんよりと曇った日でした。雲にほど近い丘の頂上の空は、まるで悲劇的な場面を題材にした宗教画の背景に見られるような、重く暗い赤銅色に塗り込められています。
 客人は二名、初老の男性と、二十代半ばとおぼしき若い女性でした。ピレシュはそのどちらにも見覚えがありません。
 二人とも、とくにこれといって特徴のないごく普通の市民のように見受けられます。ただ、両者揃って首に緑色のスカーフを巻き、それぞれの手に刷りたての冊子の束を抱えています。
 エプロンを外して純白のブラウスの袖を伸ばし、学院の制服である濃緑色のスカートにわずかに降りかかっていた小麦粉をぱっと払うと、ピレシュは風に揺れる長い金髪を押さえて彼らに対応しました。
「なんのご用でしょう」
「とつぜんの訪問、お許しください」男性が丁重な仕草で頭を下げます。「わたしたちはタヒナータの町を中心に活動している〈緑のフーガ〉の者です」
「はぁ」ピレシュは玄関先の柱に片手を添え、少しだけ背中をこわばらせます。
「今、お時間よろしいでしょうか」今度は女性の方が、親しげな笑顔を浮かべます。
 気取られないように一瞬だけ眉をひそめると、ピレシュはちらりと家のなかを振り返り、小さく首を振ります。
「すみません。今は立て込んでいます」
「そうですか。それは失礼しました」
 二人の訪問者は素早くこうべを垂れ、申しわけなさそうに半歩後ろに退がりましたが、その物腰とは打って変わった機敏な動作で各自の冊子を一部ずつ抜き取り、両者同時に目の前の少女に向けて差し出しました。
 こちらも思わず半歩後退したピレシュに向かって、初老の男性が語りかけます。
「私たちは、この生まれ変わった祖国の指導者ゼーバルト・クラナッハ様の掲げる理想に賛同し、その素晴らしさを多くの人にお伝えして共に新しい時代を築き上げていくべく、日夜さまざまな活動に取り組んでおります」
「聞き及んでいます」
「それは光栄です」若い女性がさらに笑顔を深め、くっきりとしたえくぼをその頬にあらわします。「我々〈緑のフーガ〉は、賛同を働きかけたり資金の援助を求めたりといった従来の市民団体や政治組織がとるような行為は、一切おこなっておりません。組織内における義務や拘束もなく、ただ皆で心を一つにして理想実現の道を歩もうという、純粋な動機に従って活動しています。詳しいことは、この冊子に書いてあります。お手すきの際にでも目を通していただけたら、そしてもし我々の考えに共感していただけたなら、こちらに書かれた窓口に封書や伝話(でんわ)等でご連絡ください。すぐにご案内差し上げます」
「そうですか」表情を崩すことなくピレシュはこたえます。そして二人に対してきっぱりと告げます。「二部もいりません。一部でじゅうぶんです」
 男性がさっと周囲を見渡します。「こちら、みなさんでご利用される施設がいくつもあるようですので、よかったらそちらの方にも置いていただけるとさいわいに思います」
 右から左から強引に冊子を押しつけられたピレシュは、やや閉口しながらも、礼を失しないよう軽く頭を下げました。
 去り際に男性が振り返って言いました。「実は、私の(めい)はこちらの学院の卒業生でございました。いつも思い出話に聞くとおりの、静かで美しい場所です。校舎と敷地の改修作業が首尾よく進むことを、お祈りしています」
「ありがとうございます」
 ドアを閉めて家のなかに戻ると、ピレシュは冊子を下駄箱の上に放って台所に入り、そこで一人で食事の用意をしていたハスキル学院長の隣に立ちました。
「どちらさまだったの?」スープを味見しながらハスキルがたずねます。
「〈緑のフーガ〉を名乗る人たちでした」エプロンを着け直しながらピレシュがこたえます。 
「あら。あの人たちなら、もうこの数週間で二、三度、学院の方にも訪ねてきたわよ」
「わたしも昨日、丘の麓で緑のスカーフを巻いた人たちを見かけました」
「自宅の方まで来るのは初めてね。けっこう見かけによらず押しの強い人たちみたいね」味に納得したのか、鍋の火を止めてハスキルが言います。
「そうかもしれませんね」ミトンを着けてオーブンからパンを取り出しつつ、ピレシュが苦笑しました。「うん、素敵な焼き具合。これで全部ですね」
「少し早いけど、もういただいちゃおうか」
 二人は食堂に料理を運び、テーブルに向かいあって座りました。そしてどちらからともなく〈大聖堂〉の印を結び、ハスキルが食前の祈りを唱えます。
「かけがえのない糧に感謝します。大いなるイーノ、どうぞ私たちと、遠い異国の地にいる娘たちをお護りください」
 言い終えると顔をひょいと上げて、対面する少女に笑いかけます。
「さあ、いただきましょう」
「はい。いただきます」
 食堂の窓は半分ほどが開け放たれてあり、涼やかな夕風が吹き込んでいます。雑木林が奏でる絶え間ない葉音の調べも、それと一緒に運ばれてきます。外のテラスでは、猫たちが夢中で餌皿に顔を突っ込んでいます。窓の向こうに見える改修中の校舎にはまったく人気(ひとけ)がなく、さらにその奥に立つかつては礼拝堂だった学生寮にも、一つの明かりさえ灯っていません。
「あの二人がいないだけで、この家は本当に静かになってしまいますね」ぽつりとピレシュが言いました。
 ハスキルは苦笑します。「家どころか、この丘ぜんたいの静けさが、十割増しになっちゃったみたいよね。……ねぇ、ピレシュ。いつもわるいわね。こうしていろいろ手伝わせてしまって。寮とうちと行ったり来たり、大変でしょう」
 ピレシュはしっかりと首を振ります。「お手伝いをしているという認識も、大変だという感覚も、まったくありません。わたしにとってこの家で先生と食事をご一緒したりゆっくりお話をする時間は、一日のなかでいちばん心休まるひと時です」
「ありがとう」
 今はここにいない二人の娘、ノエリィとミシスに向けるのとおなじだけの愛情を込めたまなざしで、ハスキルは目の前にいる気高く美しい少女を見つめました。
 それから、今後の学院の運営をどうしていくかという毎日くり返される議題に、この日も話が及びました。さまざまな意見や懸念を交換しあいながら、話が尽きることはありませんでしたが、食べる物の方が尽きてしまったので、二人はやむなく夕餉の時に幕を下ろすことにしました。
 流し場に二人並んで立って食器を洗っていると、遠くからごろごろという音が響いてきました。
「窓、閉めてきます」ピレシュが手を拭いてその場を離れました。
 少女は窓に手をかけて外を一望しました。地平線の上空が、墨を流し込んだように真っ黒に染まっています。
 窓を閉めて施錠し、食後のお茶はどの茶葉にするかハスキルにたずねると、一雨(ひとあめ)来る前に寮へ帰った方がいいと言われたので、少女はそれに従うことにしました。
 玄関先まで一緒に出たハスキルが、改めて少女に礼を述べました。
「ピレシュ、ありがとうね。近いけど、気をつけて帰るのよ」
「はい。ごちそうさまでした」少女は一礼し、それからふと、恩師の顔をまっすぐに見つめます。いっときの沈黙を挟んで、少女はわずかに震える唇で言葉を紡ぎます。「……ハスキル先生。あの時、わたしのそばにいてくださって、本当にありがとうございました」
 一瞬驚きの表情を浮かべてから、ハスキルは穏やかに首を振ります。
「ううん。私は、なんにもしてあげられなかった」
「そんなことはありません。わたし、あの時、怖くて、怖くて、体も心も言うことを聞いてくれなくて、頭のなかもぐちゃぐちゃだったけれど、先生がわたしの耳もとで何度も大丈夫って言ってくれたおかげで、なんとかこちら側に帰ってこられたんだと思います」
「ピレシュ……」
 ハスキルは前へ進み出て、自分よりずっと背の高い少女の体を、そっと抱きしめました。
「いい、ピレシュ。これからも、なにか不安や迷いを感じたら、すぐに私に相談するのよ」
 唇を噛みしめて、少女も抱擁を返します。
「はい。きっとそうします」
「おやすみ、ピレシュ。また明日ね」
「おやすみなさい」
 ほほえんで去っていく少女の後ろ姿を、ハスキルは長いこと見送りました。
 その優美で、毅然としていて、しかしどこか寂しげで心許(こころもと)ない、風に吹きさらされる若樹のような背中をじっと眺めていると、少女がすべてを失ってこの学院へやって来た頃の幼い背中が、その成長をずっと見守ってきた瞳の奥で、まざまざと重なって見えました。
 遠く離れた場所にいる二人の娘と、今こうして静かに歩き去っていくもう一人の大切な娘が、これから先も無事に健やかに生きていかれるよう、〈大聖堂〉の印を結び、暗く赤い空を仰いで、ハスキルは心からの祈りを捧げました。


 寮に向かって芝生の広場をまっすぐに進んでいたピレシュは、肌にまとわりつく雨の気配を感じながらふいに立ちどまり、背後を振り返りました。
 ちょうどハスキルは祈りを終えて家に入り、玄関の鍵をかけたところでした。
 それを見届けると、少女は進路を大きく変更し、広場の外に広がる雑木林へと向かいました。
 樹々や藪の隙間をかいくぐり、道なき道を奥へ奥へと分け入っていくと、やがて異様な荒廃を呈している地点に行き当たります。
 それは、一ヵ月前にコランダム軍と王国軍の部隊が交戦した中心地と目されている場所でした。
 つい二日前にも、ピレシュはハスキルや工事関係者たちと一緒に、ここへ視察に訪れていました。
 この現場を目の当たりにした者は誰しもまず息を呑み、いったいなにをどうしたらこれほどの破滅が生じるものなのかと、思わず頭を悩ませることになります。もちろんピレシュも、その一人でした。
 ざっと勘定しただけでも三十本はあろうかという大量の樹木が、まるで立体迷路を形成するように互いに複雑に絡みあい、奇怪な山をなしています。
(いったい、どうして……)ピレシュはきつく眉根を寄せます。(どうしてどの樹も、こうも見事に根の先から引き抜かれているのかしら)
 王国軍からハスキルに伝えられた情報を信じるなら、この現象は同軍の新兵器の運用に予期せぬ障害が発生した結果、引き起こされたものだということでした。そして図らずもその場に居合わせたノエリィとミシスは、軍が定める機密管理の規則に従い、身柄を保護されることになってしまったというのでした。
 ピレシュは近くに生えていた胸の高さほどの低木の幹を両手でつかみ、力いっぱい引っぱり上げてみました。
 しかし、剣の稽古で鍛え抜かれた彼女の筋力をもってしても、それはびくともしません。地中深く根を張った植物が大地に留まる力は尋常なものではないということを、少女は身をもって知ります。
 手を叩き払い、うずたかく積み上がった樹々のかたまりを見あげます。
 そして、激しく顔をしかめて、彼女がこの世でなによりも憎悪するあの巨大な泥人形の姿を、ほんの一瞬だけ想像します。
「あれの力をもってしても」少女は毒でも吐き出すようにつぶやきます。「とてもこんな真似はできるはずがない」
 きっと、まだ世間には公表されていない顕導力学の新たな技術が用いられたのだろう。それ以外にはどんな可能性も考えられない。
 それがピレシュをはじめ、この現場を目撃した全員が一致して抱く考えでした。
「マノン・ディーダラス……」
 ぎろりと目を細め、ピレシュはその名を口にしました。
 そしていっとき、物思いに沈みました。
 彼方に広がる黒雲が、再びごろごろと唸りました。
 はっと我に返り、強く頭を振ります。
 これ以上こんなところに長居していてはいけない。
 少女のなかの理性が、突如警告を発しました。
 少女はすぐさま、それに従いました。
 まるで号令を受けた兵士のように、素早く(きびす)を返します。
 まさに、その瞬間のことでした。
 少女は不思議な音を耳にしました。
 それは、(たと)えるなら、凍りついた湖面に亀裂が入ったような、鋭く刹那的な音でした。
 踏み出そうとしていた一歩をそろりと戻し、目を凝らしてあたりを見まわして、深く耳を澄ませます。
 樹々の軋み。
 草葉の踊る音。
 鳥たちの鳴き声。
 雲のなかで蠢く雷。
 そして、日没前の風。
 まわりにあるのはそれだけです。
 凍てついた湖の気配など、外の世界のどこにも感じられません。
 ごくりと息を呑み、懸命に呼吸を鎮めて、少女はみずからの胸に手を置きます。
「これは……」
 そう一言つぶやいた途端、恐ろしいほど研ぎ澄まされた直観的理解が、一瞬のうちに彼女の意識を貫きました。
 少女はきつく目を閉じ、かすかなため息を吐き出しました。
 たぶん、わかっていた。
 心の奥では、ずっと前から予感していた。
 いつか、こういう日が来るんじゃないかって。
 だけどまさか、こんなふうに、なんでもない日に、なんの予告もなく、なんの前置きもなく、完全な不意打ちで、やって来るなんて。
 まさか、今日、今、この時、だったなんて。
「そう。今よ」少女の口が勝手に動きます。
 今しかないのね。
「ええ。今しかない。今がその時」
 じゃあ、もし、今を逃したら?
「もし今を逃したら、きっとこのまま一生、わたしは……」
 その時また、凍った湖面にひびが走る音が聴こえました。先程よりも、遥かに間近に、鮮明に。
 少女は覚悟を決めました。
 帰るべき方角に背を向けて、無我夢中で走りだしました。
 目指したのは、彼女と彼女の幼馴染みたちだけがその存在を知る、雑木林の奥に隠された秘密の花園。
 その小さく開けた空間へ飛び込むと、少女は両手を膝について前かがみになり、肩で大きく息をしながら、じっと地面を見おろします。
 幸運にもこの場所は先の騒乱の被害を免れていたので、昔から少しも変わることなく、愛らしい草花が毛布のように一面に広がっているばかりです。
 息が整うのを時間をかけて慎重に待つと、少女は深くうつむいたまま花園の中央へと進み出ました。そしてそこに静かに立ち、腰まで届く長い白金(プラチナ)の髪を振り払うように上体を跳ね起こし、拳を握り、歯を食いしばり、瞳をまっすぐ前へと向けます。
 その視線の先には、コランダム軍が拠点を置く〈星灰宮(せいはいきゅう)〉の姿があります。
 青く雄大な峰を覆うように展開する、すべてが灰白色の石で築かれたその巨大な要塞を、少女はまじまじと直視します。
 要塞の周囲には、高く厚い石壁(せきへき)がぐるりと巡らせてあります。
 いくつかの大きな門が、互いに間隔を空けてそこに据えられています。
 今、それらの門は、いずれも固く閉ざされています。
 そして、一つ一つの門前に、背後にそびえる建造物とおなじ色の鎧を身に着けたカセドラが、それぞれの手に長槍(ちょうそう)を掲げて立っています。
「うっ」
 少女はとっさに手で口を封じ、もう一方の手で胃のあたりをわしづかみにします。
 いつもの発作の時のように――いえ、いつもよりずっと激しく――涙の大波がせり上がり、頑なに閉じられたまぶたを容易くこじ開け、体の外へと噴出します。
 お腹の底からも怒涛のように込み上がってくるものがありますが、少女は全身全霊をかけて唇を結び、鼻を膨らませて荒く息をしながら、必死にそれを押し留めます。
 やがて、崩れ落ちるように、少女はがくりと両膝を折ります。
 そして、口と胸を押さえたまま、額を大地に押しつけるように、深々とひざまずきます。
 涙も、胃のなかのものも、奔流を止めようとはしません。
 少女は両目を真っ赤にして、喉を震わせ(あえ)ぎます。
「おかあさん……おとうさん……おねえちゃん……!」
 今まで何千回も、何万回もまぶたの裏に浮かび、そのたびに少女の心を打ちのめしてきた鮮血と苦悶に染まる忌まわしき幻影が、この時もまた、彼女の内界において容赦なく上映されていました。
 何度も、
 何度も何度も、
 彼女の想像のなかで、
 彼女の愛する人たちは、
 巨兵によって無惨に踏み潰され、
 その身を粉々に砕かれてきたのでした。
 少女は両手を地面について、顎が外れるほど全力で泣き叫びました。
 このまま涙も臓腑もなにもかも吐き出して、頭のなかも空っぽにして、柔らかな花や草たちに全身を沈めて、二度と覚めない眠りに落ちてしまいたい。
 そんな抗いがたい切望が、少女の魂を内側から食い荒らしていきます。
 けれど、
 今日この日の、
 今この時の彼女は、
 みずからを蝕む凶悪な呪いから、
 決して目を背けようとはしませんでした。
「だって……」少女は歯の隙間から声を絞り出します。「だって、もういやなの。ここしか、今しか、ないのよ」
 さらに、声になりきれない絶叫を吐き出します。
 逃げてはだめ!
 剣を抜け!
 ここで仕留めるのよ、ピレシュ・ペパーズ!
 どこまでなら正気を保ったままでいられるのか、どこまで行けば超克は達成されるのか、自分ではまったく見当もつきません。
 それでも彼女は、己自身を剣として、心奥に巣食う深い闇に挑み続けました。
 これまで一秒と直視することができずにいた悪夢を、
 十秒、
 百秒、
 千秒と、
 真正面から見据え続けました。
 そして――
 またあの音が聴こえました。
 ふいに、少女の体の動きが停止します。
「……やれ」少女はみずからに命じました。「最後は自分の手で」
 どこかで、巨大な氷が粉々に砕ける音が炸裂しました。
 その一瞬で、世界のすべてが変貌しました。
 少女は泣くのをやめました。
 顔じゅうを濡らしていた涙を綺麗さっぱり拭うと、しゃっきりと胸を反らせて、再び星灰宮を見やります。
 そこには、先刻から一歩も動くことなく、灰色の巨兵たちが居並んでいます。
 その一体一体を、少女はあますところなく凝視します。
 あまりに多くの大切なものを自分から奪い、いつまでも消えることのない深い傷を心に負わせてくれた、その醜い、この世のなによりも醜い、心無き人形たちの姿を。
 直後、丘の上空で雷鳴が轟きました。
 灰色の宮殿や石壁も、巨兵たちのまとう鎧も、そして花園に佇む少女の滑らかな白肌も、瞬間的になにもかもが雷光の青一色に染まります。
 間を置かず、ぽつぽつと雨粒が落ちはじめました。
 それはまたたく間に土砂降りとなり、少女の視界に映るすべてを洗い流していきました。
「カセドラ」
 不思議と込み上げてくる笑みと共に、ピレシュはその名をつぶやきました。
 物心ついて以来、その名を口にするのは、正真正銘、これが初めてのことでした。
 肩の力を抜き、腹の底まで、骨の髄まで、神経の末端まで行き渡るまで、天から注ぐ瀑布によって浄められた新しい大気を、少女は思う存分に吸い込みます。
 気づけば、眼の奥と胃のなかでのたうちまわっていたものたちも、すっかりその氾濫を鎮めていました。
「こんなものか」
 透明のまなざしで巨兵を眺めて、ピレシュは閉じた唇の隙間から、ただ一言そう吐き捨てました。
 とうに全身ずぶ濡れになっていましたが、颯爽と身を翻すと、彼女は花園を飛び出して全速力で寮めがけて走りだしました。
 学院が改修工事中で寮生はみな実家や他校へ移ってしまったため、現在の寮には寮長であるピレシュ以外、誰も暮らしていません。彼女は勢いよく正面玄関の扉を押し開き、明かりも点けずにそのまま薄暗い建物の奥へ入っていきました。
 礼拝堂だった時代の名残りで、一階の広間には簡素な礼拝席と祭壇が据えられたままになっています。祭壇は壁の高いところにせり出ていて、そこに万象の源素〈イーノ〉をかたどった聖像が祀られています。
 ピレシュは体じゅうから水を滴らせたままそこを通過し、寮長室に駆け込むと、棚のひきだしを力任せに引き開けて、そのなかから銀色の(はさみ)を一つ取り出しました。
 そしてそれを手に、祭壇の前へと戻ります。
 聖像を囲むようにして壁に嵌められたステンドグラスから、七色に彩られた稲光が射し込んでいます。
 濡れそぼった長い髪を片手でつかんで束にすると、少女はそれを首の後ろで根元から断ち切りました。
 ちょうどその時、寮の近くの樹に雷が落ちました。
 窓に閃光が迸り、地面が揺れ、壁が震えます。
 その拍子に、半端に閉じていた(おもて)の扉がぎしりと開き、荒れ狂う風雨が玄関に吹き込んできました。
 少女の左手には、ほんの数秒前まで彼女自身の一部だった白金の髪束が握られています。
 そして、右手には、水に濡れる銀の鋏。
 それらはどちらも虹色の光を浴びて、この世のものならざる異様な輝きを放っています。
 どんなに言葉を尽くしたところで形容することのかなわない、解放感と恍惚感と虚脱感が混然一体となった大いなる空白をその身で受けとめながら、少女はかつてなく静やかな心持ちで、じっと鋏の刃を見つめました。
 そして、さっき雑木林の奥でわたしの内なる凍った湖を切り裂いたものは、きっとこんな形をしていたにちがいない、と思っていました。
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登場人物紹介

◆ミシス・エーレンガート


≫主人公。エーレンガート家に家族の一員として迎え入れられ幸福な日々を過ごしていたが、思わぬ形でコランダム独立の騒乱に巻き込まれ、ノエリィと共に丘の家から旅立つことになった。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫ミシスの親友であり家族でもある心優しい少女。望まぬ形で軍に連行されるミシスを独りにさせまいと、ほとんど押しかけるようにして〈特務小隊〉の一員となる。

◆マノン・ディーダラス


≫本職は科学者であり発明家だが、カセドラ〈リディア〉を守護するため急造された部隊〈特務小隊〉の隊長を務めることになった。同隊が移動式拠点として利用する飛空船〈レジュイサンス〉も、彼女の発明の賜物。

◆グリュー・ケアリ


≫マノンの腹心の助手。彼女に付き従い、ホルンフェルス王国軍極秘部隊〈特務小隊〉に所属する。飛空船での暮らしにおいては、もっぱら料理係と操縦士の役割を務めている。

◆レスコーリア


≫マノンたちに同行するがまま、〈特務小隊〉に加わることになったアトマ族の少女。相変わらず自分流に気ままな日々を過ごしながらも、密かに隊の皆を見守っている。

◆クラリッサ・シュナーベル


≫世界最強の顕術士一族として知られるシュナーベル家の長女。優れた顕術士ばかりで構成される王国騎士団〈浄き掌〉の副団長を務める。グリューとは許婚どうしで、マノンやレスコーリアとも旧知の仲。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫新生コランダム軍を率いる将軍。統一王国からの離脱と祖国独立の宣言を発し、全世界に対し戦後最大級の衝撃を与えた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫新生コランダム軍に所属する軍人。エーレンガートの丘での失態の後、妹のレンカと共に小部隊を率いてミシス一行を追撃する。

◆レンカ・キャラウェイ


≫エーレンガートの丘で勃発したカセドラどうしの戦闘によって重傷を負い、その後しばらくのあいだ治療に専念していた。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫国王トーメ・ホルンフェルスの名代として、マノン一行に〈特務小隊〉としての任務を与えた。以後さまざまな手段を用いて、先の見えない困難な日々を送る同小隊を遠く王都より支援する。

◆ハスキル・エーレンガート


≫愛する娘たちと離ればなれになり、我が子同然の学院校舎が損傷してもなお、決して希望を失うことなく毎日を前向きに生きている。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫幼少時より人知れず抱えていたカセドラ恐怖症の劇的な発作により、長期に渡って入院生活を送っていた。恩師ハスキルに護られながら、徐々に回復へと向かう。

◆ドノヴァン・ベーム


≫十年ほど前に王都から忽然と姿を消した、伝説的な大科学者。レーヴェンイェルム将軍の幼馴染みにして、マノンの恩師。現在の彼の動向を知る者は極めて少ない。

◆プルーデンス


≫ベーム博士と共に暮らすアトマ族の少女。博士とおなじくアルバンベルク王国の出身。幼い頃から過酷な環境を生き抜いてきたためか、非常に気立てと面倒見が良い。

◆〈リディア〉


≫ホルンフェルス王国軍が極秘裏に開発していた最新型のカセドラ。本来ならカセドラが備えるはずのない、ある極めて特異な能力をその身に宿している。操縦者はミシス・エーレンガート。

◆〈フィデリオ〉


≫コランダム軍が新たに開発した特専型カセドラ。操縦者はライカ・キャラウェイ。

◆〈コリオラン〉


≫フィデリオと同一の鋳型を基に建造された姉妹機だったが、リディアとの交戦の末に大破した。かつての操縦者はレンカ・キャラウェイ。

◆〈□□□□□〉


≫???

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