第13話 二日前
文字数 6,107文字
※――――――――――――――――――――――
鈴涼を桃川中学へと連れて行った翌日の早朝。俺と健吾はもう一度同じ場所へと赴いていた。炎天下を歩いた昨日よりは冷たい風に救われたが、足腰の筋肉は久し振りの運動に悲鳴を上げている。
「な、なんだって二日も続いて朝っぱらからこんな思いをしなきゃいけないんだ……」
「仕方ないだろー。オレ一人じゃどうにもならないっていうのは昨日説明したじゃないか」
坂を上り切った先でつい愚痴をこぼしてしまう。もちろん頭では理解しているのだ。これは必要な工程で、この計画には俺の存在が欠かせない。しかしわかってはいても、わざわざ好き好んで体に鞭を打ちたいと思うような人間性ではないのだ。
発案者である健吾は隣でピンピンしており、その余裕っぷりがどうにも癪に障る。
「夏休みに早朝から叩き起こされて、挙句日頃の運動不足も突っつかれてるんだ。文句の一つくらい言わせろ」
途中途中に荒い呼吸を挟んだせいで、言葉の中に覇気は一切なかった。喉の潤いが空気中に抜けたことを実感していると、健吾が持って来ていた水筒を手渡してくる。マメな男になったなぁ、という有り体な感想を抱いた。
「一晴も運動の一つもすると良いよ。進学も決まってるんなら、暇な時間はいくらでもあるでしょ」
「運動部にも入ってなかった人間が、今さら好き好んで動こうなんて思わん……ってか、お前はなんかやってんのか?」
「部活はやってないよ。ランニングと筋トレが日課なだけ」
その発言に嘆息が漏れた。中学まではもやしっ子だった癖に、さらりとそんなことを言いやがるようになってしまって。元気が取り柄だった俺の長所まで取られては、もうすっかり何もかも敵わない。今唯一抵抗できそうなのは学力くらいだが、健吾が本気を出せば俺なんかよりも余程成績が良いことは中学の時に知っている。
「俺、多分お前に勝てる要素無いわ……」
「腑抜けたね、全く。昔の一晴はもっと勝ち気だったよ」
「中学生なんて、何でもできると驕ってるもんだろ。生きてる時間もろくに少ないのに、見えてる世界の中じゃ一丁前だ。歳食えば、誰だって相応に現実を見るようになる」
「それ、今から会う連中の誰にも言うなよ……まだまだ夢見る子たちばっかりなんだから」
呆れ顔の健吾が忠告してくる。俺は「はいはい」と雑な返事をしてから上り切った坂道を見下ろした。昔はこの道を大した苦にも思わず、友達と馬鹿話をしながら通り過ぎて行ったものだ。もしかしたら、苦難を増やしているのは個人の主観なのかもしれない。
「夢、ね……」
馬鹿話の中には、将来何になりたいかなんて話題もあった。この坂は部活の終わった文学部の四人でよく話をしながら下っていたから。
「一晴の夢は作家じゃなかった?」
「それこそ夢を見過ぎだ。小説家なんて俺の手に余る」
「じゃあもう文章は書いてないのかい?」
「あぁ」
これは誰にも言わないが、物語を考えるとそれだけで中学時代のことを思い出す。それほどあの時間は俺の文学に対する価値観を決定付けたのだ。だからこそ、その最後はどこか失敗の付き纏うのではないかと思い込んでいる自分がいた。
「そうかい。でもオレは……」
「でも、鈴涼のことは諦めるつもりはない」
健吾の先を遮って言う。それは俺の決意表明で、驚き顔をした友人に言質を取らせるつもりで。
「鈴涼の物語は止まったままだ。俺は上手い文章なんて書けないけど、あいつのこれからの人生を動かす材料くらいにはなってやりたい。そしたら、きっと……」
その先は随分と自己中心的な感情で言えなかった。俺はあの日から日向一晴という人間を嫌悪している。やはりどこまでいってもエゴイストな自分なんて、誰も好きになれようはずもない。
「……でもオレは、一晴の物語が好きだよ。今も、多分これからも」
健吾は俺の気持ちを知ってか知らずか、そんなことを言ってくれる。俺は隣に立つ男の頼もしさを実感しつつ、振り返った先の校舎を見つめた。そして健吾は雰囲気を一新するために強く柏手を打った。
「さて! この先に必要な登場人物のためにも、頑張りますかぁ」
「すぐに現れてくれりゃ良いんだけどな。下手したら夕方までの長丁場だ……そうはなって欲しくないけどな」
「やる気を削ぐようなことを言うなよ」
目を細めてこちらを見る健吾の視線から逃げていると、やがて深いため息が聞こえた。行くよ、という合図で俺たちは校舎の裏側へと回り込む。そして他よりは低めの金網を見つけると、健吾は強度を確かめてからよじ上り始めた。つまり不法侵入である。俺は随分とお粗末な計画者に向かって苦言を呈した。
「ってか、なんで今回はアポ取ってないんだよ」
「言ったろ。昨日は最上さんのことで来たのに、そいつらが翌日も、それに男二人でくるって怪しさしかないじゃないか」
「それはそうだが……この方がよっぽど怪しいってちゃんと気づいてるか? ルール破りたがりの不良みたいな思考だぞ」
「……」
「図星かよ!」
露骨に黙った健吾は真面目さすら過去に捨てて来たらしい。俺は少し楽しんでいそうな背中を眺めつつ、致し方無し、と覚悟を決めたその時だった。
「こらぁ! お前ら、そこで何してんだ!」
知らない強面の教師が教室の窓からしっかりと犯罪者を見張っていた。
※
「まったく……なんで前日にはできていたことができないの? 昨日はちゃんとアポ取ってくれてたわよね?」
「返す言葉もございません……」
俺と健吾は名前も知らない初対面の強面教師にこってりとしごかれている途中、事情を知る後藤先生によってどうにか救出された。しかし後藤先生の怖さを知っている俺たちからすれば、体面的な状況は良くなっても心境は大して変わらない。鬼か悪魔か、彼らは俺たちにとってはその程度の誤差でしかないのだ。
「その……オレが悪いんです。ちょっと冒険気分を味わってみようかなー、とか思っちゃって……」
苦笑い混じりに反省を述べる健吾だが、目の前の悪鬼の瞳に撃ち抜かれてあえなく撃沈する。やめろ健吾。この人には抵抗できない。中学時代に幾度となく怒られた俺が保証する。
心の中で遅過ぎる警鐘を鳴らしていると、後藤先生は驚きと呆れの混ざったような顔になって言う。
「……あなた本当に野沢くん? 昔はもっと真面目で、自分からルール破りなんてしなかったじゃない」
「その、まぁ心境の変化と言いますか……」
再び強烈な視線が射出されたことで下らない言い訳は許されなかった。先生は重たいため息を吐くと、俺と健吾をしっかりと見つめる。
「あなたたちが何の考えも無しに動く子たちだとは思っていないわ。もちろん、いつでも遊び心が原動力な辺りも、しっかりと把握してます」
ぐさ、という叱責の音が俺たちに突き刺さる。昔は俺が健吾を振り回しては校則やマナーに反して説教されたものだ。今となっては俺たちの立場は逆だが、目の前の女性との生徒と先生という関係は変わっていない。
「昔はそれで良かったの。子どもの好奇心は大人が矯正してあげるものだから……でもね、大人は違う。それをすることの意味やリスク、誰かの気持ちを、ちゃんと考えなくちゃいけない」
――誰かの気持ちを考えること。それは今俺が一番しなくてはいけない、そう学んだはずのことだ。
だから後藤先生は鈴涼を前にして、あれほど苦しさと悔しさを募らせたのだろう。あの頃先生自身が大人として、子どもの鈴涼を見てあげられなかった。その自責の念を見た時、俺は自分のことばかりを考えていた。いつの間にか子どもと呼ばれる年ではなくなって、一人の大人として見られるようになっている。
「考えて考えて考えて、やっと行動するの。若いあなたたちからは悠長に見えるかもしれないけどね。子どもの頃に動いていた時間は、頭を動かすようになるの。人間の体がどんどん弱っていくことにだって、ちゃんと意味はあるのよ」
疲れを知らない子どもの体。俺はそれを失った後、人と関わることをやめてしまった。だから誰かの気持ちに疎いまま。考えることを停滞させたから、俺の気持ちは茉莉菜に通じなかった。
「……すみませんでした」
俺の根底に潜んでいる問題。これは命題だ。俺はこれから、真に誰かの気持ちを汲むということの意味を考え続けなくてはならない。ただ鈴涼の記憶を取り戻してやれば良いというわけじゃなく、その過程で誰かを傷つけてはいけないのだ。
「すみませんでした、後藤先生。オレも金輪際、できるだけ、悪ふざけはしません」
「野沢くんは昔ほど信用できなくなっちゃったから、今後は信頼を取り戻すように精進しなさい?」
「……はい」
頷いた健吾の口がこえー、と動いたのを俺は見逃さない。しかしながらこれ以上先生たちの話を聞くことに時間を費やすわけにはいかなかった。俺は今日学校に来た理由を説明しようとする。
「先生。その、こんなことになって言いづらいんですけど、俺たち一応目的があって来たんです」
「……言ってみなさい?」
「茉莉菜の弟……岩本海渡くんに会いたいんです」
これが俺たちの本来の目的。本当は学校の目立たない場所に忍んで、おそらく部活のために校門からやってくるであろう海渡を捕まえようとしていたのだ。一言でも言葉を交わし、約束さえ取り付けられればそれで良かったため学校との大袈裟なやり取りを避けようとして……結果としては大事になりかけている。つまり俺たちの浅はかさを露呈するだけの形になってしまった。
「岩本さんの弟くん? それは、どうして?」
「詳しいことはちょっと……でも、茉莉菜を鈴涼に会わせるためには必要なことなんです」
「――それはちゃんと、岩本さんのことを考えてあげてるの?」
後藤先生は鋭い視線で俺を追及する。
「岩本さんは、直接誘ってもこなかったんでしょう? 彼女は最上さんに会うことを望んでるの?」
それは昨日も彼女に尋ねられたことだった。そしてその時に、直前に断られたことも話している。俺はついさっきの言葉を思い出して、少しだけ迷った。
「俺の中では、しっかり考えた……つもりです。茉莉菜が今、何を思ってて、どうしたいと思ってるのか。健吾とこの計画を実行する上で昨日ちゃんと議論しました」
とは言え、どう繕っても強引なやり口だ。俺たちの計画の中にも希望的観測が混ざっていないとは口が裂けても言えない。
「でも責任感の強いあいつが、鈴涼のことをどうでも良いなんて思うはずない。会わないことにも何か事情があるんじゃないかと」
「何かって?」
「それは、わかりません」
ただ彼女はおそらく鈴涼に対して何かしらの負い目を感じている。本来であれば彼女は鈴涼の一友人としてその身を案じるだけの立場のはずだ。それ以上の何かがあると、俺は踏んでいる。
「具体的な答えは、一つも出ていないのね」
「……」
俺はぐうの音も出せずに黙り込む。このまま先生にやめろと助言されれば、多分その方が良い。俺たちの思慮の浅い計画など、第三者が見ればそれは綻びだらけの泥舟なのだから。
「――良いわ。それがあなたたちの考えついた最善なら、そうしなさい」
しかし、答えは予想と正反対のものだった。顔を上げて見てみれば、妙齢の女性は優しく微笑んでいた。
「あなたたちは考えた。最上さんのことも、岩本さんのことも。だったら後は正面からぶつかりなさい。日向くんと岩本さんは、いつもそうしていたでしょう?」
それは三年の歳月が過ぎる前の話だ。俺はそう反論しようとしたけれど、さっきとは打って変わった穏やかな瞳に言葉を遮ることが躊躇われる。
「人間、正面からぶつかるのは案外難しいのよ? 相手の顔色や態度を窺って、そうやって人付き合いをしていく……でもあなたたちは違った。よく顔を見合わせて、相手と違う自分の意見を真っ向から主張していた。それは、誰とでもできることではない」
言われてみれば、と思った。人は誰かと衝突した時、現状以上に被害や傷口を拡げないためにどこかで逃げる言葉を選んでいる。でもそれでは、雨降って地固まる、なんてことわざは生まれない。逃げた分だけそいつとの距離は離れてしまうから。
今こうして健吾と一緒にいるのだって、健吾がお互いに正面から本気でぶつかる機会をくれたからだ。俺は人の気持ちに疎いから、ぶつかることでしか、まだ誰かの心を開けない。後藤先生はきっとそう諭してくれているのだと思う。
「それに、そうやってぶつかった相手のことは、誰よりも覚えているものよ?」
「……わかりました」
結局のところ先生が俺たちに言いたいことは「似たもの同士だ」ということなんだろう。不器用なりの不格好な本気で、不器用な人間にぶつかっていけば良い。似たもの同士なら、わかり合える想いが必ずあるはずだ。
「あと……これは先生からのアドバイスよ」
「なんですか?」
俺が聞き返すと、後藤先生は慈愛のある表情を茶目っ気たっぷりにして言った。
「岩本さんの説得には、日向くん一人で行きなさい? その方が、きっと上手くいくはずよ」
「それってどういう……」
「あ、別に野沢くんが悪いからじゃないのよ」
後藤先生はそれ以上のヒントを与えてくれるつもりは無いらしかった。やはりこの先生とはどうにも相性が悪い。何十歩も先を見据えたような言葉は、今の俺にはとても理解できるものではなかった。
「さぁ行って来なさい。岩本さんは優しい子だから、きっと友達を邪険にはしないわ」
後藤先生の言葉に背中を押され、二人揃って職員室の席を立つ。その時、後ろから体に響く野太い声がした。
「おいお前ら」
俺も健吾もびくっと背筋を伸ばしながらゆっくりと振り向く。そこに居たのは俺たちを連行したガタイの良い男性教員。か細い返事しか出せない俺たちに代わるように、後藤先生が軽く頭を下げる。
「野崎先生。ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。後藤先生が謝ることじゃあないですよ」
どうやらこのヤクザ紛いの強面の先生は野崎と言うらしい。先程のどこまでも届きそうな怒鳴り声がフラッシュバックして気が滅入る。
「な、なんでしょうか」
上ずった返事になってしまったが、大男は気に止めないで俺たちに近づいた。少し見上げなければ顔がしっかりと見えない。まるで熊や山に比喩したくなる外見である。
「お前ら、岩本探してるって言ったな。そりゃ二年の男子か」
「え? えー……はい。そのはずです。姉と四つ違ったはずなので」
茉莉菜と海渡の誕生日は二人とも七月だ。つまり先月に姉は十八、弟は十四になっている。最後に会ったのが小学生の頃の姿だった海渡は印象がかなり違って驚いたものだ。
「今、体育館で部活やってる」
「え」
野崎の言っていることが一瞬だけわからなかった。しかしそれはすぐに俺たちの求めている人間の居場所だと理解する。俺と健吾はなぜか協力的な熊男の姿勢に唖然とさせられた。
「俺はあいつの顧問だ。バスケ部のな。もう練習終わりの時間だから、連れてってやる」
俺たちの悪運は意外過ぎるところで発揮されていた。ただし、それは体育館までの無言の気まずさという形でツケを払わされることになる。
鈴涼を桃川中学へと連れて行った翌日の早朝。俺と健吾はもう一度同じ場所へと赴いていた。炎天下を歩いた昨日よりは冷たい風に救われたが、足腰の筋肉は久し振りの運動に悲鳴を上げている。
「な、なんだって二日も続いて朝っぱらからこんな思いをしなきゃいけないんだ……」
「仕方ないだろー。オレ一人じゃどうにもならないっていうのは昨日説明したじゃないか」
坂を上り切った先でつい愚痴をこぼしてしまう。もちろん頭では理解しているのだ。これは必要な工程で、この計画には俺の存在が欠かせない。しかしわかってはいても、わざわざ好き好んで体に鞭を打ちたいと思うような人間性ではないのだ。
発案者である健吾は隣でピンピンしており、その余裕っぷりがどうにも癪に障る。
「夏休みに早朝から叩き起こされて、挙句日頃の運動不足も突っつかれてるんだ。文句の一つくらい言わせろ」
途中途中に荒い呼吸を挟んだせいで、言葉の中に覇気は一切なかった。喉の潤いが空気中に抜けたことを実感していると、健吾が持って来ていた水筒を手渡してくる。マメな男になったなぁ、という有り体な感想を抱いた。
「一晴も運動の一つもすると良いよ。進学も決まってるんなら、暇な時間はいくらでもあるでしょ」
「運動部にも入ってなかった人間が、今さら好き好んで動こうなんて思わん……ってか、お前はなんかやってんのか?」
「部活はやってないよ。ランニングと筋トレが日課なだけ」
その発言に嘆息が漏れた。中学まではもやしっ子だった癖に、さらりとそんなことを言いやがるようになってしまって。元気が取り柄だった俺の長所まで取られては、もうすっかり何もかも敵わない。今唯一抵抗できそうなのは学力くらいだが、健吾が本気を出せば俺なんかよりも余程成績が良いことは中学の時に知っている。
「俺、多分お前に勝てる要素無いわ……」
「腑抜けたね、全く。昔の一晴はもっと勝ち気だったよ」
「中学生なんて、何でもできると驕ってるもんだろ。生きてる時間もろくに少ないのに、見えてる世界の中じゃ一丁前だ。歳食えば、誰だって相応に現実を見るようになる」
「それ、今から会う連中の誰にも言うなよ……まだまだ夢見る子たちばっかりなんだから」
呆れ顔の健吾が忠告してくる。俺は「はいはい」と雑な返事をしてから上り切った坂道を見下ろした。昔はこの道を大した苦にも思わず、友達と馬鹿話をしながら通り過ぎて行ったものだ。もしかしたら、苦難を増やしているのは個人の主観なのかもしれない。
「夢、ね……」
馬鹿話の中には、将来何になりたいかなんて話題もあった。この坂は部活の終わった文学部の四人でよく話をしながら下っていたから。
「一晴の夢は作家じゃなかった?」
「それこそ夢を見過ぎだ。小説家なんて俺の手に余る」
「じゃあもう文章は書いてないのかい?」
「あぁ」
これは誰にも言わないが、物語を考えるとそれだけで中学時代のことを思い出す。それほどあの時間は俺の文学に対する価値観を決定付けたのだ。だからこそ、その最後はどこか失敗の付き纏うのではないかと思い込んでいる自分がいた。
「そうかい。でもオレは……」
「でも、鈴涼のことは諦めるつもりはない」
健吾の先を遮って言う。それは俺の決意表明で、驚き顔をした友人に言質を取らせるつもりで。
「鈴涼の物語は止まったままだ。俺は上手い文章なんて書けないけど、あいつのこれからの人生を動かす材料くらいにはなってやりたい。そしたら、きっと……」
その先は随分と自己中心的な感情で言えなかった。俺はあの日から日向一晴という人間を嫌悪している。やはりどこまでいってもエゴイストな自分なんて、誰も好きになれようはずもない。
「……でもオレは、一晴の物語が好きだよ。今も、多分これからも」
健吾は俺の気持ちを知ってか知らずか、そんなことを言ってくれる。俺は隣に立つ男の頼もしさを実感しつつ、振り返った先の校舎を見つめた。そして健吾は雰囲気を一新するために強く柏手を打った。
「さて! この先に必要な登場人物のためにも、頑張りますかぁ」
「すぐに現れてくれりゃ良いんだけどな。下手したら夕方までの長丁場だ……そうはなって欲しくないけどな」
「やる気を削ぐようなことを言うなよ」
目を細めてこちらを見る健吾の視線から逃げていると、やがて深いため息が聞こえた。行くよ、という合図で俺たちは校舎の裏側へと回り込む。そして他よりは低めの金網を見つけると、健吾は強度を確かめてからよじ上り始めた。つまり不法侵入である。俺は随分とお粗末な計画者に向かって苦言を呈した。
「ってか、なんで今回はアポ取ってないんだよ」
「言ったろ。昨日は最上さんのことで来たのに、そいつらが翌日も、それに男二人でくるって怪しさしかないじゃないか」
「それはそうだが……この方がよっぽど怪しいってちゃんと気づいてるか? ルール破りたがりの不良みたいな思考だぞ」
「……」
「図星かよ!」
露骨に黙った健吾は真面目さすら過去に捨てて来たらしい。俺は少し楽しんでいそうな背中を眺めつつ、致し方無し、と覚悟を決めたその時だった。
「こらぁ! お前ら、そこで何してんだ!」
知らない強面の教師が教室の窓からしっかりと犯罪者を見張っていた。
※
「まったく……なんで前日にはできていたことができないの? 昨日はちゃんとアポ取ってくれてたわよね?」
「返す言葉もございません……」
俺と健吾は名前も知らない初対面の強面教師にこってりとしごかれている途中、事情を知る後藤先生によってどうにか救出された。しかし後藤先生の怖さを知っている俺たちからすれば、体面的な状況は良くなっても心境は大して変わらない。鬼か悪魔か、彼らは俺たちにとってはその程度の誤差でしかないのだ。
「その……オレが悪いんです。ちょっと冒険気分を味わってみようかなー、とか思っちゃって……」
苦笑い混じりに反省を述べる健吾だが、目の前の悪鬼の瞳に撃ち抜かれてあえなく撃沈する。やめろ健吾。この人には抵抗できない。中学時代に幾度となく怒られた俺が保証する。
心の中で遅過ぎる警鐘を鳴らしていると、後藤先生は驚きと呆れの混ざったような顔になって言う。
「……あなた本当に野沢くん? 昔はもっと真面目で、自分からルール破りなんてしなかったじゃない」
「その、まぁ心境の変化と言いますか……」
再び強烈な視線が射出されたことで下らない言い訳は許されなかった。先生は重たいため息を吐くと、俺と健吾をしっかりと見つめる。
「あなたたちが何の考えも無しに動く子たちだとは思っていないわ。もちろん、いつでも遊び心が原動力な辺りも、しっかりと把握してます」
ぐさ、という叱責の音が俺たちに突き刺さる。昔は俺が健吾を振り回しては校則やマナーに反して説教されたものだ。今となっては俺たちの立場は逆だが、目の前の女性との生徒と先生という関係は変わっていない。
「昔はそれで良かったの。子どもの好奇心は大人が矯正してあげるものだから……でもね、大人は違う。それをすることの意味やリスク、誰かの気持ちを、ちゃんと考えなくちゃいけない」
――誰かの気持ちを考えること。それは今俺が一番しなくてはいけない、そう学んだはずのことだ。
だから後藤先生は鈴涼を前にして、あれほど苦しさと悔しさを募らせたのだろう。あの頃先生自身が大人として、子どもの鈴涼を見てあげられなかった。その自責の念を見た時、俺は自分のことばかりを考えていた。いつの間にか子どもと呼ばれる年ではなくなって、一人の大人として見られるようになっている。
「考えて考えて考えて、やっと行動するの。若いあなたたちからは悠長に見えるかもしれないけどね。子どもの頃に動いていた時間は、頭を動かすようになるの。人間の体がどんどん弱っていくことにだって、ちゃんと意味はあるのよ」
疲れを知らない子どもの体。俺はそれを失った後、人と関わることをやめてしまった。だから誰かの気持ちに疎いまま。考えることを停滞させたから、俺の気持ちは茉莉菜に通じなかった。
「……すみませんでした」
俺の根底に潜んでいる問題。これは命題だ。俺はこれから、真に誰かの気持ちを汲むということの意味を考え続けなくてはならない。ただ鈴涼の記憶を取り戻してやれば良いというわけじゃなく、その過程で誰かを傷つけてはいけないのだ。
「すみませんでした、後藤先生。オレも金輪際、できるだけ、悪ふざけはしません」
「野沢くんは昔ほど信用できなくなっちゃったから、今後は信頼を取り戻すように精進しなさい?」
「……はい」
頷いた健吾の口がこえー、と動いたのを俺は見逃さない。しかしながらこれ以上先生たちの話を聞くことに時間を費やすわけにはいかなかった。俺は今日学校に来た理由を説明しようとする。
「先生。その、こんなことになって言いづらいんですけど、俺たち一応目的があって来たんです」
「……言ってみなさい?」
「茉莉菜の弟……岩本海渡くんに会いたいんです」
これが俺たちの本来の目的。本当は学校の目立たない場所に忍んで、おそらく部活のために校門からやってくるであろう海渡を捕まえようとしていたのだ。一言でも言葉を交わし、約束さえ取り付けられればそれで良かったため学校との大袈裟なやり取りを避けようとして……結果としては大事になりかけている。つまり俺たちの浅はかさを露呈するだけの形になってしまった。
「岩本さんの弟くん? それは、どうして?」
「詳しいことはちょっと……でも、茉莉菜を鈴涼に会わせるためには必要なことなんです」
「――それはちゃんと、岩本さんのことを考えてあげてるの?」
後藤先生は鋭い視線で俺を追及する。
「岩本さんは、直接誘ってもこなかったんでしょう? 彼女は最上さんに会うことを望んでるの?」
それは昨日も彼女に尋ねられたことだった。そしてその時に、直前に断られたことも話している。俺はついさっきの言葉を思い出して、少しだけ迷った。
「俺の中では、しっかり考えた……つもりです。茉莉菜が今、何を思ってて、どうしたいと思ってるのか。健吾とこの計画を実行する上で昨日ちゃんと議論しました」
とは言え、どう繕っても強引なやり口だ。俺たちの計画の中にも希望的観測が混ざっていないとは口が裂けても言えない。
「でも責任感の強いあいつが、鈴涼のことをどうでも良いなんて思うはずない。会わないことにも何か事情があるんじゃないかと」
「何かって?」
「それは、わかりません」
ただ彼女はおそらく鈴涼に対して何かしらの負い目を感じている。本来であれば彼女は鈴涼の一友人としてその身を案じるだけの立場のはずだ。それ以上の何かがあると、俺は踏んでいる。
「具体的な答えは、一つも出ていないのね」
「……」
俺はぐうの音も出せずに黙り込む。このまま先生にやめろと助言されれば、多分その方が良い。俺たちの思慮の浅い計画など、第三者が見ればそれは綻びだらけの泥舟なのだから。
「――良いわ。それがあなたたちの考えついた最善なら、そうしなさい」
しかし、答えは予想と正反対のものだった。顔を上げて見てみれば、妙齢の女性は優しく微笑んでいた。
「あなたたちは考えた。最上さんのことも、岩本さんのことも。だったら後は正面からぶつかりなさい。日向くんと岩本さんは、いつもそうしていたでしょう?」
それは三年の歳月が過ぎる前の話だ。俺はそう反論しようとしたけれど、さっきとは打って変わった穏やかな瞳に言葉を遮ることが躊躇われる。
「人間、正面からぶつかるのは案外難しいのよ? 相手の顔色や態度を窺って、そうやって人付き合いをしていく……でもあなたたちは違った。よく顔を見合わせて、相手と違う自分の意見を真っ向から主張していた。それは、誰とでもできることではない」
言われてみれば、と思った。人は誰かと衝突した時、現状以上に被害や傷口を拡げないためにどこかで逃げる言葉を選んでいる。でもそれでは、雨降って地固まる、なんてことわざは生まれない。逃げた分だけそいつとの距離は離れてしまうから。
今こうして健吾と一緒にいるのだって、健吾がお互いに正面から本気でぶつかる機会をくれたからだ。俺は人の気持ちに疎いから、ぶつかることでしか、まだ誰かの心を開けない。後藤先生はきっとそう諭してくれているのだと思う。
「それに、そうやってぶつかった相手のことは、誰よりも覚えているものよ?」
「……わかりました」
結局のところ先生が俺たちに言いたいことは「似たもの同士だ」ということなんだろう。不器用なりの不格好な本気で、不器用な人間にぶつかっていけば良い。似たもの同士なら、わかり合える想いが必ずあるはずだ。
「あと……これは先生からのアドバイスよ」
「なんですか?」
俺が聞き返すと、後藤先生は慈愛のある表情を茶目っ気たっぷりにして言った。
「岩本さんの説得には、日向くん一人で行きなさい? その方が、きっと上手くいくはずよ」
「それってどういう……」
「あ、別に野沢くんが悪いからじゃないのよ」
後藤先生はそれ以上のヒントを与えてくれるつもりは無いらしかった。やはりこの先生とはどうにも相性が悪い。何十歩も先を見据えたような言葉は、今の俺にはとても理解できるものではなかった。
「さぁ行って来なさい。岩本さんは優しい子だから、きっと友達を邪険にはしないわ」
後藤先生の言葉に背中を押され、二人揃って職員室の席を立つ。その時、後ろから体に響く野太い声がした。
「おいお前ら」
俺も健吾もびくっと背筋を伸ばしながらゆっくりと振り向く。そこに居たのは俺たちを連行したガタイの良い男性教員。か細い返事しか出せない俺たちに代わるように、後藤先生が軽く頭を下げる。
「野崎先生。ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。後藤先生が謝ることじゃあないですよ」
どうやらこのヤクザ紛いの強面の先生は野崎と言うらしい。先程のどこまでも届きそうな怒鳴り声がフラッシュバックして気が滅入る。
「な、なんでしょうか」
上ずった返事になってしまったが、大男は気に止めないで俺たちに近づいた。少し見上げなければ顔がしっかりと見えない。まるで熊や山に比喩したくなる外見である。
「お前ら、岩本探してるって言ったな。そりゃ二年の男子か」
「え? えー……はい。そのはずです。姉と四つ違ったはずなので」
茉莉菜と海渡の誕生日は二人とも七月だ。つまり先月に姉は十八、弟は十四になっている。最後に会ったのが小学生の頃の姿だった海渡は印象がかなり違って驚いたものだ。
「今、体育館で部活やってる」
「え」
野崎の言っていることが一瞬だけわからなかった。しかしそれはすぐに俺たちの求めている人間の居場所だと理解する。俺と健吾はなぜか協力的な熊男の姿勢に唖然とさせられた。
「俺はあいつの顧問だ。バスケ部のな。もう練習終わりの時間だから、連れてってやる」
俺たちの悪運は意外過ぎるところで発揮されていた。ただし、それは体育館までの無言の気まずさという形でツケを払わされることになる。