3 わたしの命綱
文字数 6,598文字
「うん、今のところは」ミシスがうなずきます。
「よいしょ、っと。これでよし」
バイクの後部に載せられた木製コンテナをロープでがっちりと固定して、ノエリィが額の汗を拭います。それから三歩後ろに退がって、黒一色で塗装された中型バイクの全貌をまじまじと眺めます。それは物資運搬や救護活動のために運用される特殊な車種で、前輪も後輪も非舗装地での走行に対応した特別製のタイヤを装備しています。
「ありがとな、ノエリィ」畳んだメモ紙を胸のポケットに入れて、グリューが言いました。
「この箱に入りきらなかったら、そのリュックで足りるよね?」ノエリィは青年が背負っているリュックサックを見やります。
青年は軽く飛びはねるような仕草をして、アシカでも詰め込めそうなほど大きなリュックを揺さぶります。「前の時もどうにか収まったからな。今度もきっと大丈夫だろ」
少女たちはうなずきます。
朝からずっと緩慢に吹き続けている生ぬるい荒野の風が、飛空船側面の通用口の前に立つ三人の体を撫でていきます。天候はもう何日も変わらずうんざりするほどの晴天続きで、地表は
青年がゴーグルを装着しているあいだ、ノエリィはやけに神妙な表情でバイクのハンドルを撫でました。そしてぱっと顔を上げます。
「これ、わたしにも乗れるかな」
グリューとミシスは顔を見あわせ、まるで誰かの寝言でも耳にした人のように、ぽかんとします。
「え、あぁ……そりゃ、練習したらそれなりに乗れるようにはなるだろうけど」グリューが戸惑いながらこたえます。「まさか、乗る気?」
ノエリィはあっさりとうなずきます。「実は前から乗ってみたいって思ってたんだ」
「だっ、だめだよ、ノエリィ」ミシスが声をうわずらせます。「危ないよ」
「えー。そう思う?」ノエリィは首をかしげます。「別に、平気だよね?」
「ん~」青年は両の眉でへの字を作ります。「まぁ、気をつけて運転すれば、ねえ……」
「それにわたしが運転できるようになったら、買い出しをグリューにだけ頼らなくてよくなるじゃない。そうなればグリューの自由な時間がもっと増えたり、しっかり眠れるようにもなるよ」
「あ~……」ふいに目を丸くした青年は、ちらりと空を見あげます。「それは、そうだな、けっこう……助かるかもな」
「ノエリィ。なんで急にそんなこと言いだすの」心配顔のミシスが問い詰めます。「こんな物騒なものに乗って、転んだりなにかにぶつかったりしたら大変じゃない」
「もう、なによぉ」ノエリィが呆れて笑い、心配性の少女の肩をぱしっと叩きます。「お母さんよりお母さんらしいこと言うんだから、ミシスったら。それに、自分はバイクなんかよりよっぽど物騒なものに乗ってるじゃない」
「ははは……」グリューが思わず苦笑します。そしてすぐに申しわけなさそうにうつむきます。「あ、ごめんミシス。きみはカセドラに乗りたくて乗ってるわけじゃないのにな」
「そんなことどうだっていいよ!」ミシスが本心からどうでもよさそうに切り捨てます。「今はノエリィが危険な目に遭わないようにすることが大事でしょ」
「でもさ、きみが言うほど危ないもんでもないぜ」青年は恐縮しつつ説明します。「こいつはかなり安定感のある型だし、悪路を飛ばしさえしなけりゃ、馬やロバより安全なくらいだよ」
「へぇ、そうなんだ」ノエリィがさらにその気になって瞳を輝かせます。「それを聞いて、なおさら乗ってみたくなったよ。ね、今度わたしに乗りかたを教えてくれる?」
ミシスがぎろりとグリューの顔を睨みつけます。しかし青年はそちらの方は極力見ないようにして、咳ばらいを一つすると、ささやくように返事をしました。
「……そんじゃ、まぁ、今度ね」
「きっとだよ!」ノエリィが青年に詰め寄ります。
「う、うん。きっとだ」
そう言うと、青年は背中に深々と突き刺さる非難の視線から逃れるように、慌ててバイクにまたがりました。
「とりあえず、今日のところは行ってくるよ」
「グリュー」ミシスが冷徹な声で呼び止めます。
「はい?」青年が振り向かずに返答します。
「カネリアの鉢植え、忘れないでね」
「あ。うん、了解」
手を振る少女たちに見送られ、バイクは周囲を警戒しつつパズールの町めがけて走りだしました。
駆動装置のにぶい振動音が遠ざかり、車体がなだらかな丘陵の向こう側へ吸い込まれて見えなくなると、ミシスが途端に眼光を鋭くしてノエリィに迫りました。
「ねぇ。どうしてわざわざ危ないことしようとするの」
「だから心配しすぎだってば、ミシスは」
ぷりぷりと立腹する少女の頬を、ノエリィは両手で包んでなだめます。そして首を横に倒して愛嬌たっぷりの笑顔を作ると、すばやく踵を返して通用口のドアへと向かいます。そうしながら、振り返らずに呼びかけます。
「あのさ、午前中は勉強がんばったし、お昼はなにかおいしいもの作ろうよ。あ、マノンさんとレスコーリアも食べるかなぁ」
「もお。ごまかさないでよね」
低い声で唸ると、ミシスは肩を怒らせたままノエリィに続いて船内に戻りました。
一階の調理室へ足を踏み入れると、二人は改めて食料や調味料の備蓄を点検しました。
「やっぱりけっこう減ってるね。どれもあんまり残ってないよ」戸棚を開け閉めしながらミシスが言います。
「この人数で毎日三度食べてたら、そりゃ食材なんかすぐになくなっちゃうよね」ノエリィが調理台に腰を預けてうなずきます。「それにしてもさ、ここっていつ来てもすごく綺麗に整頓されてるよね」
「今わたしも思ってた」
同意しつつ、ミシスは室内を見渡します。各種料理道具はぴかぴかに磨かれ、壁や棚に均一の間隔を保って整列しています。保存食や調味料の詰まった色とりどりの瓶や缶は、まるで宝石店の商品のようにガラス戸のなかに陳列してあります。そして驚くべきことに、人目に触れることのない木箱のなかに収められた穀物類までもが、緻密に組みあげられたパズルのようにぴしっと並べられています。
「けっこう軽い感じの人なのかなって思ってたけど、グリューってああ見えてものすっごい几帳面だよね」小さく苦笑しながら、ノエリィが木箱の蓋を閉じました。
「だからマノンさんもあんなにグリューを頼りにしてるんだろうね」
「きっとそうだね。なにしろ、助手くんに比べてお師匠さんときたら……」
二人は保存庫に残っていた卵やチーズ、それに干からびかけたパンを使ってサンドイッチをいくつも作り、一緒に船の二階のマノンの部屋まで運びました。けれど扉をノックして返事を待っても、一向に誰の声も、物音の一つさえも返ってきません。
念のためそのままもう少し待っていると、そろりそろりとドアノブが回り、頭のてっぺんで無造作に髪をまとめた部屋の主がその身を外へ滑り出してきました。
少女たちは首を傾けて、マノンの背後をのぞき込みます。
室内を一瞥した途端、「足の踏み場もない」というお決まりの慣用句が、二人の脳裏に否応なく立ち現れました。
床も、ソファも、ベッドも、机も、積み上げられた資料や書籍、それに計算式や図形や文字がめちゃくちゃに書きつけられた無数の紙きれで、びっしりと覆い尽くされています。窓のカーテンは九割がた閉じてあり、そのわずかな隙間から差し込む鋭利な夏の光が、部屋に漂う埃の粒子を粉雪のように浮かび上がらせています。
「やぁ、二人とも。なにか用?」目の下にうっすらと
「これ作ったので、よかったら食べてください」ノエリィがサンドイッチの入った包みを手渡します。
「ありがとう。ちょうどそろそろお腹が空きそうだなぁって感じてたところなんだ」またもや小さな声で、マノンが礼を言います。
「声、どうかしたんですか?」つられて自分も小声になってミシスがたずねます。
マノンは無言で首を振り、親指をくいと曲げて部屋の奥を示します。少女たちが首を伸ばしてそちらへ目を凝らすと、机の上に散乱する書類や筆記具やコーヒーカップの狭間に、一冊の分厚い本をベッド代わりにして眠っているレスコーリアの姿が見えます。窓から射す光がちょうどその丸くなった小さな体に注がれていて、そこだけまるでなにかの神話かおとぎ話を題材にした演劇の一場面のようです。
三人は顔を見あわせて微笑しました。
「かわいいねぇ」ミシスが吐息をつきます。
「ああしてればね」マノンが苦笑します。「でもご存知のとおり、寝てるとこ起こしたら悪魔になるからね」
「たしかに」
これまで何度かそういった現場に直面してきたノエリィとミシスは、一緒に口を押さえて肩を震わせます。
「でも、ちょうどよかった。これ、彼女のぶんです。起きたらあげてください」
小さな包みを差し出してミシスが言うと、マノンはそれを受け取ってにっこり笑い、静かにドアを閉めました。
その場を離れると、二人は食事をする場所を探してあてもなく船内をうろつきました。そしてなんとはなしに、リディアの姿をすぐ目の前に見られる二階の通路に腰を落ち着けました。岩壁を通して届く昼下がりの射光が、沈黙するリディアの碧い鎧と仮面を左右からぼんやりと照らしています。
床にブランケットを敷いて、その上に紅茶のポットとサンドイッチの包みを並べると、二人は通路の
「おいしいね」ミシスが顔をほころばせます。
味つけを担当したノエリィが満足げにうなずきます。「お母さんの味を真似したんだよ」
「やっぱり。そうだと思ったんだ。ハスキル先生たちも、今ごろお昼かな」
「そうかもしれないね。学校がある時だったら、ちょっとお昼休みを過ぎたくらいの時間だけど……」
「学校、早く元通りになったらいいね。次はいつ先生とお話しできるかな」
「マノンさんも前に言ってたけど、そうしようと思えばいつでも連絡はつくんだよね。でもお母さんも忙しいだろうし、コランダム軍の監視もまだ続いてるみたいだし……」
「久しぶりに先生の声、それにピレシュやゲムじいさんの声も、聴きたいなぁ」
「わたしも」ノエリィがそっとうつむきます。「ピレシュのあのきりっとした声を聴かないと、なんだか張りあいがないんだよねぇ」
「それ、わかる」ミシスが吹き出します。
それから二人はしばらく言葉を引っ込めて、無心で母譲りの味を堪能しました。
「あ~、おいしかった。ごちそうさま」食後、マグカップに注いだ熱い紅茶をすすりながら、ミシスが幸福そうに言いました。「グリューはシェフ顔負けの腕前の持ち主だし、ノエリィは先生直伝の腕を振るってくれるし、わたしはこの船のごはん事情についてなんの不満もないよ」
「ふふ。最初はわたしも悲惨な食生活が続くのを覚悟してたけど、今じゃけっこう気に入ってる」
少女たちはポットを空にすると、並んでごろりと横になりました。ほっそりとした脚が四本、通路の柵の隙間から外に突き出されて、格納庫の宙でぶらぶらと揺らされます。
「ねぇミシス」ノエリィが天井を見据えながら口を開きました。「リディアに乗るの、怖くない?」
「怖くないよ」ミシスは即答します。「前にも言ったけど、最初にリディアと繋がった時に、もうぜんぶの覚悟は決まっちゃったみたい。あれ以来一度も、悩んだり後悔したり怖気づいたりっていうことは、ないよ」
「そっか」ノエリィは肩から少し力を抜きます。「……でもさ。あの時わたしは気を失ってたから、なにも覚えてないんだけどさ。その、リディアって、普通のカセドラじゃないんでしょ」
ミシスはうなずきます。「そうだよ。詳しいことはわたし自身まだよく知らされていないんだけど……リディアは、
ノエリィは上体を起こし、物言わぬ巨兵の横顔をじっと見つめます。「ってことは、手を使わずに物を動かしたり、すごい距離を飛び跳ねたり、そういう、人間の顕術士やアトマ族の人がやるようなことを、この大きな体でできるってことなんだよね。そして、ミシスはその力を……」
ミシスも体を起こします。「うん。わたしは、たしかにあの日、この子に乗ってその力を使った」
話しながら、少女はその日のことを思いだします。
数奇な運命が重なって戦場と化した、あの丘の広場の光景。
大切な人たちとその居場所を守るために、歴史上一度も存在を確認されたことのなかった
そして、今まさに隣にいる親友の危機を救うため、怒りに任せた強暴な顕術を発動して相手を叩き潰したこと……。
しかしミシスは、その時に自分がおこなったことを、なにからなにまで鮮明に覚えているわけではありませんでした。それどころか、当時のことをしっかり思いだそうとしても、まるで自分の意思に関係なく勝手に体が動きまわるのを遠くからぼんやりと眺めていたような、ごく曖昧な記憶しか残されていませんでした。
「またそんなふうになったらって考えると、不安じゃない?」ノエリィがたずねます。
「不安がまったくないって言ったら、嘘になるよ」ミシスは正直に告白します。「でもだからって、もう二度とリディアに乗りたくないとか、ここから逃げ出したいとかっていう考えは、一つもないんだ。ノエリィも知ってのとおり、カセドラって、最初に乗った人にしか動かせなくなるから……リディアと一心同体になったわたしは、ずっとこの子と一緒に生きていくしかないんだもの」
「うん……」ぐっと喉を閉じて、ノエリィは黙りこくりました。
「それにさ、まだちっとも実感が湧かないけど、今ではわたしたちも軍属みたいなものなんだもんね」ミシスがおどけてみせます。「それもなんと、国王さまから直々に与えられた極秘任務に就いているだなんて。だけど考えてみたらわたし、まだ陛下のお顔さえ知らないんだよ。なんだかおかしな話だよね」
「ほんとだよね」ノエリィも苦笑します。「ところでさ、この頃ミシスずいぶん早起きだけど、
「ううん」ミシスは首を振ります。「だって、わたしからお願いしたんだもん。いつどんな時でも落ち着いてリディアを動かせるように、毎朝起動の訓練をやらせてくださいって。最初のうちはマノンさんもグリューも、また顕術が暴走するかもしれないからって、ちょっと及び腰だったけど……それでも、ちゃんとわたしの申し出に応じてくれた。わたしね、空気が澄んでる早朝が、いちばん心が静かになるの。だからいつもその時間に、リディアに乗るんだ」
「ありがとう、ミシス。あの時、わたしを助けてくれて。そして今も、毎日わたしたちを守るためにがんばってくれて」
一つに束ねた髪をふわりと振って、ミシスはノエリィの手に自分の手を重ねました。
「わたしがそうしたいからそうしてるだけだよ。わたしこそ、ノエリィがわたしと一緒にいてくれて、本当に嬉しいし心強い。わたし一人だったら、きっとものすごく心細かったと思うから。やっぱりノエリィは、わたしの
ノエリィはくすっと笑います。「なんなの、それ? たしか前にもそんなこと言ってたよね。あれは、学校の新学期が始まった日のことだったっけ。いったいどういう意味なの?」
「言葉どおりの意味だよ」ミシスは笑顔で立ち上がります。「――さて。午後はなにをするんだっけ」
「えっと……そう、運動だったね。あ、でも」ノエリィは思いついたように人差し指を立てます。「今朝、掃除のついでに貯水槽を点検してきたんだけどさ。いつの間にかだいぶ残量が減ってて、今夜にはまた川に飛ばなきゃいけなさそうだったの。だけど見た感じ、今夜の料理や飲み水に使うぶんだけでも補充できたら、給水は明日に延期できそうなんだ」
それを聞いてミシスはすぐさま事情を把握しました。「買い出しから帰って疲れてるところに船の操縦まで頼んだら気の毒だもんね。今夜使うぶんくらい、わたしたちで汲みに行こう」
「うん。それに、ただそのへんを走りまわるより面白そうだし、良い運動にもなるよ、きっと。午後は川へ行こう」
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