58 赤い数字
文字数 3,428文字
青年が隊長からの
初めて飛空船レジュイサンスへ博士を案内した、あの日。マノンとグリューに連れ回される形で、博士は船内をくまなく見学してまわりました。
その行程の最初に、三人は操舵室に足を踏み入れました。
こうして見ると散らかってるな、とグリューが苦言を呈し、ソファの上に放り出された読みかけの雑誌や膝掛け、それにテーブルに広げられたままだった地図や資料などを、てきぱきと片づけはじめました。
かたやマノンは青年の奔走には目もくれず、ベーム博士の腕を引っぱって急かしながら、操縦機器類についての説明を身振り手振りを交えて夢中で披露しました。
それらにじっくりと耳を傾けるかたわら、操縦席の座面に小さな板のようなものが置かれているのが、博士の目に留まりました。
ふと興味を引かれた彼は、マノンに
本のように左右に開く作りになっていたその板のなかには、なにかの名簿らしき書類が収められていました。
博士は胸もとのポケットに常備している老眼鏡を、瞬時に装着しました。
そこには小さな文字で、王国軍が大陸各地に置く要所や拠点に繋がる鉱晶通信の周波数番号の一覧が、びっしりと印字されてありました。
そんなの見てもつまんないですよ、とマノンが顔をしかめて、するりとその名簿を博士の手から取り上げると、元あった場所へぞんざいに放り投げました。
それからも嬉々として続けられたマノンの熱弁を興味深く拝聴しながら、ベーム博士は今しがた目にした名簿の片隅に見つけた、赤いインクで小さく記されていた手書きの数字の配列を、忘れないように脳内に刻みつけました。
他のすべての番号がタイプライターかなにかで打たれた整然とした文字列だったのに対し、その一行の赤い数字だけは人の手で直接書かれたものだったことが、やけに気になったのです。
博士はその後、そこで目にした数字を書いたのとおなじ筆跡を、新聞のクロスワードパズルの紙面で発見することになりました。
まさにその新聞が、祖父と孫娘を演じるベームとパティ――ならぬノエリィ――に、大量の冷や汗をかかせることになった日の、朝。
病から快復したミシスを囲んでの朝食の最中、レスコーリアたちによる島への何者かの接近の感知を受けて全員で緊急作戦会議を開始した当初から、ベーム博士はその胸の内で、非常に強い嫌な予感を覚えはじめていました。
お互いに携帯伝話器の通信を接続したままにしておきましょう、とマノンが提案した際、ベーム博士はすぐさまその案に同意して、自分の書斎に向かいました。
工作用の机の上に置いておいた、以前マノンから渡されていた王国軍支給品の伝話器を彼女の持つ伝話器と番号を合わせ、ズボンの右側のポケットに入れます。
この時、机のひきだしのなかには、特務小隊の誰もその存在を知らない、もう一つの携帯伝話器がありました。
それはその日から十日ほど前、博士がプルーデンスと二人でパズールへ出掛けた際に町の専門店で購入してあった、市販の最新型の携帯伝話器でした。
皆がばたばたと家じゅうを走りまわって隠蔽工作に邁進するなか、ベーム博士は一人ひっそりと書斎の暗がりのなかに佇み、脳内の記憶保管庫から赤いインクで書かれた数字の列を呼び覚まし、素早く慎重にそれを新品の伝話器に入力しました。
誰に繋がったのか、考えるまでもありませんでした。
接続した先にいる人物に何事も告げぬまま、通信を保持したままのその伝話器を、博士はズボンの左側のポケットに突っ込みました。
こうして、博士が単独で〈緑のフーガ〉の一団を出迎えに行く前には、彼の左右のポケットの奥では、飛空船レジュイサンスに待機するマノンと、王都ヨアネスの執務室にいるヤッシャ・レーヴェンイェルム将軍の個人回線、二つの遠く離れた場所にある伝話器との相互通信が確立されていたのでした。
状況を把握した途端、リディアの情報を共有している人間の一覧表がまたたく間に将軍の頭のなかで展開され、そこから最初に抽出された数人の実力者たちに、緊急かつ極秘の招集がかけられました。
特務小隊の窮地を救うべく編成された、三機の飛空船。
その一機には、将軍直属の親衛隊員が二名と、二体の量産型カセドラ〈アルマンド〉が。
もう一機には、同じく二名の親衛隊員と、近年新たに開発された量産型カセドラ〈クーラント〉が三体。
そして指揮を執る船には、騎士団〈
一方、この三機とは別に、〈リディア〉に関する事情は完全に伏せられたまま、アルマンドと一般操縦兵たちだけで構成された飛空船部隊も、同時に編成されていました。
実に七機にも及んだこちらの部隊は、将軍直々の緊急出動命令に従い、コランダム軍の中枢〈星灰宮〉を封じる任務に当たりました。
一瞬のうちに駆り出されたこの計十機の船には、ほんの数日前に試験運用が完了したばかりの、新型原動機が積まれていました。
その設計者は、言わずもがな、王国が誇る稀代の科学者マノン・ディーダラス。
荒野に身を隠すだけの先の見えない鬱屈とした日々のなか、生活を共にする少女たちの目も考えも及ばないところで、彼女が連日睡眠時間を削ってやっとの思いで完成させた、とびきりの会心作でした。マノンはその設計図を、クラリッサ率いる補給隊に同行していた旧知の仲の技術者の一人に、秘密裏に託していたのでした。
得体の知れない敵の小隊を追撃するためにキャラウェイ姉妹が立ち上げた特殊部隊と作戦本部を、長らく眉に唾をつけて傍観し続けていたコランダム政府の元老院は、この日の鬼気迫る現場からの音声通信と増援要請、さらには彼女たちの上官であるゼーバルト将軍からの強硬な提言を受けて、ようやく本格的に兵を出撃させる決定に同意しました。
しかし――
その時にはすでに、巨兵と大砲をたっぷりと積んだ七機もの高速飛空船が、星灰宮の遥か上空を、まるで地上の獲物を
レーヴェンイェルム将軍の命令により、王国軍の船は一切手出しせずただ黙して飛ぶだけです――これをきっかけに全面戦争に発展させてはならないとの判断から。
ゼーバルト将軍の命令により、コランダム軍は上空に対して銃口はおろか、剣先さえ向けません――これをきっかけに全面戦争に発展させてはならないとの判断から。
今この時この世界において、自分たちの理念に賛同する人々が
そうではない人々
が未だ世界には数多く存在する事実もまた、厳しく冷静に受けとめていました。その人々にとっては、ホルンフェルス国王が大陸全土にここで早急に領土侵害なり正当防衛なりを叫んで反発あるいは威嚇等の手段に訴えて出たなら、自分たちを支援する声が世界規模で拡大するこの望外の好機に対して、少なからず
そして同日午後、極東の孤島で勃発したいざこざが一時決着したことが両陣営の首脳陣に伝達されると、結局ただの一発の弾丸も放たれることなく、ただの一滴の血も流されることなく、突如として持ち上がった二大勢力どうしによる緊迫の睨みあいは静かに幕を引くこととなり、王国軍の飛空船部隊は即刻王都へと帰投し、星灰宮の地下基地に密かに集結していた巨兵部隊と飛空船部隊は、速やかに解散を告げられる運びとなったのでした。
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