第24話 あの夏のプロローグ

文字数 3,918文字

 いつまでそうしていただろうか。あたし達は、あたし達が隠し事を続けた時間の分を取り戻すように慰め合った。同じ人を好きになってしまったなんて小説ではよくある話なのに、実際に体験することがこんなにも心を抉り、突き刺すくらい痛いだなんて。たった十五年。人生を語るには短か過ぎるあたし達は、まだまだ未熟で青かった。けれどあたし達はこの夏に、確かに少しだけ大人になったのだ。

 やがてどちらともなく抱擁を解くと、二人して見つめ合う。全てをぶちまけた後のすずちゃんは、いつもの可憐さとはかけ離れていていた。

「……酷い顔」

「そっちこそ」

 あたしの悪口にすずちゃんが笑いながら返す。心が、感情がいままでのどんな時よりも辛いはずなのに、夏の青空みたいに晴れ渡っている。傷は消えることはないけれど、二人ならきっと乗り越えられる。あたし達は親友だから。

「これから……どうしよっか」

 あたしはすずちゃんに尋ねた。お互いに泣き腫らした後の顔を正面から突き合わせながら、あたし達は未来を決断しなければならない。一晴に抱いたこの恋心に、決着を着けなければ。

 すずちゃんはうん、と一つ頷いて呼吸を整えた。そして彼女は自らの答えを示す。

「私、一晴くんのこと、諦めるよ」

 あまりにあっさりとした彼女に少しだけ唖然とした。しかしながら、彼女がこの答えのために悩み苦しんでいたことは知ったばかりだ。だからあたしはすぐに冷静になった。そこに喜びは無かった。

「そっか……本当に良いの?」

「良いの。私がまりちゃんを応援したい気持ちは本物だし、それに」

 すずちゃんはそこで言葉を一旦区切ると、窓の外の快晴を見遣って言った。

「一晴くんは、きっとまりちゃんのことが好きだから。いつも見てたから、わかってた」

 あたしはすずちゃんの言葉に顔が熱くなった。一晴はあたしが好き。その事実に胸が高鳴るのは、やはりあたしの気持ちも同じで迷いは無いからだ。きっとすずちゃんが諦めないと言っても、あたしは諦めなかっただろう。

「それにずっと前からあんなに主張されてたんじゃ、今さら勝てる気しないよー」

「あんなのわかるの、すずちゃんしかいないよ」

 微笑んで言う彼女にあたしも笑いながら返す。あたしの密かな決意も紐解いてしまう、その推理力に感心させられる。

「でもまりちゃん。一つだけお願いがあるの」

 彼女が真剣な表情に戻るので、いつになく気を引き締めた。何か途方もないことを条件に突きつけられるのかとも思ったが、あたしの親友はそんなことはしない優しい女の子だった。

「この気持ちは、私からちゃんと一晴くんに伝えさせて欲しい。伝えて、諦めて。全部が終わったら、もう一度この部活をやり直したい」

「……うん、当たり前だよ」

 あたし達の想いが壊してしまった大切な居場所。すずちゃんもまた、あたしと同じ思いだったのだ。

「やり直そう。一晴も健吾も呼んで、もう一回」

「うん。ありがとう、まりちゃん」

 彼女が笑顔で言って、あたし達はもう一度強く抱き締め合った。これからまた始めなくてはならない。あたし達が出会い、みんなが集まったあの頃のように。文学部全員でやり直して、卒業までの短い時間で、最高の思い出を作るんだ。

「じゃあ、一晴くんを探してくるね」

「うん――熱は、熱いうちが良いんだもんね」

 すずちゃんはちょっとだけ目を丸くして、すぐに「そういうこと」と微笑んだ。いつかに聞いた彼女の台詞。すずちゃんはずっと、変わらない。

「また後でね」

 いつもの流れるような黒髪を翻し、彼女は元気良く図書室を出て行った。空の青さが一段と目立つ今日には、涼し気な彼女の名前がよく似合う。軽快な、それでいて美しい声色を持つ少女は、未来を信じてやまない様子で再開を誓ってくれた。あたしは強く頷いて彼女を見送る。もう一度、二人の『願い』を叶えるために。

「……あ」

 小さな背中を見送ってから、ふと気づく。そう言えばあたし、まだちゃんとすずちゃんに謝れていないな。

 後で改めて『ごめんなさい』を言おう。彼女だけに謝らせて、あたしだけが何もないなんて不公平だ。あたし達はやっとわかり合ったのだから、きっと今度は言える。あたし達は、親友だから――



 景色がまるで認識できなかった。担架で運ばれて行く女子生徒は、あたしの良く見知った黒髪をしていた。頭部の出血をタオルで抑えられていて顔が見えないというのに、あたしはその生徒が誰だかわかってしまう。

「すず、ちゃん……?」

 彼女は決して逸脱した恰好はしていない。いつも生徒の見本のような身なりで、似たような人は校内にもたくさんいる。それなのに、あたしの頭が運ばれる少女の正体に及ぶのはあまりにも早かった。

「何で……何が、どうなってるの」

 目の前の光景が理解できていないのではない。納得したくないだけだと気づいたのは、廊下に座り込む一晴を見つけた瞬間だった。いつもの快活さとはかけ離れた表情で、彼は先生たちにとつとつと語っていた。

「鈴涼が俺を追いかけて来て……階段から落ちたんだと思います」

 そのどこまでも簡素な説明があたしの脳みそをぶん殴る。すずちゃんはあたしと別れた後、一晴を探しに行った。そして彼を見つけて追いかけ、おふざけみたいな説明の通りになってしまったというのか。

「嘘よ」

 わかり合ったばかりなのだ。さっきようやく、あたし達は初めて親友になれたのだ。そんな矢先にこんなことが起きるなんて、あんまりじゃないか。

 あたしは思った。これは全て小説の中の出来事で、次のページをめくったらいつも通りの日常がやってくる。一晴がバカをして、あたしが彼を咎めて、健吾が無理に間に入って戸惑って、すずちゃんが――すずちゃんが微笑んであたし達を見ている。

 あたし達はやり直すのだ。もう残り少ない部活動の期間。受験で忙しくなっても、きっとみんな本が好きだから読むことを止めない。だから文学部が無くても四人が集まって、またあの日々に戻るのだ。

 ふと廊下を見ると、いつの間にか先生たちから離れて一人歩く少年の後ろ姿が見えた。

「一晴!」

 あたしは必死で一晴の元へと走り、彼を後ろから呼び止めた。ゆっくりと振り向いた俯きがちな少年は、酷く生気を失ったような顔をしていた。十年来の付き合いで、出会ったことのない彼の表情だった。

「ねぇ、すずちゃんに何があったの? すずちゃん、あんたのこと探して」

「やめてくれ」

 あたしはその声にさぁっと血の気が引いた。全身が底冷えするような、普段の一晴からはとても想像できない声だったから。

「俺は――俺はもう、あいつと関わっちゃいけないんだ」

 吐き捨てるような台詞だった。初めて知る彼の一面に動揺しつつも、全ての思考が立ち止まるなと叫んでいた。今まさに壊れようとしている何かを繋ぎ止められるのは、あたししかいないのだ。

「そ、そんなことないよ。すずちゃんだって、きっと大丈夫だから。だから……」

 彼をどうにか説得しようとして、根拠もない言葉を並べた。一晴が居て、すずちゃんが戻って来たら、あたし達はやり直せる。二人が居れば、あたしは――

「こんなことになるくらいなら……初めから、鈴涼と会わなきゃ良かった」

 その言葉が、あたしの中の何か大切なものにパキ、とひびを入れた気がした。それから、一晴があたしの前を歩くことはなく、すずちゃんが学校に戻ってくることもなかった。


 窓が閉じ、カーテンも揺れない部屋。光を遮るそれをどかせば、そこにいつもの邪魔な西日が入る。あたしの影ははっきりとこの図書室裏に現れるのに、もう誰一人この場所には居ない。一晴は全てを拒絶し、すずちゃんは昏睡状態に陥ったのだと後藤先生に聞かされた。なのにあたしは、どうしてまたこの場所に来たのだろう。好きな人も親友も、誰も居ない。まだ心のどこかで信じられない部分を肯定したいのか、現実を受け入れたいのかもわからない。なのに、どうして。

 数日前の一晴の言葉が何度も反芻する。初めから、最上鈴涼と会わなければ良かったと。そうだったならきっと、彼らが傷つくことはなかった。そうすればきっと、あたしは好きな人とのありふれた時間にもっと感謝して、親友と永遠に仲良く居られた。選択を間違えたのは他の誰でもない、岩本茉莉菜という愚者である。

 取り返しのつかない過ち。あたしが彼を追いかけようとし、その先で彼女と出会わなかったなら。あたしはすずちゃんと交わらない平行線の道を辿ることが正解だった。誰かを――他の誰より大切な人達を、最悪の今に導くことはなかったのだ。

「あ、あぁっ……うぁぁぁ――」

 わかり合えた。親友として、すずちゃんと初めて心の底から語らえた。その喜びに浮かれて、あたしは再び彼女を傷つけたのだ。謝ることさえ忘れていた、馬鹿なあたしのせいで。

 誰も居ない部屋。風の入らないカーテン。止まった鈴の音は、もうあたしが動かしちゃいけない。彼女に関わることが、同じ人を好きになった親友をより深く傷つけるだけだから。


 だから『私』は、いつかの春に机の奥に閉まった眼鏡を取り出した。またこうしてレンズの奥に自分の感情を隠していれば良い。誰かの気に入るように頷いていれば上手くいく。もう大切な誰かを失わずに済む。痛みも苦しみも飲み込んで、その棘が喉に刺さって、あたしだけがボロボロになってしまえば良い。少なくとも今のすずちゃんは、そんな痛みすら感じられないのだから。

「――買い替えなきゃな」

 数年振りに付けた眼鏡はフレームが合わなくなっていた。度も全然違う。でもこの瞬間だけは、景色が見えないことがとても心地良く、そして『私』へ抱く厭悪に満たされていったのだった。
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