第4話 やさしいの、りゆう

文字数 3,888文字

 握らされた連絡先をそのままに、俺はいつの間にか自室のベッドで仰向けになっていた。健吾の連絡先と思しき英数字の羅列は、昨今のスマートフォン所持者なら誰もが搭載しているアプリのものだろう。思えば高校に入ってからというもの、連絡先などろくに増えていない。母親の十年物のガラケーが溺死なさって、スマートフォンに機種変更したときくらいだろうか。

「健吾、変わってたな……」

 見た目の話だけではない。昔の彼は引っ込み思案で、連れ出してやらないと本ばかり読んでいたというのに、それが今や立場はすっかり逆転してしまったらしい。いや、こうして足踏みしているだけなら、昔の健吾の方がまだ勇敢だった。

「俺は……」

 本当にここで燻っているだけで構わないのか。誰かを想って行動を起こせるようになった健吾を見習うべきではないか。しかし、鈴涼から全てを奪った俺ができることなんて一体何があるのだろう。偽善と自責がせめぎ合い、思考が鈍る。

「俺、は」

――『誰にも裁かれない罪があるなら、自分から償えよ! 日向一晴!』

 蝉が同じ音を繰り返すみたいに、健吾の言葉が脳内で反響していた。

 俺が背負うべき罪は誰からも与えられることはない。反省文もなく、生活を奪われるわけでもなかった。学校の先生も鈴涼の両親も、ただ不幸な事故だったと俺を許してくれた。だけど、一番後悔しているのは。一番懺悔したいのは。

 俺は一週間振りに制服に袖を通すと、さっきまでは気にもしていなかった息苦しい暑さの下を歩き出した。動けば、何かが変わるかもしれない――そんな都合の良い期待だけを抱いて。今だけは炎天下に焼かれる頭の脆弱さがありがたかった。

 蝉の声だけが、聞こえる。



 電車を降り、十分ほど歩けば鈴涼の眠る病院にたどり着く。こんなに近くで彼女が闘っていたのに、俺はその居場所さえ知ろうとしなかった。鈴涼のお母さんは、俺を仲の良い同級生と言ってくれていたけれど、優しい娘の友達がこんな薄情な奴だとは夢にも思わなかっただろう。

 真夏の空気と遮断されたエントランスに入り、簡単な受付をして病院を歩く。数日前の記憶を頼りに閑静な廊下を進むと、鈴涼の居る部屋まではすぐに至った。ノックして、聞き覚えのある返事を合図に病室のドアをスライドさせる。

「いらっしゃい、一晴くん。来てくれたのね」

 微笑みながら歓迎する母親の様子は、どこか中学時代の鈴涼に似ていた。親子の鱗片を感じつつ、俺は目を合わせることもできないまま言う。

「はい……すみません、手土産も持たずに」

「ぜーんぜん! そんなの気にしないで。鈴涼も喜ぶわ。ね?」

「……ん」

 起きていた鈴涼が殆ど聞き取れない返事とともに頷く。健康的とは言い難いその横顔に、俺はまた息が詰まった。

「立ってないで、座って座って。もし一晴くんが良ければ、昔の話を鈴涼にしてあげて欲しいのよ」

「昔の、話……ですか?」

「そうなの。昨日、野沢くんが来てくれたんだけど……あ、鈴涼から聞いてたイメージと全然違ったから、本人かどうか疑っちゃったけど」

「あの変わりようには、俺でも驚きました」

 鈴涼の母親が申し訳なさそうに笑うものだから、俺も率直な感想を告げる。彼女が「良かった」と再び笑ったのを見て、この人は強い人なんだなと思った。

「でもすぐに色んなこと話してくれたわ。文学部で、みんながいつもどんなことしてたのか。一晴くんや茉莉菜ちゃん、もちろん鈴涼についてもね」

「そうなんですか……困ったな、そうしたら、俺の話すことなんてありませんよ」

「そんなこと言わないで。野沢くん、言ってたわよ。『文学部で最上さんとよく一緒にいたのは、一晴や岩本さんでした』って」

 健吾に似せて喋ったセリフは、どちらかと言うと昔の彼を思い起こさせた。健吾もあんな身なりながら、最上家の現状を慮っていたのだろう。そうやって礼儀だけは忘れない辺りが心底あいつらしいと思った。

「そうですね……それなら、京都で清水寺観光を逃した話、とか」

 我ながらどんなセレクトだと突っ込みたくもなったが、鈴涼の母親は気にすることなく娘に語りかける。

「そう言えば昔、鈴涼も言ってたわね! ぜひ聞かせてもらいましょう? ね、鈴涼」

 鈴涼はまた短くか細い返事をする。まるで興味という色彩を失ってしまったような様子に、なぜか俺の拳は強く握られていた。それを自覚して肩の力を抜くと、俺は母親と同じようにベッド横の椅子に座ってゆっくりと語り出す。

「あれは中三の六月で、修学旅行に行ったんだ。それで、クラスは違ったけど、文学部のみんなで一緒に自由時間を過ごすことになって……」

 過ぎていく時間はどれほどだっただろう。昔の憧憬を思い返しながら、俺はできるだけ詳細に、知り得る情報を全て使って話し続けた。鈴涼の母がいることも忘れて、あたかも一つの教室にいるような感覚。

――そう、まさに、あの頃二人で机を挟んで、語らっていた頃のように。



「ごめんなさいね。私、お手洗いに行ってきますから」

 話の区切りに、鈴涼の母はそう言って病室を少しの間だけ離れて行った。夢中になって話していたことが恥ずかしくなって、俺は顔を伏せる。

 結局、鈴涼は時折相槌を打つ程度で、記憶に対する反応を示すことはなかった。しかしそれは当然のことだ。思い出を語るだけで彼女の記憶が戻るなら、より濃密な時間を過ごしていたはずの家族のほうが適任なのだから。

「余裕……あるはずないよな」

 娘のため一心不乱になって家族が行動している。三年もの間、一度の見舞いにも来たことのない同級生にさえ、こうして呼び掛けている。

「なんで、そこまでできるんだろうな」

 俺は彼女の目も憚ることなく乾いた笑いを溢す。逃げ出した俺なんかとは違う。少なくとも鈴涼を本気で思う人達は、この三年間、休みなく奔走し続けているのだろう。健吾が言うように、弱くなってしまったらしい俺にはそんなことはできない。

「……んで?」

「……? 鈴涼?」

 突如として掠れた声を発した鈴涼は、なにか言いたげな様子だった。俺が近くに置いてあった水を飲ませてやると、彼女はどうにか言葉を紡ぐ。

「なんで、おかぁさん、わたし、に、やさしく、する?」

「えっ?」

「おとぉさん、も、そう。なんで、わたしに、やさしくする、の?」

 何を当たり前のことを、と思った。生みの親、育ての親――愛情を持つ者ならば、実に当然のことだ。助ける道理はそれ以上でも以下でもなく、その優しさに理由なんて必要ない。俺は深く考えることもなく言った。

「そりゃ、親だからだろ」

「『おや』は、やさしくする、の? わたし、おかぁさん、おとぉさん、しらない、のに?」

「あ……」

 その一言で、俺が当然だと思っていた世界にパキパキと亀裂が生じた。彼女が忘れているのは思い出ばかりではない。鈴涼の両親が『両親』たる事実すら、忘れているのだ。

 例えば、俺の前に突然本当の親を名乗る人間が現れたとしよう。DNAや血液型が書類上一致したとして、実際に俺は彼らを容易に信じられるのだろうか。彼らが与えてくれる優しさを、何の疑いもなく、いつ捨てられるかも考えずに素直に受け止められるのか。

 鈴涼の陥っている状況とは、つまりそういうことなのだろう。自分との関係を主張する人間が、彼女に真剣に向かい合い、そして無償の愛を授けていく。右も左もわからない世界で、根拠もなく彼らを信じなければ生きることさえままならない。

「しらないのに、なんでやさしくするの?」

 その再びの問いに、俺は答えを出すことも、鈴涼を直視することさえできなかった。自分の考えの至らなさに、吐き気が込み上げてくる。

 ――彼女は一番大切な人からの愛を、素直に受け止めることができないのだ。

「そんな、こと……」

 ようやく意識が戻ったのに、これではあんまりだ。残酷な現実に飲み込まれる鈴涼が、とても惨めに思える。この時、俺は初めて実感したのだ。

 最上鈴涼は、まだ『あの時間』にいる。

 今は稚拙な喋り方も、管の繋がれた身体も、いずれは回復していくだろう。それでも記憶が無い彼女はあの夏に取り残されたまま、やがて大切なもので悩み、重荷とし、辛い思いを抱えてしまう。そんなことを許して良いものか。

「俺が……奪ったんだ」

「……?」

「俺があの日、お前に向き合っていれば、こんなことにはならなかったんだ」

 記憶が無く、不思議そうな顔しかできない彼女に向かって、俺は実に利己的な独白をしていた。

「お前から逃げて、お前から奪った時間も意識もあったのに、俺は全部無駄にしたんだ」

 高校生活という青春、思春期に訪れる葛藤。鈴涼が経験するはずだったこと全てから、俺は逃げ出した。全てはあの日を始まりに、俺は誰にも干渉されない遠い場所へと踏み入れて鍵をかけた。きっとそれこそが、健吾の言う今の俺の弱さの一つなのだろう。

「――だから、もう逃げない」

 我ながら弱々しいこの声が、俺の最初の一歩だ。

「お前の記憶を取り戻す。それが、俺にできる贖罪だ」

 レイアウトには無関心の病室。茂る木の枝しか覗くことのない窓。この見飽きた景観から鈴涼を連れ出し、かつての記憶を蘇らせる。例え何年かかろうと、それが俺のすべき償いだと確信したから。

「やさしいの、りゆう、おしえてくれる?」

「あぁ」

「おかぁさん、おとぉさんのこと、わかるように、なる?」

「もちろんだ。俺が、思い出させてやる」

「……うん」

 鈴涼の声があの頃の微笑みと重なったのは、俺の気のせいじゃないと思えた。この光景が当たり前だった頃のために、俺はもう逃げることなんて、許されない。
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