18 海嘯
文字数 3,938文字
格納庫に収容したフィデリオの操縦席から飛び降りるなり、ライカ・キャラウェイは吐き捨てました。震える拳が虚空を打ち据え、間近に待機していた部下の兵士たちはすっかり縮み上がってしまいました。
操舵室から続く階段を、松葉杖と手摺を使ってレンカ・キャラウェイが一歩一歩慎重に降りてきます。階下にいた兵士たちが慌てて駆け寄りますが、彼女はそれを邪魔くさそうに払いのけます。
「姉さん、平気?」
「平気もなにも、私はなに一つできやしなかった」ライカは歯噛みします。「レンカ、わざわざ降りてこなくてもいいんだぞ」
「どうってことないって言ってるでしょ、これくらい」
その直後、レンカに続いて操舵室から出てきた兵士の姿を階上に認めるなり、ライカが大声で問いただしました。
「連中、追ってきてはいないか」
軍服に身を包んだ兵士が首を横に振ります。「はい、目標にこちらを追尾する動きは見られませんでした。おそらくもう別の場所へ移動を開始しているものと思われます」
「よし。一応警戒は解くな」
「了解しました」
フィデリオの眼下に立ち、その仮面を静かに見あげ、ライカは徐々に呼吸と精神を鎮めます。
「この一ヵ月間、
「しょうがないよ」隣にやってきたレンカが言います。彼女は姉に手を貸りて、巨兵の載る台座に背を預けます。「今夜のあれは、さすがにどうしようもない。まったく想定外だったよ、まさかあんなやつが来てたなんて。……ねぇ、あれってやっぱり、ミシスがやったんじゃないよね」
「ちがう」ライカはきっぱりと否定します。「あれは、あの甲板に立っていた人物は、おそらく王国騎士団〈浄き掌〉のクラリッサ・シュナーベルだ」
「シュナーベル!」レンカが目を見開きます。「あの顕術騎士団の、シュナーベル家の人間か」
「そうだな?」
「はっ。先程照合、確認しました。あの人物はシュナーベル卿の息女にまちがいありません」少し離れた場所に待機していた兵士がこたえます。
「そうだろうとも」ライカが小さくため息をつきます。「あの一族の他に、あれほどの顕術を使う者はそうそういない。それも、あんな歳の女性で」
「たしかあの騎士団の今の団長って、あの娘の兄貴の……なんて言ったっけ」レンカが眉根を寄せます。
「リヴォン。リヴォン・シュナーベルです」兵士がこたえます。
「そうそう。世界最強の顕術士と謳われる、シュナーベル家の跡取りだったね」うんざりした顔でレンカはかぶりを振ります。
「なぜあれほどの実力者が、わざわざ補給ごときに出向いてきたのか……」ライカが腕を組んでつぶやきます。「これは、やはり……」
「そうだね」レンカが松葉杖を退屈そうに揺らします。「私たちの推測は当たってたみたいだね。例の新型、中枢でも極秘扱いなんだよ。軍内部でさえ関係者以外に存在を知られちゃいけない事情があるんだ。そうでなきゃとっくの昔に王都に帰ってるか、どこか適当な基地に身を寄せるなりしてるはずだし、わざわざあんな上層の人間が出てくるなんてこともないもんね」
「だろうな」ライカがうなずきます。「これは、いよいよ是が非でもあのカセドラを
「まあ、また次があるわよ」レンカが肩をすくめます。「騎士団の副団長なんかが出てきたとなったら、私たちが遭遇したのがただの新兵器を備えたカセドラなんかじゃないってこと、きっと将軍たちも信じてくれるはず」
「もとよりゼーバルト将軍は私たちのことを疑ってなどおられないさ」ライカはふいに微笑を浮かべます。「〈コリオラン〉の尋常ではない損壊状況と、あの丘に残された異様な破壊の現場を視察されて、なにかただならぬ力が用いられたにちがいないと、将軍もご判断くださっている。しかし……」
「元老院の連中ね」唾を吐くようにその名を口にすると、レンカは露骨な侮辱を込めてしわがれ声を演出します。「我らが新国家の地盤を固めねばならんこの重要な時期に、そのような馬鹿々々しい報告を真に受けてこれ以上の兵と船を出せるものか! ってね」
「仕方あるまい」ライカが苦笑します。「自分の目で見たのでなければ、とても信じられるようなものではないからな」
「……ねぇ。やっぱりさ、あれって……顕術、だったのかな」遠くのものに焦点を合わせるような目つきをして、レンカがたずねます。
「さぁな」姉は首を振ります。「顕術を使うカセドラなんて、そんな夢みたいな話、冗談でも聞いたことがない。まさに空想世界の産物だ」
「そうだよね。カセドラみたいな無生物が、人間やアトマ族みたいにイーノを操るなんて……」
「だがあの碧いやつは、それとしか思えないことをやってのけた」
二度と元通りに動くことのなくなった片方の脚を見おろして、レンカは低い声でつぶやきます。「そう。どんなにありえないような話であっても、私たちは実際にその力をこの目で見たし、この身で受けた。それだけは、なにがあろうと、たしかな事実」
「そのとおりだ」ライカが手を差し伸べます。「今夜のことを複数の兵士たちの証言と敵機を捉えた写真を揃えて報告すれば、将軍も少しは元老院の連中から私たちの方へ回す兵力を引き出しやすくなるはずだ」
「そうでなきゃ困るわよね」レンカは姉の手をつかんで身を起こします。
妹に肩を貸したライカは兵士の一人を呼び寄せて、今夜はこのまま
敬礼をして操舵室へ上がっていく兵士の背中を見送りつつ、姉妹は格納庫の奥の休憩室へと向かいます。
「ところで、呼んでおいた増援はどうなったんだ」歩きながらライカがたずねます。
レンカは嘲笑うように鼻を鳴らしました。「さてね。あののろまども、今どこを飛んでるんだか。たぶんあいつらが着く頃には、夜が明けてるわ」
「そう言ってやるなよ」姉は首をすくめます。そしておもむろに眉をひそめます。「まったく、母国の武装は完全無欠とはいえ、こうも地方の勢力が手薄ではな……」
「それよね、ほんと。あちこちに自由に動かせる部隊と飛空船さえあれば、あんな科学屋と子どもの寄せ集め連中なんか、一網打尽なのに」
「やはり我が軍の第一の課題は、拠点と軍備の拡大増強にある。ゼーバルト将軍がいつもおっしゃっているように」
「でもそうは言っても、どこもかしこも王国軍の目が光ってるからねぇ」レンカが顔をしかめます。「やっぱり、あの連中を抱き込んでいくのが妥当なのかな。私は正直、ぜんぜん気が進まないけどさ」
「同感だ」ライカが強くうなずきます。「だが、あの手の理想主義者たちは、その理想を体現する統率者に対してはどこまでも従順になるものだ。こちらが統制を働きかける対象として、これほど扱いやすいものはない」
「磨けば使えるかもしれないってことね」
「そういうことだ」
二人は休憩室へ入り、丸窓の前に置かれたカウチに並んで腰をおろしました。すぐに部下が気をきかせて冷水の入った水差しと氷の入った銀のペール、それにグラスが二つと未開封のブランデーが一本載せられた盆を持ってきました。コーヒーテーブルに置かれたそれを見やって、レンカが姉に声をかけます。
「一杯やる?」
「やりたい時間だが」ライカがふっと笑います。「やめておく。水でいい」
「じゃ私も」
二人は共に喉を鳴らして水の注がれたグラスを
「〈緑のフーガ〉か」小指の背で唇を拭いながら、ライカが思わしげにつぶやきます。「私たちの祖国の森をその目で見たこともない連中がほとんどだろうに、よくもそんな知ったような看板を掲げたものだよな」
妹は冷笑をもってそれに同意します。
グラスを盆に戻すと、ライカは上体をねじって窓に顔を近づけました。果てなく広がる星空と、暗闇に沈む険しい山々とを、しばらく無心で見渡します。妹もそれに
「あいつら、きっと次も死ぬ気で逃げるだろう」ライカがぽつりと言いました。
「まだ逃げるかな。いい加減、おうちに帰りたくなったんじゃないの」
「ここまで来て今さら帰れんだろうさ。それに現状の王都に機密を抱えたまま帰投することなど、どうあっても許可が下りんだろう」
小さくうなずくと、レンカは手を伸ばしてグラスのなかに氷を一つ入れました。そしてそれを口に放り込み、がりがりと噛み砕きました。
「さあ、姉さん。これからどう出よっか?」
「追いつかれる恐怖を知った連中だ。この次はちょっとやそっとでは捕捉できまい。とはいえ、やつらにも限界がある。あれほどの図体でいつまでも逃げ隠れできるものではない。事を急かずとも、私たちの勝機が潰えることはそうそうあるまい。こちらは今一度態勢を立て直して、今後の策をじっくり練ろうじゃないか」
「そうね」レンカが氷を飲み下します。「どうせあいつら、またどこかでへまをやらかすに決まってるよ。あんな兵法もろくに知らない素人ども……」
「ああ。根比べはいつまでも続きはしまい。常に自由に動きまわることのできる私たちには、圧倒的な地の利がある。必ず仇はとるさ」姉が妹の脚を、そして顔に刻まれた傷跡を見つめながら、静かに語ります。
「うん」レンカがこっくりとうなずきます。「必ずね」
それきり二人は口を閉ざして、刻々と移り変わってゆく地上の光景を共に眺めました。一心同体として生きてきた姉妹ならではの親密な静寂が、いつまでも続きました。
やがて飛空船の進行方向の彼方に、彼女たちの故郷の広大な森が、まるで陸のすべてを覆わんとする
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