『最上鈴涼』を探して
文字数 2,450文字
「おかえり、鈴涼」
背中からかけられた男性の言葉に、何だか違和感を感じていた。初めて見る家というだけではなくて、「おかえり」を外から言われること。その言葉は、本当に扉を閉めながら言う言葉なのだろうか。わたしは聞き慣れない挨拶が腑に落ちないまま何を言うこともできなかった。
「……」
その様子を見ていた女性が気遣った嘆息をこぼす音が聞こえる。また、わたしは誰かを傷つけてしまった。ようやく喉の痛みも治まって退院の許可が下りたのに、これでは病院に居た頃と何も変わらない。わたしは、お世話をしてくれる彼らに少しでも笑っていて欲しいのに。
――彼らが望むのは。
「ただいま。お父さん、お母さん」
何か大切なものがすっぽりと抜け落ちた呼び方をした。こんなもので泣きそうな笑顔が見れるなら、『わたし』は何度だって口にする。借り物に過ぎない、ずるくて冷たい言葉。わたしの知らない歴史の中で大切にされていた音には、わたしの気持ちは乗せられない。
※
病院の色は『白』。わたしが最初に目覚め、抱いたのはそんな漠然としたイメージだった。何も無いのではなく、何があるかわからない。見える機械、繋がった管、現れた人。何もかもが見覚えのない景色。そしてすぐに気づいた。自分自身の全てまでもが真っ白なことに。
「鈴涼!」
心配そうに見つめる女性がわたしの方へ向かって必死に呼んだ。叫ぶように何度も、繰り返して、何度も。やがて『すずり』が『わたし』を示しているのだと理解した。だってわたしの後ろには、誰も居なかったから。女性はとても泣いて、抱き締めて、泣いて、泣いて、泣いた。その姿はなんだか女性のイメージからは遠くかけ離れたものだったような気がした。けれど、そのおかげで悲しくて泣いているんじゃないということはわかった。その間、わたしは何もできなかった。でも、どうしてか体は離れたいと思わなかった。
女性はわたしの『おかあさん』を名乗り、力の入らない体を動かすことにとても協力してくれた。ずっと動いていなかったらしい体はパキパキと骨を鳴らし、痛かった。でもそれよりもっと痛かったのは喉だった。喋ることができず、聞きたいことも聞けない。それを察知した病院の先生は、わたしに『はい』なら一回、『いいえ』なら二回強く目を閉じるよう言ってから、二択の質問をし始めた。
質問が始まってすぐ、先生や看護師や女性の顔が険しくなった。それは多分、わたしが殆どの問いかけに二度、目を閉じているからだ。核心を突いたのは、自分の名前がわかるかな、という質問だった。
わたしは『わたし』以外の自分を知らない。質問に答えることでそのことを伝えると、『おかあさん』は酷く慄いているような表情になった。その反応の答えが受け入れ難い現実を突きつけられたのだと知ったのは、もう少し後だった。
やがて夕方頃に『おとうさん』を名乗る男性が現れた。彼もまた、わたしをいたく心配していることは理解できた。ただ、いつまでもその理由が、わからない。
「鈴涼ちゃんは逆行性健忘――いわゆる記憶障害だと思われます」
白衣の先生は淡々とそう言った。その言葉はどれだけの重みを含んでいたのだろうか。『おかあさん』はまた衝撃を受けたようになって、揺れた体を『おとうさん』に支えられた。
「それは……いずれ戻るものなのでしょうか?」
『おとうさん』は至って冷静な様子で先生に尋ねた。少し怖い印象を受けたけれど、それが平常ではないことはずっと『おかあさん』の背を離さないことで明らかだった。
「多くの事例からすると、可能性は高いです。ただそれが、明日なのか一年後なのか……もっと先になるのかは、見通しがつくことではありません」
その言葉は、当人であるわたしよりも両親の方に強い衝撃を与えたようだった。彼らは多分、深い悲しみを負ったのだと思う。きっと、わたしのせいで。
「希望的観測に過ぎませんが、彼女が今後、記憶と馴染みの深い場所で生活することでふと思い出すこともあるかもしれません。リハビリを終えたら、色々な場所に連れて行って刺激を与えてあげてください」
「はい……」
『おかあさん』の弱々しい様子が余計にわたしの胸をぎゅうっと締め付ける。彼女のことを知らないのに、彼女を悲しませることがどうしてか酷く罪深いような気がして、わたしは少しだけ息が止まった。
「鈴涼ちゃん。頑張ろうね」
先生に励まされたけれど、正直に言ってわたしはどうすれば良いのかわからなかった。知らない人の記憶、知らない人の優しさ。『鈴涼』という少女に向けられた全ての感情を、わたしが抱え込むことができるのだろうか。全てを失くし、まっさらになったわたしに、そんな想いの全てを与えられる資格があるのだろうか。
「鈴涼……きっと、思い出そうね」
ただ一つ確信があるとしたら、『おかあさん』が求めているのは今の『わたし』ではないということ。『最上鈴涼』の家族が求めるのは、記憶を失う以前の本物の『鈴涼』だ。
――わたしが『わたし』のままで居ることに、意味は無いんだ。
真っ白だった心の中に、何か黒いものが混じった気がした。それはあたかも種のように根付き、わたしの中で芽を生やす。
――思い出そう。わたしの全ての価値は、『わたし』じゃないわたしにある。
そう思うほどに、どうしてか自分の何かにヒビが入ったような感覚があった。この心が壊れた時、わたしは『最上鈴涼』を取り戻せるのだろうか。恐怖を抑えつけて、わたしは目覚めて――いや、生まれて初めて、一つ目の決心をする。
だから。
「やさしいの、りゆう、おしえてくれる?」
誰よりも複雑な目を向けた男の子に向かって、わたしは問う。少年の心は、誰よりもわたしを見据え、誰よりも『最上鈴涼』を遠ざけているように思えたから。『おかあさん』でも、決意のあるあの瞳でもない。迷いを持つ少年だからこそ、きっと『鈴涼』の多くを知っている。いつかこの人となら――ひび割れた心の隙間から、そんな誰かの声が聞こえた気がした。
背中からかけられた男性の言葉に、何だか違和感を感じていた。初めて見る家というだけではなくて、「おかえり」を外から言われること。その言葉は、本当に扉を閉めながら言う言葉なのだろうか。わたしは聞き慣れない挨拶が腑に落ちないまま何を言うこともできなかった。
「……」
その様子を見ていた女性が気遣った嘆息をこぼす音が聞こえる。また、わたしは誰かを傷つけてしまった。ようやく喉の痛みも治まって退院の許可が下りたのに、これでは病院に居た頃と何も変わらない。わたしは、お世話をしてくれる彼らに少しでも笑っていて欲しいのに。
――彼らが望むのは。
「ただいま。お父さん、お母さん」
何か大切なものがすっぽりと抜け落ちた呼び方をした。こんなもので泣きそうな笑顔が見れるなら、『わたし』は何度だって口にする。借り物に過ぎない、ずるくて冷たい言葉。わたしの知らない歴史の中で大切にされていた音には、わたしの気持ちは乗せられない。
※
病院の色は『白』。わたしが最初に目覚め、抱いたのはそんな漠然としたイメージだった。何も無いのではなく、何があるかわからない。見える機械、繋がった管、現れた人。何もかもが見覚えのない景色。そしてすぐに気づいた。自分自身の全てまでもが真っ白なことに。
「鈴涼!」
心配そうに見つめる女性がわたしの方へ向かって必死に呼んだ。叫ぶように何度も、繰り返して、何度も。やがて『すずり』が『わたし』を示しているのだと理解した。だってわたしの後ろには、誰も居なかったから。女性はとても泣いて、抱き締めて、泣いて、泣いて、泣いた。その姿はなんだか女性のイメージからは遠くかけ離れたものだったような気がした。けれど、そのおかげで悲しくて泣いているんじゃないということはわかった。その間、わたしは何もできなかった。でも、どうしてか体は離れたいと思わなかった。
女性はわたしの『おかあさん』を名乗り、力の入らない体を動かすことにとても協力してくれた。ずっと動いていなかったらしい体はパキパキと骨を鳴らし、痛かった。でもそれよりもっと痛かったのは喉だった。喋ることができず、聞きたいことも聞けない。それを察知した病院の先生は、わたしに『はい』なら一回、『いいえ』なら二回強く目を閉じるよう言ってから、二択の質問をし始めた。
質問が始まってすぐ、先生や看護師や女性の顔が険しくなった。それは多分、わたしが殆どの問いかけに二度、目を閉じているからだ。核心を突いたのは、自分の名前がわかるかな、という質問だった。
わたしは『わたし』以外の自分を知らない。質問に答えることでそのことを伝えると、『おかあさん』は酷く慄いているような表情になった。その反応の答えが受け入れ難い現実を突きつけられたのだと知ったのは、もう少し後だった。
やがて夕方頃に『おとうさん』を名乗る男性が現れた。彼もまた、わたしをいたく心配していることは理解できた。ただ、いつまでもその理由が、わからない。
「鈴涼ちゃんは逆行性健忘――いわゆる記憶障害だと思われます」
白衣の先生は淡々とそう言った。その言葉はどれだけの重みを含んでいたのだろうか。『おかあさん』はまた衝撃を受けたようになって、揺れた体を『おとうさん』に支えられた。
「それは……いずれ戻るものなのでしょうか?」
『おとうさん』は至って冷静な様子で先生に尋ねた。少し怖い印象を受けたけれど、それが平常ではないことはずっと『おかあさん』の背を離さないことで明らかだった。
「多くの事例からすると、可能性は高いです。ただそれが、明日なのか一年後なのか……もっと先になるのかは、見通しがつくことではありません」
その言葉は、当人であるわたしよりも両親の方に強い衝撃を与えたようだった。彼らは多分、深い悲しみを負ったのだと思う。きっと、わたしのせいで。
「希望的観測に過ぎませんが、彼女が今後、記憶と馴染みの深い場所で生活することでふと思い出すこともあるかもしれません。リハビリを終えたら、色々な場所に連れて行って刺激を与えてあげてください」
「はい……」
『おかあさん』の弱々しい様子が余計にわたしの胸をぎゅうっと締め付ける。彼女のことを知らないのに、彼女を悲しませることがどうしてか酷く罪深いような気がして、わたしは少しだけ息が止まった。
「鈴涼ちゃん。頑張ろうね」
先生に励まされたけれど、正直に言ってわたしはどうすれば良いのかわからなかった。知らない人の記憶、知らない人の優しさ。『鈴涼』という少女に向けられた全ての感情を、わたしが抱え込むことができるのだろうか。全てを失くし、まっさらになったわたしに、そんな想いの全てを与えられる資格があるのだろうか。
「鈴涼……きっと、思い出そうね」
ただ一つ確信があるとしたら、『おかあさん』が求めているのは今の『わたし』ではないということ。『最上鈴涼』の家族が求めるのは、記憶を失う以前の本物の『鈴涼』だ。
――わたしが『わたし』のままで居ることに、意味は無いんだ。
真っ白だった心の中に、何か黒いものが混じった気がした。それはあたかも種のように根付き、わたしの中で芽を生やす。
――思い出そう。わたしの全ての価値は、『わたし』じゃないわたしにある。
そう思うほどに、どうしてか自分の何かにヒビが入ったような感覚があった。この心が壊れた時、わたしは『最上鈴涼』を取り戻せるのだろうか。恐怖を抑えつけて、わたしは目覚めて――いや、生まれて初めて、一つ目の決心をする。
だから。
「やさしいの、りゆう、おしえてくれる?」
誰よりも複雑な目を向けた男の子に向かって、わたしは問う。少年の心は、誰よりもわたしを見据え、誰よりも『最上鈴涼』を遠ざけているように思えたから。『おかあさん』でも、決意のあるあの瞳でもない。迷いを持つ少年だからこそ、きっと『鈴涼』の多くを知っている。いつかこの人となら――ひび割れた心の隙間から、そんな誰かの声が聞こえた気がした。