第1話 夏の悪戯

文字数 4,827文字

 玄関から一歩外へ踏み出せば、雲一つにも遮られることのない陽光が俺を苛む。あまりの眩しさで思わず目の上に手をかざしてみるが、このちっぽけな手では殺人的な直射日光を防ぐことなど叶わない。

 歩いて駅へと向かっていた。十分足らずの距離ですら汗がたらたらと頬を伝う。二年以上通っている道だが、この景色が色めいて見えたことは一度も無かった。

 一軒家、アパート、コンビニ――ありきたりな生活風景を無視するように歩くと最寄り駅が見えてくる。都会では通勤ラッシュの時間帯だろうが、田畑も見えるこの地域ではそんな心配はない。かと言って座る席が確実に取れるわけでもないから中途半端な町だ。

 俺はいつも通り電車の開閉扉の隅に陣取ると、高校の鞄から一冊の小説を取り出す。『淡い恋愛小説』と銘打たれたこの作品は、同年代の恋愛模様を描いた青春群像劇である。

 気持ちがわからないわけではない。共学の男女がいつも顔を合わせていれば、気の迷いが生まれてしまうことだって致し方ないだろう。

 しかし日向一晴(ひむかいかずはる)という男には、こんなものは随分と陳腐に見えて仕方がない。

 告白。失敗。再び告白。受理。成功。

 一連の作業を見させられているようで、どうにも心には響いてこなかった。これがナントカ賞を受賞しているというのだから、俺はとことん現代に向いていないらしい。母が買って来たものを借りてみたが、やはり俺は青春が不得手だ。

 二時間かかる通学で一冊の本を読み切ると、俺はまた外に出され、先程よりも強くなった日差しに打ち据えられた。

 ――あっつい。

 心の中で文句をつけると、余計に暑さが増した気がした。


 高校三年生、夏。

 俺――日向一晴は受験戦争真っ只中のこのシーズンに、もう私大の推薦枠の席を取っている。

 青春を謳歌せず、仲の良い友人も作らず、部活にも入らず過ごした二年と少しで、暇な俺が手にしたのは成績だけだった。

 カッターシャツの襟に届くまで伸びた癖っ毛は、面接試験が終わってからというもの、ろくに切ってもいない。俺は自分の顔が不細工とは思っていないが、目立つようなイケメンでもないことも自覚している。黙って過ごしていれば、どこにでもいるモブキャラBになることは簡単だ。

 クラスでは主要グループの男女がど真ん中を陣取って談笑している。あの動画見た? 月九のドラマの女優可愛くね? 今日の課題あるかな? 等々。無難で、されど彼らにとっては十分な会話。

 煩わしいとは思わない。ただ、今の俺に必要かと問われると、否だ。異性との会話も、信頼関係に基づく馬鹿話も、もう堪能する元気なんて残っていない。俺の青春は、三年前に終わっている。

 青春が『青く茂るような春』なら、それが過ぎた俺には、熱の残る残暑を越え、枯れ葉も舞わない真冬が訪れている。しかし、一向に構わなかった。

 教師からのお呼び立ても無ければ、学校で口を開くのは昼食くらいだ。一人で弁当を食べて、もう聞く意味のない授業を読書で潰し、帰る。まるで機械だ。

 だが機械は良い。越冬しない極寒すら、鋼の体には痛覚すら感じない。

 ――凍死しただけかもしれないけど。

 ブラックジョークも機械には通じない。俺は本日三冊目の読書を終えると、家に着いてシャワーを浴び、夕食を食べて寝る。

 繰り返す日常。体感よりもずっと、駆け抜けるように過ぎていく。

「昔は、違ったのにな……」

 いつかの夏は、こんなじゃなかった。俺にも青く茂る春があり、気の置けない仲間とともに過ごしたあの夏は、こんな暑さも全て吹き飛ばしていたのに。

 ――毎晩だ。なに考えてるんだ、俺は。

 ずっと考えている。機械に残った記憶は、ふとした瞬間にリフレインして忘れることなんてできない。熱を帯びた湿気が、眠れない今を苛むのだ。――まるで、あの夏を忘れるなと告げられているように。



 俺は中学の時、文学部に所属していた。メンバーはたったの四人。

 生真面目で勝気な部長、岩本茉莉菜(いわもとまりな)

 眼鏡をかけた小柄なオタク少年、野沢健吾(のざわけんご)

 長い黒髪が良く似合う聡明な少女、最上鈴涼(もがみすずり)

 そして活発でお調子者の俺、日向一晴(ひむかいかずはる)

 全員が本好きという理由だけで集った同級生。俺たちが発案し、他学年の引き込みもろくにせず、たった三年の間だけ存在した確かな『居場所』だった。少ないながらもそれぞれが創作や輪読に取り組み、年に一度だけ文化祭では部誌を発行したりもしていた。――無論、その当時の作品など、今では黒歴史も良いところだが。

 それぞれがなんとなく部室である図書室裏に集まり、読みたい本を手に取り、駄弁り、帰っていく。変な気遣いもいらないあの空間が、俺の青春の物語そのものだった。

 ――中学三年生、夏。事件が起きたのは、うだるような暑さに生徒たちの頭が冷静な判断を失って、浮ついていた頃だった。

「……は?」

 黒板にでかでかと描かれたハートマーク。その両脇には『鈴涼』と『一晴』という、よく見知った名前があったのだ。中三の時俺と鈴涼は同じクラスで、休み時間も部活や本の話題で話す機会も多かった。それを勘違いした誰かさんが、朝のホームルーム前に爆弾を投下してくれたわけだ。

「なぁ日向! どうなんだよこれ!」

 せせら笑っていたクラスメイトの内の一人が興味津々を体現して俺に訊ねてくる。

「いや、そんなんじゃ……つーか誰がこんなの」

「おはよう一晴くん。どうかした?」

 答えようとしたとき、ちょうど教室に入って来た鈴涼が挨拶をしてくる。さらなる当事者の登場に、クラスはもっと盛り上がり、気づいた鈴涼が頬を紅潮させた。

 彼女の登場だぜだとか、お熱いねだとか、安っぽいからかいの言葉が飛んでくる。俺はしきりに、違う、そんなじゃないと叫んだが、こんな言葉では火消しになるどころか油を注ぐ行為に他ならなかった。実際のところ、俺と鈴涼の間にはなにも無い。いち友人、ただそれだけなのだ。それに――

「俺には他に好きなやつがいんだよ! だから、俺と鈴涼はそんなんじゃねぇ!」

 その一言で会場はしんと静まりかえった。当時の俺の持つ選択肢の中では、この騒ぎを抑える最良の方法だと思ったのだ。

――思って、しまったのだ。

 横を見ると鈴涼はその発言に一瞬だけびくりと肩を震わせ、少し悲し気な表情の後、クラスに向けて言った。

「……うん。私と一晴くんはそういうんじゃないよ。きっと誰かが、勘違いしちゃったんじゃないかな」

 いつもの、いつもよりも平常な声音で言った鈴涼の言葉に嘘が混ざっていることが、俺にはわかった。クラスは二人揃っての弁明にようやく誤報であることを確認し、なんだ違うのかと白けた様子で平然と戻っていこうとする、はずだった。

「おい、じゃあ日向の好きなやつって誰だよ」

「そうだな。それ言わねーとホントに違うかわかんねーじゃん」

 一部の男子生徒のせいで熱波が再び俺に襲い掛かってくる。それは当然の現象で、代償だった。俺は逃げ場を失うような思いで訥々と言った。

「二組の、ま……岩本だよ」

 そう。俺にだって身近な人間に恋をすることくらいあった。それは鈴涼ではなく、文学部部長の茉莉菜だっただけで――囲み取材を受ける俺に代わり、黒板を一人で消す鈴涼が、酷く不憫に思えて仕方がなかった。

 それからは早かった。噂は瞬く間に広まって、文学部に居辛くなってしまった俺が図書室裏に顔を出さなくなるのは、ある意味当然と言えた。一連の出来事はもちろん茉莉菜や健吾の耳にも届き、被害者らしい被害者は生まれなかったが、その間に溝ができてしまうことは避けられなかった。

 ――なぜなら、茉莉菜は健吾が好きだったから。

 俺は茉莉菜の秘めたる恋愛相談を受けながら、彼女に惚れ込んでいたのだ。今にして思えば、振り向かせようと躍起になっていたのだろう。俺と茉莉菜しか知らないそんな秘密も、俺を苛む要因になっていたのだ。



 ――そしてひと月が過ぎ、もうすぐ秋に差し掛かろうとしていた頃。

「やっぱりここにいた。ルール破るの好きなの?」

 校則を破って侵入していた屋上で、俺はとうとう避けていた鈴涼に捕まった。休み時間には教室を外し、常に彼女の目の届かない場所を意識していたけれど、いかんせん学校に居る限りはずっと逃亡なんてしていられるはずがなかったのだ。

「……別に。ただ、外のほうが涼しいだけだよ」

「ふーん」

 近寄ってくる鈴涼は、なんだかいつもと違う様子だった。着ているセーラー服は変わらずとも、殆どひと月振りの会話なのだ。いかに付き合いの長い彼女でも、よそよそしくなるのは当たり前だったのかもしれない。

「――今日は、一晴くんに伝えたいことがあって来たの」

 その枕詞のような一言で、俺の全身が総毛立った。やはりと言うべきか、鈴涼は俺に気があったのだ。俺の持っていない、友達以上の感情を。

「聞きたくねぇよ、そんなの!」

 俺は再び逃げ出した。彼女を押し退けて屋上の扉を押し開ける。

 告白など聞きたくなかった。もしそれを聞いてしまったら、俺は彼女と友達ではいられなくなってしまう。そんな恐怖だけで、俺は鈴涼の決意に泥を塗り、汚し、蔑ろにしたのだ。

「待って! 一晴くん!」

 呼び止める彼女の声をシャットアウトして階段を駆け下りる。それでも鈴涼は追って来て、俺は二段飛ばしでなんとしても追いつかれまいと走り続けた。

「違うの! 私はっ」

 その言葉が最後まで聞こえる前に、後ろからどん、どんと鈍い音が廊下に響いた。違和感を覚えた俺は、降りてきた階段を見やる。するとその折り返しに、長い黒髪を荒らした頭部があった。

 ――ツーっと、赤い液体が広がっていく。

「す、ずり……?」

 恐る恐る呼び掛けてみるが、反応はない。頭の中が霧に包まれ、飲まれ、俺はゆっくりと顔の見えない人間に近づいていった。

 白く遠ざかっていく背景に、流れるような黒と鮮やかな赤がコントラストを生む。赤が増えて、廊下を濡らす。

 俺はどうしていいのかわからなくて、他の誰かの声が聞こえるまで鈴涼に触れることすらできなかった。生徒が見つけ、教員が彼女に向かって必死に呼びかける。やがてなにがあったのか訊ねられ、俺は放心状態のまま、ありのままを語った。

「鈴涼が俺を追いかけて来て……階段から落ちたんだと思います」

 他にも詳細な事情聴取をされた気がするが、殆ど覚えてはいない。ただ俺は、鈴涼がいなくなってしまう恐怖に怯えていただけだった。集まってくる生徒の中に、茉莉菜と健吾の姿を見た気がした。


 ――昏睡状態。

 結果として、鈴涼が命を失うといった最悪の展開は訪れなかった。俺はそれに安堵するとともに、後悔の渦に飲み込まれ、落ちていった。

 俺が彼女を拒絶せず、ちゃんと向き合っていればこんな事態にはならなかったのに。いや、もっと前、彼女との関係を疑われたときにしっかりと話し合っていれば。

 最上鈴涼が、このような重傷を負うことはなかったはずだ。

 鈴涼の時間を奪った俺は、しかしそれでも彼女と向き合おうとはしなかった。周囲の冷ややかな視線に耐えられずに自宅に引きこもり、夏が終わり、秋が過ぎ、中学校最後の冬がやって来た。けれど、俺は断固として学校に行くことはなかった。

 文学部全員が志望していた目標の高校はもちろん取り辞め、電車で二時間はかかる私立高に行くことにした。

 俺の青春の居場所は、全員を引き裂くという最悪の形で終わりを告げたのだ。


 ――青春の鮮やかさには程遠い、生々しい心の傷から血臭が漂う中学時代。鈴涼の一件から、俺は少しでも自分を変えようと努力しなかったわけではない。

 高校入学と同時に引きこもりの生活を脱却し、少しでも立ち直ろうと模索して、空回る日々。なにより、いつでもあの清楚な微笑みがよぎって、無力感が襲い来る。

 夏が巡って風鈴の音が響く度、眠る彼女の様子を見に行くことも、何度も、何度も考えた。――考えて、恐れて、やめて。

 もう、三度目の夏がやってきた。
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