46 わたしを見て
文字数 6,940文字
玄関に集結した一行の頭上から、レスコーリアが呼び止めました。
ドアノブをつかんだところだったノエリィが困惑顔で振り返り、他の面々も足を止めてレスコーリアを見あげます。
しかし彼女は顔をしかめて両手をこめかみに添えると、そのまま黙りこくってしまいました。
「なによ。どうしたのよ」クラリッサがもどかしげに問いただします。
「――あっ」それまで皆とおなじようにレスコーリアの様子をうかがっていたプルーデンスも、にわかに声を詰まらせました。
「なにを感じたんだね」ベーム博士が至って冷静にたずねます。
「なんなの、この感じ……」プルーデンスはかちかちと歯を鳴らします。「ね、ねぇ! これって、ほんとにあの子……?」
レスコーリアは顔を白くしてうなずきます。
「なんてこと」
そう一言つぶやくと、彼女はどういうわけかクラリッサの顔をじっと見おろしました。
「……なに?」クラリッサは眉を寄せます。
「おい、いったいなんだってんだよ」その横から、グリューがじれったそうに問い詰めます。
「あんただけが頼りだわ」レスコーリアはクラリッサを見据えたまま告げて、それから全員を見渡しました。「慌てず、落ち着いて、でもできるだけ急いで、行きましょう」
「行くって、どこへ」マノンが問います。
「外へ……」プルーデンスが言います。
「船へ……」レスコーリアが玄関のドアを睨みます。
「……なんだかよくわかんないけど」ノエリィが再びドアノブを回します。「とにかく、早く――」
その言葉の末尾は、突如屋外のどこかで発生した得体の知れない大きな物音によって、完全に掻き消されてしまいました。それは、例えるならば大型肉食獣の咆哮のような、あるいは倒木や落石の衝撃音のような、耳にする者の肝を冷やさずにはいられないたぐいの、なんとも言えず不気味な音でした。
「……なに。今の」ノエリィがぽつりとつぶやきます。
アトマ族の二人が並んで空中に浮いたまま、額の触角を揃って力無く垂れ下げて、共に深いため息をつきました。
そこでまた、先程とおなじ音が響き渡りました。今度はより重く、より
一行は傘も差さずに外へ飛び出します。
怯えた様子で居間のソファに身を寄せあう五つ子を除く全員が、庭先で互いの視線を交差させます。
「クラリッサ!」レスコーリアが叫びます。
めずらしい相手から名前を呼ばれたクラリッサは、途端に表情を引き締めます。
「リディアを止めて!」
さらなるレスコーリアの一声を受けて、全員が一斉に飛空船の停泊している方角を振り向き、息を合わせる間もなく全力で駆けだしました。
先頭を行くクラリッサの俊足ぶりはすさまじく、飛翔するコンドルのように森のなかを駆け抜けていきます。一行の最後尾から必死になって追いかけるノエリィは、そのとんでもない敏捷さを目の当たりにして、言葉を失うほどに驚嘆しました。
顕術によって爆発的に脚力を増幅させたクラリッサは、早くも樹々の彼方に飛空船の機影を捕捉しました。
と同時に、彼女は小さく舌打ちをしました。
船体正面の出撃口が、内側から力任せにこじ開けられたように、その壁面を大きく歪めてばっくりと開放されています。
そして、半壊した船の向こう側に、
クラリッサは瞬時に状況を把握すると、なにが起きても対処できるように鋭く意識を集中させて、目を疑いたくなるような現場に到着しました。
「どうして……」
船の
リディアは今、深く
「どうして乗ってるの、ミシス! なぜ船を壊したの!」
ますます
「来ちゃだめ!!」
指示どおり、一同はすぐに立ちどまります。そして各自激しく息を切らせながら、クラリッサの後ろで地面に四つん這いになっている巨兵の姿を目撃し、打ちのめされたように絶句します。
「ミシス!?」ノエリィが胸の裂けるような悲鳴を上げます。
マノンが血相を変えて携帯伝話器を取り出し、ぶるぶると震える指で近接顕導域の周波同調を試みます。やがて通信が確立した手応えを感じ取ると、通話音量を調節するつまみを最大まで回して、
「ミシス、聴こえ――」
しかしまさにその瞬間、天上の暗雲が前触れなくごろごろと轟き、それとほぼ同時にいささかも容赦のない特大の
「わあぁぁっ!」
地の底から突き上げるような衝撃を受けて、ノエリィは思わずその場にしゃがみ込みます。他の面々も、それぞれに身を低くして耐えしのぎます。
濡れそぼる赤髪を全身に張りつけたマノンが、一心不乱に伝話器に向かって声をぶつけます。
「ミシス、僕だ、マノンだ! なぜリディアに乗ったんだい? ねえ、お願いだから返事をしてくれ!」
しかし応答はありません。
代わりに、リディアはふらふらと身を起こすと、深く前かがみになって両腕をぶらりと下へ降ろし、首を徐々にゆっくりともたげました。そしてその体勢のまま、まるで鼻先を飛びまわる蝶かなにかを目で追うような挙動で、頭をぎしぎしと揺り動かします。
「ミシスったら!」ノエリィがマノンの手にする伝話器に食らいつきます。「いるんでしょ、そこに? ね、危ないからすぐに降りてきて! そして、一緒に帰ろう!」
「うん」
拍子抜けするほど穏やかで素直な声が、間髪入れずに返ってきます。その声を耳にした誰もが、一様にぞっとした表情を浮かべます。
マノンのかたわらに立っていたベーム博士が、手のひらを自分の額にぺたりと当てて、小さくため息をつきました。
「聴こえてるよ。そんな大声出さなくても」
もつれる舌で、ミシスは無邪気に応答します。しかし少女の意識と躯体の動きが同期しているはずの巨兵の双眸は、なにもない虚空をぼんやりと仰いだままです。
「うん。帰ろう。一緒に」ミシスは――リディアは――なおも黒雲に覆われる空を見あげます。まるで、その視線の先に対話の相手がいるかのように。「先生が、待ってるもんね。ピレシュも、ゲムじいさんも、猫たちも。みんな、きっと喜んでくれるよね」
リディアはぐっと背筋を伸ばし、弓のように背をしならせて直立しました。そのまなざしは、ずっと変わらず天空に向けられたままです。
「こっちだよ!」ノエリィは唇を震わせ、涙を一粒こぼします。「わたしはこっち! ミシス、わたしを見て!」
「見てるよ」ミシスはけろりとこたえました。
あたかもその声に魔術的な音節が含まれてでもいたかのように、暗い雲の深奥でおぞましい
「いかん……!」
とっさにベーム博士が身を翻し、マノンとノエリィ、それにプルーデンスとレスコーリアをみずからの腕のなかに引き寄せました。
世界を真っ二つに叩き割るような破裂音と共に、超弩級の雷が地表に向かって撃ち込まれました。
それは、百万分の一秒にも満たない、まさに刹那の間の出来事でした。
雷撃はたしかに、空に向けて突き立てられたリディアの頭部の一角をめがけて、いかなる躊躇もなくまっすぐに襲来しました。
しかしその超高熱の天の火は、巨兵の躯体に届きはしませんでした。
地上のすべてを一瞬だけ真っ青な閃光で染め上げた後、雷は、いえ、ほんの少し前まで雷という名で呼ばれる存在だったその炎は、リディアの頭頂に直撃する寸前のところで顕術の防壁に阻まれ、まるで太陽のようにまばゆく巨大な火の玉へと変貌しています。
一同が茫然と見あげるなか、リディアは頭に降りかかってきた木の葉でも払いのけるように、片手をひょいと振りました。
その拍子に空中を転がりだした火炎のかたまりは、かつてクラリッサが撤去して寄せ集めた巨岩群に直撃し、島をまるごとひっくり返すほどの爆音を放ちました。
博士の広大な背中に
砕かれた岩の欠片が周囲に散乱しますが、じゅうぶんに距離が開いていたのがさいわいして、一同の身に危険は及びませんでした。
焼け焦げた岩はじゅうじゅうと気味のわるい音を立てながら、雨に負けじと黒い煙を吐き出しています。
「大丈夫か」グリューが少女の耳もとでたずねました。
「うん」クラリッサはうなずきます。「グリューは……?」
「おれは平気だ」青年は顔を上げてマノンたちの様子をたしかめます。「それに、みんなも」
クラリッサは瞬時に目つきを変え、決然と宣言します。「あたし、あれを止める」
マノンがベーム博士の前に躍り出て、懸命に叫びます。
「クラリッサ! すまない、どうにかリディアを!」
「わかってるわ!」
敢然と応じたクラリッサが、青年の腕のなかから飛び出しました。
そして、それとまったく時をおなじくして、ありとあらゆる人智を超越して、すべての常識の枠組みを優雅に粉砕して、
その奇蹟
は起こりました。「……なんということだ」ベーム博士が一人静かに目をむきます。「あなたはその姿で……その姿で、そこまでやるというのか。リディア……」
あたり一帯の大気が、ほんの数秒、ぐにゃぐにゃと波打つように激しく歪みました。波紋状に広がるその奇妙な震動の中心点は、疑いの余地なく、屹立するリディアの躯体そのものでした。
まるで浮上する際のアトマ族のように背中の羽を広げて、リディアは静かに、滑らかに、そして恐ろしいほど優しげに、空へと向かって上昇していきます。
あぁ、あの羽って、ただの飾りじゃなかったんだ。
なに一つ現実のものとは思えない展開をただ立ち尽くして網膜に映しながら、ノエリィはそんなごく単純な感想を抱きました。あの碧い装甲に包まれる二枚の大きな羽は、鎧にくっついてるだけの無意味な飾りなんかじゃなかったんだ。あれは本当に、あのカセドラの素体に繋がってる、本物の羽だったんだ……。
「ク……クラリッサ……いったい、これは……?」マノンが頬をひきつらせます。
呼びかけられた少女は激しく首を振ります。「……リディアなら、もしかしたら可能かもしれないと予想はしていた。でも……でも、あたし、飛びかたなんか教えてない! それに、こんな……こんな飛びかたは、あたしや兄さんにだって……!」
「ぼうっと見てる場合じゃないわ!」レスコーリアが背を丸めて一喝します。
はっと我に返って、クラリッサは巨岩が散乱している方へ目を向けました。そしてそのうちの一つを素早く宙に浮かせ、強く息を吐きながら腕を振りかぶり、それをリディアの背中めがけて投げつけました。
相変わらず空を見つめていたリディアでしたが、その一瞬に迫り来る危険を感知したのか、すんでのところで身をひねって飛来する岩をかわしました。
しかしその反動で意識に乱れが生じ、浮上の途中にあった巨大な躯体は一挙に全身の均衡を失って、まるで空気の抜けた風船のようにゆらゆらと降下しました。
すかさずクラリッサが次弾ならぬ次岩を、今度は巨兵の顔面に照準を合わせて射出します。
再びリディアは身をかがめてそれを回避します。
しかし濡れに濡れた泥の地面に足を滑らせ、そのまま前のめりに転倒してしまいました。
「もう一発!」
クラリッサは攻撃の手をゆるめず、さらに続けてリディアの頭部を狙います。
今回ばかりは避けようもなく、リディアはとっさに手のひらを突き出して顕術の衝撃波を放つと、急襲する岩をみずからの目と鼻の先で押し留めました。
「今だっ!」
いつの間にか巨岩群の背後に回っていたグリューが荒く息を吐き、全身全霊を込めた顕術によって大岩の一つを押し出しました。
その勢いのついた岩にクラリッサがさらなる推進力を乗算させて、まさに巨大な砲弾と化したそれを、今一度リディアの頭部に撃ち込みます。
たまらず巨兵は顔の前で両腕を交差させ、猛進する岩を腕部を包む鎧――それは奇しくも、しばらく前にグリューとクラリッサが二人で協力して取り付けた装甲でした――で
鈍く重い衝突音と共に、撃ち出された岩はリディアの眼前で粉々に砕けます。
それでもなんとか踏んばって体勢を保とうとするリディアでしたが、為す術もなく後方へぐらりと体をのけぞらせると、そのまま仰向けに地面へ倒れ込んでしまいました。
「はあっ!」
猛々しく地面を蹴って、クラリッサがまるで翼を持つ者のように大きく跳躍します。
彼女が向かったのは、大の字になって泥濘の上に倒れたリディアの心臓部――つまり操縦席でした。
クラリッサは操縦席の扉に着地すると、ほんのわずかな間も置かず、鬼気迫る表情で両手を左右に大きく打ち振り、強制的に扉を開放しました。
操縦者と躯体による一対一の融合は、絶対不可侵の領域たる心の部屋が外気に晒されることで、あっという間に解除されます。
湯気のようにふんわりと操縦席内から立ち昇る青い光の奥へ、クラリッサはまっすぐに視線を落とします。
そこにはたしかに、ミシスその人の姿がありました。
リディアの、最後の最後までなにかを切望してつかみ取ろうと天に伸ばされていた右手が、そこでようやくすべての力を失い、ばしゃんと泥水を跳ね上げて地面を叩きました。
肩で息をしながら、クラリッサは座席にベルトも着けずに座って気絶している少女を見おろします。
眠る少女の唇の端には、白い泡がこびりついています。閉じられたまぶたの
ただ、胸もとに小さく輝く
「まったく。手を焼かせるんだから……」クラリッサはその場にぺたりと腰をおろしました。
まもなく一同がそこへ走り寄ってきて、皆で力を合わせてミシスの体を外へ引き上げました。ベーム博士がその身を背負い、両目に涙を浮かべたノエリィが博士の背中ごと親友を抱きしめます。
とりあえずリディアはそのまま寝かせたままにしておいて、一行は大急ぎで家へ戻り、なにをするより先にミシスの身を清め整えると、その体を毛布で包んでシーツを交換したベッドに寝かせました。
「この乱雑な裂傷の痕から見るに、おそらくは踏み出す先をまったく見てもいなかったのだろうね。やはり、一種の夢遊病的な発作だったと見るのが妥当だろうな」
少女の足裏に刻まれた無数の細かな傷を手当てしながら、ベーム博士が言いました。そしてそれぞれにタオルで髪を拭いているマノンやノエリィたちに向かって、彼はたずねます。
「この子は、これまでにこういった行動に出ることがあったかい?」
マノンは無言で首を振ります。ノエリィもまた否定――しようとしますが、途端になにかに思いあたって、ぴたりと手の動きを止めます。
「そういえば……時々やけに生々しい悪夢を見るって、前に言ってました」
空中で髪を拭いていたレスコーリアが、いつからかすっかり気にかけなくなってしまっていたその懸案について思いだし、じわりと表情を曇らせました。
「悪夢、か……」博士が目を細めます。
「なにか関係があるんでしょうか」ノエリィが再びゆっくりと手を動かしながら、眉間に皺を寄せました。
「しかしいったいどういうわけで、リディアに乗ろうなんて思ったんだろうな」温かいコーヒーをたくさんのカップに注ぎながら、グリューが首をかしげました。
「……もしかしたらだけど、アリアナイトが病気を治す助けになるってこと、頭のどこかで思いだしてたんじゃないかな」ノエリィがミシスの寝顔を眺めながら、本人にたずねるようにつぶやきます。「……あぁ、でもとにかくミシスやみんなが無事で、ほんとに良かった……」
とうに夕食の時刻は過ぎていましたが、誰も今すぐになにかを口にしたいような気分ではありませんでした。まるで赤ん坊のように眠り続けるミシスの姿を、いったいどんな感情を基軸にして見つめたらいいものかと測りかねるように、一同は燭台の灯りの揺らめく薄暗い寝室の奥で、しばし途方に暮れました。
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