55 ワルツ
文字数 6,259文字
「……は、はい。聴こえています」
「今どこ?」
「海辺です。わたしがライカを投げた方角の。そこに、コランダム軍の船と、フィデリオと……それと……」
「どうした?」グリューが通信器に口を寄せます。
「新手です」ミシスはリディアの手のなかの剣を握り直し、純白の鎧に身を包む巨兵を見据えます。「カセドラがもう一体、船のなかにいました」
「なんだって?」マノンとグリューが声を揃えます。
二人とおなじく通信器の前に集うレスコーリア、クラリッサ、ノエリィ、それにベーム博士とプルーデンスも、皆一様にどよめきます。
「青いやつ……フィデリオは、なんとか退けました。でも、たった今、その新しいカセドラが、外へ出てきました」
「なんてったっけ」ノエリィが首をひねります。「えっと……コリオラン? 妹の方が乗ってた……」
グリューが続きます。「あの赤いやつ。あいつなのか?」
「ううん、ちがう」ミシスは首を振ります。「体格は、たしかにコリオランやフィデリオに似てる。だけど、このカセドラは、真っ白……」
それからミシスは、砂の上にただ静やかに立っている白い巨兵の
先程ライカが口走ったとおり、そのカセドラは躯体にまとっているべき装甲の一部が、いまだ装着されていません。現在のところ身に着けているのは、まるで
汎用型のカセドラと比べるといくぶん背が高く、両の腕と脚もすらりと長いその躯体の造形は、
「あの赤いのや青いのとおなじ規格の新型か」グリューがつぶやきます。
「まぁそんなとこだよ」飛空船バディネリの操舵室から、レンカが面倒くさそうに口を挟みます。
レジュイサンスと固有周波数で通信を確立したリディアの操縦席内の音声を、さらにリディアを中心にした近接顕導域内での周波同調によって――いわばリディアそのものを中継地点にして――、遠く離れた場所に停泊する二機の飛空船の乗員たちは、今では互いの声を授受することができるようになっていました。
「その化け物にめちゃくちゃにされちまったコリオランに次いで造られた、私らの軍の新作さ」
「ふん。ご苦労なこった……」グリューが肩をすくめます。彼の頭の上に座っているレスコーリアも、そっくりおなじ動きをします。
「で、その白いやつは武装してるわけ?」クラリッサが操縦席の背に軽く身を寄りかからせて、いつもの調子でたずねます。
「はい」ミシスはうなずき、対峙する巨兵が手にしている武器を見やります。「剣を使うみたいです」
「ふぅん」クラリッサはひらりと体を半回転させ、通信器に顔を近づけます。「あなたとリディアの敵じゃないでしょ? 早く片づけちゃった方がいいわ。増援が来る前に、とっととそいつらの船をいただかないと」
「大丈夫? ミシス……」ノエリィが胸もとのペンダントを握りしめます。
「うん、平気」呼ばれた少女はこくりとうなずきます。「すぐに終わらせるよ」
「そう簡単に船をくれてやるものかよ」レンカが呆れてかぶりを振ります。「ライカ姉さん。まだやれる?」
「そうしたいのはやまやまだが」喉に脱脂綿でも詰め込まれているような声で、ライカが応じます。「首が回らない。それと、おそらく……鎖骨にひびが入っている」
思わずミシスは同情しかけますが、しかし今この時にはどんな情けも無用だと、すべてをいっとき心の外へと追い出します。
「……仕方ないね」レンカは首をすくめます。そしてこっそりと嘆息を吐き、やや遠慮がちに口を開きます。「と、いうわけだ。訓練初日からこんな目に遭わせちまってわるいけどさ。あんた、どうにかしてくれる?」
「私からも頼む」ライカが妹に続きます。「これは命令じゃない。ただの頼み事だ。私たちの目的ときみの目的が合致すると判断するなら、どうか手を貸してほしい」
「なにをごちゃごちゃ言ってるんだ?」グリューが眉をひそめます。
その隣でマノンもまた敵の事情を把握しかねて、訝しげに首をかしげます。
そしてそれは、リディアの操縦席に座すミシスも同様でした。
じゅうぶんに間隔をとって、波の跡が砂上に描くなだらかな線の上で互いに対峙しながら、ただ立っているだけにもかかわらず隙をまったく見せない白いカセドラを視界の中心に据えて、少女はいかにして操縦者に危害を加えることなく巨兵だけを無力化したものだろうかと、そればかり考えていました。
「もたもたしてる場合じゃ、ないよね……」ミシスは一人つぶやきます。
こんな無為の時間を過ごしているうちにも、どこかの空では灰白色の飛空船団がこの島を目指しているはず。さいわい、相手と自分とのあいだには、たっぷりと距離が開いている。ここは、申しわけないけど、やっぱりもう一度顕術の力で……
そこまで少女の考えが及んだ時、白い鎧のカセドラが突如、手にしていた剣をすとんと下へ降ろしました。その鋭く研がれた刃の先端が、石ころ一つぶんほどの隙間をあけて、足もとの砂地に接触する寸前で静止します。
(……よかった。諦めてくれるみたい。賢明な人みたいで、助かった)ミシスは安堵の息をつきました。(きっと、リディアの顕術の威力を船のなかから見ていたのね。そうよ、あなたに勝ち目はないわ。そのまま、おとなしく……)
しかし白いカセドラは、いったいどういうつもりなのか、躯体正面の向きをくるりと真横へ変え、その目を向ける先の方向――つまり海の真っ只中――に向かって、ゆったりと歩き出しました。
「なにを……?」ミシスは眉根を寄せ、剣の柄をきつく握りしめながら、リディアの瞳で相手の動きを追いかけます。
バディネリの操舵室から目を凝らすレンカもまた、自軍のカセドラの挙動の意図が読み取れず、怪訝そうに目を細めています。
「あの、止まってください」向こうの操縦者に対してミシスは呼びかけます。
けれど、返事はありません。
(聴こえてない……ことはないよね?)
ざぶざぶと海のなかへ足を踏み入れていく巨兵の姿を前にして、ミシスは呆気にとられます。
「えっと、聴こえてますよね」もどかしげに、さらに強い語気で呼びかけます。「どこへ行こうっていうんですか。そろそろ止まっ――」
その刹那、白いカセドラの剣が、空中で大きな円の軌道を描いて打ち振られました。
華麗に弧をなぞる刀身が、
水面から
「わっ」
いきなり視界いっぱいに広がった無数の水滴や
その一瞬の視線の乱れが、命取りでした。
再び海上に立つ巨兵を直視し直した時にはもう、白銀の仮面に包まれるカセドラの顔面がリディアのすぐ目の前にありました。そして、振り上げられた剣も――
「きゃあぁぁっ!!」
喉を引きつらせながら、ミシスは剣を持ち上げるより先に左手を前に突き出して、急ごしらえの衝撃波を放ちました。
しかしこれほどの至近距離での射出にも関わらず、白いカセドラは瞬時にその巨体を翻して不可視の暴風を避け、まるで踊りでも舞うかのようにふわりと砂の上へ着地すると、そこから息つく間もない峻烈な剣の連撃を繰り出してきました。
リディアは両手ですがりつくように武器を構え、よたよたと後ずさりしながら必死に敵の攻撃を
巨大な剣と剣のぶつかりあう重々しい衝撃音が、恐怖にうわずるミシスの荒い息と共に、レジュイサンスに待機する仲間たちのもとで響き渡ります。その全員が固く険しく表情をこわばらせ、気も狂わんばかりに少女の無事だけを祈っています。
ノエリィは額の前でがっしりと〈大聖堂〉の印を結び、その手のあいだにアリアナイトのペンダントを包んで、胸中で何度も何度も叫びます。
(神さま、イーノの神さま、お父さん――どうか、どうか、ミシスをお護りください……!)
このままじゃやられる!
体の芯から突き上げてくる強烈な悪寒に打ち震えるミシスは、両目いっぱいに涙を溜めて、大声で喚きながら全力の衝撃波をみずからの眼下に撃ち込みました。
まるで大型の爆弾でも破裂したかのように、巨大な砂の柱が噴き上がります。
その煙幕ならぬ砂幕を盾にして、ミシスはクラリッサが跳躍する時の姿を脳内で思い描き、その映像を見様見真似で再現して、後方へ向かって力いっぱい飛びのきます。
これでまた、両者のあいだに距離が生まれました。
ミシスは、今度は覚えたての衝撃波ではなく、もはや一切の躊躇をかなぐり捨てて、相手の躯体を遠距離から思いきりつかんで握り潰してやろうと、明瞭な敵意を宿した両手を前方へ突き出します。
けれども、ミシスが精神を集中しようとするたびに、その手のひらの照準を白いカセドラは相も変わらずワルツでも踊るようにくるくると舞い
「あぐっ……!」
たまらずミシスは息を弾ませ、操縦席のベルトに死に物狂いでしがみつきます。
こうしてとうとう、リディアは地面に倒れ込んでしまいました。
正真正銘の危機に瀕した少女は、決死の形相で躯体を起こそうと試みます。
しかしそれは即刻、制されます。
碧い巨兵を
「ひゅう」レンカが口笛を吹きました。
首に応急の固定具を装着してよろよろと操舵室へ上がってきたライカが、妹の肩に手を置いて会心の笑みを浮かべました。
「……ミシス?」ノエリィが、まるで小雨が
「うっ……うぅっ……」
ミシスは交差させた両腕で顔をぎゅっと覆い、歯という歯をがちがちと擦りあわせながら、胃の奥から酸っぱい匂いが込み上げてくるのを感じます。恐怖のために耳鳴りさえ起こりはじめたその体を小刻みに揺らしながら、少女は思います。
勝てない。
強すぎる。
リディアの力をもってしても、ぜんぜん歯が立たない。
なにもできない。
なにもできなかった。
これまで生き残ってこられたのは、きっとぜんぶ、ただのまぐれだったんだ。
わたしは、わたしには、力が及ばなかった。
わたし、やっぱり……
「だから言ったじゃない」この時、初めて、白いカセドラの操縦者が言葉を発しました。とても凛々しく、そして耳に快い爽やかな低音を宿す、歳若い女性の声です。「あなたは剣に向いてないって」
「女の声?」グリューが眉をひそめます。
「ミシス!」マノンが気もそぞろに呼びかけます。「なにがどうなったんだい。きみは無事なのか?」
しかし少女からの応答はありません。
「ミシス……?」レスコーリアが青年の頭から飛び降りて、通信器にそっと近づきます。「聴こえてるでしょ? ねえ、どこか怪我したの?」
「……今、なんて」ミシスは絡まる舌をほどくように、ゆっくりと声をひねり出しました。
レスコーリアは首をかしげます。「だから、どこか怪我してるのかって――」
「忘れたの?」白いカセドラの搭乗者が、呆れたように笑います。「ほら、あなたが初めて剣を振って、転んじゃった日のことよ」
その声を耳にした瞬間、まるで背後から思いきり誰かに突き飛ばされでもしたかのように、ノエリィの体がぎくりと震えました。
「なに? 知りあいなの?」ベーム博士の肩に立つプルーデンスが、首をかしげます。
「嘘」ミシスの唇から、凍りついた息がもれます。「嘘だって言って」
「そんな」ノエリィの両目が、一瞬のうちにもう何日も寝ていない人のそれのように、暗く深く落ち窪みました。「そんなこと、あるわけない」
白いカセドラは剣の先端をリディアの心臓部に突きつけたまま、もう一方の手の指先を碧い装甲で守護された操縦席の扉の隙間に捻じ込んで、強制的にそれを左右に押し開きました。
真昼の鮮烈な陽射しの下では、穏やかなアリアナイトの輝きは
太陽のまばゆさに目を
扉が解除されたことで、リディアとミシスの同化は解除されてしまいました。
もはやその碧い鎧に包まれる神秘の躯体は、ただの大きな泥人形になってしまいました。
すっかり血色の失せたミシスの眼前に、のびやかな直線を描く巨大な刀身と、白銀の装甲を照り光らせるカセドラの威容が迫っています。
なんで……
ミシスは思います。
なんで?
なんでこうなるんだろう?
ねえ、なんで……
この瞬間、遠い祖国で自分たちの帰りを待ってくれているハスキル先生の顔が、ミシスの脳裏に浮かび上がりました。
一筋の涙がこめかみを伝って流れ、リディアの心の部屋の内壁に、ぽたりとこぼれ落ちます。
そこで思いがけず、ミシスがまっすぐに仰ぎ見る白いカセドラの操縦席の扉が、かすかな軋みを立てながら、そっと開放されました。
ミシスのいる位置からは逆光になっているため、相対する操縦席の内部は、この陽光のなかにあっても青い輝きに満ちみちています。
相変わらず綺麗だな、とミシスは思います。
でもどうして、あんなに綺麗に伸ばしてた髪を、切っちゃったんだろう。だけど、うん、その髪型もすごく似合ってる。
世界の時間が、宇宙の運行が、いっとき完全に止まってしまったかのように、ミシスは呼吸もまばたきも、自分の体が存在することさえも忘れ去って、白いカセドラの操縦席に座ってほほえんでいるピレシュの姿を、その瞳に克明に映しました。
耳の下あたりでまっすぐに切り揃えられた白金の髪。
引き締まった体をぴたりと包む純白の武道着。
細く美しい白肌の頬、どこまでも整った顔立ち、森のように深い緑の瞳……
「これ、夢じゃないよね?」ミシスは無邪気に笑いかけました。
「なに言ってるの」ピレシュはいつもみたいに鼻で笑います。「夢ならこれから家に帰って、自分のベッドでぐっすり眠って見るといいわ」
そう言われても、ミシスにはまだなに一つ、自分の目の前に展開している光景が現実のものだということが信じられません。夢なら、って、これが夢なんじゃないの?
「ノエリィはどこ?」ピレシュが穏やかにたずねます。「あの王国軍の船のなかかしら。早く出てくるように言わなくちゃ。三人で一緒に、先生のところへ帰ろう」
「ノエリィ!」
振り返ってマノンが叫んだ時には、すでにノエリィは操舵室を飛び出していました。
「クラリッサ!」グリューが怒鳴るように呼びかけます。
「あ~もう、世話のかかる子たちね」
二つに束ねた髪を颯爽と翻し、クラリッサが少女を追って階段を駆け降ります。
マノンは一度ぎゅっと両目を閉じて、喉もとを震わせました。
「ハスキル先生……!」
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