32 久しぶりに二人きり
文字数 6,230文字
いつものように早起きして寝室を出ようとしていたミシスを、出入口の脇のソファで眠っていたクラリッサがその腕をつかんで呼び止めました。
「待って、ミシス。今日もまだリディアには乗らなくていい」
「えっ。でも……」
クラリッサは毛布から顔だけ出して、当惑するミシスを見あげます。
「あなた、今まであのカセドラが顕術を使えるってこと、しっかり理解していた?」
「それは……はい、もちろん」言葉とは裏腹に、ミシスはためらいがちにうなずきます。「……でも、本音を言うと、一度めちゃくちゃな力の使いかたをしてしまったのが怖くて、なるべく考えないようにもしていました」
「ま、無理もないわよね」
クラリッサはもぞもぞと身を起こし、目を擦ってあくびをしながら、室内を見まわしました。大きなソファベッドの上で、小さな五人の子どもたちがぐっすりと眠っています。奥のベッドでは、マノンがうつ伏せになって熟睡しています。ノエリィもまた、ハンモックのなかで体を丸めて夢のなかにいます。
じんわりと朝陽が射しはじめた前庭を一望してから、クラリッサはミシスの肩に手を添えて一緒に部屋を出ました。
居間のソファでは、グリューが本を胸に載せたまま眠っています。その足もとの床に落ちていたタオルケットを拾い上げて、クラリッサはそれを青年のお腹にかけてあげました。書斎の方では、背板を倒した寝椅子に沈み込むようにして、ベーム博士がすうすうと
二人の少女は忍び足で居間を抜けて、食堂に入りました。
エプロンを着けたプルーデンスが、食卓の上で鼻歌まじりに野菜を刻んでいます。
「あら。早いのね、二人とも」プルーデンスが歌を中断して顔を上げます。「おはよう」
「おはよう、プルーデンス」
二人は挨拶を返すと、食堂と居間のあいだにある洗面室に向かいました。そこで顔を洗って歯を磨き、髪を整え、それぞれにエプロンを着けて調理の手伝いに加わりました。
「あら、ありがとう。助かるわ」プルーデンスが言います。
「そんな、お礼なんて」ミシスが首を振ります。
「今朝のメニューはなにかしら」クラリッサが袖をまくります。
「そうね、じゃあ二人には、サラダとスープをお願いしようかしら」
洗って水を切った葉野菜を丁寧にちぎりながら、ミシスはテーブルの向かい側で作業をするクラリッサにたずねます。
「じゃあ、今日も昨日とおなじく……?」
「うん」クラリッサはベーコンを
嬉しいような、でも少し困ったような、なんとも言えない表情をミシスは浮かべます。
「なら今日はなにをしようかな」
「島の探検にでも行ってみたら?」プルーデンスがオーブンからパンを取り出しつつ提案します。
「あ、それ面白そう!」
「うん、いいんじゃない?」切ったものを大鍋に流し込みながら、クラリッサがうなずきます。「ノエリィも誘って、二人で出かけてきたらいいわ」
「小さな島だけど、綺麗な場所がいっぱいあるんだよ」プルーデンスが誇らしげに言います。「迷うこともないだろうし、危険なところもとくにないし。のんびり散歩するにはうってつけの場所だよ、この島は。あ、そうだ。あとでお弁当を作ってあげよっか」
「えっ、いいの?」
「どうせみんなのぶんも作っちゃうし」
「やった、楽しみ! ありがとう」
「任せといて」プルーデンスは拳で自分の胸をとんと叩きました。
ぐつぐついいはじめた鍋をお玉でかきまぜながら、クラリッサが思案顔でミシスの方を振り向きます。
「……ふむ、そうね。それなら今日は一つ、あなたにちょっとした宿題を出しておこうかしら」
「宿題? ですか?」意外な言葉にミシスは目を丸くします。
「そう、宿題。それはね、今日一日、自分の目に映るすべてのものが、自分自身の体の一部なんだって、くり返し想像してみること」
「自分の体の……」ミシスはふっと動きを止め、その静止した手をいっときじっと見おろします。「それって、昨日のお話に繋がることですね?」
「もちろん」
「すべてのものが、わたしのこの体の、一部。……う~ん、でもずっとそういうふうに考え続けるのって、けっこう難しそうですね……」ミシスは眉根をぐっと寄せます。
「あのね、まさか一瞬の切れ目もなくそうしろなんて言わないわよ」クラリッサが苦笑します。「そんなことは、あたしやアトマ族にだってできっこない」
プルーデンスが無言で同意します。
「ただ、しょっちゅう思い描くようにしてみてほしいのよ」言いながらクラリッサはかたわらの籠に入っていた林檎を一つつかみ取り、テーブルの上に転がしました。「たとえば、これ」
ミシスはその赤く丸い果実を見やります。すると次の瞬間、それはふわりと空中に浮上します。顕術を操るクラリッサが、人差し指を指揮棒のように振っています。
「昨日も話したけど、あたしこういうのって、自分の右手で自分の左手を持ち上げるくらいの感じでやってるの」
「そういえばレスコーリアが言ってましたね」ぷかぷかと宙を漂って籠のなかに帰っていく林檎を目で追いながら、ミシスは思いだします。「クラリッサさんみたいに発顕因子の多い人たちは、そういうとくべつな感覚を持ってるって」
「まぁ、個人差も相当あるんだけどね」クラリッサが小さく肩をすくめます。「たしかに、因子の濃い血を引く人間には、この世のすべてが自分とおなじものでできてるって肌で感じる能力というか、ある種の第六感みたいなものが、生まれつきの素質として備わってるって言われてる。でもね、それもあくまで素質にすぎないのよ。ほら、普通の人だって、なにかの素質や才能に恵まれていても、それを伸ばすための努力や訓練を怠ったら、大したものにはならないでしょう。それとおなじで、この感覚もただ放っておいたんじゃ、ほとんど成長しないの。それなりの手間をかけて自発的に磨かなかったら、子どもの頃のぼんやりとした直感程度のものに留まったままなのよ」
「あぁ……そうなんですか」
「うん、そうなの」弱火にして鍋に蓋をすると、クラリッサは体ごとミシスの方へ向き直ります。「だからその素質を磨くことは、そのまま顕術の扱いの向上に直結するわけ……なんだけど、あなたの場合は、ちょっと――ていうか、
かなり
――事情が特殊でしょう。あなたが操縦する躯体の方には発顕因子がたっぷりだけど、あなた自身の体には、顕術の発動条件を満たす基準値に届くほどの因子は含まれていない。なのでおそらく、因子保有者に対して施す一般的な訓練なんかは、生身のあなた相手にはぜんぜん効果がない」「だと思います、残念ながら」ミシスはうなずきます。「だってわたし、クラリッサさんのおっしゃるその不思議な感覚のこと、どうしたって理解できる気がしないんです」
「だからこそ、いっぱい想像してほしいの」すっと顎を上げ、クラリッサは窓の向こうを眺め渡します。「先天的な素質が与えられてないからって、それを欠点や不備みたいに考える必要はぜんぜんないわ。だってそもそも、体感的な実感があるとかないとかに関わらず、あなたと世界が一つに繋がってるっていう事実は、まぎれもなく本当のことなんだし。だからこそ、あたし思うの。体で感じ取ることができないのなら、心で感じ取るようにすればいいんだって。心を開いてひたむきに想像力を働かせることが、誰も歩いたことのない道を拓いていくこれからのあなたにとって、きっとなによりの助けになってくれるはずよ。ねえ見て、今日もほんとに良いお天気ね。こんなに豊かな自然のなかを歩いたら、たくさんの美しいものと出逢うでしょうね。花や樹々、小川、丘、鳥や蝶や小さな動物たち。流れゆく雲、吹き渡る風、注がれる光。地上に顕れているこうしたすべての奇蹟に、あなたの想像の手を差し伸ばして、一つ一つ丁寧に触れてみてちょうだい」
「自分の右手で自分の左手に触るみたいに、ですね」
「そう! まさに」
そこへ、ノエリィとベーム博士が起きてきました。挨拶を交わして身支度を済ませた二人もまた、朝食の支度に参加します。その物音で目が覚めたのか、マノンとグリューが少々慌てながら食堂へ駆けつけました。料理がだいたい出揃うと、プルーデンスが小さな鈴を持って寝室に飛んでいき、それをちりんちりんと鳴らして子どもたちを起こしました。
こうしてまた、夏の新しい一日が始まりました。
食器と料理をテーブルに並べ、各々が着席して〈大聖堂〉の印を組むと、ベーム博士が食前の祈りを唱えました。全員が目を閉じ、祈りの言葉を復唱し、再び目を開いた時には、それまでいなかったレスコーリアがテーブルの真ん中に立っていて、皆を驚かせました。
「あなたって神出鬼没ねぇ」プルーデンスが呆れます。「ご飯だけ食べに帰ってくるなんて、都合がいいんだから」
「人聞き悪いこと言わないで」あくびをこらえながら、レスコーリアがこぼします。「こうして眠い目を擦って朝の手伝いに舞い戻ったっていうのに、あなたたちが無闇に早起きすぎるのよ。次からはちゃんと間に合うようにするって」
「許してやってよ、プルーデンス」マノンが言います。「この子が無理やり睡眠を中断するなんて、千年に一度くらいしかないことなんだから」
「昨夜はどこ行ってたんだよ」グリューがたずねます。
「すごく綺麗な小さな丘を見つけたのよ」レスコーリアが得意げに触角を回します。「一晩じゅう島を見てまわって、最後に辿り着いたその丘で、草花をベッドにして少しだけ眠ったわ」
「丘かね。どちらの方角?」ベーム博士がサラダをもりもりと頬張りながらたずねます。
「北の方かな。ここからだと」
「あぁ、あそこね」子どもたちのカップにミルクを注ぎながら、プルーデンスがうなずきます。「たしかにあそこが、この島でいちばん見晴らしの良い場所よ」
それを聞いて、ミシスは隣のノエリィの顔をのぞき込みました。
ちょうどノエリィも、ミシスに向かっておなじことをしたところでした。
「そこって遠いの?」二人は同時にたずねます。
「この家が島の中心から少し南側にあって、その丘はけっこう北端に近いあたり。そう遠くもないけど、歩いてすぐってわけでもないわね」プルーデンスが説明します。
「行きづらい?」ミシスがさらにたずねます。
「いや、途中に大した障害物はなかったはずだよ。小川を渡ったり、大岩や倒木をいくつか迂回したりはするかもしれないが」ベーム博士がこたえます。「行ってみる気かい?」
少女たちは顔を見あわせ、意気揚々とうなずきます。
「これから出発すると、たぶんお昼前くらいには着くはずだよ」壁の時計を見あげてプルーデンスが言います。
「案内、いる?」レスコーリアが声をかけます。「そんな遠くないから、平気だとは思うけど」
「それなら、自分たちだけで行ってみるよ」ミシスが言います。
「うん。時間もたっぷりあることだしね」ノエリィが続きます。
「一応、携帯伝話を持ってってね」マノンがコーヒーをすすりながら言います。「後で渡すからさ。僕は一台いつも肌身離さず持ってるから、なにかあったらすぐに連絡して。こちらもなにかあったら伝話するよ」
「そういえば、ベーム博士。この家に伝話器は……」グリューが部屋を見まわします。
「置いてないよ」博士は首を振ります。「いきなりでかい音が鳴りだすのが好かなくてね。ラジオなら自家製のやつが山ほどあるが」
「では、携帯型のものを一台、博士にも持っていてもらいましょう。補給隊から予備を貰っておいたので」マノンが申し出ます。「後でお持ちします。持っていてくださいますか?」
「いいよ。王都で製造された最新の機種だろう?」
マノンはじろりと博士の目をのぞき込みます。「……分解して遊ぶ気ですね」
「えっ? いや……」
「図星だ。もう、だめですよ。あれでかなりの高級品なんですからね。ばらしたら、元通りにするのけっこう骨が折れますよ」
「うん、わかってる……」
叱られた子どものように縮こまる大男を見て、五つ子たちがけたけたと笑います。
その後、食事を続けながら、出かける二人以外の面々の本日の予定について、話しあいがおこなわれました。
プルーデンスは終日、家事と五つ子の勉強の指導と家の番。マノン、グリュー、クラリッサ、レスコーリアの特務小隊組とベーム博士は、飛空船内に積み込んだきり放置していた補給物資の整頓を終え次第、リディアの装甲の補強に着手していくことになりました。
「ベーム博士も手伝ってくださるんですか」グリューが大先輩に向かってたずねます。
「おうとも。遠慮なくこき使ってやってくれ」
「あんまり無茶しないでよね。いくら頑丈だからっていっても、けっこういい歳なんだから」プルーデンスが釘を刺します。
「ね、ね、あたしたちは?」おかっぱ頭のルビンがしきりに手を挙げます。「あたしたちの今日の予定は?」
プルーデンスはくすっと吹き出します。「ふふふ、そうだなぁ。あなたたちは今日もいつもどおり、元気に遊んできなさいな」
「お勉強は?」鼻をぐしぐしとこすりながらアルがたずねます。
「あ、そうだったわね。うん、お昼寝の前に、みんなで勉強がんばろっか」
「は~い」五人は元気よく声を揃えます。
まるで意味不明の珍獣にでも遭遇したように、ノエリィが子どもたちを凝視します。
「……ねえ、みんな。勉強、いやじゃないの?」
「ぜんぜ~ん」子どもたちは一斉に首を振ります。
「へえ。めずらしい」レスコーリアが目を見張ります。「勉強が好きなアトマ族なんて、そんなにはいないよ。先生の教え方がいいのかしら」
「あたしだって苦手だったわ」プルーデンスが苦笑混じりに首をすくめます。「でもこの子たちに教えてるうちに、わたしもだんだん学ぶことが楽しくなってきたの。それに、困ったらなんでも教えてくれる人だっているし」
「は~……」ノエリィがしょんぼりと肩を落とします。「わたし、みんなを見習わなくちゃいけないな」
「まっ、勉強も大事だけどさ」クラリッサが助けに入ります。「今日のところはぜんぶ忘れて、自然を満喫してくるといいわよ。なんの憂慮も考慮も遠慮もなく、ね」
水を得た魚のように、ノエリィはことさら大きくうなずきました。
食事の片付けを終えると、さっそく二人は出掛けるための準備に取りかかりました。博士が描いてくれた簡単な地図、コンパス、麦わら帽子、タオル、折り畳みナイフ、もしもの時のための消毒液と包帯。それに携帯型の鉱晶伝話器を一台と、軍用品の望遠鏡。最後に、プルーデンスが用意してくれたキッシュとマカロニの特製お弁当と、紅茶の入った大きな水筒が詰められて、二人のリュックサックはぱんぱんに膨れ上がりました。
西から島に流れ込む今日の潮風は、いつにも増してひりひりとした熱を帯びています。けれど森のなかを吹き抜けていく過程で、それは人肌に心地良い涼やかなものに生まれ変わります。麦わら帽子の
「いってらっしゃい」おとなたちは手を振って二人を送り出しました。
「いってきます!」太陽に負けないくらい明るい笑顔で、二人も大きく手を振ります。
こうしてミシスとノエリィは、久しぶりに二人きりのお出かけに出発しました。
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