第12話 不意打ちのゴング

文字数 6,323文字

 元文学部の部室である図書館裏を出て、懐かしの中学校を散策する。夏休み中の静かな教室や、偶然どの部活も使っていなかった体育館。音楽室は吹奏楽部が利用していて駄目だったものの、家庭科室や技術室といった副教科でしか入ることのなかった部屋にも立ち入った。

入口の小さな段差の度に鈴涼の車椅子の前輪を浮かせながら入室する。一部屋ごとに昔のエピソードを捻り出しては彼女の反応を窺ってみるものの、『銀杏(いちょう)』に見せた反応以外は目ぼしい様子は無かった。俺は心のどこかに落胆を覚えつつ、みんなに一言言ってからトイレに立つ。

「やっぱ駄目かぁ……」

 高温多湿の空気も相まって、どんよりとした気分が纏わりつく。生徒の出入りが減ったトイレは窓も大して開けていなくて、余計に気分が滅入った。

「なんだよ一晴。出すもの出してるからって、やる気まで体から抜くなよ」

「下らないことで上手いこと言おうとするな。と言うか、高校生にもなって連れションしてんじゃねーよ」

「いや、高校生でも連れションはするでしょ。普通に」

 なぜか「オレも!」と付いてきた健吾と並んで排泄。確かにこういうことは中学生のときなんかは日常茶飯事だったけれど、いつからか一人行動が身に染みていたようである。

「そんなことよりもな。お前、さっきから俺にばっかり話させて、全然何にも思い出そうとしてないだろ。鈴涼を撮ってるばかりじゃなくて、もっと協力しろよ」

 図書室裏でカメラを起動して以降、健吾はあまり会話に加わろうとせずに撮影を優先していた。なぜそんなことに拘っているのか知らないが、俺がうんうん唸っている時くらいフォローの一つでもしてくれて良かっただろうに。

「いやぁ。実は、どうしても必要なことなんだよねぇ」

「必要なこと?」

「そのうち話すよ」

 この三年間で大きく変わった友人は、どうにも飄々としていて掴めない。昔の野沢健吾という人間は、押しに弱く、良くも悪くも素直だった。だから不良生徒に目をつけられたり、人あたりの良い同級生が近づいていたりもしていた。

 ――克服、と言えるのだろうか。

 健吾の変化をあまり深く考えることはしなかったが、これは彼なりに考えついた処世術なのではないかと思う。高校生という転機を迎え、周囲から都合良く思われないような世渡りの方法を身に付けた結果が、この変貌なのかもしれない。

 俺は「そうか」と追及することなく短く言った。二人して似たようなタイミングで手洗い場に立つと、不意に健吾が呟く。

「オレも一晴に倣って、『荒療治』をしてみようかと思ってね」

「……それは、鈴涼にか?」

「いや、ちょっとばかし違うね。目指す場所は同じだから、全く的外れって訳じゃないんだけど」

「なんだそれ」

 遠回しな言い方だが、頭が回るやつだということは確かである。この含みのある言い方にはきっと何かしらの確証があるのだろう。蛇口から冷たい水を両手に受けながら、ひとまず健吾を信じてみることにした。

「まぁ、何かは知らんが一応頼りにさせてもらう」

「おやおや、そりゃあ気合い入れなくちゃなぁ」

 鏡越しに見た健吾は、はは、と笑っていた。あの頃隣で笑っていたこいつの笑い方は、こんなだっただろうか。日の当たらないネックレスと、藍色のアロハシャツの襟が揺れた。

 俺たちはみんなの元に戻り、夕方には中学校の散策を終えた。後藤先生や他の教員の方々にも礼を言うと、またいつでも来なさい、と前向きな言葉を頂く。桃川中学を出て、厄介な坂を今度は見下ろすことになった。すると今度は、どちらが鈴涼の車椅子を持つかという話になるわけで。

「さて、下りますか」

「さすがに帰りくらいはやるぞ」

「何言ってるんだい。下りだからこそ危ないんじゃないか」

 うぐ、と真っ当な意見に言葉が詰まる。しかしながら行きも任せた手前、何もしないというのは立場や居心地みたいなものが非常に悪い。

「ならせめて二人だ。両側から持った方が安全だろ」

「そうかい? それなら頼むよ」

「……」

 すぐ近くで行われる俺たちのやり取りを、鈴涼は終始無言で見ていた。ただ、二人がかりで慎重に坂を下り切った時には、慣れない発声で「ありがと」と伝えてくれた。それが今のことだけに対する感謝なのか、それとも今日連れ出したことへの気持ちなのかはわからない。

俺たちは分かれ道で最上親子を見送る。まん丸い茜色が随分と大きくて、改めて本日の長丁場を実感した。彼女たちが疲れていないものかと心配になったが、鈴涼の母は和やかに言ってくれた。

「一晴くん、野沢くん。今日は本当にありがとう。鈴涼も久し振りに外に出れて、すごく楽しんでいたと思うわ」

 しかしそうは言っても、内心は残念がっているに違いない。今日一日で、図書室で文集に反応を見せた以外、特に目立った出来事はなかった。

「いえ……またいつでも協力させてください。俺は受験も終わって暇なので」

「もちろんオレも手伝いますよ。と言っても、オレは一晴と違って進路は決まってないんですけどね」

 おどけた調子で言う健吾は、その外見からしてもどういう道を考えているのかさっぱりである。間違いないのは、就職にも進学にも不適切な見た目ということだけだ。

「心強いわ。でも暇な時だけで大丈夫よ。鈴涼のためにあなた達の大切な時間を使ってもらうわけにはいかないから」

 なんてできた人だろう。そう思うと同時に、胸の奥が強く締めつけられた。

 鈴涼の時間を奪った原因は紛れもなく俺だ。誰が責めなくとも、俺は樹木に括られた藁人形のようにずっと自分の心に釘を打ち据えている。この痛みから抜け出したいのならば、彼女の過去を取り戻して、誹りや呪詛を一手に引き受けねばならない。『お前が私の時間を奪ったのだ』と。

 地面を見つめる鈴涼は少し暑そうで、帽子を被る短い髪の間から汗を流している。コンクリートの熱は昼間ほどではないが、長居するのは彼女のためにもならないだろうと、どうにか一言を絞り出した。

「……また近々、お邪魔させてください」

「えぇ、もちろん。それじゃあ二人とも、気をつけて帰ってね」

「ありがとうございます」

 鈴涼は一人で歩くことができるようになるまでは入院という形を取るらしく、親子は病院へと戻っていった。その背中が見えなくなるまで見送ると、不意に健吾が問いかけてきた。

「まさか、この程度で万事解決するなんて思っちゃなかったよね?」

「当たり前だろ。たった一回……こんなことで凹んでられるか」

「良かった。作戦が失敗して落ち込んでないかと心配だったんだよ――そんな一晴に相談なんだけど」

 言うなり目の前に突き出してきたのは、派手なケースに包まれたスマートフォンだった。夕暮れを前に無駄な装飾がギラギラと光る。

「コイツを武器に、リベンジといこうじゃないか」

※――――――――――――――――――――――

 ――なんであいつら、今になって。

 その逡巡が思考を邪魔するようになったのはつい三日前からだ。最上鈴涼が目覚めたという一報とともにやって来た同級生は、いきなり私に『協力、してくれないか』などと言い放った。

 ふざけるな。あれから三年も経って、どうして今さら彼女のことを気にかけているのだ。何より、あの時一番に私たちの元から去ったのは誰だ。私の声を誰よりも拒絶したのは、他の誰でもない一晴じゃないか。

 三年振りに会った彼には当時の快活さなど欠片も無く、澱んだ瞳をしていた。それに加えて、真っ直ぐな言葉で説得する気概もない。あの頃の彼がもういないことを再認識させるには十分過ぎた。

「……あぁっ、もう!」

 モヤモヤと燻る気持ちのせいで、勉強にもろくに身が入らなかった。私は握っていたシャーペンを数式の羅列されたノートの上に放ると、私室のフローリングにばたりと倒れる。集中している時だけは悪い記憶を忘れられる。だからこうして目先の受験結果だけを追いかけているというのに。

「全部、あいつのせいだ」

 一晴が余計なことをしたばかりに、私の心はずっとざわついている。好きなはずの洋楽はなぜか気分が乗らずに止めてしまった。私は私の心が全く落ち着かない原因を全てあいつに押し付けて、近くにあったクッションを強く抱く。

 ――何があいつのせいだ。私が迷ってさえいなければ、こんなことは悩みにすらならないだろうが。

 この気持ちの整理が簡単にできていたなら、きっとすずちゃんの居ない三年間をこんな風には過ごしていなかった。理性がそれをわかっているから、どうしても私は岩本茉莉菜という人間を許せなくなる。その苛立ちを理不尽に一晴にぶつけることが、今できる唯一の現実逃避なのだ。

 優しいオレンジライトを見上げていると、ふいに部屋のドアがノックされた。

「まりねぇ……俺だけど」

 その声がする前から、部屋の前に立つのが誰であるかわかっていた。こんな午前中の時間帯は学生である私と海渡しかいないのだから。

「んー……? なんか用?」

 むぎゅ、と潰したクッションからちょっとだけ口をはみ出して応じる。少し間が空いたから届いているか不安だったけれど、私の弟は問題なさげに反応してくれた。

「友達からDVD借りたんだけどさ、なんか観れなくて。ちょっといじってくんない?」

「えぇー……」

 海渡は昔から極度の機械オンチだ。現代人の癖にスマートフォンのアプリすらまともに使えない。一体誰に似たのだろうと思いながら、私は面倒事から逃げようとして、やめた。どうせ勉強に身が入らないなら、弟の面倒の一つも見て気分を変えよう。

「わかった。すぐリビング行くから待ってて」

「うん……早めにお願い」

 勉強をすると言って部屋に籠っている手前、すぐに向かうのもどうかと思って、私は意味もなく部屋を見渡した。壁の画鋲が押さえるのは、中学の頃から変わらない数枚の写真たち。その中の一枚に写る二人の少女。一人は今よりも野暮ったいショートカットの私自身。そしてもう一人は、笑顔でストレートの黒髪を揺らしているすずちゃん。

 彼女は今、どうしているのだろう。

 中学の頃、友人は多くいた。その中でも彼女は少し特別な関係だった。同じ部活の仲間と言うには近過ぎて、でも親友と呼ぶにはあまりにも一方的な思い。共に過ごした時間は間違いなく一番長い存在で、帰り道は交差点が私たちを分かつまで一緒だった。だけどどこかで、私たちの間には越えられない一線が引かれていたのだと思う。その原因はおそらく『あのこと』に起因するのだろうが、私たちは確かに特別な友達だった。

 私はたっぷり三十秒はぼうっとしてから、リビングへと向かった。そこにはレコーダーに触れることさえ諦めた弟の姿がある。

「来たよー、海渡。それで、どれがわかんないって?」

「えっと、これなんだけど……」

 彼が手渡して来たのは良く市販されている無地のDVDだった。友達から渡されたと言っていたし、私は気分転換に弟をからかってやる。

「何? ……ひょっとして、えっちなやつ?」

「な、んな訳ないだろ! 部活の映像だよ! 練習の参考にって部員が撮ってくれたの!」

 顔を赤くしながら必死に弁解する海渡があまりに面白く、私はお腹を押さえて笑う。

「じょーだんよ、冗談。ちょっと待ってなさい」

 受け取ったディスクを機械に入れて、私はテレビの入力を合わせる。いつもビデオを見る時となんら変わらない簡単な操作だというのに、この弟はこんなこともわからないのだろうか。再生ボタンを押すと黒い画面に光が差し始め、ちゃんと機能したことを確認すると、後ろに立つ海渡に向き直った。

「……ほら、できたわよ」

「まりねぇ、ごめん」

 突然彼が謝罪を始めたことに驚いた。こんなことで何を大袈裟な、と思っていると、改めて見た弟はバスケの試合中くらい真剣な顔をしている。私は、え、と声を漏らしながら彼の真意を掴もうとして――その声が聞こえた。

『……なにしてるんだ、お前』

『いやぁ、この教室で本を読む最上さんはとても絵になるじゃないか。せっかくだし、記念に残しておこうと思ってね』

 聞き覚えのある声だった。いやほんの最近、たったの三日前に聞いたあいつらの声だ。私は思わず体をぐるりと反転させ、その画面に釘付けになった。

「すず……ちゃん?」

 小柄な体型。服装や細い骨格、薄い胸の膨らみが女の子であることを示しているが、見慣れない短い黒髪はまるで男の子のようだ。容姿は全然違うのに、それでも彼女があの最上鈴涼であることだけは疑いようもなかった。あの部屋、机、本を読む姿。静かに下を向き、風になびくカーテンから差し込んだ日光に照らされる様子。その少女は間違いなくすずちゃんだった。

 私は衝撃も束の間、弟に掴みかかるような勢いで追及する。

「ちょ、ちょっと海渡! あんたこれ、一体どういうことなの⁉ なんであんたがこんなもの……!」

 私はそこまで言って、すぐに可能性に気づいた。居るではないか。海渡の存在を使ってでも、私にこんなことができる人間が。

「一晴に頼まれたんでしょう⁉ あいつら、あたしがすずちゃんの所に行かないって言ったからって……」

「まりねぇ!」

 不意に海渡が私の両肩をがしりと掴んだ。思わぬ力に体を揺らされた私は無理矢理言葉を止められる。いつの間にか頼もしい腕を持った海渡の表情は、いつも姉へと向ける気怠げな表情ではなかった。

「かずにぃ達、本気だよ。本気でこの人のこと考えてる。だからまりねぇも……ちゃんも向き合ってあげて」

「ど、どういうことよ」

 訳がわからないまま、覚悟を決めた目で私を見つめる海渡に従った。促されてビデオの続きを見ると、あの図書室裏の部室には、顧問の後藤先生とすずちゃんのお母さんまで居る。どこか戸惑っているすずちゃんをみんなで見守っているが、その会話はどこか噛み合わない。

『わたしのは、どれ?』

 その一言が決定打だった。『銀杏』を読む彼女は、明らかに過去の自分自身の作品すら覚えていない。記憶喪失――一晴が言っていた言葉を思い出す。彼女はあの場所の思い出も、好きだった人の作品も、何もかもを覚えていないのだ。

『お前が書いた小説だ。何か、思い出すことはないか?』

『……ない』

『……そうか』

 そんなやり取りに絶句する。そして同時に全てを実感させられた。彼女は三年間の時を失い――またそれ以上に、彼女が描くはずだった物語すら失ってしまったということに。

「うそ……でしょ……」

 思わず呟いてしまっていた。一晴があそこまで必死になっていたのは、これが原因だったのだ。あらゆる人を拒絶して負に澱んでしまった少年は、彼女に向ける瞳だけを酷く複雑な感情で染め上げている。それらは全て、自分自身に向ける督責の言葉たち。すずちゃんが今、誰よりも辛い苦しみと戦っていると知ったから。

 映像は一旦途切れ、次の場所に変わった。今度はあの図書室裏ではなく、どこか見覚えのある、けれど張り紙やら備品の異なる教室だった。彼らは想い出話をしながら桃川中学校を巡回していく。その度に「わからない」「覚えていない」を繰り返す少女が不憫に見えて仕方がない。

「すずちゃん……」

 その映像の途中、インターホンが鳴った。私ははっと弾かれるようにリビングに備えられた玄関カメラを見る。そこにはあの男たちがいた。海渡に向くと、彼は何も言わずに一度だけ強く頷いた。きっと、全部わかっているのだ。

 私は急いでサンダルを履き、ドアを開けた。ばぁっと入る直射日光が視界を妨げるけれど、その先にいる影だけははっきりと見えた。

「よぅ……茉莉菜。話、聞いてくれるか?」

 三日前の間抜け面が一切無くなった、少し大人の日向一晴がそこにいた。
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