34 想像することがすべての始まり
文字数 5,994文字
飛空船の出撃口を開けて戻ってきたグリューが、携帯伝話器を手にしているクラリッサのそばに立ちました。
「ミシス、聴こえる?」クラリッサが伝話器に口を近づけます。
「はい。よく聴こえます」
クラリッサは隣に立つマノンを見あげ、無言の承諾を求めます。
おなじく無言のうなずきをもって、隊長はそれに応じます。
時刻は、午前十時を少し回ったところ。太陽はまだ朝陽と呼べそうなほど柔らかな光をまとっています。風もなく、雲もなく、島ぜんたいが
リディアが目を向ける先に、先日クラリッサによって移動させられた大きな岩がいくつも、まるで山脈を形作るように連ねて置かれています。
「では、改めまして」クラリッサが宣言します。「本日からカセドラ〈リディア〉とその搭乗者ミシス・エーレンガートによる顕術の訓練を正式に開始します」
「よろしく頼むよ。クラリッサ、そしてミシス」緊張した面持ちでマノンが呼びかけます。
「よろしくお願いします」ミシスもまた張り詰めた様子でこたえます。
「とりあえず、最初に断っておくと」クラリッサがじわりと眉根を寄せます。「正真正銘、これが人類史上初となるカセドラを用いての顕術訓練ということになります。これまで数多くの因子保有者の児童や騎士たちを指導してきたあたしでも、まさかこんなことが実現する日が来るなんて、夢にさえ思ったことがなかったわ。この〈リディア〉に宿っている発顕因子値は、長老連から開示された情報をそのまま信じるなら、ほぼ測定不能とのこと。つまりその潜在能力の程は、文字どおりまるで未知数。この躯体でいったいどれほどの顕術を発揮することができるのか、今はまだ正直言ってぜんぜん予測がつかない。だからこそ」
ここで一度、クラリッサは呼吸を整えました。
「だからこそ、できるだけ慎重に、丁寧に、じっくりと取り組んでいきましょう。いいわね、ミシス」
「了解です」
「ところで、昨日の宿題、やってみてどうだった?」
「う~ん……うまくできていたかどうか、自分ではちょっと判断しかねます」ミシスは素直にこたえます。「だけど、教えていただいたとおりに、なるべくたくさん想像してみました。自分の手で自分の体を撫でるような気持ちで、心の手でいろんなものに触れてみました。花とか樹みたいに近くにあるものから、ずっと遠くの鳥や丘、それに海や雲にまで……」
「よろしい」クラリッサはにこりとほほえみます。「心を込めて何度も反復された空想は、やがて現実の身体にまで影響を及ぼしていくものよ。聞くところによると、一流の画家は描く対象物を自分の手で直に触る実感を想像しながら絵筆を振るうというわ。あなたに与えた宿題の真髄は、それと似ていると言えるかもしれない。芸術にせよ顕術にせよ、想像することがすべての始まりというわけね」
そう語る彼女の背後で、ベーム博士が静かにうなずきます。
「さて。じゃあさっそく、基礎的なイーノ操作の実践練習からやっていこうかしらね」クラリッサがぴたりと両手を合わせます。「手や体で直接触れることなく、自分の周囲にある物体を動かしてみましょう」
操縦席の取っ手をつかむ手に力を込めて、ミシスは鼻から大きく息を吸います。
「こないだあたしが片づけた岩が、向こうに見えるわね」
「はい」仮面に包まれるリディアの顔面が、ミシスの声に合わせてわずかに上下します。
「あれを一つ動かしてみましょうか」
「は……はい」
「あたしたちが顕術を使う時、よくこんなふうに手を前に出すじゃない」クラリッサは実際に片手を前方に突き出してみせます。「実はこれって、理屈の上ではまったく意味のない動作なのよね。でも、自分自身の延長線上にあるものに干渉する感じを想像しやすくなるから、術者当人の気持ちの面においては、まぁそれなりに寄与するところがあるわけね。あなたもたぶんその方がやりやすいだろうから、リディアの腕や手を動かしてみるといいわ。自分の好きなように」
「腕や手を……はい、わかりました」
提案されたとおりに、リディアは右手をまっすぐ前へ差し出しました。躯体の肩や腕を包む鎧が鈍く軋み、その耳慣れない響きに興をそそられたのか、ベーム博士の肩に腰かけている五つ子たちが一斉に目を輝かせます。
「まだなにも考えないで、頭をからっぽにしていてね」クラリッサがミシスに伝えます。「えっと、そうね……あなたから見てちょうど正面にある、あの
「わかります」
ミシスがその岩をじっと見据えると、開かれたリディアの手のひらも自然とそちらへ向けられました。
「よし。それじゃほどほどに集中して、でも肩の力は抜いて、あの岩の表面に手を置く感触を思い描いてみて」
「はい、やってみます……」
いっときまばたきを止め、ミシスはリディアの眼を通じて目標の岩を穴が開くほど凝視します。いかにも硬く中身の詰まっていそうな、どっしりとした岩です。
巨兵の五本の指が、操縦者の意図しないうちに、かすかに震えます。
ミシスは昨日から人知れず幾度も反復してきたように、透明になった自分の腕がどこまでも伸びていくさまを想像し、岩肌にそっと指先を着け、ゆっくりと手のひらを押し当て、その硬さを、重さを、たしかな実在感を、本物の体感として感じ取ろうと試みます。
すると、ほどなくして、岩の表面に走っていたひび割れの一つが、ぴしっと音を立てて広がりました。
息を詰めて状況を観察していた特務小隊一行は、その鋭く乾いた音を耳にして、全員思わず息を呑みました。
ひびはすぐにそれ以上拡大することをやめましたが、今度は岩そのものが、細かくびりびりと振動しはじめました。その影響で、脆くなっていた岩の一部分が崩壊し、そこから砂と小石がぱらぱらとこぼれ落ちます。
「いい調子よ、ミシス」クラリッサが伝話器に唇を寄せます。「どんな感じがする?」
「なんだか……ものすごく不思議な手触りです」ミシスは落ち着いてこたえます。「岩の硬さや表面のでこぼこした感じが、わたしのこの手にたしかに伝わってきてはいるんですけど、それなのに、同時にまるで水か雲でもつかんでるような、目には見えるけど実体はないまぼろしに触れているような、なんとも言えない感じもあって……」
「うんうん。それでいいのよ」クラリッサはうなずきます。そして伝話器をいったん下に降ろし、耳打ちするようにマノンにささやきかけます。「やっぱりこの子、ずいぶん呑み込みが早いわ。想像力も集中力も申し分ないし、なにより心根が素直だからかしらね」
まるで自分の家族を褒められたかのように嬉しげに、マノンは笑顔を浮かべます。
そのかたわらでは、胸の前で〈大聖堂〉の印を結んだノエリィが、ひたむきにリディアの背中を見つめています。
「がんばって、ミシス……」
「さぁ、次に行きましょうか」再び伝話器を口に近付け、クラリッサが告げます。「今の岩を、今度はがっちりわしづかみにして、真上に向かって持ち上げてみて。手はまた好きに動かしていいから」
「了解……」
ミシスはお腹から息を吐きながら、より鋭く目標物を睨みます。巨兵の五指を大きく開き、それを徐々に閉じながら、掌中に岩を握りしめる想像に没頭します。
そして、まるで一本釣りでもするように、鎧に包まれる腕を大きく素早く振り上げます。
途端に、岩はぐにゃぐにゃと不規則な軌跡を描いて上空へ舞い上がり、かと思うとあっけなく地面へ墜落してしまいました。
「あ、あれ?」ミシスは首をかしげます。
「今のは、自分の腕とか手に意識が
「あっ……なるほど」すぐに合点がいったのか、ミシスはうなずきます。
「たまには的を射たこと言うじゃない」クラリッサが横目で青年の頭上を見やり、薄く笑います。
レスコーリアはべえと舌を出して応酬します。
「じゃあもう一度やってみます」
再度ミシスは巨兵の腕を前へ伸ばします。
もはや余計なことはなにも考えず、ただ持ち上がって当たり前のものを当たり前のように持ち上げるだけじゃない、とみずからに言い聞かせます。余裕たっぷりに、鼻で笑ってもみせます。
「それ」
先程とは比較にならないほど柔らかな挙動でリディアの手が宙を踊ると、こちらもまた前回の不安定さとは打って変わった滑らかな動きで、岩は空へと浮き上がりました。
「やった!」ノエリィが手を叩いて歓声を上げます。
「そのまま!」すかさずクラリッサが指示を飛ばします。「しばらくそのまま、降ろさないでいて」
ミシスは声を発することなく、行動でそれにこたえます。
周囲の樹々の頂を少し超えるあたりの位置まで上昇した岩は、まるで
それから十秒ほど経ってから、クラリッサが幼子を導くような甘い声で、さらに指示を与えます。
「よしよし、上手よ。それじゃあ今度はゆっくり、元あった場所に降ろしてみましょう。落とすんじゃなくて、降ろすのよ。そ~っと、優しくね」
声になるかならないかの小さな吐息で応答したミシスは、じわじわとリディアの腕を下へ降ろしていきます。
地表に触れる最後の最後まで、岩は垂直の軌道から一瞬たりと逸れることなく、静かに優雅に着地しました。
「は~……」ミシスはべったりと操縦席に背を着けました。
通信器から、クラリッサの拍手の音が伝わってきます。
「上出来、上出来。素晴らしいわ。初めてとは思えないくらい」
「よかった……。ご指導ありがとうございます、クラリッサさん」
「こうして見てると、まんま因子保有児相手の授業みたいだな」グリューがぼそっと言いました。
「え、そうなの?」ノエリィが彼の方を振り向きます。
「ああ。今クラリッサが手ほどきした一連の流れは、因子保有者が入れられる学校の初等部で教わる実践訓練にそっくりだ。そうだろ?」
「ええそうよ」クラリッサがうなずきます。「だって他の教えかた知らないもの。ミシスは子どもみたいに素直だから、きっとおなじ要領でいけるんじゃないかって思ったの」
「そのとおりになったね」マノンが感心します。「この調子で少しずつ慣らしていけば、そのうちクラリッサやレスコーリアたちみたいに軽々と顕術を扱えるようになるかもね」
「そうね」目の前にそびえ立つカセドラと、その胸の内の少女を透視するかのように、クラリッサはじっと両目を細めます。「このまま、なんの問題も起こらなければ……ね」
一行のいちばん後ろに立っていたベーム博士は、ただ一人、最初から最後まで表情を少しも変えず沈黙したまま、まるで足もとの断崖でものぞき込むような、あるいは天高く浮かぶ月の模様でもなぞるようなまなざしで、〈リディア〉の一挙手一投足を見届けました。
その後、今つかんだ感覚を忘れたくないからすぐに再挑戦したいとミシスが申し出たので、結局それから正午頃まで、大小さまざまな岩を片っ端から空中に浮かせては降ろすという練習がくり返されました。
「よぉし。もうじゅうぶん。今日はここまでにしましょう」
少し呆れ気味にクラリッサが苦笑すると、ミシスもほどほどに気が済んだのか、手応えと物足りなさの入り混じる返答と共に訓練を終了しました。
真っ先に出迎えてくれたノエリィに手を引かれて、夢から覚めたばかりのような表情を浮かべたミシスは、皆と一緒に博士の家へと引き上げていきました。
隣どうし並んで森の小径を歩きながら、マノンがベーム博士に声をかけました。
「どうです、あの子の操縦者適性はけっこうなものでしょう」
博士は小さくうなずきます。
「しかし顕術の操作まで、こうも上手くいくとは。本当にほっとしました」重い懸念が一つ消えた解放感から、マノンは頬を輝かせます。
「リディアが選んだのがミシスで良かったね」前を向いたままベーム博士が一言つぶやきました。
マノンは思わず足をゆるめ、白く豊かな髭に覆われた横顔をちらりと見あげます。眼鏡の奥の瞳は、太陽が邪魔をしてよく見通すことができません。
前を飛んでいたプルーデンスが、くるりと振り返りました。
「ねぇ、お昼はなにがいい? 隊長さん」
「えっ」マノンははっと顔を上げます。「あ……あぁ、昼ご飯のことかい? うーん、そうだな、僕はなんだってかまわないけど……」
「プルーデンスの料理は大したものだろ? お嬢」博士がいつもの調子でほほえみます。
「ええ……まったく、見事です」少々呆気に取られながら、マノンはうなずきます。「うちの助手くんはあのとおりの腕前だし、ノエリィとミシスも料理上手だし、我が隊は食生活に関しては非常に恵まれています」
「あら、あなたは?」プルーデンスがとくに他意もなさげにたずねます。
「ん、僕? 僕は、まぁその……」
「ふぁはは」ベーム博士がぽんとマノンの肩を叩きます。「適材適所だよね、お嬢。人にはそれぞれに持ち場というものがある」
「でもあなたは、最近ちょっと自分の
「ビーフシチュー!」彼らのまわりを気ままに飛んでいた五つ子たちが、またたく間に団結して声を揃えます。「博士のビーフシチューがいい!」
「お~、いいですね。じゃ、お昼はそれで」マノンがぱちっと指を鳴らします。
「賛成!」プルーデンスも続きます。
「むう!」博士は鼻を膨らませます。「そんなに期待されちゃあ、やるしかあるまいな。でも、夜じゃだめか?」
「あらどうして?」
「仕込みにちょっとばかり時間がかかるし、それに昼からは約束があるんだ」
「約束?」
「うむ。午後は、あの子らに剣を教える約束をしていたんだ。そのための準備をしなくちゃならん。というわけで皆、夜まで待っていてくれるかな?」
聞き分けのよい子どもたちはあっさりと承諾し、そのまま全員で競争するように家の方へ飛んでいきました。
「お利口さんたちだ」小さな五つの背中を見送りながら、博士が微笑しました。そしてかたわらの二人の女性に呼びかけます。「きみたちも、お利口に待てるだろうか?」
「仕方ないわねぇ」プルーデンスが仰々しく嘆息して、マノンと顔を見あわせて笑いました。
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