第9話 同じ目

文字数 4,705文字

※――――――――――――――――――――――

 ――スライド式の扉を開くと、そこはいつも夢の世界だった。誰かの妄想が詰まった非現実は、日常で満足至らなかった俺には素晴らしい未開拓の領域だったから。

「ちゃーす!」

「……日向くん? もう少し静かに入室できないのかしら?」

 図書室の入り口すぐのカウンターを見れば、そこには黒髪の妙齢の女性がいた。生徒からは物静かでエロい先生だとか言われているけど、俺にとっては気兼ねなく接することのできる良い教師であることに間違いない。

「うげ、後藤先生。今日当番だったのかよ」

「うげ、とは失礼な子ね。あなた声が大きいって、よく三嶋先生につまみ出されてるそうじゃない?」

 その言葉にうっ、と息が詰まる。俺の密かな三嶋チャレンジ(根比べ)がまさか部活動の顧問にまで伝わってしまっていたとは。しかしながら、これは後藤先生を頼った三嶋先生の実質的な敗北であり、俺はあのやかましいおばさんから一本取ったというわけで……

「今度同じことをしたら、あなた入室禁止になるそうよ?」

「はぁ⁉」

「そういう反応もね?」

 俺は大人の怖さを思い知らされ、できるだけ静かな足取りでカウンターの内側に入っていく。

「ねぇ先生。今日は俺が一番?」

「残念、もう鈴涼ちゃんが来ているわ。もう五分早かったら一番だったかもね」

「うっそだろ! あいつどんだけ早く来てんだよ! 俺、今日先生の話の途中でこっそり抜けて来たのに!」

「それはそれで問題になるわよ?」

 俺は微妙な表情をした後藤先生の後ろを通って、その先にある扉に手をかける。そこは生徒たちに『図書室裏』と呼ばれ、元々は都合により図書室に置けない本や学校司書の先生の休憩所になっていた部屋だ。しかし、今は俺たちの目論見によって大きく様相を変えている。ガチャリとドアノブを捻ると同時に、中にいるはずの少女に向かって大きく叫んだ。

「おーっす!」

 部員分だけ確保した机と椅子。その上にはこの図書室から各々が持ち寄った選りすぐりの本たち。全員が蔵書を好きなように読み、興味を持った誰かがまた読むためにそこに残す。文学部はそんな風に回し読みをしては、互いに感想を述べ合う――そんな部活だ。

「あ、一晴くん。こんにちは」

 中でも全員が紹介した本をくまなく読破するのが、この勤勉な最上鈴涼という少女だった。彼女は部活設立以前から茉莉菜と親交があったようで、いつも誰より早くこの図書室裏に来ては、みんながお勧めする本を手にしている。晴れの日に開けられた窓からそよぐ風が、彼女の髪を揺らしていた。

「鈴涼ぃー、お前早すぎるだろ。どうやったら途中抜けしたやつより早くこれるんだよ」

「途中抜け……? うーん、担任の赤松先生の話が短いからかな。私は特別急いでるわけじゃないんだけど」

「赤松ってあのやる気なさそうな人か。なんか納得した」

 社会科担当の赤松先生は「めんどくせぇ」が口癖だ。授業も簡素な説明で構成されていて、テスト直前はどの授業よりも早く自習の時間を設け始める。もちろん自由な時間が増えるのは授業嫌いな俺としてはありがたいことなのだが、鈴涼のように真面目に授業を受けている生徒から好評なのはかなり意外だった。

「でも赤松先生って、意外と良い先生なんだよ。わからないところはちゃんと歴史の背景に触れて教えてくれるもの」

 苦笑混じりに言う鈴涼の言葉に、へぇという感想が漏れる。教卓を枕に寝たこともある教師が、まさかそこまで面倒見が良かったとは。

「授業以外で話したことない……いや、授業ですら話したことなんてないな」

「案外そんなものだよ。私たちだって、お互いがまりちゃんと知り合いじゃなかったら話す機会もなかったんだから」

 『まりちゃん』とは、俺の幼馴染みである岩本茉莉菜の愛称だ――とは言っても、鈴涼以外が呼んでいるシーンは見たことがない。二人が仲良くなった経緯を俺は知らないけれど、確かにあいつが居なければ、こうして鈴涼と話すこともなかったかもしれない。無論、同じ学校に通っている時点で可能性が皆無と言うわけではないが、少なくとも現状クラスの違う一年生の間に話すことはなかったと断言できる。

「一期一会、ってか。なんか小学生くらいのとき流行ったよな」

「あ、私まだボールペン持ってるよ。今度持ってこよっか?」

「いやいいよ」

 他愛無い会話だ。必要性なんて一切無くて、それでも俺は俺たちが関わる時間が何よりも大切だと思っていた。だからその一室で待ち遠しい足音が聞こえてくるのも、気づけば心が躍っていて。

「あー! 一晴もすずちゃんも早すぎ! なんで⁉」

 最大限早く、それでいて音だけは立てないように気遣っているのだろう。勢い良く開かれた扉の場所に栗色のショートカットと彼女より背が低い少年が見える。

「はっ、部長さんはいつも遅いねぇ」

 俺はいつものように軽口から始める。なんでか茉莉菜と話すときは、自然とからかうような口調になってしまうのだ。別に彼女のことを嫌いなわけでもないのにどうしてそんなことをしてしまうのか、自分でもよくわからない。

「あたし先生の話が終わってから急いで来たのに……悔しい!」

 こんなことで顔を赤くする部長は心底俺のことを酷いフィルターをかけて見ているに違いない。そんな彼女に向かって、一緒に来た健吾が弱々しく宥める。

「し、仕方ないよ岩本さん。偶然見えたんだけど、一晴はホームルームの最中に抜け出してたんだから」

「はぁ⁉」

「おいバカ健吾! なにバラしてくれてんだ!」

 友人の思わぬ裏切りに俺は反射的に大声を上げる。それを聞いた茉莉菜は一層表情を険しくしてから俺を睨んだ。

「一晴あんたねぇ! 活動停止にでもさせられたらどうすんのよ!」

「これぐらいでなるかよ!」

 俺は追いかけてくる茉莉菜から机を使ってぐるぐると逃げ回る。「先生が来るから」と心配する健吾と、笑って事の顛末を見守る鈴涼。俺たちの彩られた日常は、いつも騒がしく、ただ楽しかった。本の世界よりも俺を退屈させてくれないその日々は、今でも鮮明に思い出せる。

※――――――――――――――――――――――

 だからこの部屋の中には、過去の思い出が詰まっているように思えた。教室で使っていた机が車輪付きの長机になっていても、積まれた蔵書の数々が俺たちの歩いていた道を塞いでいても。変わり果てた図書室裏に残る僅かな隙間だけで、あの時間へと入り浸ることができる。

「……懐かしいな」

「ホントだね」

 最近は口数の多い健吾も、今だけは短い言葉で俺を肯定する。きっと彼の目の中にもあの情景が想起されているに違いない。爪痕が残っていなくても、俺たちが過ごした時間はまだ心の中に刻まれていた。その自認が胸をズキリと傷つけてもこれがスタートだ。鈴涼と向き合うということの、始まりの痛みだ。

「ごめんなさいね? あなたたちが卒業してから、この部屋は倉庫代わりにさせてもらっているの。なにせ文学部はあなたたちだけだったから」

「それは仕方ないですよ、先生。オレたちは好きなことを話せる場所が欲しかっただけで、後輩が欲しかったわけじゃないんですから」

 健吾の言う通り、俺たちはそれぞれの自己満足のために部活動という体系を求めていた。もし放課後のクラスの教室に誰も居なかったなら、俺たちはそこで日常を送っていたかもしれない。

「そう言ってもらえると、助かるわ」

 後藤先生は鈴涼の前にかがみ込んで、ゆったりとした聞き心地の良い声で語り始める。それはあたかも児童へと絵本を読み聞かせるように、一つ一つの言葉を大切にしているようだった。

「ここはね、あなたと日向くん、野沢くん。そしてここには居ないけれど、岩本さんという女の子と二年間過ごした場所なのよ」

 鈴涼は後藤先生の話に関心を示したようで、じっと続きを待っている。その様子はまるで与えられるものを見るだけの子どもだったけれども、後藤先生の声だけを求めているようには見えなかった。

「あなたたちはいつも本の話をしていたわ。みんなが好きな本を、一人一人の解釈で読み解いていくの。新しい発見があったら、とても嬉しそうにして」

「……」

「あなたはこの教室にいつも一番に来て、みんなを待つの。みんなが教えてくれた本を読みたいからって、でも私が借りちゃったらみんなが読めないからって」

 この何年もの間、知る由もないことだった。鈴涼にはそんな意図があったから、いつも早くこの教室にやって来ていたのだ。ただテキパキと帰り支度ができる人間だったわけではなく、この部活に気を使って。

鈴涼は部員の中では本を一番早く読めたから、彼女なりに俺たちが楽しみやすい状況を作ってくれていたのだ。

「そう、あなたたちはいつも笑っていたのよ。たまに図書室の人たちに迷惑になるくらい。その度に私が叱りに入って行って……」

 後藤先生の声が消え入るように揺れた。気がつけば、先生は睫毛に涙を溜めながら鈴涼の体を抱き寄せていたのだ。俺は先生の行動に驚いて口を開きかけたが、なぜか駄目だという直感が横切って言葉を失う。

「ごめんなさいね……私、あの時何もしてあげられなかったわ。あなたが悩んでいたことに気づいていたのに、話してくれるまで待っていようって、あなたの強さに甘えたの……」

 鈴涼の悩みとは、きっと俺との関係のことだろう。クラスで起きた一件で文学部にも顔を出さなくなった俺に向き合うため、彼女は悩み、考え、とうとう俺の元へとやって来たのだ。そんな彼女を俺は拒絶した。逃げ出したことで、彼女の勇気を否定してしまったのだ。

 ――先生、違うんだ。謝らなくちゃいけないのは、償わなきゃいけないのは、俺なんだ。

 しかし現実は、俺が存在しない罪の意識を背負うように、後藤先生も自責の念にずっと駆られていたのだ。いくら誰かが罪を否定しても、俺が俺を許せなかったように。

 後藤先生が一層強く鈴涼を抱き締めると、彼女は先生に応えるように両腕を持ち上げ、背中へと回した。そして、慣れない発声でぽつりと言う。

「おかあさんと、おなじ、め」

「……え?」

「おか、さんとおなじ、め、してる。おとうさんとも、かずはるくんとも、おなじ」

 まだ拙い声が切れ切れに、でも懸命に伝えようとしている。同じ目とは一体なんだろうか。彼女の世界に、俺たちはどう映っているのだろう。心の中に浮かんだ疑問に答えるように、彼女は続けた。

「みんな、わたしにやさしく、してくれる。でもわたし、やさしいのりゆう、しらない」

 それはあの誓いの日に鈴涼から聞いた言葉にそっくりだった。彼女が受け入れられない――否、受け入れざるを得ない懐疑だ。自分が何者かわからなくて、けれど誰もが優しさを向けてくれることに戸惑っている。その乖離が、他者との心の距離が悩みとなって鈴涼の心を苛んでいる。だからその意味を知るために、彼女は今日ここへ来てくれたのだ。

「――でも、そのめは『やさしい』の」

 鈴涼は語り続ける。言葉の繋がりが流暢でなくても、彼女の願いまでは途切れないように。

「やさしいのりゆう、は、わからない。でも、そのめのみんなは『やさしい』。だから、せんせも、きっと『やさしい』の」

 過去も理由も知らない。でも、優しい。まっさらでわからないことだらけの不条理な世界を歩む鈴涼が見つけた、彼女だけのかけがえのないもの。鈴涼の新しい景色の中で『やさしい』の色は確かに生まれていたのだ。

 先生は泣いていた。鈴涼が優しいと言った瞳を濡らしながら。それが救いだったのかはわからないけれど、俺が突き動かされた風鈴の音は、先生の心にも届いているような気がした。
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