第3話 変貌と、膠着と。

文字数 4,503文字

 中学校生活が始まると、俺は毎日の放課後を図書館で過ごすようになっていた。その頃はまだ部活にも入っておらず、「帰っても暇だから」くらいの気持ちだった。小学校の頃は頻繁に遊んでいた幼馴染みの茉莉菜もあまり構ってくれなくなり、ちょっとした寂しさを紛らわすのにも丁度良かったのだと思う。

 そんな日々が一週間も続いた頃、俺は図書室の同じ席を毎日陣取っている少年の存在に気づいた。小学生みたいに小柄で、黒髪は短めに切り揃えられている。レンズの厚い丸眼鏡を通して、何やらカラフルな表紙の文庫本を読んでいた。ちらと彼の足元を見遣ると、学校規定の上履きの色が俺と同じ赤いラインで、同級生なのだと悟る。

「ねぇ、何読んでんの?」

 その頃の俺は人との交流に活発で――単なる恐れ知らずなだけだったのかもしれない――誰にでも臆することなく話しかける迷惑なやつだった。

「えっ」

 丸眼鏡の地味な少年は、ものすごく驚いた表情でおどおどしていた。聞こえなかったのかと思って、もう一度言い直す。

「何読んでんの?」

 しかし少年は蛇に睨まれたみたいに動かない。俺は痺れを切らして、その手から文庫本をすっと抜き取ってやった。

「あっ」

 抵抗じみた声が漏れていたが、彼の行動はそれだけだった。俺はそれ以上何もされないのを良いことに内容に目を走らせる。すると挿絵に描かれたキャラクターが実に見覚えのあるもので、俺は一人で歓喜した。

「これ、『ソレイユ・ソルスィエ』じゃん!」

「し、知ってるの?」

「ったり前じゃん! この主人公、超カッケーよな!」

 ちょうど半年ほど前にアニメが放送されていたので、夜に親が寝静まるのを見計らってリビングにあるテレビに張り付いていたのだ。主人公が放つ派手な技の数々は、当時の俺の心をがっちりと掴んでいた。

「アニメの最終回とかさ、超良かったよな! あのラスボスからヒロイン助け出して、主人公やっぱすげぇって感じ!」

「だ、だよね! あれ、僕もすっごい好きだった!」

 少年も俺の言葉に強く賛同してくれて、話題を途切れさせまいとヒートアップしかけていた。声が閑静な図書室に響こうとしたとき、カウンターの方から鋭い声が飛んだ。

「こらっ! 図書室では静かにしなさい!」

 ありがちな注意に二人して身を竦めた。俺はバツの悪い顔で先生に会釈すると、怯える少年に向かって再び小声で話し始める。

「これ知ってるヤツ全然いないんだよ。こんなに面白いのに」

「ら、ライトノベルだしね……知ってても、あんまり言いたくないんじゃないかな……」

「え、なんで?」

 キョトンとした表情でその理由を問う俺。少年は、だって、と弱々しい声で続ける。

「ラノベって、偏見が強いっていうか……お、オタクが読む本、みたいな? 暗いイメージ持たれるの嫌だって人多そうだし……」

 今にして思えば少年の懸念は正解だろう。多感で大人びようとする中学生が読むには些か子どもっぽく映るかもしれない。しかしもっと幼き俺には、世間の風当たりを気に留める器など存在しなかった。

「そんなことねぇだろ!」

 注意されたばかりだというのに、俺は声を荒らげていた。俺にとって小説は等しく『小説』であり、異なるのはジャンルだけで、その価値は等しいものだと信じてやまなかったから。

「好きなもんも好きって言っちゃいけないわけねぇだろ! 誰にも言えないってことは、それはお前が自分に自信持ってねぇだけなんだよ!」

「……!」

 ――今にして思えば、突然話しかけ、いきなり叱責を飛ばし始めるとんだ迷惑客だ。案の定、俺は先生に引っ張り出され、その日は図書室の出入りを禁じられてしまった。

 図書室を出る直前、複雑な表情でこっちを見ている少年に向かって殆どヤケクソで叫んだ。

「お前ーっ! 今度本の話しようなーっ!」

「うるさいっ! 早く帰りなさい!」

 ドアが閉まり切るまで、俺は名前も知らない少年にぶんぶんと手を振っていた。

 それが野沢健吾との出会いだった。



「嘘だろ……お前、ホントに健吾か……?」

 俺は目の前に立つ金髪の少年――野沢健吾に、口をぱくぱくさせながら指を向ける。失礼だなんて言葉はすっかり忘れてしまっていた。

「そうだよ。正真正銘、キミの一番のファンの野沢健吾さ」

 健吾はおどけたような口調で答える。俺は記憶とのあまりの乖離に、この暑さが生み出した幻覚ではないかと疑ってしまう。しかし彼は確かにそこに存在し、今度は記憶の方を疑った。

「俺が知ってる健吾は年中制服で、シャツは一番上のボタンまで欠かさずとめる生真面目だったと思うんだが……」

「えぇ、そんなの暑いじゃん。この炎天下だよ?」

 アロハシャツのボタンを二つ開けている健吾は、パタパタと煽ぐ素振りを見せた。会話もまるで健吾としているように感じられない。三年前の彼は、もっとおっかなびっくりな話し方をしていたはずだ。しかし俺の前に立つのは、俗に『陽キャ』と呼ぶに相応しい人間である。

「一体いつの間に地球の生態系は反転したんだ?」

「してないよ。それにそれを言うならキミもだろ」

 彼は以前の俺の活発さが失われたことを見抜いてか、指を突き返してくる。俺は極力鬱陶しそうな顔で指を掴んだ。

「俺はそんな天変地異起こしてねぇよ……それよりお前、いつからそんな格好してんだ?」

「ん? あぁ、イメチェンしたのは高校の初めからだよ。やってみたら意外と性に合っててね」

「嘘だろお前……」

 さっきと似たような言葉を吐き出しながら、だらりと伸びていた腕がさらに落ちる。俺は高校デビューを果たした友人にニの句が継げなくなっていた。思わぬところで時の流れを実感させられ、受け止めきれるキャパシティを超えてしまったらしい。

「オレはオレだよ。紛う事無き野沢健吾クンさ」

「その『オレ』ってのもやめろ。似合わねーんだよ」

「酷いなぁ」

 からからと笑う健吾は、一人称まで変わり、自らの三年間の空虚さが身に染みる。人とはここまで変化する生き物だったのか。

「今日はそんな用で来たわけじゃないんだよ」

 健吾はこれも昔にはしていなかった、大袈裟な身振り手振りを加えて話を進める。まるで別人と話しているような違和感を拭えないまま、俺は目の前の自称『野沢健吾』に短い返事を送った。

「……なんだ」

「ズバリ、最上さんのことさ」

 思わぬ、いや、ある意味予測できた事態だったかもしれない。だからこそ、殴られたような衝撃が俺を襲った。

「……なんでお前が鈴涼のこと」

「いわゆるママ友ネットワークさ。いやはや、母親の耳ってのは怖いもんだよね」

「そうじゃねぇよ」

 俺は話が脱線しそうな健吾を睨む。

「なんでお前が鈴涼のことを気にかけてる。関係無いだろ」

「関係無いとは酷いな。オレだって文学部の一員だよ? 昔の同級生が三年振りに目覚めたなら、手助けだってするさ」

「軽薄そうな格好するようになったわりに、よくそんな義理人情深いことが言えたな」

「見てくれで人を判断するなよ。それに一晴こそ、よく最上さんの状態を見てこんなところに燻るようになったね。昔じゃ考えられない」

「……知ってたのか。俺が鈴涼のところに行ったこと」

 健吾はオレも昨日行った、と短く答える。どうやら彼も母親経由で彼女の目覚めを聞き、病院へと足を運んだとのことだ。聞き及んですぐに行動するあたり、以前よりも快活さを増した彼は、どこぞの少年漫画の主人公のような性格になっているのかもしれない。

「本題だよ、一晴。……彼女のために、オレらでなにかしてあげないかい?」

「……なんで今さら」

 俺は吐き捨てるように言った。三年間、俺と健吾はお互いに連絡を取り合おうともしなかったのだ。さらに鈴涼の病院に赴いたのも最近。目覚めたから手助けなど、酷く都合が良いではないか。

「今だからこそさ。これまでなにもしてこれなかったんだ。今くらい、なにかできることだってあるかもしれないだろ?」

「そんなもん、俺らのすることじゃないだろ」

「一晴!」

 家に戻ろうとした瞬間、健吾が語調を荒らげて呼び止めてくる。彼からは聞いたことのないような声に思わず足を留めた。

「キミはそれで良いのか!」

 良いか悪いか。その二択を迫られたとしたら、答えはきっと悪いのだろう。鈴涼をあんな目に遭わせ、鈴涼から逃げ、過去の自分すら忘れようとしている。実に、実に悪いやつだ。

「良いんだよ。どうせ、なんにもできやしない」

 拒絶するように諦念を呟いた。もうこれ以上、あの頃の思い出に今を上塗りしたくはない。鈴涼も健吾も俺も、もう変わり果ててしまったのだから。

「あの事故のとき、誰よりも自分の無力を嘆いていたのはキミだったじゃないか!」

 俺は思いがけず、あの日を想像してしまった。長くたおやかな髪が複雑に絡み、意識とは乖離して広がる血潮を。そして聞こえてきたのは、誰とも知らない気遣いの台詞。

『あれは誰のせいでもない』

 沢山聞いた。鬱陶しいくらい聞いた。励まし? 慰め? 勝手だ。

『気負わなくて良い』

 忘れろとでも? 無理だ。できないことを言うな。あの光景、あの姿を、羽虫のごとく振り払えと?

『君のせいじゃない』

 じゃあなんで、鈴涼があんな目に遭った――!

 気づけば健吾の胸ぐらを掴んでいた。腕は自分のものとは思えないほど、気持ち悪いくらいに血管が浮き出ている。

「なら俺を裁けよ!」

 中学時代よりは高い、それでも小柄な健吾の体は実に軽く感じられた。しかし、彼の瞳が俺から離れることはなかった。

「俺に罪があるんだろ⁉ ならお前が俺を裁けよ!」

 彼の双眸は揺らぐことなどなく、やはり俺を真っ直ぐに捉えている。なぜ逃げないのか。なぜ逃げずにいられるのか。その問いは泡のように現れ、ぱちりと消える。健吾はもう、弱々しく怯えていた頃の健吾ではないことを、明瞭に認識させられた。

 俺は膝の力が抜けて、その場にへたり込む。そして、変わった彼に懇願するように言った。

「お前が、俺を殺してくれっ……」

「いつからそんなに弱くなったんだい、キミは」

 健吾の表情は見えなくとも、その声が悲嘆や呆れといった感情を伝えてくる。失望、という言葉が似合っていたかもしれない。

「少なくとも、昔のオレを救ってくれたキミは、そんなじゃなかったよ」

「お前に、なにがっ……」

「少なくとも、キミが今遠ざけようとしているものは、見えてるよ」

 健吾は吐き捨てるがごとく言うと、今度はその細腕に見合わない筋力で、俺の胸ぐらを掴み上げた。視線が衝突して、俺は全身が硬直した。

「誰にも裁かれない罪があるなら、自分から償えよ! 日向一晴!」

 びくり、と体が震えていた。恐怖ではなく、彼から伝わる熱のようななにかだ。

 俺はその正体もわからないまま黙っていると、やがて健吾はその手を開き、ポケットから折れた一枚の紙切れを取り出した。

「オレは最上さんに協力するよ。なにができるかわからなくてもね。もし、手を貸してくれる気になったら、ここに連絡してくれ」

 どうやら中には連絡先があるだろうことを悟ったのは、もう彼の姿が消え去った後だった。殴られてもいないのに、理解のできない衝撃だけが後味になっていた。
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