24 大切なお客さま

文字数 8,373文字

 予定どおり、特務小隊の一行を乗せた飛空船は、夜闇の最も深い頃合にパズールの上空に差しかかりました。
 船体外装を星空に擬態させて都市上空を通過するあいだ、操縦桿を握るグリューと、計器盤の上でクッションを抱いて眠るレスコーリア以外の乗組員たちは、それぞれ窓辺に立って下界を眺めました。
 さすがにこの時刻には市街地の明かりの大半は落とされ、町ぜんたいが深い夜の静寂(しじま)に浸っています。港のあたりだけは早朝の出港の支度をする漁船団の灯火で煌々と輝いていますが、それも空高くから見おろすと、ほんの小さな光の点の集まりにしか見えません。
 港の喧騒を肌身ではっきりと記憶しているミシスは、こうやって空から眺めるパズールの町は、自分がこの足で歩いたパズールとはまったく別の町のようだと感じていました。露店の呼び込みに驚いてノエリィと一緒に駆け抜けた港通りも、今は墓場のように静まり返っています。
 地上から自分たちの船がどう見えているのかたしかめる手立てはありませんが、それでも一行は誰の目にも留まることなく都市圏を突破できたのではないかと、ほぼ確信していました。上限ぎりぎりの高度を飛んでいるし、揚力装置や推進装置の駆動音も地上には届いていないはず。仮に届いていたとしても、あの町の住人たちなら、きっと海のざわめきの一部だと思ってくれるにちがいない。全員、そんなふうに考えていました。
 またたく間に沿岸部を後にし、空飛ぶ船は茫洋とした暗黒の海へと至ります。
 ミシスとノエリィ、それにクラリッサは、船尾の方を向く窓の前に並び、遠ざかってゆく町の明かりを見送りました。
 こうして、地上に人の灯す光が一切存在しない、黒い空と黒い海に支配された広大無辺の領域に、飛空船は突入していきました。
 頼りになるのは、天空いっぱいにまたたく星々と月の光、船に備わる各種計器類、そしてベーム博士の島にしるしの描き込まれた地図だけです。
「何事もなく町はやり過ごせたと見てよさそうだね」マノンがグリューの背後に立って言いました。
「ええ。このまま島まで突っきりますよ」操縦桿をつかむ手をゆるめることなく、青年がこたえました。
「広いね、海……」窓に両手をついてミシスがつぶやきました。
 隣でノエリィがうなずきます。「ほんと。でも、ここまで真っ暗だと、なんだかぞっとするね」
「昼の海に、夜の海の深さがわかるものか」さらにその横で、クラリッサがぽつりと言いました。
「え? なんですか、それ」ミシスが首をかしげます。
「こないだ読んだ小説に書いてあった一節よ」クラリッサは本のページをめくるような仕草をします。「今、急に思いだしたの」
「へぇ……」窓に額を押し当てて、ミシスは眼下に目をやります。「なんか、わかる気がします。その文章が言おうとしていること」
 暗い大海をこわごわとのぞき込みながら、ノエリィも小さくうなずきます。
 月と星のぼんやりとした照明を浴する飛空船は、そのままひたすら洋上の空を滑るように進み続けました。
 グリューが進路を微調整する時にかすかに床や壁が振動することを除けば、船内の環境はほとんど一定して平静そのものです。一行は長いこと口を開くこともなく、まるで沈黙する海と空に呼応するかのように、厳粛な面持ちで時の経過を見守りました。


 やがて、天体の運行の摂理に則って、東の彼方からじんわりと夜明けの気配が伝わってきました。
 まばゆい純白の朝陽が、黒に染まった世界を切り開くように、水平線の向こうから這い上がってきます。
 椅子やソファに腰かけていた乗組員たちは再び窓辺に向かい、それまでのおどろおどろしかった漆黒の海が爽やかな青に染まっていく様子を、ほっとしながら眺め渡しました。
「おはよう、みんな」マノンが一同に向かって言いました。
「はい、おはようございます」ミシスが笑ってこたえます。
 それからさらに小一時間ほど飛んだ後、夜通し前方を見据えていたグリューが初めて振り返って、隊長に合図を送りました。マノンはうなずき、計器盤に歩み寄ると、ぐっすり眠っているレスコーリアの肩にちょんと指先を触れて、おそるおそる、極めてゆったりと優しく、その身を揺さぶりました。
「着くよ、レスコーリア。起きて」
「う~ん……」
 運良くちょうど夢が終わるところだったのか、いつもは無理に起こされると強烈に不機嫌になる小さな少女は、しかし今朝はなんということもなく、至って和やかな顔つきで目を覚ましました。その様子を目にして、他の面々は揃ってこっそり安堵の息をつきます。
 羽と触角をぷるぷると震わせて背伸びをし、目を擦りながら窓の外を見渡すと、レスコーリアは小さく歓声を上げました。
「わぁ。すごいところを飛んでるのね」
 予報どおり、この日も快晴でした。
 空はどこまでも青く澄み渡り、海原の波も穏やかそのものです。四方の水平線上には夏らしいみっしりとした積雲がいくつも乱立し、翼に太陽を反射させる真っ白な海鳥の群れが、空と海の狭間に無数の光の軌跡を描いています。
「コーヒーでも淹れてきましょうか。それともなにか食べますか」ノエリィがみんなに声をかけます。
「そうしたいところだけど」グリューが地図に目を落とします。「もうじき到着するよ。……ほら。たぶんあの島だ」
 一同は操縦席の方へ詰めかけて、遥か前方に姿を現した孤島の姿を確認しました。
 青年は慎重に計器類の目盛りを確認しながら、船の速度と高度を徐々に下げていきます。
「あそこに、ベーム博士が……」マノンが息を呑むようにつぶやきました。
「まったく、こんな辺鄙(へんぴ)な場所に一人で暮らしてるなんてね。よっぽど変わった人にちがいないわ」クラリッサが肩をすくめます。
 ほぼ真下に目標の島を見おろす位置まで来ると、飛空船は速度をこれ以上は下げられないというところまで下げ、ゆるやかに空中を旋回しはじめました。
 それはどこかト音記号を彷彿させる形をした、小さな島でした。外縁部は一周ぐるりと砂浜で覆われ、島内の大部分はみっしりと生い茂る緑の樹々で溢れ返っています。その合間にいくつかの小高い丘と、まばらに点在する岩場や草地が確認できますが、ざっと見まわした感じでは、人が住んでいる気配のようなものは感じられません。
「もうちょっと降りてみて」マノンが指示します。
 青年はうなずき、ゆっくりと船を降下させていきます。
 さらに窓に顔を近づけて、一行は眼下の島に視線を注ぎます。
「ほんとにこんなところに人が……?」
 ノエリィが首をひねった直後、クラリッサが地上の一点を指差しました。
「ねぇ、ほら。あそこ、煙が立ってる」
 見るとたしかに、彼女が示した地点から、密集する樹木の隙間を縫って、ごく細い白煙が一筋、空へ向かって立ち昇っています。
「よく見つけるね、あんなの」マノンが感心します。
「発顕因子には五感の精度を高める機能があるってこと、忘れたわけじゃないでしょ」
「あっ」白煙の発生源を探っていたミシスが声を上げます。「今、樹のあいだに、建物の屋根みたいなものが……」
「こっちには、船がとめてあるよ」
 ノエリィが砂浜の一点を指し示しました。そこには彼女の指摘どおりに、わずかに洋上にせり出している木製の桟橋と、それに沿うように係留されている一艘(いっそう)の小型船舶が確認できます。
 グリューがちらりと隊長の顔を見あげます。
 マノンは無言でうなずきます。その手のひらは人知れず汗で湿り、胸の奥はどきどきと弾んでいます。
 煙が立っていて、建物の一部がかいま見えたということは、おそらくはそのあたりこそ、ベーム博士と目される人物が生活の拠点にしている場所にちがいないと、一同は判断しました。そしてその場所からいちばん近い砂浜に飛空船を降ろすよう、隊長が青年に指示を出しました。
 一行はそれぞれに身構え、じわじわと目の前に迫ってくる地表に(のぞ)みました。
「着陸します。つかまって」
 グリューの一言に従い、各自ソファや椅子に腰をおろして衝撃に備えます。
 ずしんと床の下から突き上げる震動を骨身に感じながら、特務小隊一行は空の旅を終えて大地に無事帰還しました。
「助手くん、ごくろうさま」操縦席で背伸びする青年の肩を、マノンがぽんぽんと叩きます。
「さすがの操縦だったわ、グリュー」クラリッサもそこへやって来て、青年の肩を揉みはじめます。
「そりゃどうも。でも、くすぐったいからそいつはやめてくれ」青年は身をよじって席を立ちます。
 ミシスとノエリィが労いの言葉と共に水の入ったグラスを手渡すと、青年は礼を言ってごくごくと一気に飲み干しました。
「さて。みんな、いいかい」マノンが全員の注目を呼び集めます。「レーヴェンイェルム将軍から授かった情報にまちがいがなければ、この島に僕の恩師であるドノヴァン・ベーム博士がいらっしゃるはずだ。だけど実際にこの目で見てみないことには、真偽の程は定かじゃない。まずはその確認が最優先だ。そこで、もしもの場合を想定して、まずは僕とクラリッサがたしかめにいく」
 クラリッサはこくりとうなずきます。
「助手くん、ミシス、ノエリィは、このまま船で待機。僕らが呼びに戻るのを待っていておくれ」
 呼ばれた三人は各々了解します。
 ふと、ミシスが計器盤の方を振り向いて、その上に一人ぽつんと立って触覚を揺らしているレスコーリアに呼びかけます。
「レスコーリアはどうする?」
 しかし羽をぺったりと背中にくっつけて立ち尽くす小さな少女は、なにも返事をしません。
「ねえ。どうかしたの、レスコー……」
 ミシスがさらに声をかけた、その時でした。
 しかめっ面をしたレスコーリアが、とつぜんくるりと振り返りました。
 彼女のそういった表情がもたらす(しら)せがいつも不穏な事態の発生を意味するものであることを知る面々は、一斉に顔つきを変えます。
「ごめん、みんな」レスコーリアが吐息混じりにかぶりを振ります。「風の音とか着陸の衝撃が大きくて、あたし自身も寝起きでぼうっとしてたから、今の今まで気づかなかった」
 息を潜めて、マノンが問いただします。「……なにに?」
「もう囲まれてるわ、あたしたち」
 その言葉に反応して、一同は瞬時に身を翻しました。そして操舵室の内側から外の全方位に向けて、鋭く視線を走らせます。
 けれどそこには、上空から観察したままの静かな海と、まっさらな砂浜と、島の中心へ向かって広がっている森の他には、なに一つ目立つものは見あたりません。ましてや人影など、その片鱗さえどこにもありません。
「……どこだよ」グリューが眉間を寄せます。「誰もいないぜ」
 ノエリィとミシスは背中を預けあい、互いに手を取りあいます。その二人を守るようにクラリッサが一歩前へ進み出て、じっと感覚を研ぎ澄ませます。
「殺気はない」彼女は言います。「たしかに、たくさんの微細な気配をあたしも感じる。でも、これって……」
「うん」レスコーリアがうなずきます。「人間じゃないわね」
「つまり、敵意を持たない人ならざる複数の小型の対象に包囲されてる、ってことかな」マノンがたずねます。
「そうよ。これは――」
 レスコーリアが口が開くのと同時に、甲板に出るための扉の方から、

と音がしました。
 小石か甲虫(こうちゅう)かなにかが飛んできてぶつかったような、ほんの些細な物音でした。神経を張り詰めていた一行は、それでもぎくりと身を震わせて反応しました。
 音の出処である小型の扉だけは、まわりの透明なガラスの壁面とちがって金属を主材としているため、その向こう側を見通すことができません。扉の外側の面は船体とおなじく赤紫色に塗装されていますが、内側には一面に分厚い茶色の革が張ってあります。あくまで甲板に出る用途を果たすためだけにある扉なので、窓や扉穴のたぐいも取り付けられてはいません。
 一行は揃ってその扉に見入ります。
 クラリッサが片手を軽く持ち上げ、手のひらの照準を前方に定めながら、二、三歩踏み出します。
 そこでまた、こつんこつんと、今度は立て続けに二度、先程とおなじ物音が響きました。
 マノンがクラリッサの前に出て、ゆっくりと扉へ近づきます。
 取っ手に触れる前に、彼女は外にいる何者かに対して呼びかけるつもりでいました。
 しかしその声を発する寸前に、レスコーリアがぴょんと飛び上がってグリューの頭に腰かけ、何の気なしに言いました。
「みんな、そんな怖い顔することないよ」
「へっ?」ノエリィが拍子抜けしたように息をもらします。
「ごめんくださいな」扉の外にいる何者かが、内側へ向けて声をかけてきました。華やかで艶のある、一聴して少女のものとわかる声音です。「ねえ、そこにいるんでしょ? こっちは忙しいんだからさ、早く開けてちょうだいよ」
「あれ?」ミシスが目を点にします。「この声の感じって……」
「アトマ族?」ノエリィがぽかんと口を開けます。
「そういうこと」レスコーリアが肩をすくめます。
 突き出していた手をそっと降ろし、クラリッサが吐息をつきました。マノンは青年の方を振り返り、その頭上に向かってたずねます。
「開けても平気?」
 当たり前でしょと言わんばかりに、レスコーリアはうなずきました。
 一度全員に目配せしてから、マノンはそっと扉を引き開けました。
 そこには一同が予想したとおりに、一人のアトマ族の少女が宙に浮いていました。
 風に流れるような形に短く刈られた、明るい桃色の髪。金糸で花模様の刺繍が施された、焦茶色のワンピース。そしてどういうわけか、腰には年季の入ったエプロンを巻き、手には調理道具のお玉を持っています。長く濃い睫毛の奥で萌黄色(もえぎいろ)の瞳をきょろきょろと動かして、彼女は乗組員たちの顔を順々にたしかめていきます。
 そして、ある一人に向けてぴたりと目線を定めます。
「ルビーみたいに真っ赤な髪の女の子」お玉を手にした正体不明の少女は、まさにその言葉どおりの身体的特徴を持つマノンの姿をまじまじと眺めました。「あなたしかいないわね。するとあなたが、マノン・ディーダラス博士」
「なぜ僕の名を?」マノンはたじろぎます。「きみはいったい……」
「へえ。操縦席ってこうなふうになってるんだ」再びめまぐるしく視線を巡らせて、小さな少女は唸ります。「新聞とかラジオで話には聞いてたけど、ほんとにこんな大きな船を飛ばしちゃうんだ。すごいなぁ。博士がいつも褒めるわけだわ」
「えっ」マノンが目を見開きます。「博士って……じゃあやっぱり、ここに……」
 お玉をくるりと振りかざし、人懐っこい笑顔を浮かべて、小さな少女は空いている方の手をマノンに差し出します。
(そら)のイーノが大騒ぎするから、しばらく前からあなたたちがやって来るのを感知していたわ。それでわたし、あの人にお願いされたの。これから私の大切な友人が訪ねて来るから、丁重にお出迎えして差し上げてって」
 マノンは手を差し出し、自分に向かって開かれている小さな手のひらを指先でちょっとつまみ、それを握手としました。
「わたしの名前はプルーデンス」アトマ族の少女が名乗ります。「ドノヴァン・ベーム博士と一緒にこの島で暮らしているの」
「僕はマノン・ディーダラスだよ。きみが推察したとおり」マノンは微笑します。「はじめまして、プルーデンス」
「ね、なんでベーム博士はあたしたちが来ることわかってたの?」まるで昔からつきあいのある相手に対するような口調で、レスコーリアがたずねます。
 プルーデンスもまた、気の置けない口ぶりでこたえます。「さあね。なにしろ頭の良いじいさんだから、いろんなことに気がつくみたいね」
「じ、じいさん……」ノエリィが小さく吹き出します。
 そっと指先を離してマノンが言います。「どういうことかよくわからないけど、それなら話が早いよ。僕たちはベーム博士に助力を求めるためにここまで来たんだ。プルーデンス、僕らを博士のところへ案内してくれるかい?」
「だから、そのために来たのよ、わたし」腰に手を当ててプルーデンスが言います。「連れてってあげるからついてらっしゃいな。あ、それと……」
「ん? なにか?」
「ちょっとこの部屋のなか、見学させてもらってもかまわないかしら?」
「え」突然の申し出に、マノンは少々面食らいます。「まぁ、うん……この部屋のなかだけなら。見るくらい、ね?」
 助手の青年に同意を求めると、彼もまた若干困惑しつつうなずきます。「ええ、いいんじゃないですか。ここだけなら……」
「そう。よかった」プルーデンスはにこりとします。そしておもむろに空を仰いで、大声を発します。「みんなぁ。入っていいってさぁ」
 その呼びかけに応じて、ぶんぶんと羽を震わせるアトマ族の幼い子どもの一団が、歓声を上げながら操舵室に雪崩れ込んできました。
「わぁ~~い!!
「なっ……」特務小隊一行は揃って言葉を失います。
 グリューの頭上に向かって、ミシスが小声でたずねます。「ね、ねえ、敵意を持たずにわたしたちを包囲している人間じゃない集団って……」
「そういうこと」レスコーリアが首をすくめます。
 見ると、突如として操舵室に押しかけてきたアトマ族の子どもたちは、みんなお揃いの小麦色のワンピースを身に着けていて、髪の色もやはり一人残らずまったくおなじ橙色(だいだいいろ)です。女の子三人に男の子二人の計五人の子どもたちは、全員その顔立ちも体つきも判別不可能なほどそっくりです。
「ほらほら、触っちゃあ、だめだよぉ」操縦桿を二人がかりでぐいぐいと押し込もうとしている男の子たちを、グリューが穏便に注意します。
「いたたた……」女の子たちに髪の毛や耳たぶを引っぱられるミシスとノエリィが、くすぐったそうにうめきます。
「この子たちも、きみや博士と一緒に暮らしてるの?」マノンが目を回しながらたずねます。
 プルーデンスはうなずきます。「そうよ。この五つ子たちと、わたしと、それにベーム博士の、七人家族。さぁみんな、もうそのへんにしときなさい!」
「はぁ~い」
 意外なほど聞き分けよく返事をして、子どもたちはプルーデンスのもとに集合しました。
「いい? これからこの人たちを、わたしたちのおうちまでお連れします。博士の大切なお客さまだから、みんなでしっかりご案内して差し上げましょう」
「はぁ~い」
「さっ、行きましょ」プルーデンスが手を振って特務小隊一行を招きます。「急いでちょうだいね。朝ごはんの支度の途中だったんだから」
「あぁ、それで……」ミシスが小さなお玉やエプロンを見やります。
 密かに表情を曇らせたマノンが、ちらりと操縦席の方を一瞥しました。その様子に気づいたレスコーリアが、彼女に向かって笑いかけます。
「だからそんな難しい顔しなくたって平気だってば。この島からは、塵一つぶんの邪気も感じられない。みんなで船を離れても絶対大丈夫」
 マノンはふっと頬をゆるめ、大きくうなずきます。「よぉし。それじゃ、みんなでベーム博士に会いにいこう」
 一行は連れだって船外へ出ました。念のために船のすべての出入り口は厳重に施錠し、光学迷彩装置も稼動させたままにしておくことにしました。外から眺めると、現在のレジュイサンスは砂の白と海の青の二色とに、見事なほどくっきり塗り分けられています。
 砂浜に一歩降り立った途端、じりじりと肌を焼く陽射しと熱くざらついた潮風が、各人の体を包みました。
 甲板から直接砂浜に飛び降りて客人たちを待っていたプルーデンスと五つ子たちは、客人の一行が慣れない砂地をよろよろと進むのをじれったそうに待っています。
「では、案内をお願いします」鼻の頭に汗を光らせて、マノンが一礼します。
「はいはい、駆け足で行くわよ」プルーデンスが軽やかに羽を広げます。
「わ~」子どもたちはあっという間に森の方へ飛んでいきます。
 砂に足をとられながら、マノンはプルーデンスにたずねました。「博士は今なにをしておいでなんだろう? きみたちに案内を頼んだってことは、お忙しいのかな」
「ううん」プルーデンスは首を振ります。「あ、いや、忙しいと言えば忙しいのかな。博士は今、お風呂を沸かしてるわ」
「風呂」呆然とグリューがくり返します。「なぜ今、風呂を……」
「きっと長い逃避行で疲れきっているであろう友人たちをもてなすため、だってさ」
 一瞬絶句してから、マノンはふっと苦笑しました。そして後ろを歩いている少女たちを振り返ります。
「よかったね、みんな。やっとゆっくりお風呂に入れるね」
 森のなかへと踏み入りながら、最後尾を歩くグリューの頭の上のレスコーリアが、お尻の下に向かって小さな声で話しかけました。
「あんなに素直に嬉しそうなマノン、ハスキル先生と再会した時以来ね」
「だな」青年は笑ってこたえました。
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登場人物紹介

◆ミシス・エーレンガート


≫主人公。エーレンガート家に家族の一員として迎え入れられ幸福な日々を過ごしていたが、思わぬ形でコランダム独立の騒乱に巻き込まれ、ノエリィと共に丘の家から旅立つことになった。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫ミシスの親友であり家族でもある心優しい少女。望まぬ形で軍に連行されるミシスを独りにさせまいと、ほとんど押しかけるようにして〈特務小隊〉の一員となる。

◆マノン・ディーダラス


≫本職は科学者であり発明家だが、カセドラ〈リディア〉を守護するため急造された部隊〈特務小隊〉の隊長を務めることになった。同隊が移動式拠点として利用する飛空船〈レジュイサンス〉も、彼女の発明の賜物。

◆グリュー・ケアリ


≫マノンの腹心の助手。彼女に付き従い、ホルンフェルス王国軍極秘部隊〈特務小隊〉に所属する。飛空船での暮らしにおいては、もっぱら料理係と操縦士の役割を務めている。

◆レスコーリア


≫マノンたちに同行するがまま、〈特務小隊〉に加わることになったアトマ族の少女。相変わらず自分流に気ままな日々を過ごしながらも、密かに隊の皆を見守っている。

◆クラリッサ・シュナーベル


≫世界最強の顕術士一族として知られるシュナーベル家の長女。優れた顕術士ばかりで構成される王国騎士団〈浄き掌〉の副団長を務める。グリューとは許婚どうしで、マノンやレスコーリアとも旧知の仲。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫新生コランダム軍を率いる将軍。統一王国からの離脱と祖国独立の宣言を発し、全世界に対し戦後最大級の衝撃を与えた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫新生コランダム軍に所属する軍人。エーレンガートの丘での失態の後、妹のレンカと共に小部隊を率いてミシス一行を追撃する。

◆レンカ・キャラウェイ


≫エーレンガートの丘で勃発したカセドラどうしの戦闘によって重傷を負い、その後しばらくのあいだ治療に専念していた。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫国王トーメ・ホルンフェルスの名代として、マノン一行に〈特務小隊〉としての任務を与えた。以後さまざまな手段を用いて、先の見えない困難な日々を送る同小隊を遠く王都より支援する。

◆ハスキル・エーレンガート


≫愛する娘たちと離ればなれになり、我が子同然の学院校舎が損傷してもなお、決して希望を失うことなく毎日を前向きに生きている。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫幼少時より人知れず抱えていたカセドラ恐怖症の劇的な発作により、長期に渡って入院生活を送っていた。恩師ハスキルに護られながら、徐々に回復へと向かう。

◆ドノヴァン・ベーム


≫十年ほど前に王都から忽然と姿を消した、伝説的な大科学者。レーヴェンイェルム将軍の幼馴染みにして、マノンの恩師。現在の彼の動向を知る者は極めて少ない。

◆プルーデンス


≫ベーム博士と共に暮らすアトマ族の少女。博士とおなじくアルバンベルク王国の出身。幼い頃から過酷な環境を生き抜いてきたためか、非常に気立てと面倒見が良い。

◆〈リディア〉


≫ホルンフェルス王国軍が極秘裏に開発していた最新型のカセドラ。本来ならカセドラが備えるはずのない、ある極めて特異な能力をその身に宿している。操縦者はミシス・エーレンガート。

◆〈フィデリオ〉


≫コランダム軍が新たに開発した特専型カセドラ。操縦者はライカ・キャラウェイ。

◆〈コリオラン〉


≫フィデリオと同一の鋳型を基に建造された姉妹機だったが、リディアとの交戦の末に大破した。かつての操縦者はレンカ・キャラウェイ。

◆〈□□□□□〉


≫???

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