60 夜に落ちてゆく最果ての空の片隅で
文字数 5,798文字
島の野原で一人残らず気絶していたコランダム兵と〈緑のフーガ〉の男たちが、親衛隊員たちの手によってその半壊した船の格納庫に放り込まれ、リヴォン一行と共に王都へと飛び去っていきました。
代わりに残された一機の新型レジュイサンスが、特務小隊の新たな移動拠点として与えられました。
船体の規格や構造こそ前の船と変わりありませんが、この機体もやはり光学迷彩機能を備え、さらにはこれまでの五倍の飛行速度を発揮する新型原動機と、全方位に対して迎撃可能な複数の砲台が搭載されていました。
加えて、その船内、格納庫の奥には、リディアと並んで、もう一体の別のカセドラが残されました。鮮やかな黄色の鎧に全身を包むその巨兵の名は、〈クーラント〉。長らく王国軍の主力量産機として運用されてきた〈アルマンド〉の
とはいえ、これは軍備増強の一環としてほとんど強制的に与えられたもので、現時点ではまだ操縦者の決まっていない、いわば心を宿したことのない、まっさらな躯体でした。誰かが乗ることになるのか、乗るとしたら誰になるのか、あるいは誰も乗らずに置いておくか、といったような話題は、緊急の引っ越しに奔走するこの日の特務小隊員たちのあいだでは、ただの一度も持ち上がることがありませんでした。
ビスマス地方の荒野で補給を受けた時と同様、熟達した顕術の使い手たちによる助力もあって、目が回るような怒涛の転居作業は、どうにか日没前に完了することができました。
最初に島に着陸した時とおなじ砂浜に置かれた新しい飛空船の前で、旅立つ者たちと見送る者たちは、互いに面と向きあいました。
夕暮れの真っ赤な光線が、去りゆく若者たちの長く濃い影法師を、白砂の上に落としています。
その影に体を重ねるように、ベーム博士が穏やかな表情を浮かべて立っています。そしてそのかたわらに、プルーデンスが羽を広げてふわりと浮かんでいます。
長いことミシスとノエリィにしがみついていた五つ子たちが一人また一人と離れ、博士たちのもとへ戻りました。
「お昼、食べられなかったね」プルーデンスが苦笑します。「お弁当、後でみんなで食べてね」
ミシスたちは感謝を込めてうなずきます。
まるで背後から突風でも吹きつけてきたかのように、プルーデンスは前のめりにひとっ飛びして、ミシスとノエリィの額に順々に口づけしました。
「
「ふふっ……」目もとを指先で拭って、ノエリィが笑います。「お母さんみたい」
「ありがとう、プルーデンス」両目を赤くしたミシスが言います。「わたし、いつか、あなたのような、優しくて頼りがいのある人になりたい」
プルーデンスの瞳から、砂粒のように小さな水滴が、ぽつぽつとこぼれ落ちました。
「また会おうね」
「きっと、きっとまた会いに来る。今度は、もっと平和な時に、いっぱいお土産を持って来るよ」
にこりと笑って、プルーデンスは他の面々とも別れの挨拶を交わし、再び博士の隣へ浮かびました。
「……そんな顔するなよ、お嬢」ベーム博士がいつも以上にごしごしと髭を撫でながら、困り果てたようにほほえみかけます。
マノンはきつく唇を噛みしめたまま、一言も発しません。発することができません。
「お嬢。いや……マノン・ディーダラス博士」右手を心臓の上に置くと、まるで子守歌でも歌うような密やかな声で、ベーム博士がその名を呼びました。「きみには掛け値なしに本物の才能と、未来の世界が待ち望む希望の光が宿っている。これからも、なにがあっても、自分の心に正直に従って、まっすぐ前を向いて進んでいきなさい」
この一瞬に、幼い頃に彼と並んで歩いた美しい庭園の光景や、
いつしかマノンは、博士の胸に顔を
幾多の重責を背負って生きてきたかつての少女を、博士もまた、力強く抱きしめました。厳しい孤独に人知れず耐え抜いてきた、そしてこれからも耐えていかねばならないはずのその体に、生涯消えることのない激励と祝福と守護を宿すように、大きく温かな抱擁は、いつまでも続きました。
眼鏡のレンズの向こう側から流れ落ちた一滴が、まるで大地を濡らす雨のように、赤い髪に吸い込まれていきました。
「私に子はいないが」博士が耳もとでささやきました。「そういう存在がいたらどんな人生になっていただろうと、
「光栄です。心から」大樹のようにおおらかな博士の胸のなかで、マノンはぐいぐいと首を振ります。「僕も、僕だって、もし家族が、父があったなら……」
名残り惜しげに体を離すと、博士は濡れそぼるマノンの頬をそっと親指の腹で拭いました。
「ありがとうございます。ドノヴァン・ベーム博士。僕の忠誠は、いつも、いつまでも、あなたのものです」
「誇りに思うよ」
さて、これでいよいよ、本当にお別れ……と誰もが思った矢先、唐突にノエリィが一歩前へ進み出ました。
「ノエリィ?」ミシスが首をかしげます。
「あの、ベーム博士……」ノエリィはうつむきながら、ぼそぼそと口を開きました。
「ん? なんだね?」
「もしよかったら、あの……もう一度、肩車してくださいますか?」
博士も他の面々も、一瞬ぽかんとした表情を浮かべます。
しかし次の瞬間には、遠慮がちに顔を伏せていた少女の体は、まるでぬいぐるみのように軽々と持ち上げられていました。
「あっはは~~!」
五つ子たちが
「本物のおじいちゃんと孫娘って感じね」レスコーリアがグリューの頭上で肩をすくめました。
「言えてる」クラリッサが吹き出します。
「うわっ、うわぁ……! もう、もうじゅうぶんです、ありがとうございます!」
全身を夕焼け色に染めながら、ノエリィは久しぶりに心からの笑顔を咲かせました。
「どうだい、ミシスもやっとくかい?」ノエリィを地面に立たせながら、博士がにやりとします。
「えっ!? い、いえ、わたしは……」
その白い星柄が散らばる青いローブの背中を、クラリッサがとんと押し出します。
「うわぁ!」
「よし来い!」
そうして半ば無理やりに、ミシスまで天高く
「わあぁ~~!」
「あはははっ!」
悲鳴を上げる少女めがけて、またもや空中を笑い転げながら、五人の子どもたちが飛びかかります。
少々目を回してしまったミシスを降ろすと、博士はぜえぜえと息を切らしながら、勢い込んで顔を上げました。
「よし、次は誰だ?」
「助手くん、やってもらったら?」マノンが青年の肩を叩きます。
「はっ!? 冗談でしょう」青年はとっさに後ずさりします。
「よぉし来い、若者よ!」博士が
「いやいやいや、けっこうです!」
青年が飛んで逃げようとすると、なぜかクラリッサがすかさず彼のシャツの裾をつかみます。
「ねえグリュー。じゃあグリューがあたしを肩車してよ」
「はあ~!? なにを言い出すんだよ、おまえはいつも! いったいどんな理屈でそうなるんだ!」
「あっはっはっは!」マノンがお腹を抱えて笑いました。
一人一人の笑顔を
「そうとも、別れってのはこうでなくちゃいかん。また会おうじゃないか、素晴らしい友人たちよ。そしてその時にはまた、大いに食べて、飲んで、歌って、笑おうじゃないか!」
特務小隊の一行は口々に感謝と再会の約束を表明し、
「ばいば~い!」五つ子たちがめいっぱい両腕を振りまわします。「元気でね~!」
「ありがとう! みんなもね~!」最後尾を少し遅れて歩くミシスが振り返り、高々と手を掲げます。
「ミシス」思いがけず、ベーム博士が呼びとめました。
「は……」少女はぴたりと足を止めます。「はい」
「以前話したことを忘れないでおくれ。どうかリディアを大切に、優しくしてやっておくれ」
いっとき息を呑み込み、潮風のなかまっすぐに立つと、少女は深くうなずいてみせます。
「……はい。きっとずっと、忘れません」
その一言を受け取って安堵したように微笑すると、博士は今度は一行の先頭を行くマノンにまで届く大声を放ちました。
「みんな! 辛い時や苦しい時には我慢なんかせずに、ちゃんと自分の心を休めるんだよ。きみたちの無事と幸福を、私たちはいつも、いつまでも、祈っているよ」
「ありがとうございます、ベーム博士!」
一行は声を揃えて、海の彼方まで響き渡るように叫び返しました。
新しい船の操舵室に集う一行もまた、島の姿がすっかり小さくなってしまうまで、手を振り続けました。
最後の最後まで振られていた二人の少女の手が降ろされると、クラリッサがその背後で猫のようにゆったりと背伸びをしました。そして優雅に踵を返し、テーブルに置かれた
「ん~、いい匂い」少女は鼻をくんくんとさせます。「特製サンドイッチね。食べやすいように一人ぶんずつ包んであるわ。最後までほんとに気が利く人ね」
それから彼女は、寂しげにうつむく仲間たちの手にその包みを捻じ込んで回りました。
全員に行き届けてしまうと、大きく息を吸ってきっぱりと言い放ちます。
「ほらほら、いつまでもそんな顔してないの。プルーデンスが言ってたでしょ。しっかり食べなきゃだめだって」
「……そうだね」マノンががんばって口角を上げます。
「おれ、コーヒー淹れてきます」自動操縦機能を稼働させると、グリューが操縦席を離れて階下に降りていきました。
その手伝いを名乗り出たクラリッサが、さんざん
窓辺に並んで立って、ついさっきまで小さな美しい島が見えていた先――今ではなに一つ目に留まるもののなくなった
「二人とも。あんまり思い詰めないで。落ち着いたら、またゆっくりみんなで話をしよう」
少女たちは共に振り返り、こくりとうなずきます。
マノンもまた、顔を洗ってくると言い残して、青年たちの後に続きました。
水差しを両腕で抱えたレスコーリアがやって来て、以前とおなじように計器盤の上に置かれたカネリアの鉢植えに、丁寧に水をかけてやりました。芽は日々すくすくと育ち、今では三つに分かれた幼い葉が、空に向かって健気にその手を伸ばしています。
鉢のそばに水差しを置くと、小さな少女は二人の顔をちらりと見あげ、一言も発することなく、ただささやかなほほえみだけを送って、そのまま階段の方へ飛んでいきました。
ごうごうと唸る風の音、そして足もと深くから伝わってくる動力機関の駆動音が混ざりあい、まるで現実とは異なる未知の時空に二人きりで取り残されてしまったような不思議な静寂が、二人の少女を呑み込みます。
海も、
空も、
自分たちの体も、
自分たちを運ぶ船も、
育ちゆく新しい花の芽も、
なにもかもが、
本当になにもかもが、
燃え立つようなまばゆい真紅に染められています。
やがて西の果てから、静やかに、沁み込むように、宵の予兆の淡い青が、じわじわとにじり寄ってくる気配があります。
まだほんのりと温もりを残しているサンドイッチをその手に持ち、水平線に視線を置いたまま、ミシスがつぶやきました。
「ねえ、わたしたち、もっと強くならなくちゃいけないね」
片方の手でサンドイッチを、もう一方の手で胸のペンダントをつかんだノエリィが、ふわりと首を前に倒します。
そして――
重く、暗く、果てのない沈黙が、世界を覆いました。
一つ、また一つと、
「あのお馬鹿さん、いったいお母さんになんて言いわけしたのかしら」
「ほんとにね」ミシスは喉を詰まらせます。
「まったく、いくつになっても、頑固で意地っぱりなんだから……」
その言葉を言い終わらないうちに、ノエリィはミシスの体を正面から抱きしめました。ミシスも、すがりつくように、ノエリィの背中に両腕を回します。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」ノエリィが苦しげな息をもらします。「ね、信じられる? わたしたち、ほんのちょっと前まで、三人でおなじ丘に暮らして、おなじ制服を着て、おなじ学校に通って、お休みの日にはお洒落して一緒に町へ出かけたり、そういう当たり前のこと、してたんだよ」
「きっと」しゃくり上げながら、ミシスも声を振り絞ります。「きっと、きっと、きっと、なにもかも、取り戻そう。自分たちの運命は、自分たちの手で奪い返すのよ」
「うんっ……」さらに強く抱擁し、さらに涙しながら、ノエリィがうなずきました。
「……明日からもがんばろうね。ノエリィ」
夜に落ちてゆく最果ての空の片隅で、ミシスは小雪が散るような淡くひっそりとした声で、しかし搔き集められるだけの希望と、決意と、密やかな祈りを込めて、そうささやきました。
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