35 縁は異なもの

文字数 5,039文字

 博士の家の周辺はいささか陽当たりが良すぎるため、剣の稽古は森の奥でおこなわれることになりました。
 ミシスとノエリィは、ベーム博士の大きな背中に導かれて、家から十分ほど歩いた先にある開けた場所までやって来ました。
「ここでいいね」
 博士は立ちどまって周囲を見まわしました。そしてくるりと振り返り、二人の少女に一本ずつ木刀を手渡します。それはなんの飾り気もなく、刀身も切っ先もまったく研がれていない質素な代物ですが、(つか)の部分だけは握りやすいように程好(ほどよ)く整形されています。
「これ、さっき作られたんですよね」
 昼食後に庭先で博士が木材を加工する音を響かせていたのを思い返しながら、ノエリィがたずねました。
「そうだよ」博士はうなずきます。彼の手にもまた木刀が握られていますが、こちらはずいぶん使い込まれたもののようです。「急ごしらえですまないが」
「いえ、すごく持ちやすいです」柄を握る手を眼前に掲げ、ミシスが言います。
「それはよかった。……うん、長さも大きさも、きみたちにはちょうど良い具合だね」
 二人はその得物の重みをたしかめるように、軽く素振りをしてみせました。
「おっと。まだ振らなくていいよ」
 博士がやんわりと制止します。
 二人はぴたりと動きを止め、そっと手を降ろします。
「それにしても驚いたよな」自分の木刀を肩に載せて、博士が大きくかぶりを振ります。「まさかノエリィが、かの剣聖レイ・バックリィの娘さんだったとは」
「やっぱり高名なかただったんですか」きょとんとしているノエリィを横目に見ながら、ミシスがたずねます。
「そうとも。剣術の世界では、とても名を知られた人物だった。私も何度か、その姿をお見かけしたことがあるよ。名うての剣士ぞろいのコランダム騎士団のなかでも、飛び抜けて卓越した使い手だった。あのゼーバルト・クラナッハと、いつも頂点の座を競っていたな」
「ゼーバルト!? って、あの……?」
 博士はうなずきます。「そう。かつてはコランダム公国の騎士団長だったがね。彼は今では、将軍と呼ばれている」
 少女たちは呆然とした様子で、互いの顔を見あわせました。
「まったく、(えん)()なものとはよく言ったものだ」顎の髭を撫でつつ、博士は遠い目をします。「まるで半世紀以上も前から、こうなることが決められていたみたいだ」
「どういうことですか?」ノエリィが眼鏡のつるを押し上げます。
「私は幼い頃、家の都合で王都へ出てきて、それから正式に剣を学びはじめたんだがね。そこで私が門戸を叩いたのは、コランダム古式剣術の師範が開かれた道場だった」
「えっ?」ミシスが目を丸くします。「コランダムの……っていうことは」
「うん。私が修めた剣術は、ノエリィの父上とおなじ流派のものであろうと思う」
「そうだったんですか……」(ほの)かにノエリィの頬が紅潮します。「あのレーヴェンイェルム将軍を剣の道に誘ったのが博士だったとうかがっていたので、てっきり博士はホルンフェルス王国流の剣術を使われるのかと思っていました」
「ヤッシャは……レーヴェンイェルム将軍は、あえて私とはちがう道を選んだのだ」博士はにやりとします。「私もあまり人のことを言えたものではないが、あいつもまた、筋金入りのへそ曲がりだからね」
 少女たちはくすくすと笑います。
 そこへ突然、なにか目新しいことが始まろうとしているのを察知した五つ子たちが、家の方から一団となって飛来しました。そしてさっそく少女たちが手にする木刀に狙いを定め、そこにわらわらと群がりました。
「みんな、これは遊び道具じゃないよ」ミシスが苦笑します。
 五人は釈然としない様子で首をかしげます。
「お勉強の時間じゃないの?」ノエリィが子どもたちにたずねます。
「うん、もうすぐ始めるよ」おかっぱ頭の女の子ルビンがこたえます。
「今はまだ、お昼休……み……」前髪を右側に分けている男の子アルが言いかけます。そしておもむろに、顔をくしゃっと歪めます。「は、はっ……はくしょん!」
「あ~らあら。おっきなくしゃみ」髪がいちばん長い女の子タインが、からかうように言いました。
「昼でも森のなかは涼しいからな」博士が持参したタオルで小さな鼻を拭いてやります。「さ、これからお姉さんたちは剣の稽古をするんだ。きみたちも、しっかり勉強がんばっておいで」
「は~い」
 きらめく羽をぱたぱたと揺らせて、子どもたちは疾風のように飛び去りました。
 それを見届けると、博士は改めて少女たちに向き直りました。
「では、始めるとしようか」
 二人は背筋を伸ばして、強くうなずきます。
 ふいに、あたりの空気がしんと静まり返りました。
 風はより繊細に肌に感じられ、森のざわめきはまるで耳のなかで鳴っているように鮮明に聴こえます。溢れんばかりの草樹の緑と、そこかしこに踊る木漏れ日の黄金とが混ざりあって、まるで巨大な壁画のように幽遠な意匠を漂わせはじめます。
「まず問おう」博士が穏やかに口を開きます。「そもそもきみたちは、なんのために剣を振るうのかね」
 その言葉を耳にした瞬間、ミシスの脳裏にかつて親友のピレシュが一度だけ授けてくれた教示が蘇りました。
『なんのために剣を振るのかっていうことをお腹でわかってないと、剣先は狙いを外す。必ずね』
 軽くまぶたを閉じて、ミシスは彼女の声をまざまざと想起しました。そして胸いっぱいに息を吸い込み、想いを巡らせ、心を定め、言葉を探り、口を開きます。
 けれどそれよりほんの一瞬だけ、ノエリィの方が先でした。
「自分の可能性を知りたいからです」きっぱりと前を向いて、彼女は言いました。「そしてそれが、もしもわたし自身や大事な人たちにとって善いものだって心から信じられるものだったら、納得のいくところまでしっかり磨いてみたいと思ったからです」
 その迷いのない、普段の彼女からは想像もつかないような毅然とした声とまなざしに、博士もミシスも思わず息を呑みました。
 そして瞬時に、またあの太陽のように燃える決意の光が彼女の瞳に灯っていることを、ミシスは確信します。
 ベーム博士はその光を目にするのは初めてのことでしたが、にこりと深い笑みを浮かべると、静かに小さくうなずきました。
「わたしもおなじです」間を置かずミシスも続きます。しかしそこには、安直に他者の発言を後追いする不誠実な響きはありません。「まだ知らない自分自身を探して、見つけて、鍛えて、強くなりたいです」
 二つのまっすぐな覚悟を受けとめた博士は、一度両目を閉じて浅く深呼吸をし、そしてまた目を開きました。
「わかった」博士は微笑と共に二人を見おろします。「それでは、第一線を退いて久しい私ではあるが、かつて〈錬峯(れんほう)〉の称号を受けたこの剣の(あた)うかぎり、精一杯きみたちに伝授しよう」
「よろしくお願いします!」二人は揃って深く礼をしました。
 博士もまた、上体をぐっと前に折り曲げます。「うむ。よろしくお願いします」
 こうして、この日この時から、ベーム博士――改め、ベーム師範――による剣術指南が始まりました。
 まず最初に伝授されたのは、コランダム古式剣術の流儀による脚運びでした。樹が根を張るように大地をつかまえ、それでいて体軸は水のようにしなやかに保つことこそが基礎であり奥義なのだと、細やかな実演を織り交ぜながら師範は弟子たちに説きました。
 教えに従い、二人は足裏に意識を集中して地面の感触をたしかめます。そして指導を受けて正しく柄を握り直し、するりと氷上を滑るように足を踏み出す動作を反復しました。
(この静かで無駄のない構え、水の上を歩くような足の運び……)ミシスは人知れず身震いします。(ピレシュがいつも見せてくれた、あの動きそのものだ)
 この日の稽古は、初回ということもあって、小一時間ほどで終了となりました。
 少女たちは体を折り畳むように深く頭を下げ、感謝の言葉を述べました。
「おつかれさん」いつもの温和な顔つきに戻って、博士が労います。「二人とも素直だし、頭も体も柔軟だし、じゅうぶんに素質があるように思う。これは、将来が楽しみだな」
「ほんとですか」額から流れる汗もそのまま、ノエリィが瞳を輝かせます。
「うん。さすがにあの達人の娘といったところだね」博士が汗一つかいていない顔に微笑を浮かべます。「それにミシスも、天性の勘の良さがある」
 ミシスは照れくさそうに目を細めます。「ありがとうございます。でもそれはきっと、ピレシュのおかげです」
「きみたちの友人だね? 前に少し話してくれた」
「はい」二人は誇らしげに息を合わせます。
「わたしの目標なんです」ミシスが付け加えます。
「きっと素敵な娘さんなんだろうね」ピレシュという名を口にした瞬間から二人の顔に現れた花のような明るさを、博士はまぶしそうに眺めます。そしてふと思いついたようにたずねます。「ところで、そのピレシュという子の苗字は?」
「ペパーズです」ミシスがこたえます。「ピレシュ・ペパーズ。もしかしてご存知ですか?」
 博士は首を横に振ります。
「ペパーズっていうのは、ピレシュを引き取ってくれた人の苗字だよ。もうだいぶ前に亡くなっちゃったけど」ノエリィが言います。「モニクっていう名前の、かっこいい女の人でね、わたしとお母さんにとっても大切な家族だった人。たしか、モニクに連れられて丘に来る前の、ピレシュの元々の姓は……」
「あっ、いたいた!」
 まるで閃光のように前触れなく、レスコーリアが真上から三人のあいだに飛び込んできました。
「うわっ、びっくりしたぁ」ノエリィが目をしばたたかせます。
「稽古は終わった?」油染みのようなものが付着している両手をごしごしと擦りあわせながら、レスコーリアがたずねます。
「今終わったところだよ」ミシスが首にタオルを巻きながら応じます。
「ならちょうどよかったわ。船でグリューたちがリディアに鎧を着せてるんだけど、できたらあなたたちにも手伝ってほしいのよ。じゃじゃ馬娘がいるから重いものは動かせるんだけど、いかんせん細かい作業が追いつかなくて……」
「それはもちろん、すぐに行くよ」
「あの量をお嬢たちだけで捌くのは大変だろう」博士が言います。「私も手を貸そう。夕飯の仕込みが済んだら駆けつけるよ」
「助かるわ」
 博士は二本の木刀を預かり、今夜もとびきりの夕食とお風呂を用意するからねと言って二人を喜ばせると、足早に家へ戻っていきました。
 二人は顔や首の汗を拭きながら、レスコーリアと一緒に飛空船へと向かいます。
「どうだったの、剣は」レスコーリアが後ろ向きに飛びながら二人にたずねます。
「すごく楽しかったよ」ノエリィが息を弾ませます。「今まで一度も使ったことのなかった筋肉をいっぱい使った感じがするよ。あぁ、それにしても、今日ほどピレシュのすごさを実感したことってないわ」
「わたしも!」ミシスが横から身を乗り出します。「わたしもほんとにそう思った。やっぱりあの次元の実力って、めちゃくちゃすごかったんだね」
 遠い空の下にいる彼女のことを想いながら、二人は午後の光のなかを駆けていきました。
「あ、そうだ」船に入る直前に、ノエリィがふとつぶやきました。「ちょうど今頃じゃなかったかな。コランダムの剣術大会」
「なにそれ。そんなのがあるの?」
「うん。一年に二度、夏と冬に開催されるコランダムの名物行事だよ。毎年、少年少女の部ではピレシュが優勝するのがお決まりだったけど……」
「けど?」
「今年からは年齢的に、ピレシュも一般の部の参加になるんじゃないかな」
「あ、そうなんだ」ミシスが言います。「でもきっとピレシュのことだもん、おとなの人たちに混じっても上位にまで勝ち進むよ」
「だといいけどね」
 格納庫の中央にひざまずくリディアの(すね)に額を張りつけるようにして、防護面をかぶったグリューがばちばちと溶接の火花を散らせています。クラリッサがその背後に立ち、碧く輝く巨大な新品の脛当てを顕術で支えています。二人から少し離れたところで細かな部品を選別したり組み立てたりしていたマノンが、少女たちの姿に気づいて大声で呼びかけます。
「おっ、いいところに来てくれたね。わるいけど少し手を貸しておくれ」
「は~い」二人はいっそう速く走りだします。
「さあ行こう、レスコーリア」ミシスが元気よく呼びかけます。
「はいはい」レスコーリアは大袈裟にうなだれてみせます。「まったく、皆といるとなかなか楽させてもらえないわね」
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登場人物紹介

◆ミシス・エーレンガート


≫主人公。エーレンガート家に家族の一員として迎え入れられ幸福な日々を過ごしていたが、思わぬ形でコランダム独立の騒乱に巻き込まれ、ノエリィと共に丘の家から旅立つことになった。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫ミシスの親友であり家族でもある心優しい少女。望まぬ形で軍に連行されるミシスを独りにさせまいと、ほとんど押しかけるようにして〈特務小隊〉の一員となる。

◆マノン・ディーダラス


≫本職は科学者であり発明家だが、カセドラ〈リディア〉を守護するため急造された部隊〈特務小隊〉の隊長を務めることになった。同隊が移動式拠点として利用する飛空船〈レジュイサンス〉も、彼女の発明の賜物。

◆グリュー・ケアリ


≫マノンの腹心の助手。彼女に付き従い、ホルンフェルス王国軍極秘部隊〈特務小隊〉に所属する。飛空船での暮らしにおいては、もっぱら料理係と操縦士の役割を務めている。

◆レスコーリア


≫マノンたちに同行するがまま、〈特務小隊〉に加わることになったアトマ族の少女。相変わらず自分流に気ままな日々を過ごしながらも、密かに隊の皆を見守っている。

◆クラリッサ・シュナーベル


≫世界最強の顕術士一族として知られるシュナーベル家の長女。優れた顕術士ばかりで構成される王国騎士団〈浄き掌〉の副団長を務める。グリューとは許婚どうしで、マノンやレスコーリアとも旧知の仲。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫新生コランダム軍を率いる将軍。統一王権からの離脱と祖国独立の宣言を発し、全世界に対し戦後最大級の衝撃を与えた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫新生コランダム軍に所属する軍人。エーレンガートの丘での失態の後、妹のレンカと共に小部隊を率いてミシス一行を追撃する。

◆レンカ・キャラウェイ


≫エーレンガートの丘で勃発したカセドラどうしの戦闘によって重傷を負い、その後しばらくのあいだ治療に専念していた。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫国王トーメ・ホルンフェルスの名代として、マノン一行に〈特務小隊〉としての任務を与えた。以後さまざまな手段を用いて、先の見えない困難な日々を送る同小隊を遠く王都より支援する。

◆ハスキル・エーレンガート


≫愛する娘たちと離ればなれになり、我が子同然の学院校舎が損傷してもなお、決して希望を失うことなく毎日を前向きに生きている。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫幼少時より人知れず抱えていたカセドラ恐怖症の劇的な発作により、長期に渡って入院生活を送っていた。恩師ハスキルに護られながら、徐々に回復へと向かう。

◆ドノヴァン・ベーム


≫十年ほど前に王都から忽然と姿を消した、伝説的な大科学者。レーヴェンイェルム将軍の幼馴染みにして、マノンの恩師。現在の彼の動向を知る者は極めて少ない。

◆プルーデンス


≫ベーム博士と共に暮らすアトマ族の少女。博士とおなじくアルバンベルク王国の出身。幼い頃から過酷な環境を生き抜いてきたためか、非常に気立てと面倒見が良い。

◆〈リディア〉


≫ホルンフェルス王国軍が極秘裏に開発していた最新型のカセドラ。本来ならカセドラが備えるはずのない、ある極めて特異な能力をその身に宿している。操縦者はミシス・エーレンガート。

◆〈フィデリオ〉


≫コランダム軍が新たに開発した特専型カセドラ。操縦者はライカ・キャラウェイ。

◆〈コリオラン〉


≫フィデリオと同一の鋳型を基に建造された姉妹機だったが、リディアとの交戦の末に大破した。かつての操縦者はレンカ・キャラウェイ。

◆〈□□□□□〉


≫???

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