62 晩ご飯までには帰るね
文字数 3,828文字
長く忙しい一日を過ごしてくたくたになったハスキル・エーレンガートが、自宅の玄関のドアを開けました。
廊下をぱたぱたと駆けて食堂に入ると、そこにいつもいるはずの金髪の少女の姿は見あたりません。代わりに、この丘の番人の役目を務めてくれている旧知の友人、皆からゲムじいさんと呼ばれている温和な佇まいの男性が一人、エプロンを着けて台所に立っていました。
「あれ? ゲムじいさんじゃない。どうしたの?」
呼びかけられた老人は少し照れくさそうにエプロンを外すと、ぺこりと頭を下げました。
「お疲れさまです、ハスキル先生。寮にもお宅にも明かりが
「そうだったの」カウチに両手いっぱいの荷物をどかっと降ろして、ハスキルが言います。「って、あら? 寮の方も?」
「はい。今日は昼前からずっと留守にされていたようで」
「どこかに出掛けちゃったのかしら、ピレシュ」
そういえば近頃、ふとした時に少女がなにかぼんやりと考え込んでいる様子だったのを思いだし、ハスキルは表情を曇らせます。
「それで、まことに勝手ながら、夕飯の支度を今夜は私が……」ゲムじいさんがエプロンを畳んで食卓を示します。
「どうもありがとう。いつもほんとに助かるわ」
「いいえ」
はにかんだ微笑を浮かべると、ゲムじいさんはお尻のポケットに突っ込んでくしゃくしゃになっていた鳥打帽をぐいと広げて、白髪の頭に載せました。
「え、もう帰るの? 一緒に食べていったらいいじゃない」ハスキルが袖をまくりながら呼び止めます。
「そうしたいのはやまやまですが、昼からうちの馬が少し体調を崩しておりまして……」
「まあ大変。そんな時にここまで気を遣わせてしまって、ごめんなさい」
「いえいえ、それほど大袈裟なものではありませんので、ご心配には及びません。ピレシュお嬢さんがお戻りになられたら、どうぞご一緒に召し上がってください」
玄関先で見送られながら、ゲムじいさんは足早に家路を辿りました。
ハスキルは突如がらんと静まり返った家のなかで一人ため息をつくと、普段の習慣どおりに手を洗って口をすすぎ、食前のお茶を用意するために食器棚を開けました。
そこに収められているハスキル愛用のティーカップに寄りかかるようにして、一通の手紙が置かれています。
とっさにハスキルは眉をひそめ、宛名と差出人を確認します。が、差出人が誰だか、自分の名前が記されている
湯を沸かしていた火を止め、ハスキルはテーブルに飛びつくように座り、卓上の燭台を手もとに
「親愛なるハスキル先生
先生、おかえりなさい。
お帰りになられて早々、驚かせてしまってごめんなさい。
思えば、こうして先生にきちんとしたお手紙をしたためるのは、初めてのことですね。
だって先生は、本当にいつだって、わたしのそばにいてくださったから……。
先生、わたし、この頃ずっと考えてきたんです。
どうすれば、この世界の狂った歯車を、元に戻せるんだろうって。
どうすれば、わたしや、わたしの家族を壊したこの残酷な世界を、
そしてどうすれば、なによりも大切な友だちや居場所を、取り戻せるんだろうって。
すべての人が心安らかに暮らすことのできる、不条理な暴力の存在しない世界を創ることが、小さな頃からずっと変わらないわたしの夢です。
……だけど、その夢を実現するには、この世界はあまりにも多くの火と、闇を、隠し持ちすぎている。
こんな世のなかになってしまって、今では誰もがそうした予感を、肌身で感じていることでしょう。
わたしは、けれど、その闇はみんなが思っているより、もっとずっと深くて大きいものなんじゃないかって、心の底から危機感を覚えています。
わたし、思うんです。
このまま黙って見てたって、世界はなんにも変わらない。
今こそ自分の足で立ち上がって、なにが本当に自分にできることなのか、その可能性を探ってみたい。
そしてそのために、見ておきたいもの、行ってみたいところ、試してみたいことが、いくつかあります。
急に、なんのご相談もなくこんなことを言いだして、本当にごめんなさい。学校の再建も、これからだという時なのに……。
でも、先生。
これはきっと、わたしの最初で最後のわがままです。
ほんの少しのあいだ、一人でいろいろなものを見定めてきます。
どうか、勝手を許してください。そのうち落ち着いたら、わたしは必ずこの丘へ、学院へ、先生のもとへ帰ります。ここが、ここだけが、わたしのいたい場所、ここだけが、わたしの帰るべき場所だから。
そしてこの気持ちは、あの二人もおなじだって、わたしは信じています。
短いあいだですけれど、先生のお顔を見られなくなるのが、身を切られるように寂しいです。
ハスキル先生、どうかお体に気をつけて。
いつでも、わたしの心は、先生とエーレンガートの丘に。
無上の尊敬と感謝と、愛を込めて
ピレシュ・ペパーズ」
ハスキルは叩きつけるように手紙をテーブルに置くと、玄関から飛び出して芝生の広場を駆け抜け、合鍵を使って寮のなかへ入りました。
そしてその真っ暗な屋内の奥にある、ピレシュが日々生活していた寮長室の扉を、両手でつかんで勢いよく引き開けました。
背の高さと種類ごとに整然と揃えられた書物が並ぶ本棚。
部屋の隅に立て掛けられた訓練用の剣。
毎日花が挿してある勉強机の上の花瓶はからっぽで、その横にいつも置かれていたはずの、いつかハスキルやノエリィたちと一緒に撮った記念写真が入っていた写真立ては、姿を消してしまっています。
息を切らせて苦しげに胸を押さえながら、ハスキルは静かに部屋を後にしました。
そのままゆらゆらと広場の中央までさまよい出て、まさにこれから復活を遂げようとしている再建工事中の校舎を、その視界の中心に据えます。
まだ塞がれていない、いわれのない暴力によってその壁に
今夜、空に、月はありません。
新月の夜闇に、無数の星がただ茫漠と散らばっています。
灰色の細長い雲の群れが、まるで血管のように幾重にも絡まりあって天上を流れています。
震えが止まらない両膝を慎重に折ると、ハスキルはよろよろその場にへたり込み、抗いがたい重力に首根っこをつかまれるがまま、ばったり仰向けに倒れ込みました。
初秋の予兆を運ぶ夜風が、彼女の火照った肌をじわじわと冷ましていきます。
地上への圧倒的な無関心と共に注がれる星々の灯りを浴びながら、ハスキルはぎゅっと両目を閉じました。今は、頭のなかにさまざまな想いや考えが浮かんでくることさえ、邪魔でしょうがありません。
どうか、しばらくこのまま眠らせてちょうだい。そして、目が覚めた時には……
「また会えるよね、みんな」
呼吸を鎮めて意識を
鳥たちは帰ってきた。
森は再生する。
光と水と大地と、生きようとする新たな芽が、存在するかぎり。
そして、月もまた、満ちるだろう。
この世界と太陽と、空を見あげる私たちとの均衡が、崩れないかぎり……。
……そのうち本当に、ハスキルは眠りに落ちてしまいました。
時をおなじくして、食卓の上に灯したままになっていた燭台の炎が、窓の隙間から忍び込んだ風によって、音もなく搔き消されました。
なにかを慰めるように、あるいは祈りのしるしのように、白く細い一筋の煙が、するすると天に向かって立ち昇ってゆきます。
…………………………
つかのま訪れた深い眠りのなかで、ハスキルは新しく用意した秋冬用の制服を抱えて自宅の階段を駆け降り、一階の居間でごろごろしていた三人の娘たちにそれを見せつけました。
少女たちは一斉に歓声を上げて、間髪入れずまっしぐらに着替えを始めます。
それまで着ていた夏服を脱ぎ捨てると、三人はしっとりとした布地の感触をしみじみ味わいながら、それぞれにおろしたての濃緑の制服に身を包みます。
新しくなった互いの姿を大はしゃぎで披露しあった少女たちは、口々に先生にお礼を伝えて、せっかくのお天気だから外へ出かけようと、手を取りあい飛び出していってしまいました。
ハスキルは庭先まで自分も出ると、秘密の花園めがけて走り去っていく三人の背中に向かって、大きな声で呼びかけました。
「気をつけてね! 行ってらっしゃい」
「晩ご飯までには帰るね!」
ピレシュとミシスに手を引かれるノエリィが振り返って、太陽のような笑顔で言いました。
ええ、そうね――……
安らぎに満ちた胸のなかで、ハスキルはささやきました。お腹がすいたら、また帰ってらっしゃい。三人で、一緒に……。
〈『聖巨兵カセドラ 第2巻 緑のフーガと銀のワルツ』 終〉
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