41 きみが望むなら
文字数 6,070文字
おおむね落ち着いた後でベーム博士が風呂を沸かそうとすると、それくらいは今夜はおれが、と言ってグリューが代役を買って出ました。
食堂の所定の位置に戻されたテーブルを囲んで皆と一緒にお茶を飲みながら、ミシスがあっと小さく声を上げました。
「どったの?」余り物のケーキをちょこちょこと食べていたレスコーリアが、首をかしげます。
「ばたばたしてて、すっかり忘れてた。
「ああ、そう……」レスコーリアは軽くうなずきます。そしてお茶をひとくちすすって、ふいに眉をひそめます。「え、まさか今から水をやりに行こうっての?」
「もう遅いし、明日でいいじゃない」クラリッサがなだめるように声をかけます。
「でも、なんとなく、今日の
「は~。親切な人ね、あなたって」レスコーリアが口を拭きながら感心します。「まぁミシスらしいと言えば、ミシスらしいけど」
「なら、わたし一緒に行くよ」ミシスの隣で、ノエリィもカップを大きく傾けようとします。
けれどすぐさまミシスが制します。「ううん。ノエリィ、剣の稽古もあったし疲れたでしょ。もうすぐお風呂も沸くし、早めに入って休みなよ」
「それじゃ、僕が……」両目が充血しているマノンが、ふらふらと手を挙げました。
その手をそっとつかんでテーブルの上に着地させて、ベーム博士がミシスよりも先に立ち上がりました。
「私が付きあうよ。ちょうど少し歩きたい気分だったんだ。さあ行こう」
「あ……は、はい」ミシスは慌てて椅子を引いて立ち、すでに食堂から出ていこうとしている博士を追いかけました。
ランプを片手に、博士は勝手を知り尽くした足取りで森のなかを進んでいきます。揺れる炎の明かりは、博士の前方ではなくお尻のあたりに後ろ手でぶら下げられ、ミシスの足もとを明るく照らしてくれています。
空気も風もまろやかな、心地良い夜でした。耳に入ってくるのも、毎夜お馴染みの森のささやきと浜辺を洗う波の音、そして二人の足音だけです。ここ最近くり返された人間たちの移動によって形成されつつある野原への
飛空船レジュイサンスの前まで来ると、ふと立ちどまって、二人は夜空を見あげました。こんもりとしたお椀のような形の月が、半透明の羽衣のような雲の狭間でまぶしく輝いています。
船の甲板上の操舵室、その内部の計器盤の上に、小さく愛らしいシルエットとして、カネリアの鉢が一つぽつんと佇んでいます。
「あそこにあるあれのことかな?」
「はい」ミシスはうなずきます。「リディアの体にいつの間にかくっついてた種から、芽を出したんです」
博士は口もとをほころばせます。「カセドラに咲いた花か。そいつはなんとも風情だね」
二人は船体側面の扉を合鍵を使って開き、なかに入りました。
すべての明かりが落とされた真夜中の船内は、足がすくんでしまうほどに深く暗く、ミシスは思わず身震いしてしまいました。ベーム博士がその震える肩をそっと支え、少女の眼前にランプを掲げて落ち着かせました。そのままの体勢で二人は連れ立って調理室に向かい、そこで水差しにたっぷりと水を注ぎました。
数日ぶりに足を踏み入れた操舵室で、ミシスはソファや書架や操縦席の下の暗がりをこわごわと点検しつつ、ゆっくりとカネリアの鉢のもとへ近づきました。
「一人で来なくて正解でした」心なしかいくぶん
「暗いのが苦手かい、ミシスは」博士が少女の隣に立って外を見渡します。
「得意では、ないです。というより、はい、正直怖いです」ミシスはうつむいて花の芽を見つめます。そしてふと、髭だらけの大きな横顔を見あげます。「博士は、暗いの平気ですか?」
「私?」博士はぱちりとまばたきをします。「……そうだね、私は暗いのは好きな方だよ。静かにものが考えられるし、精神も休まるし。と言って、別に明るいのが苦手というのでもない。昼も夜も、どちらも等しく美しい神秘の顕現だよ」
ミシスは小さくうなずきます。それから最後の一滴が水差しからこぼれ落ちて土の表面に浸み込むのを見届けると、持参した布で鉢を綺麗に磨きました。
「よし。これで明日の朝陽を浴びたら、しゃっきり元気になってくれるはず」
「この芽が喜んでいるのが伝わってくるようだよ」
「はい」ミシスは目を細めます。「そうだといいなぁ」
「そうに決まってるさ。私がこの芽なら、起き上がってそこいらじゅうを踊りまわっているところだ」
その言葉どおり、博士は鼻歌を口ずさみながら華麗なステップを踏んでみせました。ミシスはくすくすと笑い、その巨躯からは想像もできないほど流麗な脚の運びを、びっくりしながら眺めました。月の光と揺れるランプの火に照らされる彼の姿は、少女の目にはまるで古代の王様を描いた肖像画のように見えました。
くるりと一回転したかと思うとおもむろに足を止め、博士は操舵室から甲板へ出るための扉に目を留めます。
「甲板に出てもかまわないだろうか?」
「ええ、ぜんぜん。わたしたち、パズール近くの荒野に隠れてた時は、そこで毎日ご飯を食べてたんですよ」
二人は甲板に出ると、少々冷えて湿りを帯びてきた夜風を肌に感じながら、その広くつるりとした赤紫色の床の上を歩いていきました。
流れる水のようにはためくみずからの髪を、ミシスは手で押さえました。
「今夜はありがとう、ミシス」博士は胸もとのペンダントを指先でつまみました。「こんな素敵なものまで用意してくれて」
「プルーデンスのお手柄です。なにからなにまで」少女はアリアナイトの繊細な輝きを横目で眺めます。「いろんな知恵をたくさん持っていて、働き者で、気立てが良くて愛情深くて、本当に素晴らしい人ですね。プルーデンスは」
誇らしげに博士はうなずきます。「そうだとも。彼女は、私なんかにはもったいないくらい、真に器量の大きな女性だ。長いあいだ苦楽を共にしてきた、心から信頼のおける相棒さ」
「彼女も博士のことをとても深く信頼しているのがわかります」ミシスは月を見あげます。「相思相愛で、素敵ですね」
「なんだか、照れるな」博士は少年のような顔で笑うと、そっとペンダントを握りしめました。
どこかから飛来した海鳥の影が、二人の視界を左から右にまっすぐ横切っていきます。博士はそれが雲間にまぎれて消えてしまうまで見送ってから、ゆっくりと元の向きに首を戻しました。
そしてささやきかけるように、口を開きました。
「いったいなにが気がかりなのかな」
「え?」
ミシスは唐突な問いかけに驚き、博士の表情をたしかめます。その拍子に、水晶のようにきらめく髪が夜空に弧を描きます。
「鉢植えに水をやることができたのに、きみはまだなにか心残りがあるみたいだね」
「あ……」
少女は自覚のないままにちらりと背後を見やります。その闇のなかを泳ぐ頼りない瞳の動きを、博士は黙して追いかけます。
「えっと、実は少し……リディアのことが」少女はつぶやきます。
博士はほんの少し眉を寄せます。
「……リディアが、どうかしたのかい?」
「いえ、どうもしません」さっと首を振って、ミシスは笑顔を見せます。「ただ、あの子だけこんな真っ暗ななかに一人ぼっちで置いてけぼりにしてしまって、なんだか可哀想なことしてるなって、思ったんです」
ふっと頬をゆるめて、博士は少女の横顔を眺めます。そして一呼吸置いてから、小さく吹き出しました。
「不思議なことを言うなぁ、ミシスは」
「そうでしょうか」
「前から気になっていたんだ」博士は言います。「きみはいつもリディアのことを、あの子、とか、この子、とかって呼ぶよね。まるで小さな子どもや、動物や植物のことを呼ぶみたいに」
少女は指先を顎に添えて、しばし思いを巡らせます。
「……そういえば、そうですね。ぜんぜん意識していませんでした。どうしてだろう」
博士は音もなく踵を返し、眼下に広がる甲板の一点をじっと見据えました。それは先程ミシスが目を向けたのとおなじ位置――船内の〈リディア〉が座しているとおぼしき場所の直上のあたりでした。
「長いことカセドラの開発や製造に携わってきたが、あの兵器のことをそんなふうに呼ぶ人に会ったのは、きみが初めてだよ。優しいんだね、ミシスは」
「優しいんでしょうか。わたしには、よくわかりません」
少女と賢者は、星々と月の淡い照明の下、秘密めいた森の闇にその身を取り囲まれて、静やかに言葉を交わします。
海の果てから風が吹いてきて、森を渡り、また去っていきます。
樹々の葉音の合奏が、まるで転調の楽節に差しかかったように、ひとしきり盛り上がって、また鎮まります。
「リディアに選ばれたのがきみで、本当に良かった」博士が深い声で言いました。
少女は眉をひそめます。「選ばれた……?」
「イーノは気まぐれなんか起こさない」博士は自身の真上を仰ぎ、そこに展開されている無限の宇宙を食い入るように凝視します。そのどこまでも果てることのない暗黒を、そのなかに明滅する尽きることのない数多の光明を、一つ残らず見通すかのように。「すべてのことは、起こるべくして起こっている。偶然だとか必然だとか、小さく限定された人間たちの尺度を基にして推し量る表層的な解釈など遥かに超越した次元で、この世界のすべてはいかなる極小の細部に至るまでもが、完璧に無駄なく一つに繋がりあって機能している」
人間の目の届かないどこか遠くの方で、夜鳥が一度だけ甲高い叫びを上げました。そしてそれによって扉の錠が抜き取られでもしたかのように、くっきりとした重みをともなう北風が島に吹きつけました。
佳境に迫りつつある森の歌が、博士の粛然とした語り口に呼応するように、静かな熱を帯びて四方から湧き上がってきます。ちょうど、対位法を駆使して重ねられる輪唱のように。
「イーノ……」ミシスはその名を口にしました。
唐突に普段どおりの顔つきに戻ると、博士はおっとりとした調子で少女に語りかけます。
「どうかこれからも、リディアに優しくしてやっておくれ。その思いやりの気持ちを、いつまでも忘れずにいてほしい」
不思議なことを言うのは博士の方じゃないですか――という思いが一瞬浮かびましたが、その穏やかな声の奥に切実な想いが込められているのを感じ取らずにはいられなくて、ミシスはただうなずくことしかできませんでした。
その首肯を見届けて安心したかのように、博士はにっこりとほほえみます。
その瞬間、操舵室の方で異変が起こりました。
二人はそれをなんとなく察知しましたが、いったいなにが起こったのか、なにが変化したのか、すぐにはぴんときません。
とっさに顔を見あわせ、一緒に様子を見に戻ると、途中で博士があぁと息をもらしました。
ミシスもまた彼と同時に気づきました。「あらら。灯り、消えちゃいましたね」
カネリアの鉢の横に置いていたランプのなかのロウソクが融解して、そこから細く白い煙が一筋立ち昇っています。
「しまったね」博士が舌を出します。「ちょっとゆっくりしすぎたかな」
「お困りのようね」
二人のすぐそばで誰かの声がしました。
「うわ!」
ミシスはぎくりと飛び上がり、すぐに後ろを振り返ります。少女の身を守るように、博士がその巨体を翻します。
しかしまたたく間にに二人の警戒は解かれました。
「遅いからなにかあったんじゃないかと思って来てみたら……」宙にぷかぷかと浮かんでいるプルーデンスが、呆れ顔で腕を組んでいます。
「びっくりしたなぁ、もう」すとんと肩を落として、ミシスが安堵の息を吐きました。
「すまんすまん。今帰ろうとしていたところだったんだが」博士がぽりぽりと頭を掻きます。
「はい、これ」プルーデンスは肩に掛けていた鞄のなかから、新しいロウソクとマッチの箱を取り出しました。「こんなこともあろうかと思ってさ」
「なんて気が利くの、あなたって人は……」
「まったく、かなわんなぁ」
博士は愉快そうに笑い、礼を言いながら新しい火を灯しました。
それを頼りに三人は暗い船内を通り、外へ出ました。
「ノエリィ、あなたと一緒にお風呂入るって、ずっと待ってるわよ」外へ出るなりプルーデンスがミシスに言いました。
「えっ、ほんと?」少女は目をぱちくりさせます。「じゃあわたし、先に帰ってますね」
そう言うと、二人の応答が返ってくるのも待たずに、少女は家へ向かって駆けだしました。
「気をつけて! 足もとをよく見て行くんだよ」
白い星のちらばる青いローブの背中に、博士が大声で呼びかけます。少女は手を振ってそれにこたえ、月光の
「ほんとに仲が良いわね、あの子たち」
「そうだね。二人とも素直でがんばり屋で、素晴らしい子たちだ。……そうだ、うちの子たちは?」
「もうみんな寝ちゃったわ」
「そうか」
しっとりと静まり返る森のなか、二人はのんびりとした歩調で家路を辿ります。
「ねえ。よく見せて、それ」
丁重な手つきで、博士は青い燐光を放つペンダントを自らの首もとまで引っぱりあげます。
「やっぱり、よく似合ってる。我ながら上手に作れたなぁ」鼻高々といった様子で、小さな少女はうんうんとうなずきます。
「こんなに美しいプレゼントは他にないよ」博士は言います。風と樹々のざわめきに呑み込まれてしまいそうなほど小さな声でしたが、でもその声量で、そばにいる彼女にはじゅうぶんでした。「いつまでも大切にする。あとどれくらい生きられるかわからんが」
「もう。こんな日につまんないこと言わないで」プルーデンスは手を伸ばして髭を何本か引っぱります。
「あいたた」
「ドノヴァン、お誕生日おめでとう。長生きしてね」
片腕をひらりと舞わせて手のひらを心臓に添えると、博士は腰を折って優雅に一礼しました。そして騎士のように凛々しいまなざしを、小さな少女へまっすぐに注ぎます。
「ありがとう、プルーデンス。きみが望むなら、私は永遠にだって生きてみせよう」
プルーデンスはくすっと笑い、背中の羽を広げて踊るように高く舞い上がりました。
その透明の羽を通して目にした半月は、まるで夜空が贈ってくれたほほえみのように、ベーム博士には見えていました。
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