2 〈緑のフーガ〉
文字数 7,614文字
「はいどうぞ」ミシスがバターの入った保冷容器とナイフを手に取り、テーブルの向かい側に座っているグリューの前に置きます。
「ありがとさん」
礼を言って青年はポットを脇にのけ、コーヒーカップを一人一人に渡していきます。そして卓上の籠から焼きたてのマフィンを一つ取り、それにたっぷりとバターを塗ります。
彼の隣に座っているマノンが、頭にバスタオルを巻きつけたままの姿で鉱晶ラジオのダイヤルを調節しながら、青年に声をかけます。
「助手くん、僕のぶんも塗っておくれ」
「え? ったく、そんくらい自分でやってくださいよ。自由時間まで、おれは師匠の助手じゃないんですよ」
「ふふっ」ミシスの隣でノエリィが吹き出します。「グリューだって、師匠って呼んでるじゃない」
「いやだって、師匠は師匠だろ。他になんて呼べばいいんだ」
「おなじ理由できみも助手なのさ、助手くん。他になんて呼べばいいんだい」マノンがにやりとします。「もしかして、名前で呼んでほしいのかな? きみが望むなら、そうしてあげてもいいよ。ねぇ、グ……」
「あぁもう、わかりましたよ」青年は腰を浮かせてもう一つマフィンをつかみ取りました。「どうせおれは年中無休で四六時中、ディーダラス博士の忠実なる助手ですよ」
「よしよし。良い子だ」
出来の良い飼い犬でも褒めるように言うと、マノンはダイヤルを合わせたラジオをテーブルの中心に置きました。でもすぐには起動のボタンを押しません。みんなの顔を見渡して、軽く咳ばらいをします。
「さてと。それじゃ、お祈りしよっか」
「待ってください」ノエリィが手を挙げます。「レスコーリアがまだ来てません」
「どこ行ったの、あの子は」
「蜂蜜を忘れたって、さっき取りにいきました」ミシスが代わってこたえます。「もうすぐ戻ってきますよ」
そこでふいに、短い沈黙が降りました。
マノンはタオルを解いて髪を拭きはじめ、ノエリィは慣れた手つきでみんなの皿にサラダをよそい、グリューは二つめのマフィンにこれでもかとバターを塗りつけています。
ミシスは膝の上に両手を載せて、ぼんやりと周囲の景色を眺めました。
今、一同は、ホルンフェルス王国軍が誇る最新の飛空船〈レジュイサンス〉の甲板の上にいました。
鮮やかな赤紫の一色に塗装された甲板は、船尾のあたりに全面がガラス張りになっている操舵室がぽつんと
テーブルには所狭しと料理の皿や調味料の容器などが置かれ、できたてのスープや淹れたてのコーヒーの香りと湯気が立ち昇っています。
レジュイサンスは現在、ちょうど人間の両の手のひらで包まれるような案配で、切り立った崖と崖のあいだに停泊していました。
そのため、ミシスたちがいる位置から臨む景色は、ほとんどが岩壁によって埋め尽くされています。外に向かって開かれているのは、断崖どうしのあいだの細い隙間、そしてなにも遮るもののない直上だけです。
けれど頭上の
マノン・ディーダラス博士率いる〈特務小隊〉がこの地に身を隠す日々が始まってから、早くも一ヵ月の時が経過していました。
はじめのうちは船内の一階にある調理場で食事をとっていた隊員たちでしたが、薄暗い船のなかで毎度食事をするのは気が滅入るということで、こうして陽を浴びられる甲板上に食卓をしつらえる習慣が生まれたのでした。
「しっかし、おかしな話だよ、ほんと」ぶつぶつとぼやきながら、グリューが師の皿にマフィンを載せました。そしてミシスの方を見やります。「ついでにミシスのも塗ってやろうか」
「ありがとう。でも、わたしは蜂蜜にするよ」少女は軽く首を振ります。「ねぇ、それより、なにがおかしな話なの?」
「あ、いやね、こうしてこんな場所で飯を食うっていうのがさ……」
「たしかにね」マノンが皮肉っぽく鼻を鳴らします。
「この船を造ってた時には、まさかこいつの上で食事をすることになるなんて、夢にも思わなかったってことだよ」青年が自嘲気味に肩をすくめます。
「あぁ、そういうこと……」
「あ、来た来た」操舵室の方に顔を向けていたノエリィが手を振りました。
操舵室から甲板に出る扉を通って、レスコーリアが両腕で陶器の壺――といっても人間からすれば指二本でつまみ上げられるような小壺ですが――を抱えて、こちらへ飛んできました。
「よいしょっと」彼女はテーブルに壺を降ろし、自分もまた卓上に敷かれた彼女専用の敷物にぺたりと座り込みます。「遅くなってごめん」
「よし。じゃあ、みんないいかい」
マノンが居ずまいを正して告げました。
それを受けて、一同はそれぞれに両手を胸の前まで持ち上げ、少しの隙間を手のひらどうしのあいだに空けて、自分自身と握手をするような形を作りました。
これは、遥かな昔からこの大地に暮らす人々に
人々がこの印を結ぶ時、それはとりもなおさず、森羅万象を生成する源素〈イーノ〉に対して感謝と敬意をあらわす時にほかなりません。
食卓を囲む面々は、各自の大聖堂と共に静かに目を閉じました。全員の心が鎮まったのを見てとると、マノンが祈りの言葉を
わたしから生まれ出て
あなたとして旅をして
またわたしに還ってくるもの
すべてのわたしなるものと
すべてのあなたなるものに
心からの感謝を捧げます
言い終えると彼女は目を開いてにっこり笑い、高らかに宣言しました。
「さぁ諸君、いただこう」
「いただきます」みんなで声を合わせました。
食事が始まると、マノンがラジオを起動させました。大判書籍のような形をしたその機器から、金管楽器の奏でる音楽と共に快活な中年男性の声が飛び出してきます。
「ビスマス地方にお住まいみなさん、おはようございます。本日はイルジの月の21日、時刻は午前8時ちょうどをお知らせします。こちらは旧ビスマス共和国の主都、東海岸最大の港町パズールの第一放送局。お相手いたしますのは、毎朝お馴染みの私、ロジャー・ロンソンです。さぁて、近頃すっかり夏めいてきましたが、ラジオの前のみなさん、ご機嫌はいかがでしょうか? 気象予報士によれば、この夏は例年を上まわる猛暑が予想されているとのこと……なんですが、このビスマスの土地で、暑くない夏などこれまで一度でもありましたでしょうか? ないですね。ないでしょう。どのみち暑いことに変わりないんですから、せいぜい我々にできることと言えば、例年どおり全力で夏を楽しむことだけですね。……え、なにかおかしなこと言ってますか私? あぁ、はいはい。ま、そうですね、健康を損なわないように、あくまでほどほどに楽しもう、ってことを言いたかったんです。ええ、どうやらまた
続いて、昨日から今朝にかけてパズールの町で生じたさまざまな出来事が報じられました。
先月末に港湾区画で起こった積荷強奪事件の首謀者の逮捕、パズールに駐留する王国
立て続けに伝えらえる最新情報を聴くともなく聴きながら、隊員たちは思い思いに食事を楽しみました。実のところ、この場の誰一人として食事中にラジオを聴くのを好む者はいなかったのですが、わけあって世間から隔絶した環境に置かれている一行にとって、こうして毎朝一緒にラジオを聴くという行為は、みんなで世の中の動向を共有するための大事な日課になっているのでした。
朝食と夕食の時間以外に、全員がおなじ場所に揃うことは滅多にありません。
ミシスとノエリィの二人は勉強や運動、清掃や洗濯、調理補佐や周辺の見回り。マノンは朝から晩まで、もとい朝から次の日の朝まで、連日自室に籠もって研究に没頭。グリューは飛空船やカセドラの点検と整備、食料の管理と調理、マノンの研究の手伝いに自分の研究と勉強、さらにそれに加えて数日おきにバイクで町へ買い出しに赴いたりと、息をつく間もない多忙な身。レスコーリアは、気まぐれに誰かの手伝いをしたり茶々を入れたりしながら、おおよそ自由気ままに暮らしていました。
退屈そうにラジオに耳を傾けていたマノンが、ふいに口を開きます。
「みんな、今日はなにをするのかな?」
「わたしたちは、今日は歴史と数学の勉強です」ノエリィが紙ナプキンで口を拭いながらこたえます。
「それから、午後はこの辺をちょっと走ろうかなって」コーヒーにミルクと蜂蜜を注ぎつつ、ミシスが続きます。
「お昼は?」マノンがさらにたずねます。
「なにか適当にすませちゃいます。いつもみたく」そう言うとノエリィは、二つめのマフィンをむしゃむしゃと頬ばっている青年の方を向きます。「たしかグリューは、今日は買い出しに行くんだったっけ」
「ああ、そのつもりだ。先週揃えた食料もだいぶ減ってきたしな。個人的に研究書や資料も見に行きたいし。みんなもなにか必要なものや欲しいものがあったら、今のうちに知らせといてくれ」
「でも、平気なの? 寝てなくて」ミシスが不安げに首をひねります。「バイクの運転、危ないんじゃない?」
「え? いや、別に大丈夫……」
「いいや、大丈夫じゃない」マノンが青年に詰め寄ります。「少し休んでから行くんだね。きみの身になにかあったら、誰が僕の仕事を手伝うんだい。誰がおいしいごはんを作るんだい。誰が……」
「おれは便利屋ですか?」グリューが冷ややかに遮ります。
「マノンさんは心配してくれてるんだよ」ノエリィが苦笑します。「わたしたちだって心配。だから一眠りしてから出かけてよ」
その提案にミシスとマノンも賛同します。
一足先に食事を終えたレスコーリアが、お腹を抱えてのろのろと宙に浮上し、青年の頭の上に腰をおろしました。
「それじゃ、お言葉に甘えて……」器用にカップだけ傾けてコーヒーをあおり、青年が言います。「これから少し寝るよ。起きるまでに、要るものを書き出しといてくれ」
「ここの片づけは僕らでやっておくから、もう寝なさい」
「でも師匠も寝てないんじゃ……」
「僕は一刻も早く完成させたい新しい理論式がある。休む時間が惜しい」
「あぁ、あれですか」
「あれってなんですか?」ミシスがたずねます。
「もう
博士はうなずきます。「僕にしてはずいぶん時間がかかったね。でも、もうすぐでき上がるよ。この新型原動機の開発がうまくいけば、この船は今までの五倍の速度で空を飛ぶことが可能になるかもしれない」
「ひぇ~」ノエリィが目を丸くします。「わたしとおなじだけの時間をこの船で過ごしているあいだに、マノンさんはそんなにすごい発明をされてたんですね……」
「ま、仕事だからね」マノンは微笑してカップに口をつけます。
その時おもむろに、ラジオからべちゃくちゃと流れ出ていたロジャー・ロンソン氏の音声が、やや緊張感を帯びて大きくなりました。
「番組の途中ですが、ここで新しい
一同は会話を中断して、卓上の機器に視線を注ぎます。
「えー、たった今、パズール市街の中心部で、〈
少し間を空けてから、喧騒や歓声に混じって、くぐもった女性の声が聴こえてきます。
「……こちら、〈調律師団〉の入る旧議事堂前の現場です。十分ほど前に突如始まった〈緑のフーガ〉の集会は、この界隈の平穏な通勤風景を一変させてしまいました。全員揃って緑色のスカーフを身に着けた彼ら彼女らは、どこからともなく現れてはまたたく間に集団を形成し、その数は……おそらく、優に五十名を超えているのではないかと見られます」
「ほぅ」ロンソン氏が嘆息とも嘲笑ともつかない声をもらします。「この、表立って演説をおこなっている声の
「はい、演説しているのは若い男性です。見たところ学生のような風貌をしていますが、詳しい身許については不明です。ただ、彼が今回の集会の主導者かといえば、そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるでしょう。ここ数週間で頻発するようになった〈緑のフーガ〉のゲリラ的集会の現場を私は何度も取材しましたが、その都度演説をおこなう人物も、集団を主導する人物も固定されておらず、集まる人々の顔ぶれや規模にも毎回大きな変化が見られます」
「なるほど。しかしそれは以前から指摘されてきたことですね。反王国、反権力を理念に掲げる彼らは、徹底して組織内に権威の序列を設けない方針で活動していると……」
「ええ、どうやらその見解は正しいように思われます。老若男女問わず集まった彼らは、個々人の年齢や性別、社会的地位などの相違を超えて、互いを公平に同志として認めあっているような、開かれた雰囲気を感じさせます」
「ふ~む」ロンソンが鼻の奥で唸ります。「こういった騒音まがいの演説や公共の場を乱す集会さえおこなわなければ、ある意味では理想的な共同体のように思えなくもないですな。それで、彼らは今回もやはり、いつもとおなじ論説を?」
「そのとおりです。いつもとおなじく、王権の支配からの脱却、〈調律師団〉の腐敗の糾弾、そして先月突然の独立宣言を発して大陸全土を震撼させた新生コランダム軍の賛美と、その指導者であるゼーバルト・クラナッハ将軍を称える熱烈な――」
マノンが顔をしかめて音量を一気に絞りました。「まったく、騒々しいねぇ」
「最近、ほんとによく聞くようになりましたね。〈緑のフーガ〉って」ミシスが眉間に皺を寄せます。
ポットに少しだけ残っていたコーヒーをカップに注ぎ、その最後の一滴まで落ちきるのを薄目で睨みながら、グリューがつまらなそうにこぼします。
「雨後のタケノコってのは、こういうのを言うのかね。今まではさして不満も表明せず暮らしてきたくせに、強い力を持ったやつが先頭を切った途端、一斉にその尻尾に群がりはじめる……。あ、だったら、金魚の糞って言い方も当てはまるな」
「〈緑のフーガ〉の名前って……」ノエリィが心ここにあらずといった面持ちでつぶやきます。「コランダムの森が由来なんでしたよね、たしか」
「みたいだね」ラジオを完全に黙らせて、マノンが両手を頭の後ろで組みます。「緑豊かな土地コランダムに続こうっていう、文字どおりの意味が込められた名前なんだとさ」
こうした会話を交わしながら、一同の心はあっという間に目の前の殺風景な荒野を越えて、深い森に抱かれるコランダムの地へと飛び立っていました。なかでもやはり、心安らかな幼少期をかの地の丘で過ごしたマノンと、ついこのあいだまでその丘で幸福な生活を送っていたノエリィとミシスは、追われてしまった愛する故郷への郷愁に、その胸を激しく焦がしていました。
(今にして思えば、本当に夢そのものみたいな日々だった)
ミシスは切々と思います。
そしてまぶたの裏側に、光り輝く丘の情景を思い描きます。毎朝ベッドのなかでそうするように。
ふいにノエリィが手を差し伸ばして、ミシスの手をそっと握りしめました。
「……うん、きっと元気だよね」ミシスが顔を上げてほほえみます。「ハスキル先生も、ピレシュも、ゲムじいさんも、学院のみんなも、猫たちも」
「そうだよ」ノエリィが気丈に笑います。「みんな、しっかりしてるもん」
「そうそう!」マノンが腕を組みます。「ちゃんとみんなの動向や日々の安否確認については、定期的に連絡を受けてるしね。先生たちもそれぞれにがんばっておられるから、僕らも今できることを精一杯やっていこう」
全員一緒にうなずきます。
「でもさぁ。がんばるったってさぁ」青年の頭上であぐらをかいていたレスコーリアが、頬杖をつきながらぼそっと言いました。「この状況、いったいいつまで続くのかしら?」
率直な指摘を受けて、人間たちはしんと静まり返ってしまいました。
「……まぁ、本音を言えば」ため息を呑みこんで、マノンが口を開きます。「そろそろなにかしら進展があってほしいところだけどね。でも、さすがに僕らの方からは無茶や冒険はできない。〈リディア〉の存在が世界に露見するという危機を回避するために、今の時点では現状を維持するのが最善の手かな」
「そうだぜ」グリューが小さくうなずきます。「師匠の言うとおり、リディアを隠し通すってのがおれたちの唯一にして最重要の任務なんだ。それを果たすために最適の活動をしてるってことは、たしかなんだ」
「ふぅん」小さな少女は退屈そうに触角を揺らします。
「ちょっとばかし気が塞がるっつうか、肩の凝る暮らしではあるけどさ。とりあえず当面のあいだは、現状を甘んじて受け入れるしかないだろ。ていうかそもそも、必ずしも今の状態がそのまま停滞を意味してるってわけでも、ないんだからな」
「そのとおり」マノンがうなずきます。
「わたしもそう思います」ミシスも顎を引いて大きくうなずきます。「状況がどんなものであれ、今の自分にできることをしっかり見定めてやっていくって、ハスキル先生と約束したんだもの。わたしはその約束を守り通したい」
「でなきゃ、お母さんたちに次会う時に顔向けできないもんね」隣でノエリィが青空を見あげました。
「……うん。そうだね」さっと背筋を伸ばして、マノンが立ち上がりました。「よぉし。では諸君、新しい一日を始めよう!」
一同は声を揃えて元気よくそれにこたえました。
食事が終わり、洗い物が載せられた盆を抱えて操舵室へと向かう少女たちの背中を見つめながら、マノンは風にかき消されてしまいそうなほど小さな声でひとりごとを口にしました。
「さすがは、ハスキル先生の娘たちだね……」
彼女に背中を向ける体勢でテーブルを拭いていたグリューの耳に、その声は風に乗ってかすかに届いていました。青年は人知れず口もとに微笑を浮かべました。レスコーリアは蜂蜜の入った壺を抱えて少女たちのあとを追いながら、振り返ってその笑顔をこっそり目撃していました。
(ログインが必要です)